世界一、俺はシアワセもん -23ページ目

相棒との怖い経験

アメリカから帰ってきて、1年ぶりに自分の相棒に会い、語りました。

そこでめちゃめちゃ驚いたことがあったので今日はその驚きをランキング形式で書きたいと思います。


第一位 カバンが色違い

何千何万とあるカバンの中でなぜ同じカバンを選んだのでしょうか.... ちなみに自分は新潟で彼は東京で二人とも1カ月以内に購入しました。


第二位 ゴミ箱が同じ

の部屋で同じゴミ箱を見つけた時は、驚くを超えて怖かったですw

第三位 枕が同じ

二人とも語り、飲み終え、それそろ寝ようと思った時、自分が「この枕寝やすいなぁー」っと言ってその枕に目をやると、全く同じ枕でお互い母親が送ったと使い始めたプロセスまで同じと....ここまでくると気持ち悪いですねw

第四位 新しい靴がそっくり

もう説明は省きます、めっちゃそっくりでした。しかも二人ともおニューw


っと変な怖さを感じた経験でしたw



世界一、俺はシアワセもん。

世界一幸せな男の心得

夢に酔い、夢を語り、夢を創る

自分に嘘はつかない

言葉に重さをつける

チャンスを逃さない

理由を常に意識する

後悔の歴史から成功の未来を導く

もし自分が.....ならで相手の立場を理解する

色とイメージ、図を大切にする

思考を常にカタチにする

楽しいことしかしない

5秒以内に決める

創さんに負けない




世界一、俺はシアワセもん。

生と死について~人間は死なない~

$世界一、俺はシアワせもん


今日は生と死について書きたいと思う。

人間は死なない

これは長い間書こう書こうと思っていた自分の思考だ。

アメリカで留学中、生と死について考えた。 

生きることと死ぬこと、これは人間だれしも逃れられない最初と最後の儀式。 

でも死って何?生って何?っとふと思う。

日本の辞書による「生きる」という言葉の定義は

人・動物などが命を保つ。生存する。である

英語では

living;not deadと書いてある

正直どちらもあやふやであるw 

ではそれぞれの「」の定義についてどうか

日本語の場合は

呼吸や脈がとまり、命がなくなる

英語の場合

to stop living

この「呼吸や脈が止まり、命がなくなるという」ことを人間の死と定義するなら、自分は少し浅はかではないかと思う。

なぜなら「死」を肉体的、物理的な部分でしか定義していないからだ。

もし人間の「死」が肉体的、物理的な部分で定義されているなら、あまり「死」を「人間の最後」ととらえない方が人間らしいのかもしれない。

自分が「人間は死なない」と思う理由は人間が物理的に死んでも、人間は生きているからだ。

自分の今までの20年という人生の中で親戚はもちろん、親しい友達も亡くなっている。しかし彼らは肉体的には死んでいるが、まだ自分のなかでしっかりと生きている。

物理的に彼らと交流することはできないが確実に生きている。

自分がこのブログで「思考」というテーマで自分が思うことを常に書き続ける理由の一つに自分は「生きることは思考すること」と定義しているからだ。


生きることは思考することだ。実際人間が生きている間、肉体を動かす時間(もちろん内臓は動きを止めないが)と思考する時間はほぼ同じだ。

どういうことかというと、人間の肉体はノンレム睡眠時間以外動き続け、思考はレム睡眠時間以外動きづける。良く人が寝起きに閃きやすい原因は、人間はノンレム睡眠の時間にも思考し続けているからだ。

だから人間の死を肉体的、物理的の部分だけで定義することや人間の死を「人間の最後」ととらえることは浅はかだと思う。 

人間は死んだ瞬間に、彼らは動くこと、話すこと物理的なあらゆることは不可能になるが、彼らの思考は存在し続ける。

もし仮に、人間が物理的に死んだと同時に、彼らの思考はもちろん、私たちが持っている彼らとの思い出、記憶もすべて死ぬのであれば、議論の余地はないが、全くそうではない。

ここで自分の友達が「死」について面白い話しをしたことがあるので少し紹介したい。

彼女はアメリカのNYで父の葬式に参加して、NYでの葬式を終えた後「アメリカの葬式は美しかった」と自分に話したことがある。 

確かに日本の葬式はとても暗く、みんながみんな悲しまなければならない、そんな雰囲気だ。 そこで笑ったり、愉快な雰囲気を醸し出すなんていうのはもってのほかだ。

人間と動物の大きな違いは何かと問われれば自分は思考の高度差と答えるだろう。

私たち人間が持つ高度な思考が動物と言われる生き物との相違を生んだと思う。 

もし生きるということを思考することと定義した場合、人間はそう簡単には死なないのかもしれない。

自分の夢の一つに祖父みたいになりたいというすごく抽象的だが夢、自分のなりたい姿がある。

彼はもうとっくにこの世を去ったにも関わらず、彼が築いた思考は今の自分の夢に大きな影響力を持っている。


最初の「生きる」の定義に戻るが、実は5つ目の意味にこう書いてあった。

(5)死んだ者、失われたものの名残や影響が残る。



やっぱり彼らはまだ生きている。







世界一、俺はシアワセもん。

教育について~担任の教師~

$世界一、俺はシアワせもん


今日CNNニュースでアメリカのいじめ問題のニュースを見て思った「日本の教育システムが持つ担任の教師の役割」についての自分の思考を書きたいと思う。


CNNニュース「How one school stops the bullying cycle」
http://www.cnn.com/video/?/video/us/2010/04/04/bpr.ca.tapia.quake.cnn

