この名前で普通のスーパーだという点がすごいと思います。
私は最初、銭湯もしくは温泉だと思いました。
こんな名前ぜんぜんすごくない。ごく普通の名前のスーパーだと思う人についてはごめんなさい。
この名前で普通のスーパーだという点がすごいと思います。
私は最初、銭湯もしくは温泉だと思いました。
こんな名前ぜんぜんすごくない。ごく普通の名前のスーパーだと思う人についてはごめんなさい。
霊感などまったくないと思っているので、この手の話はあまり書くことがないのですが、中学校の頃の不思議体験を1つ。
私の学校は、昇降口から体育館を通らなければ教室に行けない構造になっていたのですが、その体育館から右に直角に曲がり、職員室等がある廊下を通って階段を上ったあたりが私達の教室でした。
ある日私が、登校した時のことです。
昇降口から体育館を通り、教室に向かう廊下の手前で、普段からばか話をしている仲の良い友人の1人が、数メートル先を横切って行きました。
どうも私に気づいていないようなので、「よう。おはよう」と声をかけました。
それにも関わらず、こちらを見向きもせず、まっすぐ前だけを見て歩いて行き、廊下のほうへと姿を消しました。
私は少し憤慨しました。失礼なやつだな。なんだこっちがおはようと挨拶しているのにと・・・。
姿を消した友人を追って、すぐ右側の廊下へと急いだ私の目に友人の姿はうつりませんでした。女子生徒が1人くらい歩いていただけだったと記憶しています。
「ははあ、奴はダッシュして教室に行ったな。」と思った私も、すぐさまダッシュし、教室へと続く階段を一気に駆け上り、教室へ入るやいなや、先にきていた友人達に「○○はどうした?」とたずねました。
「いや、まだ来てないけど」とみなは怪訝な顔をしていました。
私は、多分途中どこかに隠れてやり過ごしたに違いないと思い、あたりを見回しながら昇降口まで戻りました。あくまでふざけているのだと思っていました。
すると、当の本人が数人の友人と一緒に昇降口でワイワイ他愛もないことをしゃべりながら、上履きに履き替えたりしていました。
私も何だか変な気がして、「おい、おまえ先に学校来てたよな。」と話しかけると、一緒に登校してきたと思われる全員が、いったい何の話をしているんだと・・・。みんな一緒に今着いたばかりだというのです。
後で考えても、曲がった後の廊下は直線で結構長い距離があり、途中で隠れてやり過ごすところなどありません。
では、私が見た友人は誰だったのでしょうか。普段仲の良い友人を見間違えるはずがありません。それに廊下を曲がった後に見えなくなったことも何とも不思議でした。
本人にその話をすると、「うーん。俺の兄貴も、学校休んだ日に友人たちが確かに来ていたといって譲らなかったといいう話を聞いたことがある。友人達が兄貴だと思った奴はいったい誰だったんだろう。なんて思ったけれど、俺もなのかな。」等といっていました。
結局、その時は分らず仕舞いでした。
「ドッペルゲンガ-」というものがあることは、後で本で知りました。
不思議 2に続く
こむずかしい理屈はさておいて、ナイフを作りたいと思ったら、迷わずホームセンターなどに行って
電動グラインダーを買いましょう。安い店なら3000円~5000円位で買えます。
卑しくも相手は鉄です。場合によっては鋼鉄ですので、普通のヤスリではなかなか歯が立ちません。
「電動工具を使うとは卑怯なり」と鉄は言いませんので、遠慮なく使うべきです。
私は最初、鉄鋼用やすりを買って刃物を仕立てようとしました。大変な労力を要して何とか形にしましたが、電動グラインダーを使って電力で仕上げるほうがどれほど楽だったかを後で思い知りました。
小遣いが多少自由になってグラインダーを買った後のことです。
手と体力を無限に消費して、それでもままならないところを、グラインダーは簡単に乗り越えてくれました。文明人は文明の利器というものを利用しない手はないと思います。硬くてなかなか削れない鋼を、いともやすやすと削っていくのですから。
