「説明嫌い」と小説の書き出し | お泊まり恋愛詩

お泊まり恋愛詩

恋愛詩を集めたブログです。彼氏視点です。

かなりえっちな内容のものも少なくないですが、年齢制限せずにすむよう、端正で遠回しな表現に収めています。また、旧作に手を加えている作品が多いので、現在進行形のものはほとんどありません。更新休止中です。

一々例示して炎上を誘いはしませんが、きょうびの小説作法には、「冒頭部で設定をずらずら書くのは小説ではありません」という趣旨の解説がなされることが少なくありません。説明を嫌い、描写を好む傾向も見受けられ、私はそれらを同根の現象だと考えています。この性向を「説明嫌い」と呼ぶことにします。

この「説明嫌い」は、プロの作家も少なからず冒されているように感じます。しかし、明快な説明で済ませれば表現できるものを、むやみに含蓄を持たせた事例を以て語ることを、私はよしとしたくありません。必要最小限の情報を明確に書くのではなく、不必要な曖昧さや不要な情報を散りばめるのは、芸術家の営為ではなく売文家の小細工です。

可能な限り明確に書く技術によって書かれながら、曰く言いがたいものをも伝えずにはおれなくなり、その結果として読解の難度が高いひとくさりが生まれるのであれば、尤もな事情ですが、伝えるべき内容が簡潔な説明で済む内容ならば、小説であれなんであれ説明で済ますべきです。もし一篇の小説で伝えようとする内容が、説明だけで完結するのであれば、描写や会話が皆無でも構わないはずです。(もちろん、説明だけで完結するということは、ある種のディテールを持たないということですから、チープにならないためにはかなりの工夫が必要でしょう)

もちろん、ノイズを含めるべきではありません。伝える必要のない情報が説明されれば、読者は混乱します。伝達にかかる費用対効果は劇的に悪化します。ですから、必要最小限の内容に絞って、説明をすべきです。しかし、例えば「国内随一の町は大陸の西岸にあり、その北東早馬で3日の距離に荒れ果てた古城、南に5日の距離に現在の王城があった」という環境設定があったとして、それをそのまま書くのではなく、漸次キャラクターの行動や発言を通じて語るべき、などという主張は不適切です。

他に例えば、「彼女は何かにつけそそっかしかったが、可憐な容貌のおかげで許されるのが常であった」「彼は賢い少年であった」という説明を嫌い、エピソードで語るべき、というような主張に対しては論外です。敢えて費用対効果を下げてどうする、としか言えません。もちろん、ここでの費用とは読書の工数、効果は伝達効果です。謎めいた「含蓄」は効果とは言えません。

説明で始まる物語の好例として、中島敦の「山月記」冒頭部分を見てみましょう。
隴西の李徴は博学才穎、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介、自ら恃むところ頗る厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった。いくばくもなく官を退いた後は、故山、カク(「埒のつくり+虎」)略に帰臥し、人と交わりを絶って、ひたすら詩作に耽った。下吏となって長く膝を俗悪な大官の前に屈するよりは、詩家としての名を死後百年に遺そうとしたのである。
簡潔に、李徴の経歴と性格が説明されています。もしこれをエピソードによって描写するなら、文庫本数冊くらいは費やせるでしょうが、そんなに密度の低い物語を世の中に放流したら、読書家の時間をかなりの程度、無駄遣いさせることになります。

「説明嫌い」の方にもう一つ実例を見て頂くとすれば、「阿Q正伝」の冒頭でしょうか。言語特性に依らない部分ですので、当然日本語訳で構いません(「青空文庫」にも収載されています)。「阿Q正伝」は冒頭の一章をこの風変わりな表題の説明に費やしています。この物語に対する読者の最初の興味は、この風変わりな表題であるはずですから、それを説明することから始めるのが最適解なのです。

現代は映像が氾濫していますし、物語を映像の形式で空想するところから創作を始める人が多いのでしょう。だからこそ描写の過大評価が目に付くのだとは思いますが、第一義的に文章は、画像や動きを伝える媒体ではなく、言語音と意味とを伝達する媒体です。ですから、「説明」は文章に最も向いた表現方法であって、軽んずるべきではありません。

文章を売る、という観点からは、説明を適切に用いると「本が薄すぎてしまう」という問題が生じることも考えられますが(実際、いくつかの本が思い浮かびます)、本の厚みに応じた内容を盛り込めば良いだけです。