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新宿西口バス放火事件~被害者の34年 NHKスペシャル

聞いてほしい 心の叫びを
~バス放火事件 被害者の34年~


NHKスペシャル(総合テレビ)
2014年2月28日(金) 午後10:00~午後10:50(50分)

http://www.nhk.or.jp/special/detail/2014/0228/index.html

http://www2.nhk.or.jp/hensei/program/p.cgi?area=001&date=2014-02-28&ch=21&eid=14083&f=46






1980年8月、発車前のバスにガソリンと火が投げ込まれ爆発・炎上、死者6人重軽傷者14人を出した「新宿西口バス放火事件」。この事件で全身80%に火傷を負いながら奇跡的に命を取り留めたのが、ノンフィクション作家の杉原美津子さん(69歳/名古屋在住)だ。杉原さんは火傷の治療で大量に使われた非加熱製剤によりC型肝炎に感染、後に肝臓がんを発症した。命の期限が迫る中、最後の作品の執筆を開始した。テーマは、過ちに対する「赦し」だ。事件後、杉原さんは被害者でありながら加害者の不遇な生い立ちや、社会から疎外されて凶行へ駆り立てられた経緯を知り、加害者の男を「赦す」感情がおきたことを著書で記した。しかしその後、本当は「赦していなかった」ことに気付く。きっかけは、作品の執筆に当たって原点を見つめ直そうと、事件と同日同刻のバスに初めて乗ったこと。30年余り心の中に眠っていた“被害者感情”が噴き出し、加害者を赦したわけではなかったと悟ったのだ。『なぜ、事件は起きたのか。なぜ、自分は「被害者」となり、男は「加害者」となったのか。』・・・杉原さんは、改めて裁判記録を掘り起こし、過ちが生じた背景を調べ、他の被害者と対話をすることで、「赦し」とは何かを探っている。
無差別殺人事件などの凶悪犯罪が後をたたない中、なぜ現代社会は「加害」の芽を摘み取ることができないのか、そして、被害者はどんなことに苦しみ、どうすれば乗り越えられるのか。番組では、その答えを探し、執筆を続ける杉原さんの心の軌跡を見てゆく。



(NHK・HPより転載)

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●1981年12月11日
  加害者丸山博文に手紙を送る。

めっきり寒くなりましたね
よく晴れた日でも、一日中、冷たいま冬の風が吹いています。
そちらは、さぞ、寒いことでしょう。
夜は、よく眠れますか?
おなかはすきませんか?
さびしくはありませんか?
とつぜん手紙を書きます。
私は、昨年八月十九日、新宿駅西口広場で午後九時十分発のバスに乗っていた乗客の一人です。
一時は死にそうでしたが、どうにか生きることができて、今は病院に通いながら家で静養しています。
全身にみにくいやけどのあとが残っていて、毎日、痛みが続きます。きたない傷のあとを見られるのがいやで、一年中、長そでと長ズボン、それにくつ下と、てぶくろをはめて、かくしています。
傷あとは、一生消えないそうです。体は、もう、健康にはなれないと思います。
手術を十回以上しました。しばらくしたら、また病院に入って、何度も何度も手術をしなくてはなりません。
私は一度だって、あなたのことをうらんだりにくんだりしてきませんでした。
あなたをさばく気持ちも全くありません」。
あなたをうらんだりにくんだり、さばいたりすることは、大ぜいの人にできることです。
私にできること、したいことは、こうしてあなたに手紙を書くことだけです。
どうか、もう一度、生きてみてください。あなたにとって、いちばんたいせつなものを見つけて、勇気をだして生きてみてください。今からだっておそくはありません。やりなおしはできます。
あなたは私の苦しさを、全部は、わからないことでしょう?
おなじように、私にも、あなたのつらささびしさが、全部はわかりません。
つらいことは、誰にもかわってもらえません。たった一人でがまんしていくしかないのです。
強くなってください。
私もがまんして、もう一度、生きてみます。どうか、あなたもがまんして、勇気をだして、生きてください。
あなたも私も強くなるのです。生きるのです。
気が向いたら、お手紙ください。
待っています。
お会いしたいです。会ってくれますか。
お元気で。体を大事にしてください。
生きてください、きっと。おいのりしています。
    1981年12月11日
丸山博文様
                    石井美津子

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1980年8月19日、新宿西口のバスターミナルで発車待ちをしていた京王帝都バスに、中年の男が火のついた新聞紙とガソリン様の液体が入ったバケツを続けざまに投げこんだため車内は一瞬のうちに猛火に包まれ、約30人の乗客のうち最後部にいた父子を含む三人が焼死。乗客ら二十人が重軽傷を負った。四人が重体。放火を目撃した通行人が現場から立ち去ろうとしていたこの男を取り押さえ、駆けつけた警察官に引き渡した。(1980年朝日新聞朝刊)
=====================================

被害者であるはずの女性が、何故加害者に対してこのような
まるで一緒に生きていきましょうとでもいわんばかりの手紙
を書いたのか?

---私は一度だって、あなたのことをうらんだりにくんだりしてきませんでした。

いったいそれは何故なのか。
新宿西口バス放火事件のことは、誰しも知っていると思う。
著者は、こう記す。
多数者の論理に、絶対と呼べる真実がどれほどにあるだろうか、と。

「弱者ではない多数の健常者によって構成されている社会。弱者ではない彼等が、少数の弱者をわれわれにとって無用だと排除していくとき、弱者は生存するためのよりどころを何に求めていけばよいのだろうか。排除されていくことの哀しさ、憤りを、どんな手段によって訴えることができるのだろうか。仕方のないことだと、それが世の現実だと、理解しようとしても、哀しさ憤りの感情までは拭うことはできまい。

こうして排除され、弱者故と理解させられて抑圧されていく弱者の心に、抑圧者に対するひがみ、ねたみの芽が吹き、それが抑圧者に対する憎悪の感情へと肥っていったとして、何の不思議があるだろう。そうした感情は知性や理性をもってしてもどうにもなりはしないだろう。

丸山博文の三十八年間の人生は、おそらく、弱者たる位置を一歩も出ていくことのできない、不遇な歳月であったろう。彼のその胸に、ひがみ、ねたみが自身で摑みとる間もなくふくらんでいくのを、彼にはどうする術もなかったのではあるまいか。」

どうしてそんなに冷静に分析などできるのかと疑問に思って
しまうほど著者は、自分の境遇と丸山(加害者)の境遇を照らし
あわせる。そしてたどりつく結論を忘れることができない。

「加害者であるあなたは実はずっと被害者であったのだ。
そしていま被害者である私は加害者であった。」

という認識(結論)である。

  「生きてみたい、もう一度 新宿バス放火事件」 杉原美津子(新風舎文庫)