多少の慣れは必要ですが、好きな形を作れます。
以下は、汎用の鋼板をグラインダーで削り、焼入れを施したものに部品をつけたものです。
研いでいる最中に手を結構深く切り、切味に満足した作品です。
長女の誕生日に作ったプッシュダガーです。
柄の部分は、古い梅の木の板を利用しました。
鞘本体は朴の木で作り牛革をはりました。
抜いてみたところです。
刃には生まれ年の梵字と、その裏には星座のマークが彫ってあります。
これからは、気力が充実しないとなかなか作れないと思います。
昔から何かいい物が落ちていないかと、下ばかりむいて歩く子どもでした。
そうしたことから、小銭の類はたくさん拾いましたが、止まっている車にぶつかったりしたこともありました。
小学生の頃、道端に落ちている1000円を拾ったことがあります。
40年近く前のことですので、結構嬉しかったのを覚えています。何せ田舎だったので付近に交番など無く、届けようにも届ける場所がありません。親に相談したところ「貰っておけ」とのこと。安心してもらいました。
大学になっては、走っているバイクから道端に落ちている500円札を発見して、拾ったこともありました。一緒に走っている友人がどうして急に止まるのかというので、金を見つけたといったら驚愕しておりました。お金が見えると動体視力も飛躍的に向上するものと思われます。
大きなというか、不思議なものでは、中学2年生の冬の頃拾ったものです。
学校の帰りに道端に落ちていたダンボールを何気なく蹴飛ばしたところ、足にずしんという感触がありました。何が入っているのだろうと思い、つぶさに見てみると、何と「ロッテチョコレート」と書いてあり、ロッテのロゴ入りのガムテープが剥がした形跡も無くそのまま貼ってありました。青酸入りチョコレート事件などのはるか以前でしたので、警戒心など沸くはずも無く嬉々として家にもって帰りました。
早速あけてみると、思ったとおりチョコレートが山ほど入っているではありませんか。私は、おそらくこれは、商店に卸すためのもので、業者が運んでいる最中、何らかの振動でトラックの荷台から落ちたものに違いないと推理しました。拾った場所が、急カーブの付近だったからでもあります。
スーパーで並んでいるあの20枚入りくらいの箱が、9個入っていたと思います。それも色々と違う種類のものです。
総枚数180枚!楽しい冬の始まりです。毎日兄と妹がねだりにきましたけど、翌年の2月くらいまで食べていました。
あれはきっと、正直に生きている私に神様が下さったものと今も思っており、神仏に対する感謝は欠かしません。
↓ なぜかロッテが無いですね。何故でしょう?
七輪陶芸をやるには七輪と木炭が必要です、あたりまえです。
焼くための道具と燃料が無ければ話になりません。そして、材料の粘土です。
これさえあれば失敗はしません。何を失敗というかは人それぞれです。どうにもうまくいかなければ、秋刀魚やスペアリブを焼けばいいのですから。
私は、結果的に割れていない、ひびが入っていないを成功としました。
しかし、そこに至るまでが大変でした。形は最初はてびねりで器の形を作り、そのうちに手回し轆轤を買ってぐい呑みを作るようになりました。
形を作るのは簡単です。できたと思ったら、そのあと一週間くらい半日陰で乾燥させ水分を飛ばした後、素焼きを行います。
この素焼きの段階で破壊しました。最初の1個は庭先の土を練って作った器でありまして、なおかつ火加減がよく分らずに作ったものですから、土の耐火度と窯(七輪)の火力の加減がわからず、焼きすぎてしまった結果、不定形の軽石状の物質になり果てました。もはやぐい呑みの形はどこにも無く、できそこなったかるめ焼きのようでした。
情けなくて涙がこぼれました。(うそですが。)
そのうち少しづつ慣れて、何とか形になるようになってきました。
