本読むのに疲れたので眠気覚ましにブログ。




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いまチョコレートパイ食べてたんですよ。

そしたら、ある表示に目が止まりました。




「準チョコレート菓子」




なに「準」って?



河本?


しかも「準」っていう字は○で囲んであるから

「マルジュンチョコレート菓子」?



怪しい。





気になったので調べてみました。




まあ案の定、

「日本チョコレート・ココア協会」

とか言う組織によって定められた、

原材料や脂肪分のパーセンテージに基づく表示らしいです。




でもそのホームページでさらに気になったのは

その協会が加盟している国際団体




「国際ココア機関」




かわいすぎる。




そしてその略称が



ICCO → International Cocoa Organization



ん?

ICCO?



「ココア」の「ココ」のためにCが2回入ってるー!



なんでICOじゃないんだー、って思ってまた調べたら




ICO → International Coffee Organizationだった。




「国際コーヒー機関」



おお、ココアより大人っぽいぞ。




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ここんとこ、

苦しみながらもちまちまと論文の準備をしているんですが、

そんな文献購読やなんかで苦しんでいる間に、



escalator recordsではJuvelenがインストアライブやってたらしいし、

super deluxeではMax HattlerがVJやってたらしいです。



しょぼん。




ちょっと音楽の話題に触れたついでに最近自分が聴いてるのを紹介します。




アラベスク、って知ってます?



77年から84年まで活動してた西ドイツの女性アイドルグループです。



彼女らの「Fly High Little Butterfly 」って曲が一番好きなんですが、

you tubedeで見つけられなかったので「Roller Star」という曲の動画を紹介します。







やばいっすよね。

竹の子族とか、そんなころのお話だそうです。



ダンスの途中の振り付けなんか、

どうしても東村山音頭の「いっちょめいっちょめ、わーぉ!」にしか見えません。



でも古いとはいえ、

この曲もなんとかうまくリミックスできれば、いまクラブでかけても面白そうですよね。

私の好きな「Fly High ~」なんかも、そういう意味で良い感じです。



そんで、このメイン・ボーカルのサンドラ・アン・ラウアーはなんと、

このアラベスク解散のあと、エニグマを結成したんですよ。

なんか信じられないですよね。笑





あとは、ここのところずっと自分のMP3プレイヤーに

Bjorkの「Hyper Ballad」が入ってます。



バイト明け、朝5時ころに自転車こぎながら聞くと、飛べます。

もう『ホモジェニック』も10年以上前です。。年とったな。




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先日、「大琳派展」行って来ました。



チケットを間接的に友達(?もしくは友達の彼女さん)から頂きました。

ありがとうございました!