杉原美津子さんをはじめてテレビで拝見したのは、驚きももの木20世紀という番組だった。
いま検索すると放映日は、1995年1月27日「新宿西口バス放火事件」である。
大学時代に最初、文春文庫で読んで以来、事件の被害者と加害者の関係について考える嚆矢になった貴重な一冊だった。

番組では、ゲストの秋野暢子がどうしてこんな思いになれるんだろう・・と最後まで首をひねっていたことを記憶している。

生きている間にふたたび杉原美津子さんをテレビで拝見する機会があるとは想像すらしていなかったので居住まいを正して視聴したい。




なんと動画がアップされていました。

ひさしぶりに更新します。

                



伝道 加川良 〈追悼〉

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                  伝 道
            

            作詞/曲 加川良

     悲しい時にゃ 悲しみなさい
     気にする事じゃ ありません 
     あなたの大事な 命に 
     かかわることも あるまいし

     そうです それが 運命でしょう
     気にすることじゃ ありません 
     生まれて 死ぬまで つきまとうのは
     悩みというものだけなのですよ





その昔、これは関西だけだったかもしれないが「西沢学園」のCMのバックにこの「伝道」が流れたことがあった。あまりの意外さに耳を目を疑ったものだ。加川良のファースト・アルバム(1971年)に収められた一曲が、20年の時を経て陽の目をみたような1ファンとしてはうれしいようなそれでいて一体なぜ?といったひと言では言い尽くせないようないろんな思いがないまぜになってしまったことをよく覚えている。



俳優の大杉漣が大の加川良びいきで、この「伝道」に感銘を受けたことを2002年2月28日朝日新聞にインタビュー記事が掲載されたことがあった。



アルタイムで影響をうけた世代なのであろう。説得力がある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  検査入院されていたとは・・

 

  さきほど知った。

 

  大事にいたりませぬように。

 

 

 

 

 

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歌手の加川良さん死去 70年代フォークブーム牽引

 

 

フォークシンガー加川良さん死去 69歳、白血病

 

 

フォークシンガー加川良さん死去 69歳、白血病

フォーク歌手の加川良さん(かがわ・りょう=本名小斎喜弘)が5日午前9時39分、急性骨髄性白血病のため、都内の病院で死去した。69歳だった。

所属事務所によると前日4日夜に容体が急変。妻富士子さんと長男のミュージシャン元希が見守る中、息を引き取った。葬儀・告別式は親族のみで行い、後日、追悼ライブを開く予定。喪主は長男元希(げんき)が務める。

昨年12月、山梨県の病院に入院し、予定していた公演の延期を発表。公式ホームページに「今しばらくの入院生活となりそうです」と自筆でつづっていた。闘病中も、昨年発売したアルバム「みらい」について「もっと世の中に広げてほしい。セールスをよろしく」と気に掛けていたという。

70年フォーク野外コンサート「中津川フォークジャンボリー」で披露した「教訓1」が評判を呼び、翌71年にデビュー。吉田拓郎(71)らとともに70年代のフォークブームをけん引し、日本フォーク界の先駆け的存在だった。松山千春(61)は小学生のころから加川の曲を口ずさみ、「オレの音楽のルーツ」と公言。カバーアルバムに加川の曲を収録するなど多くのミュージシャンに影響を与えてきた。

 

 

 

 

 

突然の訃報に接し、なんといってよいのか、言葉がみつからない。

 

ただただお礼を申し上げたい。

 

 

最後の最後まで現役にこだわって歌い続けた骨太のフォークシンガーにただただ感謝の気持でいっぱいだ。

 

よくぞ歌い続けてくださった。

 

 

その歌、見事な歌いっぷりにどれだけ心を揺さぶられ、その度、感動をあたえてくれた。

 

終演後、きさくにサインに応じてくれた。

 

 

それはライブハウスならではのことであったし、けっして時代に阿ねることもなく、マイペースを歩んだ。

 

その姿勢をよからぬ思いで感じた向きも一部にはあった

かも知れない。

 

 

しかし、マイペースを崩すことは、時代に流されることは一度もなかった。

 

 

その意味で加川良は信念を貫いたシンガーといえる。

 

それがいかに難しいことか、ご本人が痛切に抱いていたことは素人目にもよく感じられた。

 

 

しかし、その姿勢こそ彼の信念だったのだろう。

 

高田渡亡き後、その意思を継ぐ骨太のフォークシンガーがこの世を去った。

 

 

喪失感は今後、日増しに大きくなる一方だろう。

 

哀悼のことばを申し述べるにはあまりに時間が短すぎる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

終わった人

 

 

 内館牧子「終わった人」が話題になっていいる。

 

 まずタイトルがいい。

 

 思わず頬ずりしたくなる程だ。 小説は中味が重要なのはいうまでもない。

 

 そしてタイトルはそれ以上にものをいう、とひさしぶりに感じる。

 

 「終わった人」 。でもそう考える向きは少数なのかも知れない。

 

 ううーっと、顔を背けたくなりつつ無関心でもおれない。

 

 すこし身をひそめるように本書を手にとる方もいるように思える。

 

 

 「思い出とたたかっても勝てない」

 

 

 この対談のなかで洩れることば。 これまたううーっと、感じいってしまった。

 

 定年をむかえて、さぁ、これからやっと自分の時間がもてる、ヤレヤレ・・・ そうはいいながらも単純にそう割り切れるものでないひとが多いと著者はいう。

 

 

 やりたいことはやりたい時にやっておいたほうがいいみたい。

 

 

 著者が武蔵野美術大学をでたことも初めてしった。 しかし、自分の道を模索してゴルフまで始めたというのも面白い。

 

 「私は文章を書くスピードがとにかく早かった」

 

 結局それに落ちついた。

 

 コネで入社し、経済的には充足しながらもこれで終わってしまうのか・・ それはそれ。

 

 やはり才能のなせる業であろう。

 

 それにしても「終わった人」 よいな。よすぎる。

 

 素敵。

 

 

 

 

 あけましておめでとうございます。

 

 2017年もよろしくお願いします!

