生きる姿勢について
生きる姿勢について
2009.02.26
生きる姿勢について(講演会より)
山田太一
NHKでしばらく前でしたけれども、ドキュメンタリーでボスニア・ヘルツェコビアのサラエボで映画を作った人がいて、「思春期」という映画ですけれども、それが何年か前、三年くらい前ですか・・今その子供達がどういうふうにしてるんだろうっていうのをインタビューして歩くというとてもいい番組でした。そこでヒロインを演っていた女の子が三年くらいの間にじつにいろんなことがあったという話をして、昔は何をみても可笑しくて笑い皺がとっても気になったけどもう今はそんな心配はなくなったっていうお洒落な言い方だけれどもものすごくいろんな思いをしたって言ってるのが印象的だったんですけれども・・・アメリカの言葉で僕は最近知ったんですけど、どのくらいポピュラーな言葉かどうか全然判りませんけれども「子供時代が仕合わせだったやつを信用するな」という言葉があるんだそうですね。そうすればそのサラエボにいる女の子なんていうのは信用される人物になるだろうなというふうに思いますけれども、一方では、そんなこといったら日本のね子供の大半は信用できない大人になるんじゃないかと思って、なんかちょっと寒いような気もしますけれども、それはなにも子供だけじゃなくて戦後の日本を生きてきた私なんかもかなり甘いところがありまして、ある時「アンネの日記」の話を雑談でしてましてね、それでアンネの家族を匿った人達ですね、ああいう人達、ヨーロッパとかアメリカには居ますよね。日本なんかだと割合いませんよね。まあそういう状態があんまり無いということもあるでしょうけども、やっぱりああいうふうに匿えるっていうことは、それはナチスに見つかれば自分も強制的に強制収容所送りになるという危険を冒してですね、アンネの一家をアムステルダムで匿った人達、――そういう人達には僕はとても敵わないっていうことを言ったんですね。そしたらある雑談してた高名な作家の方ですけども、「いやそれは必ずしもヒューマニズムだけでしたんではないんじゃないか」っていうんですね。つまり、アムステルダムっていう場所では経済的にユダヤ人勢力が非常に大きかったっていうんですね。そして、アンネのお父さんもかなりそういう形での関係をオランダ人たちと持っていた。そうするとナチスっていうのは外側から来た軍隊ですよね、それで一過性で通過してしまうかも知れない、一年か二年の間に。事実そうなったんですけれども。そうしたときにユアヤ人の人達が戻って来たら助けなかった自分達は経済のチャンスを失うかもしれないっていう打算があったかも知れない。かもですよ。かもしれない。それからお金をかなり多額に払っていたということもあったかも知れない。ですから決してヒューマニズムからだけというのではなく(もちろんヒューマニズムもあっただろうけれど)ヒューマニズムだけの話ではなかったんじゃないだろうかっていう風に言われたんです。それで、「なるほどな」と思ったんですね。どうも僕はすぐに浅はかに感心してしまうんで反省したんですけど。
それから少したって、またこれは偶然なんですけれどもベテルハイムという人の「生き残る」という本があるんですけど、それを読んでましたら「アンネの日記」のことが書いてあるんですね。それにはどう書いてあったかといいますと、アンネのお父さんという人は隠れ家に入っても平常心を失うまいとしてね、つまりアンネにも本を読めっていうようなことを言い、自分も歴史の本を読むとかですね、そういうことで平常心を失わないようにして隠れ家に居る前と同じようにしよう、しようとしていたっていうようにベテルハイムが言っているんですね。・・そりゃとんでもない間違いだって言ってるんですね。つまり、生き残ることがテーマであったら間違いだって言ってるわけですね。生き残る場合には、当時のアムステルダムのユダヤ人というのは大体家族一緒には居なかったって。つまり家族が分散してどっかの家に匿ってもらう方が、一人なら匿い易いですよね、でそれを家族で匿ってもらっているっていうことが大体生き残るチャンスをかなり失っているんだっていうんですね。それでさらにアンネの隠れ家・・僕も行ったことがあるんですけれども出入り口が一つしかないんですね。こう本棚みたいな処――いらっしゃった方もおいでになるかもしれませんが、どかすと中に入れるんですね。で、あの頃つまり匿われていた人達っていうのはですね、みんな入り口を二つ確保していたっていうんですね。それで片方から来た時にはお父さんか何かがそこでなんだかんだ言いながら少しでも時間を稼いで、その間に他の人は別の口から逃げる、という風に多くの人は考えていたっていうんですね。しかし、アンネのお父さんはそんな手段を講じなくて平常心を失わないようにっていうようなことをしていた。あれはリアリズムから言えば非常に間違いである。ってことを言ってるんですね。
