45冊目:何者かになりたい 【前編】 | 【読書感想文Blog】ネタバレ注意⚠

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何者かになりたい

熊代亨

2022/09/19

 

 

 

 

★ひとことまとめ★

何者かになるためにはどうしたらよいのか?

 

 

 

 

 

↓以下ネタバレ含みます↓

作品読みたい方は見ないほうがいいかも

 

 

 

【Amazon内容紹介】

「自分」に満足できないのは、なぜ?
〈承認欲求〉〈所属欲求〉〈SNS〉〈学校・会社〉〈恋愛・結婚〉〈地方・東京〉〈親子関係〉〈老い〉
アイデンティティに悩める私たちの人生、その傾向と対策。

「何者かになりたい」。
多くの人々がこの欲望を抱え、それになれたり、なれなかったりしている。
そして、モラトリアムの長期化に伴い、この問題は高齢化し、社会の様々な面に根を張るようになった。
私たちにつきまとう「何者問題」と、どうすればうまく付き合えるのか。
人と社会を見つめ続ける精神科医が読み解く。

【目次】

はじめに
第1 章 承認されると「何者か」になれる?
第2 章 つながりが「何者か」にしてくれる?
第3 章 アイデンティティと何者問題
第4 章 恋愛・結婚と何者問題
第5 章 子ども時代の何者問題
第6 章 大人になってからの何者問題
補論 何者問題への処方箋
おわりに

 

 

 

【感想】

こちらの本も、先日のイライラ悶々としていた時に借りた本です煽り

いま自分のやっていることって意味があるんだろうか、自分は何のために生きているんだろうと思っていたところだったので、ちょうどいい!と思って手に取りましたにっこり

タイトルが朝井リョウさんの「何者」を彷彿とさせるところも手に取ったポイントです。

 

 

以下、各章ごとに自分が重要なポイントだと感じた部分を書きます鉛筆

 

 

 

なぜ「何者かになりたい」と願い、「何者にもなれない」と悩むのか。

こうした願い・悩みを「何者問題」と呼び、その分析と解決策の考案を行う本です。

 

いまどきの何者問題について考える際、コミュニケーションがある程度までオンライン化されている前提は避けて通れない。

 

 

■第1章 承認されると「何者か」になれる?

 

就活では建前としては自己アピールを求めておきながら、そこで求められているのは本当の自分などではない。

企業や社会が求めるイメージを忖度し、それを自己アピールと称して演じるよう求めている。

就活後もこうしたことはついて回り、誰かに自己アピールする際、相手の求めに応じたり空気を読んだりしながら自己アピールを修正し、自分の本心と相手の求めるイメージの辻褄合わせに苦心する事も多いのではないか。

 

肩書きはどこまであなたを「何者か」にしてくれるか。

肩書きの、「他人から見て何者かに見える」効果は馬鹿にはできない。

肩書きのおかけで相手が自分の話をちゃんと聞いてくれる・いっぱしの人扱いしてくれる場面はたくさんある。

もしあなたが誰かに話をたくさん聞いてもらいたくて、聞いてもらうと何者かになった気分になりやすい人なら有名大学や医学部を卒業しておくときっと有利である。

 

しかし、アチーブメントや肩書きが強い効果を発揮するのは他人に対してであって、自分自身に対してはそうとも限らない。

選抜された集団のなかで自分よりまぶしい人々ばかり見つめて、それに嫉妬していれば、自分が無力な何者でもない人間に思えてくるのは当たり前。

そうした思い込みは、集団の外側にも目を向けることで解消されるかもしれない。

 

ときには肩書きがかえって邪魔になることもある。

相手の人格より肩書きと話をしたがる人もおり、肩書きのせいで自分自身を見てもらえないこともある。

 

肩書きはコミュニケーションの通行証や証明書になることもあれば、何者なのかを形作る大事な要素になることもある。

しかしつきあい方を間違えればマイナスに働くこともあり、肩書きの使いこなし方、振り回されないようにするのかが試される。

 

他人から褒められたり、世間から評価されること自体はうれしいことだが、

舞い上がってる瞬間のうれしさを「自分が何者かになった証」だと判断するのは危険。

他人目線に心奪われ、「肩書き・アチーブメント・名声・人気があれば、自分は何者かになれる」と信じ込み過ぎない。

世の中にはもっと平凡に生きて幸せに暮らしている人もいる。

 

 

 

■第2章 つながりが「何者か」にしてくれる?