 

 

『内向の人間』秋山駿 / 福島泰樹

 

 

             内部の人間  秋山駿 

                                 福島泰樹 


  放火し続けてゆく精神のかなしけれ午後には霧となりて雪崩れる 

  昭和一桁世代の人々がばたばたと斃れてゆく。戦争の時代が青春(思春期)と重なった世代だ。男子の多くは徴兵(徴用)に逢い、志願兵として大空に散っていった少年も多くいた。 

    人間の条理不条理 
    吹き荒ぶ 
    風ありしかば 
    悲し弟
 

 時代に引き裂かれてゆく、人間内部の条理と不条理、出征する兄たちを見送った弟たちの世代を代表する評論家が、磯田光一であり秋山駿であった。(磯田さんは、凛とした青年将校風であったが、秋山さんは、どこか特攻隊崩れ風であった)。 

 

 秋山駿の文学的出自は中原中也であった。「敗戦時の少年」であった氏は、自身のこころの穴(内部の人間)を覗き込むように、中原の詩を探索。詩が立ち上がる、その実存の解明にいのちを注ぎ、四半世紀もの歳月をかけて、『知れざる炎 評伝中原中也』(河出書房新社)を完結させた。この驚異的思考の持続性こそが、路傍で拾った石ころを机上に、何年間もの孤独な対話を続けたという、伝説をもつ作家の真骨頂である。 
 

 「早稲田文学」の先輩として若き日に出会い、酒席の末席を汚した私に、この人と同じ演壇に立つ機会が訪れた。一九九八年十月、鎌倉文学館が「中原中也文学講演と朗読の夕べ」を主催し、秋山さんの講演の後、私は「中原中也絶叫コンサート」のステージに立ったのである。 
 

 鎌倉中央公民館ホールは満杯で、その最前列に秋山さんは座り、後に「刺激のある部隊芸術」と評してくれた。 


    生涯を 
    ひばりヶ丘団地の 
    低層の団地に住まう 
    「石の思想」」家
 

 社会的無用の真実性[内部の人間]の探索は、小松川女子学生殺人事件(一九五八年)の少年に至り、評論「想像する自由」が、三島由紀夫からの激賞を得(三十三歳)、文芸評論家の地歩を固める。この死刑に処せられた少年の内部へのこだわりは、連続射殺犯永山則夫の手記に連繋してゆく。 

 

 一九九六年刊行の『信長』(新潮社)がベストセラーに。生涯を、ひばりヶ丘(西東京市)の 団地に住まう市井の人として過ごした。二〇一三年十月二日死去。八十三歳だった。 
 

 私の中の私と語らう『鋪石の思想』(講談社文庫)の活字の道端に、べらんめい口調の秋山さんが寛いでいる。 


__________________________
   
  今年一月に刊行された「追憶の風景」福島泰樹(晶文社)より 

  まさに「追憶」のことばに充つ一冊。 

  秋山駿さんの人となりの一端を窺う貴重な貴重な一文。



 

 

 およそ秋山駿という批評家は、ほぼ埒外に置かれていたように思う。

 

 氏の出版物はことごとく手中にし、めずらしく読んだ。関心が湧くと作者の周囲を一周したくなる。二冊目くらいでどんと胸に響くとどんどん購入。今度は収集することがメインになる。このパターンが多い。よくある“とりあえず所有型”。それで気がすーとする。そして当然のように眠る・・それはそれで悪いことではないけれど。

 

 そうした関心先のなかで、秋山駿は見事にわが裡に入り込んでしまった。ごく簡単にいうと「内向の世代」の列の批評家である。彼は大学卒業後、社会人になることがどうにも出来ず、3年間?拾ってきた石ころを相手に自問自答の日々を送る。その間に「地下室の手記」と題した日記を一冊に収めている。

 

 埴谷雄高が跋を記している。

 

「秋山駿は、ひとりの人間が発する、また、一塊の石が発する《私とは何か》という一種単純にしてしかも底のない無限地獄へ敢えてはいりこんだのであるからすでに戻るすべなどまったくないけれども、私達の永劫の神託である文学の問いなるものがただただそれにはじまってしかもそれでおわる以上、彼の軀も彼の魂もその問いと答えのまっただなかでどうなりいったところでもはや致し方のないといわねばならない」

 

 この一文はあんまりじゃないか、と心ならずも考えて放置していた。そしてこのブログを書くためにもういちど読んだところ、そうではないことに気づいた。埴谷雄高は客体化を進めるなかで秋山駿をいったん突き放しているようにみえるが《文学の問いなるものがただただそれにはじまってしかもそれでおわる以上・・》という前提をおいている。つまりこうした一対一の身動きがとれない真剣な姿は、形こそ変え作家(批評家含め)の底に横たわっている、そういいたかったのではないか。その延長で秋山駿もそのひとつの見本だ、と評しているように考え直した。もちろん埴谷雄高自身もそうではないか。

 

 しかし、とまた思い直す。いやそうでもないか。 へたに勘ぐるとこちらが自縄自縛におちいってしまう。もうよそう。

 

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  ことしもあと一日になった。12月に入ってからリハビリのように過去に書いたものを転載した。そのために時間軸がむちゃくちゃになってしまった。昨日、今日あれ?いったいどうしたのか、少しちょちょまっただろうと思い、ここで紐解きました。

 

 

 今日、ひさしぶりに本屋をのぞくとなんと以下の「100分で名著 中原中也詩集」がおいてあり、迷わず購入。来年は早々に愉しみが待っています。よろしおます。

 

 

 

―――――ことし一年の感謝を込めて

 

 

 

 

  カメラを実家に持って帰るのを忘れ、なんともうすっぺらくなってしまった・・(残念)

 

 

秋山駿の「犯罪論」

              ノートを読んで 

                                  秋山 駿 

 この『無知の涙』の作者については、もう誰もが知っていよう、昭和四十三年に生じて社会の耳目を集めた、いわゆる「連続射殺事件」の主人公である。はっきり言えば、犯行者である。 


 私がこの犯行者の手記について解説しようと思ったのは他でもない、彼-犯行者が、犯罪(この言葉、私は嫌いだが)というものに、一つの新しい光を射し込ませたと思ったからである。彼の手記を読むと、私の眼のなかで、犯行というものに一つの新しい意味が生じた。 
 犯行ーーーそれは一個の人間の純粋な生の行為、としても考えられねばならぬものであった。 


 そういうときにはわれわれも、犯罪という言葉にまつわるあらゆる先入観を捨てて、犯行について「純粋に」視なければならぬ。そうでなければ、何も解らぬ。私は、彼-永山則夫の犯行について人と語り合うとき、多くの人に失望している。私の友にも失望している。ただ、犯罪=悪い事というような意味、いや意味とも呼べぬような安手な理解の裡に閉されていて、それ以上何も考えようとしないからである。考えて自分の一歩を踏み出そう、とはしない。こういうとき、私は自分の住んでいるこの国の人が嫌いになる。そして、考えるためには、まず凝視しなければならぬ。 


 彼-永山則夫の犯行は、いわば「動機なき、理由なき殺人」という犯行である。しかし、こんな言葉を見て、ああそうか、と簡単に分かった積りになっては困る。それでは、何も解らぬというのと同じだ。さあ、ここで一歩立ち停まってもらいたい。人のあらゆる生の行動には、なんらかの意味ですべて動機があり理由があるのだ、と。最高に支離滅裂な発狂者にあっても、彼に意識があるかぎり必ずその言動には動機と理由が在るのだ、と。 