これもある種徹底した生き残るっていう考え、厳しいといえば厳しい考え方で、日本人だったらやっぱり平常心の方が人気があるんじゃないかという風に思いますけれども。まあそういう徹底した生き残る生存の恐怖の中でなんとか生き残ろうとするっていうリアリズムみたいなものは私たちの社会にはこの50年ばかりほんとに幸福なことにですけれども体験しないで済んでる人が多いわけですよね。もちろん個々にはね、そういう眼に遭っている方もいらっしゃると思いますけれども社会全体の一つの質のようなものとして考えるとそんな危険なものに遭ってない人の方が多い、私もそうですけれど。
まあそういうふうなことは例えば細川首相のような器量のある方でも夜中に急に国民福祉税にしますなんて、7%にしますなんて口走りますよね。つまり、根回しも何もなしに急に消費税はやめました、福祉税にして7%、というのはかなり無茶苦茶な言い方だという風に思います。だから反撥喰らうことは普通の人だったら想像がつくと思うんですけど、恐らくあれだって細川さんが一人で決めたことじゃないわけでしょう、きっと何かお知恵を拝借する会みたいなきっとあるだろうし、それからさらに官僚の方もいらっしゃって、そしてみんなで会議をして決めたわけでしょ、その時にみんなあれは反撥されるって感じなかったっていうことですね。それからごみの袋を名前書けっていうのでもですね、急に言いましたよね、非常に高圧的に言いましたよね、で、もう直ぐ実行するって・・あんなこと言われたら誰だってムッとしますよね。で、結局みんなにムッとされてあわてて撤回したり、延期したりしましたですね。あれだって大変な数の人が会議をしてると思うんですよ。会議をした挙句なのに誰も「そんなことしたらちょっと文句言われるんじゃない?」っていうことを言う人がいなかった。まあいたけど無視されたのかも判りませんが・・
素朴な想像力さえあれば、これはちょっとまずいんじゃない?っていうのがね、無視される。それは南京大虐殺のことでも度々ありますけど。法務大臣が言ったりして、あれだってもう中国が文句いうだろうってことはまず想像がつくだろうって思うけれども言ってしまう。それからブレンド米のことも
こういうちょっと考えれば想像すれば想像がつくことを想像つかないわけですね。しかもそれを考えなんじゃない、会議してるわけでしょ、それでもそこに思いが至らないっていうことはなんかすごく世間知らずになってしまった、人間知らずになってしまったという処が、少なくとも政治家、官僚にあるということだとそれ以外の人はそうじゃないとはいいにくいところがあって私を含めて日本人にはそういう他人の内部といものが非常に見えにくくなっているっていうことがあるんではないかという風に思うんですね。
それで他人の内部が見えないところで現実をどうするとかいろんな議論をしたりしますとね、どういうことが起こるかっていうと、つまり、人間普通そうだったら出来ないというようなことが出来るかのように言われることが増えてくるわけです。それは具体的にいわないと判らないですけれども、フランスの18世紀の貴族社会のことをJ.J.ルソーが言っているんですけれども、ほとんど18世紀フランスの貴族社会では本音を誰も言わなくなってしまった、いえなくなってしまった、ということを言ってるんですね。それはどういうことかといいますと、例えばお芝居を観に行きますね、それで女性の方が観ていらっしゃる、そうすると芝居の中でちょっと踏み込んだわいせつなことを言ったとしますね、そうすると女の人は一斉に「おおっ」と言ったり、激しい言葉だったりすると気を失ったりとかね、そういう反応しないとはしたないというふうにされてしまったっていうんですね。で、実際には不倫したりなんかしてるわけですよ。してるんだけれども言葉の上とか社交の上ではわいせつなことなんか口にしたこともない、聞いたこともないっていう振りをしていなければならない。だから芝居の中でそういう言葉が出て来たのに平然と観てるとなんてはしたない人って言われてしまう。これは物凄く大変ですけれど(笑)で、ルソーと後に仲たがいしたディドロという哲学者がいますけれども、ディドロがそんなこというけどつまりルソーみたいな人がセンチメンタルに正義だとか平等だとか言うから、そういう言葉は反論しにくいっていうんですね。綺麗な言葉は。反論しにくいからみんなでなんとなく正義じゃなくていいとは言いにくいし、結局言葉だけがどんどん成長してしまって圧迫になっているっていうんですね。まあ、そういうふうにディドロが言ったくらいだからルソーと仲たがいしてしまったのでしょうけれども。日本の社会もそのフランスの貴族社会と似てきている部分があるんじゃないかと思うんですね。