これはおそらく、50個目くらいだと思います。それ以前のものは、植木鉢の底の虫除けなどになっていると思います。
これも同じ頃と思われます。同様に釉薬は溶けていますが、火力にむらがあるため均質に焼けていません。
これらよりもっと良いものもあったのですが、みな遠くに住んでいる家族や親戚等にやってしまい、家にはろくなものが残っていません。
次回から、具体的な方法に移ります。
七輪陶芸 4に続く
格闘技や武術の愛好家です。
昔は「武術家です」などと名乗っていましたが、現役を引退して(単に練習しなくなっただけです)からは
格闘技(武術)の愛好家といっています。
それほどやっていたわけではありません。柔道・空手をひと通りかじりましたが、それほど強くはありませんでした。
体が大きくないので、そもそも柔道はあまり向いておりません。あれは、よほどの才能に恵まれていない限り、やはり体が大きくないとだめなようです。まず大きくて、それから才能といった感じでしょうか。とりあえず黒帯は貰いましたが、自分の才能に見切りをつけてやめました。
剣道は、高校の必修クラブと大学の体育の時間になめてみた程度なので正式に習ったわけではありませんが、少し思ったことを勝手に書いてみます。
剣道は、あまりに競技がゲーム化しすぎているような気がします。
もともと、真剣で切りあうための技であったはずなのに、試合のときですら「面」で一本とられるのを避けるために頭を傾けて首筋で受け、その後すかさず攻撃して1本とったりしているのですから。
頭のてっぺんを打たれなければ、一本とならないとのこと。あきれました。真剣はおろか木刀だって首筋で受ければ、その後動けるはずがありません。そんなことをすれば、まさに袈裟懸けに切られるというような状況になるはずなのですが。どうも試合そのものがゲームになっているのではないでしょうか。仮想であっても真剣で切り結んでいるという感覚が希薄若しくは無いのではないかとおもいます。
その頃の練習試合の場でのことです。私はあまり意味のない奇声をあげるのが好きでないので、相手の面を取りに行ったとき「フン!」と短い自分なりの気合で見事に1本先取しました・・・いや取ったつもりでした。しかし審判は旗を揚げません。「おかしいな見ていなかったのかな。」と思い、今度は見てろよとばかりに同様に面を取りました。見事にj決まったはずなのに、やはり審判は旗をあげませんでした。「何で?」というような顔をすると、「あのね。面と気合を入れないと1本にならないの」とあきれた顔で言われました。「へ?」とよそみをしていましたら、「め~~ん」などといって私の頭を竹刀でたたく相手がおり、旗がさっと挙がりました。
剣道がバカらしくなった瞬間です。
正式に習いもせずに、いいかげんやっていた私もおばかさんでしたが、それでは仮面ライダーの「ライダーキィーック!」という技の名前を叫びながら攻撃するあれとどこが違うのでしょう。
本来武術とは殺人のための技なのですから、効果的な一本が決まれば有効とすべきだと思います。剣道は普及の過程でまるっきりスポーツ化してしまい、武術の意義を失ってしまったように思います。
現在でも武道、武術の本義を忘れずにやっている方はおられると思いますが、やはり少数派でしょう。私にとってはあまり魅力的ではなくなってしまいました。
武術2に続く
13日から15日まで人間ドックに入ってきました。
13日午後3時に入院し、まず身長、体重、血圧等を計りました。
最初に身長・体重を計ったところ、従来私が自分の身長と捕らえていた数値より1センチちょい位少なくなっています。
体重などは元からあまり気にしておりませんので、+-10㎏とかとんでもない数値が出ない限りあまり驚きませんが、
身長となればそうはいきません。何だか不本意でした。
中学、高校のときなどは、男の子たちはほとんど獣と同義ですので、少しでも背伸びしたりしてミリ単位で同級生と競ったものでした。
