大きいことばや小さいことばを歌う場所 -9ページ目

そのときは、まだ知らなかった言葉

今ではもどかしいような、懐かしいような、

優しい気持ちに包まれる体験が幾つもある。


そういう体験に共通して言えることは

「そのときは、その自分の気持ちを表す言葉を知らなかった」

ということだ。


いまおもえば、

「それは、悔しいって言うんだよ」とか

「これは、やるせないって言えるね」とか

「うーん、俯瞰してるんだな」とか


そのときの「自分」に教えてあげることはできるだろう。

そうすると、いくぶん、すっきりするんだろう。


だけれど、生きているうえで、

「言葉」を得るうえで、目的となりうる事柄として

「この気持ちは、なんていう言葉であらわせれるだろう」

ということが大きく存在しているのではなかったか。


その「言葉」を得ることではなく、

そう葛藤、模索すること、である。


歳を重ねるごとに、言葉を得るごとに、

失うことがあるとしたら「言葉」を手繰り寄せるという心持だ。


一度、自分の思いを言葉に訳される経験をすると

もう事務的な経験となってしまうことがある。


「あ、これは悲しいってことだな」

「あ、この気持ち、嬉しいってやつだ」

「あ、こういうのは、やるせないって言うんだったよな」


平たんになるのだ、平たく生きるようになるのだ。


人間はそもそも、自分の抱く、

いや、抱かされる思いを抱えきれないのかもしれない。


言葉を得るということは、

抱えきれない思いを訳す、託す先を増やす、

つまり言葉という「逃げ場」を創っているのだろう。


大人になろうが、老人になろうが、

溢れる感情はあろう。


こんなに悲しいことはない!

こんな嬉しいことはなかった!


という大きな心の揺れもあろう。

そんな思いを「こんなに悲しいことはない!」で

言い表してよかったのだろうか。


僕は大前提として、すべての抱く感情は

まだ知らぬ「言葉」で定義でき、用意されている、と信じている。


「言葉では言い表せれない」と言うことはできても、

追求すれば、出会える、或いは、再会できるものだ、と信じている。


一度きりの、あらゆる思いを、

淡白にしないように、浮き彫りにできるように、

まだ知らぬ言葉を手繰り寄せる心持でいよう、と思う。