ついに彼の作品を紹介する時がやって来ました。
溝口健二。
おそらく、このブログを読んでる人たちには
この名前に馴染みのない方が多いかと思いますので、
彼のおおまかな説明の後、作品について触れたいと思います。
戦中、戦後にかけての時代の
「日本映画の巨匠」
と言われて出てくる名前って大抵決まってます。
黒澤明
小津安二郎
成瀬巳喜男
そして溝口健二。
日本での知名度的には、上二人がダントツだと思いますが、
残る二人はヨーロッパで人気だったりします。
それは主にジャン・ドゥーシェをはじめ、当時のフランスのカイエ・デュ・シネマ誌
の記者たちが彼を持ち上げたことに端を発します。
(ゴダールは好きな監督を3人挙げろ、と言われて、
「溝口、溝口、溝口だ。」と答えたそうです。
もっとも彼のことですから、どこまで本気だったか。笑)
その結果50年代前半に彼は
『西鶴一代女』
『雨月物語』
『山椒大夫』
と3年連続でヴェネチア国際映画祭で受賞という偉業を成し遂げます。
溝口の世界的人気には、本当に驚かされます。
没後50周年のシンポジウムの際には、
ビクトル・エリセ
ジャ・ジャンクー
ジャン・ドゥーシェ
日本でこんな3ショットが成立するなんて、ありえないです、ほんと。
そこでの会話をまとめた本を読めば、
彼らの溝口への愛情がどんなに深いかを感じられることでしょう。
(この本は、溝口健二を語る上で外せません。
今回のブログの内容も、かなりその本に負う所が大きいです。)
さて、
上に挙げた4人の「巨匠」の作品群は、どれも非常に個性的で、
いわゆる「作家性」の塊とも言える代物だと思います。
小津安二郎は「素朴」
そして溝口健二は「悲劇」。
テーマでくくってしまえば、それだけなんですが、
彼らはその映像や演出にも、それぞれ一癖も二癖もあります。
さすがにそこまでそれぞれ詳述するのは時間がかかるので省きますが、
溝口健二に限って言えば、その特徴は、
「カオス」
じゃないかなと思います。
溝口のカット割は、1シーン1カットの原則にのっとったものが多く、
割と長めのショットが多いんです。
この特徴は、ほかの3人からは際立っているかもしれません。
その長いショットの中で、カメラが動いたり、人物が動いたりするわけですが、
そこで絶妙なタイミングで人物が入ったり出て行ったり、カメラがそっぽを向いたり、
とまさに「カオス」なはずなのに、
ある瞬間にすべてのピースが「ぴたっ」と収まる瞬間が現れるんですよ。
主要な物語のテーマは、先述の通り、女性を主人公にした「悲劇」です。
ほとんどが関西が舞台で、義理人情や愛憎のドロッドロが描かれます。
それだけにその「ぴたっ」が来たときに、カタルシスを感じるんです。
そしてもう一つ。
その映像における「ぴたっ」を作り出す立役者として、
溝口作品を語るのに欠かせないスタッフ、
「溝口組」の2人を忘れてはならないでしょう。
一人はカメラの宮川一夫。
そしてもう一人は美術の水谷浩。
先ほどから、カメラワークが素晴らしいとかいう話をしてますが、
実は溝口本人は決してカメラを覗くことはなかったそうです。
なので、果たしてどこまでが溝口の意図したカメラワークなのか、
本当はわからないんですね。
ひょっとしたらほとんど宮川一夫の力だったのかも知れません。
なにせ、役者にもほとんど演出らしい演出を施さない人らしいので、
それじゃ一体どうやってあの画が出来上がるのか。。
謎です。
そして、その映像を表現する舞台を作った美術の水谷浩。
彼は時代劇を撮ることの多かった溝口に、最高の舞台を用意してくれました。
屋内のセットが多かったとは思いますが、そのスケールの大きさが、
長回しのカメラワークに自由さを与えていたようです。
ちなみに溝口作品で私の好みでお薦めの作品は
『瀧の白糸』(’33)『残菊物語』(’39)
『雨月物語』(’53)
『近松物語』(’54)
といったあたりでしょうか。
(上2作品は「溝口組」が出来る以前のものです。)
で、ようやく本題の作品のレビューです。
『赤線地帯』は56年作品。
溝口健二の遺作です。
タイトルの意味、わかりますか?
「赤線」というのは
「日本で1958年 以前に半ば公認で売春 が行われていた地域の俗称」(wiki)
なんですね。
舞台は吉原あたりのようで、今私が住んでるあたりからも程近く、
なんだか見ていて、少しリアルに当時の空気を想像することができました。
溝口作品としてはマイナーな、東京が舞台の現代劇で、
「夢の里」という“お店”で働く娼婦たちの群像劇です。
正直、レビューを書くのを躊躇うほどに、戸惑いを覚えた作品でした。
この作品、先ほど紹介した溝口組の二人による仕事なのですが、
残念なことに、溝口の良さがほとんど出ていません。
それは現代の居住空間やお店の狭さに原因があるように思いました。
単純な話、時代劇の広々とした空間にこそ、
彼の作品の特徴であるカメラのダイナミズムが現れてくるのです。
水谷浩の力の入れようが伝わってくるディテールの細かい美術も、
なんだか空回りの印象がぬぐえません。
物語としても、これまでの作品と違い、
人生の悲劇を、ただ人生というだけで悲劇として見せる、悟りの境地のような、
ある意味で、小津や成瀬の世界に近づいたような、妙な印象を与える作品です。
あまりうまく表現できないのがもどかしいです。
それでも、
京マチ子演じる、神戸からやってきた「ミッキー」の関西言葉には、
いつもの溝口作品の空気が感じられ、なんだか落ち着きますね。
「うちヴィーナスや。」って台詞が、もう最高です。笑
この群像劇では、誰も幸せになりません。
ただ、木暮実千代演じるハナエが、
病気の亭主と食べる中華そばがやたらと美味しそうなのが、
印象的で、救われた気がします。
「美味しいよ。あぁ、うん、ここのそばは美味しいねえ。」
この作品を見たあとに、
日高屋で食べたラーメンがまずかったのは、
いうまでもありません。
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次回のレビューは
ジョゼフ・ロージーの
『暗殺者のメロディ』です。