たぶん、この記事を読むほとんどの人がmixiから飛んできた人だと思います。
改めて、かなり久しぶりの方もいるかもしれません。
どうもお久しぶりです。
このブログは約1年前くらいに、
映画評論の練習のためにと思って始めたブログなんですが、
たぶん半年くらい前から更新されてないですね。(タイトルが痛々しい。)
自分の中で今出来る限界までやって、
行き詰まったんです。
別に哲学専攻だったわけでもなく、
今はただのフリーターである自分が本格的にやろうとすると、
もう少し経済的な余裕と閑暇が必要、という結論にいたりました。
現代の哲学として成立するものを提出したいと思ってるので、
「今ならやれる!」と思えるまで、評論の方は置いておこうかなと思ってます。
ってことで、しばらく割と徒然なる日記を書くつもりです。
もちろん、なるべく内容があるものを。
と言いつつ、ひょっこり評論始めたりするかもね。
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さて、なんでブログを急に再開しようという気になったかというと、
最近ギリシャ哲学史をちょこっと勉強したんです。
それで、思ったことを書いておきたくなって。
自分の目標設定を
映像制作だけでなく映画評論にも向けて行こうと思い立ってから、
それに必要だと思われる知識を身につけるため、
私はデカルトから始まる近代哲学、
その後の現代哲学・思想についてはこの1、2年で割と、
少なくとも概略は勉強してきました。
そしてその新しい世界に多くの感動を覚え、
まさにハマってしまいました。
でも、なんとなくそれ以前の哲学を学ぶのは気乗りがしなくて、
ほとんど手を付けなかったんです。
なにせ、中世を克服した近代以降というイメージがあったので、
中世のスコラ哲学とか神学に、あまり前向きに取り組めるはずがありませんでした。
いや、でもね、
多くの哲学者が言及してたからね、
ほんとはやらなきゃいけないってわかってたんです。
でもやっぱりねー、なんかねー、
ドゥンスとかトマスとか名前もイマイチだし、ぱっとしないし。
そんな感じで、ギリシャ哲学もついでに放置プレイ。
そりゃイデアとかアルケーとか、なんとなくはわかってたつもりだったし、
一応プラトンくらいは、いくらか読んでましたよ。『国家』とか。
何せ自分の興味の対象であるドゥルーズとプラトンは切っても切れない関係です。
でも、なんでアリストテレスじゃなくてプラトンなのか、とかわからなかったし。
というかそもそもアリストテレスとプラトンの立場の違いって、詳しく知らなかったし。
あとはせいぜい大学の授業(判読不可能なアルファベットで板書が行われた)
でちょこっとやった記憶があるくらい。
しかもあれって多分国家の概念についてしかやってないんじゃないかな。
それが、あなた。
こないだギリシャ哲学史の本を読んだら、もう、
なんていうの、
すべての伏線がぶぉぉぉぉぉxおおおっっとつながりました。
『セブン』とか、『羊たちの沈黙』とか、『パルプ・フィクション』見たあとみたいな。
カントもフッサールもベルクソンもハイデガーもドゥルーズも、
みんなここから生まれてきたんだー!
みたいなフラグ立ちまくり。
ギリシャ哲学は西洋哲学のエピソード1。
(もちろん著者がそれとなく上記のような人たちを想起させるような文章を書いているせいもあるのですが)
ギリシャ哲学を軽くシェイクすれば、
かなり近現代哲学風味に近いカクテルが出来上がる。
こんな当たり前のことを、きちんと理解していなかった自分が恥ずかしいですよ。
いやー、
おれ、
ルネッサーンス。
なんかこれでやっと「西洋哲学」を相対化して見れる気がします。