 しかるに、いま私は、「動機なき、理由なき殺人(行為)」というものが在る、といった。これは言葉上のパラドックス(逆理)である。しかし、ここで私は惟うのだ、いや、これは単なる言葉上のパラドックスではない。生そのもののパラドックスなのだ、真にそれは存在する、よく視よ、このタイプの犯行がその存在を証明しているのだ、と。 
「動機なき、理由なき殺人」というのは、人間の奥深くにある生のパラドックスの、その露出なのだ。生の怖ろしさの源泉がそこにある。だからその中心部は、不可解であり、謎なのだ。人間的生存の奇怪さというものが、その中心を貫く。 


 ここでもう一歩立ち停まってもらいたい。ではなぜ、「動機なき、理由なき行為(殺人)」というものがあるのか? こういうところは、二二が四のように単純に考えていただきたい。明らかに、その行為の主人公-犯行者が、彼の生の上で生きるべき動機とか理由を、喪ってしまっているからなのだ。生きているのに、生きるべき動機と理由がない。これは、私には何もない、というのと同じことだ。何もないーーそこから、一つの犯行が生ずる。 
 いったいなぜ、生きる動機もない、理由もない、などということが生ずるのか。 
 いったいなぜ、その何もない処から、(その行為の主人公にとっても)未知にして奇異な、一つの名状しがたい犯行が生ずるのか。 


ーーーよろしいですか。どうか私の言うことを聴いていただきたい。この『無知の涙』というノートは、この二点の謎を、疑問を、みずから追及したものなのだ。私の言うことを信じていただきたい。 
「いったいなぜあんな犯行が生じたのだろう?」「あんなことをした主人公-犯行者とは、いったい何者だろう?」という疑問、不可解に、石壁に頭をぶつけるようにして問うているのが、当の犯行の主人公ー永山則夫自身なのである。 
 その犯行は、犯行者自身にも不思議だったからこそ、永山則夫は書き始めたのだ。 
 この『無知の涙』というノートは、そういう手記だ。なぜ自分がそこにいたのかへの、果てのない追求の手記である。これは、犯行者の告白ではない。まして自己弁護ではない。ぜんぜん違う。これは、謎の追求であり、追及のための自問自答の手記なのである。 
 こうした光景、日本の近代文学には、絶無とはいわぬがまことに稀薄なものだ。それゆえに貴重な手記だ。 


 実は私は、昭和三十三年に生じた「小松川女高生殺し事件」ーーーこれは「動機なき、理由なき殺人」の先駆であるがーーーの主人公、その十八歳少年の犯行について、ここに、いわば「自己発見の劇」があるのだと考え、批評文の形で書いたことがある(「想像する自由ーー内部の人間の犯罪」)。人が自分の内部に「私」という存在を発見する、その行為がそのまま犯行となってしまう、そういう犯罪があるものだ、と。 
 人間の自然とか普通というものは、「自分が、現にいま、ここで、こうしている」ということが、一つの流れか一本の糸のように、絶えず明らかに感覚されていなければならない。ところが、或る人は「ここで」という場を紛失している者がある。つまり、居場所のない人間がいる。或る人は「こうしている」を紛失している者がある。つまり、行為の動機や理由の見出せない者がある。そういうときその人には、「自分」というものが解らなくなる。つまり、「私」がないのだ、といってよろしい。自分のない人間が、ついに「私」のないことに耐え切れず、一挙に爆発するように「私」を発見することがある。ほとんど自殺するという行為に等しいものとして。 
 だから私は、自己発見としての犯行がある、とは思っていた。しかし、小松川女高生殺しの少年の例が一つだけでない、いささか心許なかった。


 いろいろ考えているうちに、やがて、永山則夫の犯行が生じた。私は、自分の考えが証明された、と思うと共に、その後永山氏の手記を読み、またいま、彼が自分の生の在り様を小説の形で追求し始めた『捨て子ごっこ』その他の作品を読むに至って、私の考えは拡大した。 
 ここでもう一歩立ち停まって、私の言うことに耳傾けて下さい。 
ーーーー創造的な行為としての、創造的な犯行というものがあるのだ、と。 

 どんなふうに私は永山則夫の事件と出会ったのか、それをちょっと記してみよう。これから犯行について凝視しようとする人の何か参考になるかもしれない。それだから、私はこれまで一度もしたことのないことだが、自分の文章を引用する。気障に見えるだろうが許してもらいたい。 


 連続射殺事件が生じたのは、前にも言ったように昭和四十三年の十月、十一月である。このとき私は何も注意しなかった。明けて四十四年の四月、犯行者が逮捕され、事件を報道する新聞記事で、その主人公が十九歳の少年であることを知り、彼の下宿に残されていた社会用語辞書の裏に、次のような言葉が書き記されていた、というのが、私の眼を撃った-ー「私は生きる、せめて二十歳のその日まで」 


 当時私は、初めての長編評論『歩行と貝殻』を、四十四年二月号から「早稲田文学」に連載していた。それは、「ーーー以下は私という単純な主格の行うとりとめのない人形劇に過ぎない」という傍題の下に、生に居場処のない人間、生の理由を見出し得ない人間、したがって「私」とはいったい何かと問う人間、このような人間の問題を追及しようとしたものであった。以降連続して書き、自分の主著にするはずの最初の作品であった。 


 ところが、第五章まで書いて、私は行き悩んでしまった。出口も見えず、一歩も先へ踏み出せない。大いに困惑しているところへ、先の永山氏の言葉が射し込んだ。そこで第六章「偽りのページ」の冒頭をこう展開した。その言葉を見出して1ケ月後のことだった。 
 「さあ、また行こう。長い回り道。 
  今日、私は、新しい自己を産み出してこう書く。『私ハ生キル。セメテ二十歳ノソノ日マデ』。しかし、私はもう三十数歳の中年男なのだから、ひょっとしたらこの言葉は、すでに二十年も昔のものかもしれない。二十年放り出したままのこのノートのページを開くと、それが今日突然開かれた新しい自分のページだ。その言葉は、ピストルの弾丸のように心臓の中から飛び出してきた。アイツ等ニハ砂利ヲ食ワセロ!」 
 行き悩んだ第五章の末尾はこうなっている。 
 「絶望に向って何一つ装備なき者の当惑がある。 
  そして、内部に閉じこめられた者の爆発がある。 
  そして、人間は美しくはないが、切断された脚は美しい、と感ずる心がある。 
  そして、いつまでも執拗に、アイツ等ニハ砂利ヲ食ワセロ、と叫ぶ者がいる」 
 次に、この『無知の涙』の初出というか、永山則夫の「獄中ノート」が、初めてわれわれの眼に触れるのは、その冒頭部分を掲載した文芸季刊誌「辺境」の第三号(昭和四十六・一)においてであるが、折から私は新聞三社連合の文芸時評をしていたので、その月の第一に推すべき作品としてこれを取り上げた。 