あ、読んでないか。





うん、いや、まじで俵屋宗達すごいです。



フレーミング、神。

力強いくせにやわらかい筆のタッチ、線のぼかし方、神。



でも一番気に入ったのは、「風神雷神図」ではなく、



「白象図・唐獅子図杉戸」という作品。



白い象の画が書いてある2枚一組の杉の戸らしいです。



なんだかグラフィティ・アートのように感じました。



こんなのが壁に描いてあったらかっこいいなって。





あとは、「絵巻物」。



たぶん尾形光琳の作品なんですが、



四季折々の草花に、文字が縦に何列も、絶妙な間隔で書かれていて。



間が空きすぎるでもなく、詰められてるわけでもなく。



そんな感じが、まるで文字を草花に降り注ぐ雨に喩えているかのように見えました。



ゆったりとした曲線で字が省略されているのは、

雨の軌跡のように見え、

たまにはっきり見える文字は、

その雨が草花に当たって弾けた音を表しているようにも見えました。





それとあと一作品、

不覚にも作者と作品名をチェックしそこねたのですが、



鳥(鶴?)の群れが絵巻物に描かれたものなのですが、



その群れの描く弧の異様な滑らかさが、自分をひきつけました。




そこで感じたのは、

これはきっと鳥の群れではなく、

一匹の動きを追ったものに違いない、という印象です。




チャン・イーモウが北京五輪のオープニングでやろうとした、

絵巻物と映像、フィルムへの言及ということを思い出します。




こういった「絵巻物」と「フィルム」の共通性

というのは以前から言われていることです。



評論家の議論にもありますし、現代の映像作家で言えば、

石田尚志さんを始め日本にもそういったことを実践している方はいらっしゃいます。




でも、こんなにはっきりと自分の印象として、感覚としてそのことを実感できたのは、

今回が初めてでした。




最近、「感覚」というものに妙な感動を覚えることが多々あります。




頭ではわかっていても、

「体と心の感覚で捉える」というのは、全く別のこととしか言いようがありません。




もどかしいですね。



溝口健二作品、リベンジです。



『噂の女』

54年作品。



先日書いた『赤線地帯』が、どうも納得行きませんでした。。

あの偉大な監督の最後の作品が、これで良いのか。

一体何が問題だったのか。



検討はついてました。


それは先日のレビューで紹介した、

「溝口組」にいたもう一人の主役の不在です。



脚本、依田義賢。



ふつう「溝口組」といえば、

依田義賢、宮川一夫、水谷浩の3人がセットで必ず出てきます。



前回のレビューで書かなかったのは、

『赤線地帯』に参加していなかった事実と、

それと自分の溝口作品に対する誤解からでした。



その誤解とは

「溝口作品は照明、カメラワーク、映像こそ命である。」

という映像を作る仕事への自分の極端な思い入れのために、


「脚本が映像に与える影響」という視点を蔑ろにしていたのです。




そこで

この「依田義賢不在の影響」という仮説を検証するために


舞台は京都ですが、

同じ現代劇であり、

なおかついわゆる風俗の商売をしている店という設定で、

溝口組の先述の二人はそのままで、

脚本に依田義賢が参加している

(正確には『赤線地帯』の成澤昌茂と二人でクレジットされている)、

未見であったこの作品を鑑賞してみました。



その結果、私は確信にいたりました。



「溝口作品の魅力は、

溝口、依田、宮川、水谷、そして役者

すべてのケミストリーによるものである。」


これって、当たり前すぎですかね 笑



でも、

これを敢えて言わなければならないのは、

もう日本ではこういう贅沢が出来ないからです。

いや、世界中探したって、こんな幸福は手に出来ません。

スタジオシステムの崩壊と共に、こういう奇蹟は影を潜めていったのです。



とにかく依田の溝口作品の映像作りに与える影響は大きいようですね。

私の好きな溝口作品4つのうち、3つは依田の作品になりますし、

その3作品が好きな理由の一つは、やはりカメラの素晴らしさがあるわけです。
特に『残菊物語』が脚本は依田、美術が水谷で、撮影が三木滋人という事実から、

撮影の宮川だけが、カメラの動きを決定しているわけじゃないことがわかります。




それでは作品のレビューに入ります。




ストーリー:


京都の置屋でおかみさんを勤める田中絹代と、その娘の久我美子。

娘は東京で大学を出ており、ある男と結婚するつもりでいたが、

その男は娘の実家の素性がわかると、手のひらを返すように別れを切り出した。

ショックのあまり自殺をしようとする娘を心配した母親は、娘を実家へ連れ戻す。

その頃、

母親は店の太夫さんたちを診てくれていた年若い医者と恋仲になっていたが、

娘をその医者が診察したことがきっかけで、医者と娘の間に恋愛感情が生まれる。






と簡単にいうとそんな感じで、


母親―医者―娘の三角関係の話なんですね。



たぶん、

精神分析が好きな批評家はここで、

エディプスコンプレックスの女性版で、

なおかつ「父親の不在」といったことを読み取ったりするのでしょうね。


この作品のクライマックスである母子の三角関係の修羅場で、

久我美子がハサミで医者を殺そうとするシーンがあるものですから、

この「ハサミ」「医者」「精神分析」という連想は、

無意識をテーマとした『白い恐怖』(’45、ヒッチコック)を想起させます。


しかも、

その修羅場は

母親の譲歩によって解消されて医者は姿を消し、

娘は母親と和解した上に、恨みをもっていた店の存在まで受け入れ、

動けない母親に代わり、その女将として自分が店を任される、

という完全なコンプレックス克服の物語となっており、

「閉じた家族システムの継承と資本主義」というテーマまで見えてきます。

(同じ場面設定や台詞が、対照的な状況の変化の表現として

繰り返し出て来るのは、小津、成瀬、溝口共通に良く見られる手法のようです。

無常観、人生という悲劇への達観、といったところでしょうか。)


