羅生門・鼻
芥川龍之介
2017/12/31
本棚整理。
羅生門は国語の授業で読んだ記憶がある。
自分には難しい解釈とかはできないけれど、職をなくした下人が、餓死するか、生き延びるために盗人になって生きていくか、と悩む。
女の死体から髪を抜く老婆を見て、悪を憎む心が燃え上がり、盗人になって生きていくなんて考えは一瞬で消えたはずだったけれど、老婆の話を聞いているうちに下人の心は生きるために盗人になる方に傾く。
傍から見たら悪いことかもしれないけれど、人それぞれに背景があり、正当化されているため、当の本人たちはそれが悪事と思うよりは、生きるために仕方のないこと、と思っているのだと思った。
戦争なんかもそうだよね。
人を殺すことは良くないこと、けれど自分が生きるためには仕方のないこと。
だったわけだよね。おそらく。
鼻は、
顎の下まで鼻がぶらりと垂れ下がっている僧侶のお話。
この鼻が嫌だとずっと願っていて、ようやく鼻の長さが短くなったのに、今度は逆に笑われることが気になり短い鼻さえも恨めしくなる。
作品中に書いてある、
「人の心には互に矛盾した二つの感情がある。
勿論、誰でも他人の不幸に同情しない者はいない。
ところがその人がその不幸を、どうにかして切りぬける事が出切ると、 今度はこっちでなんとなく物足りないような心持ちがする。
少し誇張して云えば、もう一度その人を、同じ不幸に陥れて見たいような気にさえなる。
そうして何時の間にか、消極的ではあるが、或敵意をその人に対して抱くような事になる。(P28)」
これって、芸能人とかの不倫騒動に似てるなーってなんとなく感じた。
バッシングされて、しばらくテレビから消えて、落ち着いて戻ってくると、
またなんかあるんじゃないか、みたいな?ちょっと違うかな
?

芋粥は、
飽きるほどに芋粥が食べたいと思っていた五位だけれど、いざその願いが叶う状況になったとき、叶わないでほしいと拒んでしまう。
なんというか、希望や願いのために生きてしまうと、それが叶ったときそれから先どうしたらいいのかわからなくなってしまう。
希望も願いも、生きるための1つのステップみたいなもので、希望=生きる理由、ゴールではないんだけどね。
自分の場合は、昔元彼とどうしても復縁したくて、そのために頑張っていろいろやった結果いざ復縁できるってなったら、そこでぱったりと興味とか意欲がなくなってしまって。
それってやっぱり、復縁=ゴールみたいに考えていたから
それが叶ったらその後どうしたらいいのかわからなくなってしまって。
まあうまく行かなかったよね。
復縁(芋粥)のために頑張る自分がなんだかんだ良かったし、幸せだったんだよね。
と、なんだかよくわからない感想になったけれど、芥川さんは昔のお話の中にたまにまじる英語やカタカナがなんとも不思議な感じを醸し出すよね。
羅生門のあの感じでいきなりSentimentalismeなんて言葉が出てくるからね。
あと数冊で今年の目標達成ですが、
終わるのでしょうか。。