 

バーベキューやオフ会などの集まりに打ち解けているとき、私たちは自分が何者かなんて悩まない。

盛り上がっているときには「自分」という意識が薄まり、「集まっている自分たち」「おれら・わたしら」といった意識が強くなる。

 

現代のSNSでは本当は独りぼっちだったとしても、インフルエンサーを一方的にフォローしているだけで「集まっている自分たち」や「おれら・わたしら」を実感することができる。

インフルエンサーからなんの返答がなかったとしても、みんなと一緒に「いいね」「シェア」をしていれば、みんなと近しい間柄のような意識になれる。

 

しかし、いくら近しい間柄を錯覚できたとしてもそれは意識の上のことで、現実に親しい間柄になれるわけではない。

顔も合わせないSNS上だけのつながりはつながりやすく切れやすいところもある。

 

表向き令和時代は個人が重視され、個人主義的であることが望ましいと言われているが、その一方でSNSなどを通して「集まっている自分たち」「おれら・わたしら」をインスタントに表現できてしまうこの時代は、「自分」という意識や「自分は何者か」という意識から気が逸れやすい時代でもある。

 

地元に打ち解けられない人にとっては、地元はむしろ自分が「何者でもない」透明人間のように感じずにはいられない場所。

自分にとって地元と呼べる場所やホームグラウンドと呼べる居場所があるか否か、持てるのか否かは重要な問題。

この点で言えば、生まれながらに地元を愛している人、小中学校から同じ仲間と付き合い続けて満足している人は大きなアドバンテージを持っていると言える。

 

結局、私たちが「何者かになりたい」と願ったり「自分は何者でもない」と悩んだりするとき、その解決または棚上げは自分独りだけでできるものてはなく、何らかの形で他者の存在が必要になる。

 

 

 

■第3章 アイデンティティと何者問題

「何者かになりたい」という気持ちを心理学の言葉で言い換えると「アイデンティティを獲得したい」とほとんどイコールになる。

アイデンティティとは、アメリカの心理学者E・エリクソンが有名にした言葉で、心理学の専門書ではかなり難しい言葉で説明されているが、この本ではアイデンティティとは「自分はこういう人間である」という自分自身のイメージを構成する、一つひとつの要素のこととする。

「何者かになりたい」と願っている人の内実は「まだ手に入れていないアイデンティティが欲しい」「アイデンティティの一部と言えるような肩書きやアチーブメントが欲しい」であることがほとんど。

それと同時に「自分は何者でもない」と悩んでいる人は、「アイデンティティと言えるものが足りない状態」であることが多い。

 

以上から、「何者かになりたい」と願い人の解決策をワンフレーズで言い切ると「アイデンティティと呼べるものを獲得しなさい」となる。

「『自分はこういう人間である』と言えるもの、自分自身のイメージを形づくる構成要素になりそうなものをとにかく手に入れていきましょう」と言い換えることもできる。

 

しかし、この「とにかく手に入れる」が大きな問題だったりする。アイデンティティと呼べるものを手に入れるのが上手い人もいれば下手な人もいる。年齢や立場によっても手に入れやすさが違ってくる。

 

自分自身の構成要素が乏しい人は、「あれもこれも」と選ぶ以前に、まず手元にあるものを手放さず、今の自分でも手が届くものと大切にすること。

 

自分がどの趣味やコミュニティなら安全に馴染めて行けるのか、逆にのめりこみ過ぎてしまったり搾取されてしまったりするのか、よく見比べ考え見抜いていく必要がある。

アイデンティティの構成要素を選ぶ際に勇み足は禁物。

「何者かになれる」ような誘い文句や”たった一つの冴えたやりかた”のような一発逆転的な誘い文句を断っているものは、「何者でもない」と思い詰めている人だけが引っかかる性質の悪さがある。

 

最初からなりたい自分を狭く想定するより、手広く構えるほうがなりたいもののどれかになりやすく、そうでなくてもアイデンティティと呼べそうななんらかのものにたどり着きやすい。

 

アイデンティティの中には「負のアイデンティティ」と呼ぶべきものがあるとエリクソンは述べている。

「負のアイデンティティ」とは、自分自身の構成要素にすることで人生が悪化してしまうようなアイデンティティや、社会の敵とみなされるアイデンティティのこと。

具体的にはギャングや全体主義者のメンバーなど。

こうした負のアイデンティティを求めてしまうのは「アイデンティティの拡散」という状態の兆候であり、「アイデンティティの拡散」とは「何者かになりたい」という気持ちが上手に活かせない状態やこじれてしまった状態、アイデンティティを獲得したい気持ちが成長よりも停滞や破局を招きかねない状態のこと。

しかし、他人からは負のアイデンティティと見えるものでも、自分自身の構成要素として「今はどうしても必要」ということもある。

法に触れたり、他人に危害を加えたりするものではない限り、誰かのアイデンティティを負のアイデンティティとみなし否定することには慎重であるべきである。

 

中年を迎えた大人たちは、しばしば自分が若かった頃に親しんだ音楽を聴き、その頃に選んだ服や趣味や人間関係をずっと大事にして、新しいものになじめなかったりするもの。そのような様子は若い人には残念なものに見えるかもしれない。しかし、新しいものになじめない、というより新しいものに関心が少ないのは、彼らが若かった頃に自分自身の構成要素をあらかた選びおえて、アイデンティティを確立しているためでもある。

新しいものに関心の少ない中年を「悪い未来」と見るのでなく、何者かになったあとの「なんらかの理にかなった未来」として見ると、新しい発見があるかもしれない。

 

 

 

長いので後編に続きます…