 「ここにあるのは、痩地にまかれた一粒の種子、というより今日の砂漠のよな都会の歩道に置かれた一塊の石ころに近い一人の人間の、その『私の記録』である。そしてこの記録が、単に哀れな男の個人的な物語という以上のものを持っているのは、そのことばが、われわれのだれもが共通して持っている『私』というもの、人間的生存の最小の単位であるような私という存在の、その深い問題に、かすかに、しかし確実に触れているからである。(中略) 
 いま、彼の手にピストルはなく、彼の足は厚い壁に止められている。彼は何をなすべきか。彼は残されたたった一つのもの、自分のことばのなかを猛烈に走り出した。 
 『私は殺人者である』という明瞭な自覚の声が、このノートの強力なバネであり、すべての出発点である。彼は、そこから出発して、無知な中学生から犯行者へと至る自分が、なぜ、いったい何の意味があるのかを問う。そして、この問いを指でたたきながら、自己深化の一筋の道程を記録している。・・・・」 

    (中略) 

 すでに十五年前、正宗白鳥は、今日を予見するような『小説の氾濫』という文章のなかで、自分が文学に求めるもは、『生まれたことの恐ろしさを感じさせる書物である』といっている。生のおそろしさを感じさせる言葉、われわれの心をトゲのように刺すことばが、現在では、文学より、むしろ犯行者の必死の声であろうとは、なんと奇妙なことだろう。   (昭和四十六年二月) 


 そんな文芸時評を書いたせいか、私は、永山則夫裁判支援の人々から、その獄中ノートのおそらく始まりの部分、『無知の涙』として活字化されたものよりもっと前の部分の、数葉のコピーをもらった。漢字の書き取りみたいなノートの中に、淋しいとか、孤独とか、彼の最初の声というか文章が出現してくる場面である。それを視て、私は衝撃を受けた。 


 そこで、昭和五十三年、構造主義の哲学者ミシェル・フーコーが来日し、哲学者の中村雄二郎が主宰してフーコーを囲んでの小さな円卓会議というか「ターブル・ロンド」を催したとき、日本の文学と犯罪について語れと要請されたので、私は、永山則夫のことをーー「日本の文学と犯罪、そして一人の犯行者について」というタイトルの下に語った。 


 以下の引用は、フーコーに、永山則夫の犯行の特徴について、その一、その二として説明している部分の末尾である。いきなり途中から千切っての引用になるので、分かりにくいとも思うが、これも許していただきたい。 
 「ーーーここで、場面転換をします。以下の簡単な要約は、彼が犯行後に拘置所に入ってから、告白するように明らかにした、この犯罪の特徴です。むろん、それは、先行の特徴に連続します。 
 したがって、その四--彼が刑務所に入って最初にしたことは、ノートに、それまで自分の知らなかった難しい単語を、書き取りすることでした。その一ページ毎に埋められた単語の書き取りの中から、やがて、小さな余白に、しだいに数行ずつ、『おれは淋しいのだ』というような、自分の犯行と生存の意味について反省する言葉が、しだいに文章の形式をなしてくる光景を見るのは、まことに異様な観物です。 
 この場面についての註釈ですが、最初それは、もっともセンチメンタルな流行歌の一節といった形であらわれ、やがて、それは稚拙な詩の形をしたものになります。 
 したがって、その五--かくの如く、彼が言葉を書き取りし、自分の心を述べるに足る文章の形式を習得することによってーー異常なスピードの知的努力によって、急速に達した、犯行についての意味づけは、『犯罪を犯してよかった』ということです。 
 したがって、その六--その理由は、彼自身の告白によって明らかです。『なぜならば』と彼は言います。『刑務所に入ったおかげで、自分は本を読むことができるようになり、知識を得ることができるようになり、知識を得ることができたからだ』と。 


 この場面についての註釈ですが、彼はまたこうも言っています。---犯行を行なう以前は、自分は人間的な存在ではなく、牛馬同然の生存をしていたのに過ぎない、と。犯罪を犯したことによって、自分は言葉を知り、考えるということを習い、つまり、一つの人間らしい存在へと達することができたのだ、と。 
 したがって、その七--考えるということを習い覚えたことによって、彼が、自分の犯罪について達した結論は次のようなものです。『この事件(犯行)は私が在っての事件だ。私がなければ事件は無い。事件が在るが故に私がある。私はなければならないのである。』あるいはまた、『この事件は一種の自殺法なのです』 
 ---これらの言葉は、謎のようなものです。われわれの常識的な理解を拒むところの、異質の考えの流れがあります。背後に、秘密の心(生の感覚)の流れのようなものがあって、それがわれわれの犯罪への安直な理解を、拒否しています。」(M・フーコーを囲んでの「ターブル・ロンド」昭和五十三・四・二十六) 


 実は私はその他にも「十九歳の死」(昭和四十五)、「犯罪の形而上学」(昭和五十一)、「犯罪の意味」(昭和六十二)などを中心に、かなりしばしば永山則夫の犯行について再考し、言及している。また私は、昭和四十五年から日大、早大、慶大、東京農工大で文学の授業をしているが、そのときには必ず、「犯罪と文学」というテーマを設け、犯罪あるいは犯行者を主題にしての創造的な作品が日本にはない、それが日本近代文学七不思議の一つである、といい、永山則夫の犯行について語ることにしている。『無知の涙』を読めといい、あなたがた昼間ぬくぬくと大学へ来ている者は(私も含めてだが)、はっきり背中を指差され、否定され、非難されているのだよ、ということにしている。 


 もっとも最近は、合わせて、永山氏の小説『捨て子ごっこ』も読めといっている。これは、妙な言い方になるが、永山則夫という作者名を知らなくてもいいような、一つの達成である。優れた作品である。私はこれを、八十年代文学を飾るベスト10のなかの一つに数えた。 

 ---以上は、永山則夫についての私の過去のイメージである。そのイメージは、新聞の報道、「辺境」の初出、単行本『無知の涙』に由っていた。 
 ---ところが、この新しく編集された『無知の涙』、獄中ノートをよく忠実に再現したものに接して、私のイメージは変わった。新しい永山則夫がいた。 


 詩人永山則夫の発見があった。これは大きなことだ。彼の言葉は、なにも犯行を凝視するどころからばかり流れ出てくるのではなかった。その前に、ちょっと人の目に触れることを羞らうような優しい感情があり、柔らかい心があったのだ。私は彼が、中学生時代にも詩を書いてみたのか否か、が気にかかる。もし書かなかったとすれば、彼は、自分の声、柔らかい自分の心を言う自分の言葉からも分け隔てられていたのであり、それこそが真の自己疎外である。 