シアトルで留学していた時に、幸運なことにたまたま地元の高校に訪れる機会があった。 最初の日記でも少しふれたように、その時は高校生の日本とは比べものにはならないような自由さ、そしてもう一つ自分が驚いたことの一つに、アメリカの学校では(もしかしたら州によっては異なる可能性もあるが)担任の先生がいないということだ。


これには本当に驚いた、なぜなら自分が思うに日本における担任の先生という立場は生徒にとってとても重要な役割を占めているからだ。

もし自分が日本で教師になるのであれば、自分が担当している特定の分野ではなく、担任の先生として生徒がこれから将来生きていく中で国語、算数、理科、社会では学べないもっと大切なものを生徒に教えたいと思うし、そこに自分の教師としてのパッションがある気がする。

自分が小学校の時に好きだった担任の先生の口癖は「現状に満足しない」だった。

彼女から学んだことは本当に沢山あり、当時は厳しすぎて好きではなかったが今思うと本当に教育者として常にプロフェッショナルだった。

本題に戻ると、いじめ問題も子供たちになぜいけないのか、何がいけないのかを教師がしっかりと生徒に理解させる必要がある。 

人間は教育なしでは「殺人」すらしてはいけないということも認識できない動物らしい。つまり本能でそのことがインプットされていない。

唯一、地球上の動物でそのことを本能的に認識しているのは「ゴリラ」だけらしい。

いじめの問題でも生徒に「いじめはいけないこと」というのを教育で彼らの脳にインプットさせなきゃいけない。


道徳教育というポイントからすると、日本の教育システムが持つ「担任の教師」という立場役割は、インターネットの普及によって引き起こされる人間関係の複雑化や暴力化する日本社会にとってますます重要な役割になるだろう。



世界一、俺はシアワセもん。

NPO法人設立記念パーティー

$世界一、俺はシアワせもん-NPO設立記念パーティー


今日は自分の相棒でもあり大の大の大親友が理事長を務める団体のNPO法人設立記念パーティーに参加してきました。 

1年ぶりに創さんに会えてそれだけで自分はおなかいっぱいシアワセいっぱいでしたw

そこで感じたことは3つ

1つ目がチーム一丸となって一つも目標に向かってがんばる姿は美しい
2つ目が出会いはすばらしい
3つ目は出来ないことはない

1つ目のチーム一丸となって一つも目標に向かってがんばる姿は美しいについて

なぜ美しいのかというと、そこには涙があり、嬉しさがあり、努力があるからだ。 それのほとんどはもしかしたら自分たちが見れない隠れたところにあるのかも知れない、でもそこがまた美しい。

自分はこういう事象を「満月のような事象」と例える。

満月を見ると人は、綺麗だなーと思う。 人々はその輝きに魅了され美しいと思う。 人も同じ、例えば売れているお笑い芸人の漫才を見れば、面白いと思い。 美しい歌手の歌声を聴けば、感動する。客観的に見ている側はそれでいい、それがどれだけその輝きがすごいものなのかを語ってる。

満月の話しに戻すと、その美しい満月の輝きを観ながら誰も、その輝きのウラを知らない気付かない。つまり満月の闇の部分。

月の裏側はその輝きとは反面、一つの光もない真っ暗な闇。

売れているお笑い芸人も、歌手も、そして今回自分が参加したNPO法人Inspireも同じように言えると思う。 

自分は全く分からない、なぜなら昨日の彼らのあの輝きは美しすぎた、彼らは本当に満月のように光輝いていたから。

自分も彼らのようになりたい、そして超えたいと今は思うだけです、そして彼らのように満月のようにただただ光輝いていたい。



2つ目は出会いは素晴らしい

その会場で沢山の出会いがあった。 沢山の人に会い、話し、夢を語りやっぱり出会いは素晴らしいと改めて感じた。 特にこういう場での出会いは同じ志を持った方に沢山出会えるということは本当に貴重で素晴らしい経験である。

出会いが自分を創る。 人が自分を創る。

そういえばある本で、「自分が誰なのか定義すること(アイデンティテー)は他人を定義すること」
といった文を読んだことがある。 

簡単にこのアイデアを説明すると

例えば

数学で偶数を定義する時の簡単な証明は「奇数以外の数字」である。


このアイデアと同じように人も他がないと、定義しないと自分を定義することはできないということだ。

本題に戻ると、それだけ他人と関わること接することで、自分のアイデンティテーが強くなるということだ。


3つ目は出来ないことはない


これはその団体をそして創さんを見ていて強く感じたこと。
団体の一人のメンバーが「出来る出来ないではなくてするかしないか」と言っていた。
この彼女の言葉にはすごく重みがあった、そして今の自分の心に響いた。


「出来る出来ないではなくてするかしないか」



世界一、俺はシアワセもん