ひょっとしたら、依田は精神分析に傾倒していたのかも知れません。


ただ、

この作品は54年に作られたもので、

ラカンはまだセミナーを始めたばかりの頃ですし、

『Hitchcock / Truffaut』もまだ出版されていませんでしたから、

さすがに精神分析をテーマとした映画のストーリーとしては

幼稚と言わざるを得ないですね。




しかし、

私が感動するのは、

まずは『赤線地帯』ではほとんど見られなかった、

あの溝口作品独特の長回しの移動やパンのショットたちです。

『残菊物語』で感動したあのカメラの動きがまた蘇ってきている。


そしてクライマックスでの照明の使い方。


田中絹代が娘に詰め寄るシーンで、

下からライトを当てて目がギラっと光っているのは、

迫力があります。


わざとらしいといえばそうなんですが、

観ていてそんなことを少しも感じないほどに世界が出来上がっている。

ヒッチコックなどのホラーサスペンスとは違う次元にたどり着いている。

『雨月物語』で乳母が森雅之を脅すシーンに負けないインパクトがあります。


(この下からの明かりなんですが、

溝口作品には必ずといっていいほど、

部屋の中に行灯というか、床に置いた照明が出てきます。

現代劇においてもそれは変わらないようで、

他の黒澤や小津や成瀬の作品の現代劇を見ても、

大抵は天上に電気がついていて、あまり床置きの照明を見た記憶がないです。)




更にその後、例のハサミのシーンにつながります。


そこで母親が娘を諌め、ハサミを奪うわけですが、

そのハサミを持つ田中絹代が沈黙して立ち、

その向こう側に座る久我美子が

伏し目からこちらをきっと睨む視線へと移る。


このシーンには鳥肌が立ちました。





溝口作品を見ていて、私は

「映画作りの職人的上手さ」

という平凡ながら最高の誉め言葉を送らずにはいられません。



わかりやすく言うと

クライマックスにおける急激な「落差」とか「対位法」

といえば良いのでしょうか。


長回しのショットが多い中で、急にショットのリズムが変わる。

単に短いショットを多く繋げるんじゃなく、

バラバラのリズムでゆさぶってくる。


そして意外なショットがその中に急に入ってくる。

物語の飛躍が平然と襲ってくる。



映画史上評価の高い監督は、

こういったことを「さらっ」とやってのけるんですよ。



それを本当にたった一つのショットでやっちゃったりする。



やっぱり、溝口健二は上手いんですよ。



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やっと最近、自分の中での「良い映画」の条件が絞れてきた気がします。




お知らせですが、

しばらくこのブログでレビューを書くのをお休みします。


いまは論文のための時間を大切にしようと思います。



ちょっと時間が開きましたが、レビュー再開です。


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『暗殺者のメロディ』


72年、ジョゼフ・ロージー監督作品。


彼は48年にアメリカで長編映画デビュー。

『緑色の髪の少年』という作品なのですが、

戦争孤児をテーマにした、もろに反戦映画でした。


当時既にあったマッカーシズム、レッドパージの流れのせいで、

結局53年にはイギリスへ亡命することになります。

(赤狩り。

今考えると本当に恐ろしい話ですが、

ある意味、公にそうした議論を正面切って出来たということは、

いや、議論はさせてもらえなくとも、

政治の場とコミュニケーションが取れていた、という点で

今の状況よりは正常だったのかもしれない、

なんて最近思います。)


今回のレビューのために調べるまで知らなかったんですが、

なんと彼は当初演劇を志しており、ロシアでブレヒトとも交流があったそうです。

根っからの左翼だったんですね。



という前置きで、

今回のレビューに入ると分かりやすいです。



この映画の原題は

"The Assassination of Trotsky"