そのくらい身長にはシビアでした。なんともばかばかしく、仔犬同士の背比べと同じものなのですが、これはどうも本能的なものらしく、間違うのは大きくは5センチでも10センチでもよいのですが、小さいのは1ミリでも許さぬといったものでした。
おそらく猿がボス争いをしたとき、体が大きいほうが有利といったものに由来するのではないかと思うのですが・・・。獣ですね。人間も。
今は中年であり、そのような気持ちはもうとうないつもりでいたのですが、やはり縮むのは不愉快なので、「少し縮んだのかなあ。年ですかね。」といったところ、看護士さん「あたま窮屈でしたか?」とのこと。
少し窮屈だとは思ったといえばそうともいえ、思わなければそれまでの話。でもすかさず、「何だか、窮屈だったみたい。」と言ってしまい再度計りなおしました・・・。
結果、約1センチ増えて・・・結局それまで思っていたのと同じ身長でした。安心しました。
人間ドックとはそもそも、健康か病気かを調べる検査です。
それらは、血液・眼科・聴力・大腸・血糖値などをいろいろな検査で知るものでありまして、血を抜かれたり胃カメラを呑んだり、他には、屈辱的にも肛門に指を入れられるはチューブを差し込まれてバリウムを強制注入されX線撮影されるはでありまして・・・決して楽しいものではありません。
それにもかかわらず、人間ドックに何で好んで繋がれようと思うのか、いろいろ考えてみました。
人間ドックとは、身体の様々な部位をチェックすることにより病気を未然に防いで、寿命を延ばすことが第一義であります。
ですが、それ以外に、日常から乖離できること。これが実のところ大きいと思います。
悪いことをした政治家ですら、健康の悪化を理由に入院した場合、とりあえず訴追を免れます。
然るに、善人以外何者でもない我々は、仮病を使うことなど思いもよりません。本当に具合が悪くてもなかなか休めないのが本当のところです。
ですが、人間ドックの受診であれば、仕事やら何やら日常のうっとうしいことから乖離できるのです。それも堂々と。
ただし、私というものは何なんだろうと哲学的な思索を練ったり、越し方行く末を考えたりする暇はありません。何せ短時間の間にやれ血液検査だの大腸検査だのと結構忙しいのですから。
1年のうちの2~3日。私は普段あまり聞かないCDを存分に聞き、買うばかりで読まなかった本を読み、あまり見ないお昼のワイドショー番組などを見て日常をリセットしてきました。
こんなこともたまにはあってよいものだと思い、胃カメラは大嫌いなのですが、人間ドックは好きです。
観葉植物を育てています。
食べられる実がなったり、それ自体有用な植物が好きな私ではありますが、観葉植物は別です。
食えもしないのに、何ゆえ葉っぱだけの植物がすきなのかは自分でもよく分りません。
きっと前世で何かあったのでしょう。
昔、「ポトス」を育てたことがあるのですが、1~2年で枯れてしまいました。
とても悲しかったので、それからはなるべく丈夫なものを育てることにしました。
現在育てているのは、「ゴムの樹」、「ベンジャミン」、「パキラ」、「ホンコンカポック」といった樹木性のもので、なおかつ樹勢の強いものに限られます。
幸い、それらの植物は極めて丈夫で、「ゴムの樹」は勤め先の枝先を貰って植えたのですが、鉢にとってからもう20年以上にもなり、初めは親指ほどしかなかった幹の太さが、今は手首ほどになっております。
ただし、丈夫なのはとても良いのですが成長もまた著しく、定期的に植え替えや剪定を行わないと、鉢の中で根詰まりを起こしたりどんどん伸びて形がおかしくなったりしますので、それなりのケアは必要になってきます。
ケアの要点は次のようなものです。
・ 2年に1回くらいは、梅雨から夏にかけて植え替えること。
・ 晩秋から早春にかけてはほとんど水をやらない。
・ 形が崩れないよう、余計な枝が出たら切ること。
くらいでしょうか。