ねじめ正一さん
長らく疑問に思っていたことに、現代詩文庫の「ねじめ正一詩集」の絶版がある。現代詩文庫は学生の頃古本街で状態のよさそうなもので値ごろ感のあるものは大概とりあえず(あくまでもとりあえず・・)買っておいたのでねじめ正一詩集は持ってるだろうと思い込んでいた。しかし、うかつにも買ってなかった。いや手にして読んだことはある。もしかしたら買ったものの紛失もしくは売ってしまったのかも知れない。
詩のボクシングで谷川俊太郎と即興詩をリングの上で熱くふりしぼるように朗読(まくしたてる)する姿を見たり、「荒地の恋」が出版されるにつけ、ねじめ正一の詩を読もうか・・という気分は日増しに昂まっていくばかり。
しかし、肝心のお手頃な現代詩文庫(思潮社)のねじめ正一詩集を注文しようとしたらなんと絶版になっているのだ。
どうしてだろう?押しも押されもしない現代詩?の一人者であろう詩人の詩集が流通していないとはなにか込み入った事情でもあるのか??まるで狐につままれたような気持ちを抱いていた。
そんな腑に落ちない日日を送っていた矢先、ネットで検索するとお手頃の値段で販売している古書店をみつけ早速注文したのが昨日届いた。
届いた詩集を手にしてようやく再会を果したような懐かしいような晴れがましい気分であった。
案の定、裏表紙に谷川俊太郎のねじめ評。そして寄稿者の顔ぶれは、柄谷行人、鈴木志郎康、そしてなんとも懐かしいコピーライターの川崎徹の文章(というか詩)が並んでいる。
まるでお祭りのような贅沢な詩集だ。
気に入った詩をひとつ。
いっぱいいもうと
かあさん いもうとこしらえてよっていっても
かあさん わらってばかりでぜんぜんあーちゃんにい
もうとこしらえてくれないから
あーちゃん じぶんでさがしてくるって
こうえんにいったら
いっぱいがやがや ちいちゃいこがあそんでいて
ゆきちゃんのいもうとのまいこちゃんもあそんでいたので
あーちゃん ゆきちゃんのいもうとのまいちゃんに
あーちゃんのいもうとになってよっていったら
まいちゃん ゆきちゃんのいもうとやってるけど
ちょっとならあーちゃんのいもうと
やってくれるというので
あーちゃん
できたてのいもうとのまいちゃんと
おねえさんごっごをやっていると
まいちゃんのともだちが
あたしもいもうとになったげる
あたしもいもうとになったげる
あたしもあたしもあたしも
できたてのいもうとがどんどんいっぱいになったので
あーちゃん どんどんうれしくなってきて
どんどんおねえさんきぶんになってきて
さあみんなおやつのじかんよ
おうちにかえりましょっていったら
できたてのいもうとたちが
あーちゃんのうしろにぞろぞろついてきて
あーちゃんえへんぷりぷりおねえさんきぶんで
あーちゃんのおうちにかえってくる。
いっぱいいもうとのおねえさんきぶんで
あーちゃん
おやつあげてねってかあさんにいったら
おやつたりないからかあさんちょっとおせんべかってく
るわねって
かあさん おさいふもっておせんべかいにいっちゃった
ので
おやつがくるまで いっぱいがやがやいっぱいいもうと
とあそんでいると
できたてのおねえさんあーちゃん
どんどん
ほんものおねえさんのできたてきぶんになってきて
こうえんのうらのさかなやさんちのできたてのいもうと
に
おにいちゃんのファミコンかしたげて
みちですれちがったことのあるおかっぱできたていもう
とに
ノートかしたげて
ゆきちゃんのいもうとのまいちゃんのできたていもうと
に
ピアノかしたげて
はなみずぐしゅぐしゅのできたていもうとにぞうさんの
ハンカチかしたげて
おみずちょうだいのできたていもうとにあられちゃんの
コップかしたげて
はじめてみたほやほやできたていもうとに
かってもらったばっかりのぬいぐるみかしたげて
かしたげるものがだんだんなくなってきても