 詩は心の音調を伝える。彼の詩は、のびのびしていて、素直で、気取りもなく、誇張もない。それは、彼が生まれて持った生の調子、内部に隠された生の網目といっていいものを明らかにする。 
 こういうことは、以前、旧版『無知の涙』を読んでいるときには解らなかった。なるほどそこにもかなり詩も掲載されていたのだが、意味や概念の勝った詩が多く、また途中の詩篇が抜けているために、なにか不連続、不平均で、自然な流れが感ぜられなかった。 
 そうなると、ノートの姿も変わった。私は、最近(平成二年三月)永山則夫が日本文藝家協会に入会しようとして拒否されたとき、いろんなところから永山氏について語ることを強いられ、私は思わず、「一粒の麦、地に落ちて死なずば」という聖書の言葉を引用した。 
 ところが、こんど新しい編集の『無知の涙』を見たとき、その言葉が、早くも「ノート2」のエピグラフとして使われているのが私の眼を射た。思わず私は呻いた。そして不敏にして愚かな自分の頭を叩いた。この言葉、実は単行本の旧版にも載っていたのだ。しかしそのとき私は軽視した。これに反して、今回はこの言葉が光った。なぜか?この引用の背後に、詩人永山則夫が立っていたからである。つまり、ノートの姿が変わった。 
 このノートは、犯行を起点・発条にして、自分の生の意味を追求しようとするものだ。 

   (中略) 

 こんなふうに、生の問題として考察すべきページは沢山ある。あり過ぎる。作家論にでもしなければ、十分の一のイメージも伝えられぬ。 
 最後に、永山則夫の柔らかい心を紹介しよう。 


    震えながら、冬の日を過ごして 煙りの溜息をはく 
    人生の意義について 今ならはっきり語れる 
    そのまえに もし 許されるものならば 
    最愛するものの側に 行きたい そこで眠りたい 

    四面蒼い海しかない 幼い冒険のあれ そうだろうか 
    どこかで見た モナリザの笑みを思わせたあの人か 
    美しいものを愛する なぜならば 私の魂は汚穢の見本 
    最愛するものの側に 行きたい そこで眠りたい 

    枯れ葉 散る 散って舞う 並木路の直ぐわきの 
    ブランコ ジャングル・ジム 好きだった砂場 想い出のある公園 
    私はベンチにすわり いちょうの葉のゆくえ目で追う 
    最愛するものの側に 行きたい そこに往(い)たい 

                          「最愛するものの側に」 



   ◆『無知の涙』永山則夫 河出文庫 解説より

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1997年8月1日、東京拘置所において永山の死刑が執行された。享年48。全国新聞はいずれも当日の夕刊の第一面で報道。 

生前、永山は知人に「刑が執行される時には全力で抵抗する」と述べていた。実際に処刑の際、永山が激しく抵抗したとする複数の証言がある。このため、永山の死体は拘置所内で即座に火葬されたと言われている。 

永山の死刑執行については、執行同年6月28日に逮捕された神戸連続児童殺傷事件の犯人が少年(当時14歳11ヶ月)であったことが、少なからず影響したとの見方も根強い。少年法による少年犯罪の加害者保護に対する世論の反発が高まる中、未成年で犯罪を起こし死刑囚となった永山を処刑する事で、その反発を和らげようとしたのではないか、とマスコミは取り上げた。 

永山の告別式は東京都文京区の林泉寺で行われ、喪主は東京高等裁判所における差戻審、差戻後上告審で弁護人を担当した遠藤誠弁護士が務めた。永山の遺言により、遺灰は故郷の海であるオホーツク海に、遠藤の手によって散布された。 

死後、弁護人たちにより「永山子ども基金」が創設された。これは著作の印税を国内と世界の貧しい子どもたちに寄付してほしいとの、永山の遺言によるもので、貧しさから犯罪を起こすことのないようにとの願いが込められている。 

 

 

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  『無知の涙』を読むと人間なら誰しも本を読んだり勉強したり 
   
  できる環境さえあれば、考えること、言葉を覚えること、 

  言葉で自分の気持ちを伝えられること、自分とは一体どういう 

  存在なのかといった問題にまで考えを進めることができること 

  を教えられる。 

  「犯罪を犯してよかった。なぜならば・・・」のくだりは 

  極貧の環境で育った者にしか口に出来ない言葉である。 

  もちろん犯罪を犯していいといっているのでない。 

  こんな人間がいたということ。

 

  『無知の涙』は、ぬくぬくと育った我々への告発の書でもある。

 

 

  新藤兼人監督により映画化もされいてる。『裸の19歳』(1970年)


 

【ぼやき漫才】人生幸朗×生恵幸子

 

 

年末ともなるとふと昔のことが思いだされたりする。

 

いまは亡き「人生幸朗・生恵幸子」のぼやき漫才、面白かった。

 

人生幸朗さん、これこそ今、再見したい。

 

笑いの題材(質)は、時代を反映しますわな。

 

 

 

今年を振り返るブログを考えながら・・・

 

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年末恒例の2番組、楽しみです。

 

TBS系「クリスマスの約束 2016
2016年12月23日(金・祝)24:35~26:35

 

 

<出演者>
小田和正
ゲスト:宇多田ヒカル / JUJU / スキマスイッチ / 根本要(STARDUST REVUE) / 松たか子 / 水野良樹(いきものがかり) / 和田唱(TRICERATOPS)
バンドメンバー:木村万作(Dr, Per) / 栗尾直樹(Key) / 稲葉政裕(G) / 有賀啓雄(B)
ストリングス:金原千恵子(1st Violin) / 吉田翔平(2nd Violin) / 徳高真奈美(Viola) / 堀沢直己(Chelo)
ホーン:小林太(Tp)

 

12月16日にはこの番組の公開収録が東京・赤坂BLITZで行われ、小田のほか宇多田ヒカル、JUJU、スキマスイッチ、根本要(STARDUST REVUE)、松たか子、水野良樹(いきものがかり)、和田唱(TRICERATOPS)というそうそうたるメンバーが登場。4万通を超える応募の中から選ばれた500名の観覧客が、豪華なコラボレーションの数々を楽しんだ。

 

収録の冒頭、1人でステージに登場した小田は「とにかく楽しく。『(テレビに)映ったときどうしよう』とかそういうことはあまり考えないで(笑)」と観客に呼びかけ、場内の空気を和ませてからSMAPの「夜空ノムコウ」をグランドピアノの弾き語りで披露する。彼の温かさと力強さを兼ね備えたパフォーマンスに、場内からは大きな拍手が沸いた。続いて小田は和田唱と「My Love」をはじめとしたポール・マッカートニーの名曲メドレーを演奏。「去年、2人の演奏をもっと聴きたいという声をいただきました」と小田が語ると、和田は「ほんとうれしいです」と、1年ぶりの共演を大いに喜んでいた。