あっけにとられるほど簡単で、ほとんど何もする必要はありません。肥料も、春先くらいから適当に化成肥料でも鉢に撒いておけば結構といった感じです。
こうした観葉植物は、大物ともなると結構値段が張り、買えば数千円以上します。
私は、安くてかわいい数百円の鉢を、かわいがりながら大物に育てるほうが、より愛着がわくのではないかと思っています。
形が崩れて剪定したベンジャミンの小枝を、
コップの水にさして数週間置いたものから根が出ました。
これを、ハイドロボールで水植えしました。
30センチくらいで購入したパキラの鉢植えが、数年で2メートルほどになりました。
あまりに大きすぎるし、途中の葉も落ちてなんとも見苦しくなったことから適当に切り詰めたました。
その後、切った枝を10センチくらいの長さに刻み、それらを挿し木用の土に少し埋めておいたところ、それぞれの先端から新しい芽が出て、小さなパキラになりました。10本近く取れましたので、職場のみんなにおすそ分け。
観葉植物を切ったり植えたりするときは、梅雨から夏にかけて行いましょう。ほとんど失敗しません。
また、切るときは、良く切れるきれいな刃物を使うこと。錆びてのこぎりのようになったナイフなどはもってのほかです。
太いものは、初めにのこぎりで切った後、新しいカッターナイフなどで切り口を整えましょう。
白い樹液が出るようなものは、水を張ったバケツにさし、樹液が出なくなってから挿し木するか、水挿しして根が出るまで待ちましょう。
小さなインテリアガーデニング―リビングに、キッチンに、しあわせを運ぶインドアグリーン
観葉植物事典―上手にインテリア・グリーンを楽しむ本/土橋 豊
その後「ひょうたん」がどうなったかについては、知らぬ振りをきめこもうかとも思いました。
しかし、数こそ少なくも賢い読者の方々から「あれ」はどうなったのかな?といった雰囲気が伝わってまいります。
正直に言いますと、たった5個しかならなかった上に、そのうち3個が中身を腐らせる過程で割れました。
あまりにおぞましくて言葉を失います。
なんともコメントしたくない形です。
情けなくて何を言ったらいいのか分りません。
発掘した土器ではありません。
割れたうちの1つです。
割れなかったら素晴らしい形と大きさのものでしたが、
皮が薄かったのでしょう。残念なことになりました。
首は茶さじに、本体はナッツボールでも作ろうかと考えています。
まあ、本年度の作といってよいような形です。
といってもこれ1個ですが・・・。
さて、あの「教訓」とは何だったのでしょうか。誰にいって聞かせていたのでしょうか。
実は、私に対してでありました・・・。
来年こそ頑張ります。種だけは十分取れましたから。
加工編はしつこくもまだ続きますよ。
ひょうたん 加工編5に続く
七輪陶芸は、陶芸家の吉田明さんが提唱された陶芸における一つの技法ですが、従来の陶芸の概念を覆す力を持つ新たな方法論です。
粘土をこねて器の形にすることは誰でもできます。
しかし、器の形に粘土を形作ったとしても、その後に焼いて固めなければただの粘土細工であり陶芸とはいえません。
その焼き固めるための窯が、一般人にとっては極めて高いハードルとして立ちふさがっておりました。
要するに、粘土の入手や形作るのは極めて簡単ですが、焼くことが難しかったわけです。
吉田さんは、この高いハードルを普通の人がどうやって越えるかを考え、その結果七輪を用いることを思いつきました。
これは、とてもすごい考えだと思います。
これにより、普通のサラリーマンや主婦にとって難しいと思われた「陶芸」が、庭先やベランダであたかも秋刀魚を焼くように、簡単に取り組むことができるようになったのですから。
陶芸用の粘土は、大きなホームセンターや工作材料店で手に入りますし、そうした店が近くになければ通販などで簡単に手に入ります。
私は、粘土をケチりたいのと、最初から大きなものでは難しいと思い、もっぱら「ぐい呑み」を作りました。