話題に乗り遅れたまま、コメントします。@boin_masterさんの界隈で話題のカギ括弧の重ね書きについての議論です。(2014/7/7追記)元発言者のnoteもご覧下さい。
まずは、元発言に同意できる点について書きましょう。元発言の「かぎ括弧の重書きが書き手に与える視点」で主張されている議論を一般化すると、「文章力の範疇外に属する技法を選択肢として持てば持つほど、同じ時間の修練によって得られる文章力の成長は少なくなる」と言えると考えています。単にリソース配分の観点ではありますが、この観点で、元発言には同意します。
ただし、それが「ズル」と呼ぶにふさわしいのかは疑問です。ここが、同意できない点となります。
保留すべきすれ違いの余地として、
①どこまでを文章力と見なすか?
②文章力以外にどのようなスキルセットを習得したいと考えるか?
の二つがありますが、後者については、物語書きにとって付加価値のあるスキル>文章力 という前提に立って考えています。というのは、例えば、興味深いストーリーに発展しうる初期設定を着想する能力などは、文章力の範疇とは考えづらいからです。
狭義の文章力は、
語彙
文法
構文
修辞
センテンス、パラグラフおよび順次巨視的な構造を形作る構成力
からなると私は考えています。なお、カギ括弧の重ね書きがなぜ修辞の一部分と見なせないのか、については後述の結論がそのまま私なりの根拠となります。
さらに、上記から逸脱する領域、すなわち議論的な領域をざっと分類すると、
形式に属する境界的な要素
記号使用(カギ括弧による発話表現、カギ括弧の重ね書き、ふりがな、傍点、数式の使用など)
レイアウトや文章外の構造の使用(改行・段組・見出し・脚注・挿絵配置・章扉・ノンブルなど)
タイポグラフィ など
内容に属する境界的な要素
論理および意図的なヒューリスティック
援用・参照源としての教養
魅力的なキャラクター作り
社会・組織・人間心理への見識 など
上記の2カテゴリに収まらない要素
論文など、各種文体の暗黙のルールの理解
ネイティブにとって違和感のない方言
執筆速度 など
となります。別にまだMECEにはなっていません。簡単に束ねた程度の例示集だと思って見て頂ければ結構です。余談ですが、文章の表現する内容の良し悪しが果たして「文章力」に含まれるのかどうか、そこが最も意見の分かれるところだと思いますが、いずれにしても上記のものは文章に付随する要素ではあるものの、それぞれが「文章力」に属するかどうかについては議論的です。
では、こうした境界的な例が様々にある中で、とりわけカギ括弧の重ね書きを否定する理由があるでしょうか。私はありうると考えています。
まず、カギ括弧の重ね書きを採用することによってスポイルされるのは、同時発言のリズム感やおかしみを別の方法で表現する工夫だけです。それはさほど大きなものには思えません。なぜなら、同時に発言されただけではおかしみが生じることはなく、それがなにがしかの前提の上で同時発言されるか、同時発言がなにがしかの影響を生じるかが必要であり、それゆえ、同時発言のおかしみは発言の前後の文章表現に依存しているからです。
その表れとして注目したいのは、なんとなれば、カギ括弧の重ね書きを伝統的なカギ括弧に置き換えても、大して効果は変わらないという事実です。
「「「それだ!」」」
声が重なって、誰からともなく笑いが起こった。
「それだ!」×3
声が重なって、誰からともなく笑いが起こった。
「それだ!」
声が重なって、誰からともなく笑いが起こった。
さほどの違いはありません。もちろん、ここで互換なのは、声が重なったことによる影響に言及しているからですが、逆に、声が重なっただけでそれによる影響が描写されない場面でこの技法を用いても、なにがしかの感興を催す可能性は低いのではないでしょうか。
そんなわけで、私は、カギ括弧の重ね書きを「ズル」と呼ぶのは不適切だと考えます。それはどちらかというと「オマケ」であって、技法として目にとまりやすいものの、文意の理解しやすさの工夫に留まるのではないかと思います。伝統的な表現技法の中で近いものを挙げるならば、傍点がそれにあたると感じています。この技法は修辞とは言いがたいと考えるのも、それゆえです。