 

その後「18年前、鮮烈なデビューを飾ると同時にスーパースターになりました」という小田の紹介のあと、宇多田ヒカルがステージに現れると観客からは大きな驚きの声が上がる。動揺が収まらない客席の様子に、小田は「(コラボのときに)半分くらいは僕のほうを観てくれるんだけど、今日は全く観てくれない(笑)」と苦笑い。2001年の「クリスマスの約束」初回放送時に小田からのオファーを受けながらも出演が叶わなかった宇多田は「大変長いことお待たせしました」と挨拶し、2人で「Automatic」などの名曲を披露していった。

 

続いて登場した「小委員会バンド」は、2009年の放送で結成された小田和正、スキマスイッチ、根本要、水野良樹によるユニット。彼らは今年のそれぞれの活動を振り返るトークを挟みつつ、大瀧詠一の「君は天然色」などを演奏する。この曲は昨年の放送時に披露する予定だったものの、原曲がユニゾンのみで構成されているため小田が「楯突くわけにはいかない」と考えて一度は断念したとのこと。しかし「あえて挑戦してみよう」という意図のもと、全員の息の合ったハーモニーを交えたアレンジで披露され、観客は大きな拍手で彼らを讃えた。

 

 

その後は松たか子、JUJUが小田と和田の演奏をバックに華麗な歌声を届け、オーディエンスを魅了する。最後を飾ったのはボブ・ディランの「The Times They Are a-Changin’」。この曲について小田は「今年の『クリスマスの約束』をやるにあたって、この曲を最初に選びました」と紹介。出演者全員によるパワフルなパフォーマンスで、2016年の「クリスマスの約束」の収録を締めくくった。

 

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 12月24日(土) 25:45~27:45 放送

明石家サンタの史上最大のクリスマスプレゼントショー2016【不幸話で大爆笑!】

 


聖夜の不幸話に合格の鐘が鳴る!まだ間に合います!豪華賞品が当たる、不幸話電話を大募集!今年も大型ゲストが参戦!?何が起こるかわからない2時間生放送!

番組紹介
今年も、明石家さんま&八木亜希子司会でおなじみの『明石家サンタ』を生放送でお送りします。
そして、この聖なる夜をさみしく幸薄く過ごしていらっしゃる方の「不幸せ告白生電話に明石家サンタが優しく耳を傾けてくれます。
芸能人から、告白電話が突如かかってくることも…!?
皆様に「愛」と「安らぎ」と「暖かな夜」を、笑いの包装紙に包んでお届けいたします!

出演者
【出演者】
明石家さんま
八木亜希子

ほか

 

寂しい気持を払拭すべく、それでも笑える最強番組。

今年はどの有名人から電話がかかってくるのか!

みどころ満載。

 

 

川上未映子の「私はゴッホにゆうたりたい」

 

私はゴッホにゆうたりたい

春が煙っておる。なんか立ち込めている。
何でもないよな一面をさあっと塗ったようなこんな空も、
ゴッホには、
うろこみたいに、飛び出して、
それは憂う活力を持ち、美しく、強く、見えておったんやろうか。

春がこんこんと煙る中
私は、
ゴッホにゆうたりたい。
めっちゃゆうたりたい。

今はな、あんたの絵をな、観にな、
世界中から人がいっぱい集まってな、ほんですんごいでっかいとこで
展覧会してな、みんながええええゆうてな、ほんでな、どっかの金持ちはな、
あんたの絵が欲しいってゆうて何十億円も出して、みんなで競ってな、なんかそんなことになってんねんで、

(中略)

今はみんながあんたの絵を好きで、世界中からあんたが生きてた家にまで行って、
あんたを求めてるねんで、
もうあんたはおらんけど、今頃になって、みんながあんたを、
今頃になって、な、それでも、あんたの絵を、知ってんねんで。知ってるねんで。

あんたは自分の仕事をして、やりとおして、ほいで死んでいったなあ、
私は誰よりも、あんたが可哀相で、可哀相で、それで世界中の誰も適わんと思うわ
あんたのこと思ったらな、
こんな全然関係ないこんなとこに今生きてる私の気持ちがな、
揺れて揺れて涙でて、ほんでそんな人がおったこと、絵を観れたこと、
わたしはあんたに、もうしゃあないけど、
やっぱりありがとうっていいたいわ

だからあんたの絵は、ずっと残っていくで、すごいことやな、すごいなあ、よかったなあ、そやから自分は何も残せんかったとか、そんな風には、そんな風には思わんといてな、どんな気持ちで死んでいったか考えたら、私までほんまに苦しい。
でも今はみんなあんたの絵をすきやよ。

私はどうにかして、これを、それを、
あんたにな、めっちゃ笑ってな、
ゆうたりたいねん。
ゆうたりたいねん。


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どんな気持ちで死んでいったか考えたら、私までほんまに苦しい。
>でも今はみんなあんたの絵をすきやよ。
>私はどうにかして、これを、それを、
>あんたにな、めっちゃ笑ってな、
>ゆうたりたいねん

この戯れとも韜晦とも考えてしまう大阪弁の持つ親密感。傍若無人の文体が逆に川上未映子の真骨頂であることはいうまでもない。
まあでもゴッホをここまで身近な存在に引き寄せられるのは氏しかおらんだろう。
見事な才能だなあ。いささかあきれはするけども。

 

 

 

村の女は眠れない

 

       村の女は眠れない 
     
                 草野比佐男 

   女は腰を夫に預けて眠る 
   女は乳房を夫に預けて眠る 
   女は腰を夫にだかせて眠る 
   女は夫がそばにいることで安心して眠る 

   夫に腰をとられないと女は眠れない 
   夫に乳房をゆだねないと女は眠れない 
   夫に腰をもまれないと女は眠れない 
   夫のぬくもりにつつまれないと女は眠れない 

   村の女は眠れない 
   どんなに腕をのばしても夫に届かない 
   どんなに乳房が熱くみのっても夫に示かせない 
   どんなに腰を悶えさせても夫は応じない 
   夫が遠い飯場にいる女は眠れない 

   村の女は眠れない 
   眠れない夜ごとの夫への思いはつきない 
   沼のほとりの乾草小屋への記憶が遡って眠れない 
   あぐらの中に抱いて髪につく草くずを拾ってくれたぶきようで優しい指はここにはない 
   村の女は眠れない ひとりの夜は寒い 

   村の女は眠れない 
   納戸を内側から錠をおろしても眠れない 
   だれの侵入を防ぐのでもない 
   熟れきったからだが戸を蹴破ってふぶきの外にとびだすのをおそれて眠れない 
   眠れない女を眠らす方法は一つしかない 
   ぴったりとからだを押しつけて腕を乳房を腰を愛して安心させてやるほかはない 
   そうしないかぎり女は眠れない 
   村の女は眠れない 

