生と死について~人間は死なない~

今日は生と死について書きたいと思う。
人間は死なない
これは長い間書こう書こうと思っていた自分の思考だ。
アメリカで留学中、生と死について考えた。
生きることと死ぬこと、これは人間だれしも逃れられない最初と最後の儀式。
でも死って何?生って何?っとふと思う。
日本の辞書による「生きる」という言葉の定義は
人・動物などが命を保つ。生存する。である
英語では
living;not deadと書いてある
正直どちらもあやふやであるw
ではそれぞれの「死」の定義についてどうか
日本語の場合は
呼吸や脈がとまり、命がなくなる
英語の場合
to stop living
この「呼吸や脈が止まり、命がなくなるという」ことを人間の死と定義するなら、自分は少し浅はかではないかと思う。
なぜなら「死」を肉体的、物理的な部分でしか定義していないからだ。
もし人間の「死」が肉体的、物理的な部分で定義されているなら、あまり「死」を「人間の最後」ととらえない方が人間らしいのかもしれない。
自分が「人間は死なない」と思う理由は人間が物理的に死んでも、人間は生きているからだ。
自分の今までの20年という人生の中で親戚はもちろん、親しい友達も亡くなっている。しかし彼らは肉体的には死んでいるが、まだ自分のなかでしっかりと生きている。
物理的に彼らと交流することはできないが確実に生きている。
自分がこのブログで「思考」というテーマで自分が思うことを常に書き続ける理由の一つに自分は「生きることは思考すること」と定義しているからだ。
生きることは思考することだ。実際人間が生きている間、肉体を動かす時間(もちろん内臓は動きを止めないが)と思考する時間はほぼ同じだ。
どういうことかというと、人間の肉体はノンレム睡眠時間以外動き続け、思考はレム睡眠時間以外動きづける。良く人が寝起きに閃きやすい原因は、人間はノンレム睡眠の時間にも思考し続けているからだ。
だから人間の死を肉体的、物理的の部分だけで定義することや人間の死を「人間の最後」ととらえることは浅はかだと思う。
人間は死んだ瞬間に、彼らは動くこと、話すこと物理的なあらゆることは不可能になるが、彼らの思考は存在し続ける。
もし仮に、人間が物理的に死んだと同時に、彼らの思考はもちろん、私たちが持っている彼らとの思い出、記憶もすべて死ぬのであれば、議論の余地はないが、全くそうではない。
ここで自分の友達が「死」について面白い話しをしたことがあるので少し紹介したい。
彼女はアメリカのNYで父の葬式に参加して、NYでの葬式を終えた後「アメリカの葬式は美しかった」と自分に話したことがある。
確かに日本の葬式はとても暗く、みんながみんな悲しまなければならない、そんな雰囲気だ。 そこで笑ったり、愉快な雰囲気を醸し出すなんていうのはもってのほかだ。
人間と動物の大きな違いは何かと問われれば自分は思考の高度差と答えるだろう。
私たち人間が持つ高度な思考が動物と言われる生き物との相違を生んだと思う。
もし生きるということを思考することと定義した場合、人間はそう簡単には死なないのかもしれない。
自分の夢の一つに祖父みたいになりたいというすごく抽象的だが夢、自分のなりたい姿がある。
彼はもうとっくにこの世を去ったにも関わらず、彼が築いた思考は今の自分の夢に大きな影響力を持っている。
最初の「生きる」の定義に戻るが、実は5つ目の意味にこう書いてあった。
(5)死んだ者、失われたものの名残や影響が残る。
やっぱり彼らはまだ生きている。
世界一、俺はシアワセもん。