「トロツキーの暗殺」

です。



わかりやすいですよね。笑


アラン・ドロンが主役の暗殺者として登場する、

タイトルそのままの物語です。



正直作品として観る所はほとんどないのですが、

映画史的に観ると2つポイントがあります。



①邦題について



まず、

『トロツキーの暗殺』

が何故

『暗殺者のメロディ』

という邦題になったのかということに関して推測をしてみます。



『死刑台のメロディ』(’70、イタリア)

『小さな恋のメロディ』(’71、イギリス)

『恐怖のメロディ』(’71、アメリカ)

『地下室のメロディ』(’63、フランス)



とりあえず「メロディ」という名前のついた映画を並べて見ます。

この頃『○○のメロディ』ってつけるのが流行ったみたいですね。

そして意外と全部製作国が違います。


でも厳密に言うと、原題は

『Sacco e Venzetti』

『Melody』

『Play "Misty" for Me』

『Melodie en sous-sol』

です。


2つめの『Melody』も主人公の女の子の名前ですから、

『地下室のメロディ』

以外は全て日本人が勝手に「メロディ」とつけたタイトルということになります。


しかも

アラン・ドロンが主演しているという共通点からも

『地下室のメロディ』からこのタイトルが導き出されたことが推測されます。


ちなみに1番目の『死刑台のメロディ』はアメリカでの赤狩りの話が出てきて、

ロージーとの関係をそのつながりで思い出すこともできますね。



また撮影監督にパスクァリーノ・デ・サンティスと共に

ヴィットリオ・ストラーロの名前が連なってますので、

ベルトルッチの『暗殺の森』(’70)と「暗殺」つながりでつなげることも出来ます。




②映像に見る映画史的記憶


・屠殺

この映画の中で闘牛のシーンが出てきます。



トロツキーに対してシンパシーを感じているアラン・ドロン扮する暗殺者ジャクソンは、

暗殺の命令に対して、葛藤を抱きます。

戦争続行によって死んでいく人々と、断固革命支持によって苦しむ人々の間で。

その中でこの闘牛を彼は見るわけですが、

その苦しむ表情と共に、

牛がどんどん剣や槍によって刺され、弱っていく姿が交互にカッティングされ、

最後に屠殺のショットに切り替わります。



映画史について少し詳しい人なら、このシーンを聞いただけで、

「ああ、エイゼンシュテインの『ストライキ』の引用だな。」とわかるはずです。



モンタージュ理論で有名なエイゼンシュテインは、

『ストライキ』のなかで権力者側によって労働者達が暴力を受けるシーンの後に

屠殺のショットを持ってくる、ということを行いました。


左翼映画作家のロージーとしては、何ともわかりやすい引用です。




・川、船、レーニン



この映画のなかで、唯一私の好きなシーンがあります。



それはアラン・ドロンが恋人のロミー・シュナイダーと船でデートをしているとき、

二人で川面を見ていると、そこに突然レーニンの姿が映し出される、

というシーンです。


こう、なんとも「ぬめーっ」とゆっくり

船の移動に合わせて水面に映り出すわけです、

レーニンが。

(たぶんレーニンな気が。スターリンだったらごめんなさい。)



これは私の勝手な推測ですが、

これはアンゲロプロスの『ユリシーズの瞳』に出てくる、

巨大なレーニン像が川を運ばれていくのにつながっているんじゃないかと。



とにかくどちらのシーンも

「一体こんなショット、どこから出てきたんだ??」

と思わずにいられません。




といったところです。



そんなに観る価値はないのではないかと。



同じ「メロディ」なら『恐怖のメロディ』の断然勝ちですね。


イーストウッドの天才ぶりを鮮やかに見せ付けてくた、

彼の監督デビュー作。

「ヒッチコックくらいだったら簡単に出来るよ」とでも言いたげな作品。

夜、突然ナイフで襲われるシーンは、本当に本当に本当に逸品です。

そしてブルース・サーティースのカメラは、やっぱり大好きですね。



結論、『恐怖のメロディ』を観てください。