   村の夫たちよ 帰ってこい 
   それぞれの飯場を棄ててまっしぐらに眠れない女を眠らすために帰ってこい 
   横柄な現場のボスに洟ひっかけて出稼ぎはよしたと宣言してこい 
   男にとって大切なのは稼いで金を送ることではない 

   女の夫たちよ 帰ってこい 
   一人のこらず帰ってこい 
   女が眠れない理由のみなもとを考えるために帰ってこい 
   女が眠れない高度経済成長の構造を知るために帰ってこい 

   帰ってこい 自分も眠るために帰ってこい 
   税金の督促状や農機具の領収書で目貼りした納戸で腹をすかしながら眠るために帰ってこい 
   胃の腑に怒りを装填するために帰ってこい 
   装填した怒りに眠れない女の火を移して気にくわない一切を吹っとばすために帰ってこい 
   女といっしょに満腹して眠れる日をとりもどすために帰ってこい 
   たたかうために帰ってこい 

   帰ってこい 帰ってこい 
   村の女は眠れない 
   夫が遠い飯場にいる女は眠れない 
   女が眠れない時代は許せない 
   許せない時代を許す心情の頽廃はいっそう許せない 


                 「村の女は眠れない」より 



    

 


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   私も眠れない。

 

洋楽のことなど

 

  いうまでもなくタイトルとは裏腹に洋楽に関してはまるでうとい。

 誰でも知っているビートルズ、サイモン&ガーファンクルなどはさすがにかじったけれどもいまだにその域をこえない。

 いろんな理由が考えられるけれど当然のことには聴いて何を歌っているのかが理解できないということが一番。

 音楽にかぎらず映画についてもいわば観てきたものは和物である。

 中学生ころになると次公開の洋画などについて興じる連中が目立ったが決まって観るのは「男はつらいよ」。

 外国に惹かれるのもわからないではないがどうもこちらはすんなり国境をこえられなかった半端者である。

 以前、バンコクに行った際、露店でCDを買った。「The Very Best of MTV Unplugged」だった。

 ロックのぎゃんぎゃんした音がどうも苦手だったのでアコースティックな作りのオムニバスアルバムはそれから長いことよく聴くことになる。




1. Eric Clapton - Tears In Heaven
2. Alanis Morrisette - Ironic
3. REM - Losing My Religion 
4. Sheryl Crow - Strong Enough
5. Lenny Kravitz - Are You Gonna Go My Way
6. Page & Plant - Gallows Pole
7. Bryan Adams - Summer Of '69
8. Paul Simon - Mrs. Robinson
9. Annie Lennox - Here Comes The Rain Again
10. Paul McCartney - Every Night
11. Rod Stewart - Tonight's The Night
12. Cranberries - Linger
13. kd lang - Constant Craving
14. The Corrs - What Can I Do
15. Seal - Kiss From A Rose
16. Live - Lightning Crashes 
17. Noel Gallagher - Don't Look Back In Anger 
18. Sting - Walking On The Moon



 そういう縁のあるCDながらどういう歌手が歌っているのかさえほとんど気にせず聴いていたので少し気になって動画を検索してみるとほとんどがアップされていて驚いた。

 CDで聴くのと違って視覚に訴えるものは記憶に残りやすい。

 ほとんど記念のつもりでいくつか載せておきます。

 

 

 なんと!アルバム全部のものもあり。

 

 

 

 しかし、やはり何を歌っているかはよくわからない。

 ただ、コアーズというのが女性バンドだというのが分かった。(当然だ・・)

 

 といいながらこのCDは後に自分にとっては最大の功労者となる。

  洋楽の素晴しさを知るきっかけになる切っ掛けとなったのである。

 

 ----縁とはこういうものかとひしと感じることになる。

 

 後から覚えたものは、早くから知った者よりしつこくなることもある。


 

 

 

 The clash まで聴くようになった。

 

 えっ、ただ根がいやらしいだけって?

 

 

 

ラララ・・

 

 

             ラララ

               作詞/曲 桜井和寿

    ちっぽけな縁起かついで 右足から家を出る
    電車はいつもの街へ 疲れた身体を運ぶ

    昨日と違う世界 あったっていいのに
    僕も欲しいのに

    簡単そうに見えてややこしく
    困難そうに思えてたやすい
    そんな La La La そんな La La La
    探してる 探してる

    〝葡萄酒が体にいいぞ〟と並ぶ週刊誌の見出し
    長生きはしたくもないけど なにげに酒屋を覗く

    いろんな情報が行き交う
    要りもしないのに 手を出してみたり

    参考書よりも正しく
    マンガ本よりも楽しい
    そんな La La La そんな La La La
    探してる 探してる

    ニュースは連日のように 崖っぷちの時代を写す
    悲しみ 怒り 憎しみ 無造作に切り替えて行く

    明日を生きる子供に 何をあたえりゃいい?
    僕に出来るだろうか?

    太陽系より果てしなく
    コンビニより身近な
    そんな La La La そんな La La La
    探してる 探してる

    無くてはならぬものなど あんまり見当たらないけど
    愛する人も同じように 今日も元気で暮らしてる

    一人じゃない喜び
    なにはなくとも それで良しとしようか

    簡単そうに見えてややこしく
    困難そうに思えて容易い
    そんな La La La そんな La La La
    探してる 探してる

_________________   

 

 大阪泣いてどうなるのか・・・

 昼頃起きだし、やにわに飛び出した。

 ひさしぶりに歩きまわったので汗をかきづめにかいた。

 南海電車でなんばまで出てとりあえず心斎橋方面をぶらつく。



 なんばにくると必ず寄る天地書房。

 店舗は比較的小さいけれど良心的な値段で文芸関連が充実している。

 秋山清詩集 2,000円

 日夏耿之介詩集(現代詩文庫) 350円

 購入。日夏耿之介詩集はむかし古本屋で買ったのがあるが、絶版で状態がよかったので二度買い。





 グリコの看板はどうしても写さずにいられない。

 道頓堀。



 いよいよ心斎橋筋にむかう。

 演芸物中心の中尾書店。

 とくになし。

   途中で巨大なブックオフ心斎橋店で撃沈。

 もう本の背中ばかりみさだめてばかりで眼がしょぼくれている。

 せんばまでたどりつき、そうだせんばにまだあったと思い直す。



 思い違いか、堺筋本町まで地下をあるいてみつけた。

 天牛堺書店せんば店。

 ここも新刊と古本の両方扱う中途半端なスタイル。

 新刊書が半額で売っているコーナーがあり、最近徹子の部屋で祖父が白州次郎、小林秀雄なる人物がでていてあぜんとしていた白州信哉氏の新刊があったので購入。茂木健一郎との対談がメインのようだ。

 夕方から雨が降ってきた。

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