あとからあとからあたらしいできたていもうとがげんか
んはいってきて
どんどんどんどん いもうとがいっぱいになってき
て
おへやがどんどんなくなってきて
できたてのおねえさんあーちゃん すこしずつどんどん
こまってきて
かあさんまだかえらないかなっておもっていると
さかなやさんちのいもうとが
ファミコンひっくりかえして
みちですれちがったことのあるいもうとが
ノートばらばらにして
ほやほやのいもうとが
ぬいぐるみをぺしゃぺしゃふんづけて
まいちゃんのいもうとが
ピアノのけんばんげんこでたたいて
はなみずいもうとが
ハンカチのひきだしぬいちゃって
おみずちょうだいのいもうとが
だいどこのすいどうじゃあじゃあやっているので
あーちゃん だめだめ
できたてのいっぱいいもうとが
おしいれからおふとんひっぱりだして
しょうじやぶって
おふろばのドアはずして
ピアノにのっかって
おこたにもぐっておしっこして
げたばこのくつほおりだして
ぶつだんひっくりかえして
かいだんすべりおりて
あーちゃんだめだめ
あーちゃんだめだめ
あーちゃんだめだめいっても
テレビのうえにのっかって
おにいちゃんのバットでガラスをわって
じてんしゃでおへやのなかはしって
かべがめりめりおっこちてきて
あーちゃんだめだめ
あーちゃんだめだめ
あーちゃんだめだめ
あーちゃんだめだめいっても
できたてのいっぱいがやがやいもうとが
どんどんめりめりあーちゃんだめだめ
どんどんがらがらあーちゃんだめだめ
どんどんばりばりあーちゃんだめだめっていっても
できたていもうとおへやにいっぱいめりめりふくれてき
て
おうちができたていもうとでばりばりはれつしそうにな
ってきたところに
おかあさんおせんべいっぱいかかえてかえってかえってくれたので
あーちゃん めちゃめちゃおへやから おおいそぎでに
げてくできたていっぱいいもうとにほっとしながら
もういもうとはいらないといって
かあさんにとびつく
「ひらがな詩集」
折角なので、ねじめさんご本人のエッセイを引く。
カーブを回る快感
行分けの詩を書かなくなってもう随分になる。現在の私の詩は、一ページにつめ込めるだけ詰め込んだビシビシの散文詩だが、それでも一篇書くたびに、もっともっとコトバを詰め込みたいという思いが残る。つめ込めるだけつめ込んで、ギリギリのところでカーブを回る快感を覚えてしまった私にとって、余白や行間に語りを託していく行分け詩のやり方は、どうもまだるっこしい。余白や行間に語らせることは、「芸」かもしれないが、そういう芸を演じることより、やはり私はコトバをつめ込めるだけつめ込んでこれ以上支えきれないというところでカーブを回る文体の持久力を高めていきたいのである。具体的にいうと私の散文詩では、たとえば、「矢庭に」というコトバの使われるときがカーブを回る瞬間になるのだが、今私は、「矢庭」の前にどれだけたくさんのコトバをつめ込めるかで文体の持久力がきまっていくようなのだ。
私が昨年出した詩集『脳膜メンマ』と『これからのねじめ民芸店ヒント』を較べるとよくわかるのだが、『―――ヒント』の方がはるかにカーブを回るまでのコトバが多いし、「。」や「、」もぐんと少なくなっている。それは私のカラダのスピードがどんどん速くなっていって、その分だけコトバを支える遠心力が高くなってきたからである。具体例をもうひとつあげると、処女詩集『ふ』の頃の私は「ああ」だとか「おお」だとか「いるよ」といったコトバをよく使っていたが、今ではこうしたコトバがまったく使えなくなってしまった。今のような詩を書いていると、「ああ」や「おお」が逃げたというがよく分かる。こういうコトバはラクなのである。ラクをすると私の文体のスピードはてきめんに減速してしまって、コトバを支えるだけの持久力や遠心力が持てなくなってしまうのだ。
以前テレビで、自動車一台に人間が何人つめ込めるかというゲームを観たことがあるが、私の詩の書き方はじっさいこのゲームにたいへんよく似ているのでないだろうか。自動車に人間をたくさんつめ込むには、人間と人間のスキ間をなくすことが肝腎である。それには乗り込む順序がたいせつであって、先に乗り込んだ人は残った人たちが空間をムダにしないよう、じつに周到な計算でもって体の位置をこしらえている。人間のカラダの大きさがそう変らない以上、毎年毎年行われているこのゲームで記録が更新されることは、それだけ計算が緻密に周到になっていることに他ならない。つめ込むということは計算であって、それはこのゲームでも私の詩でも同じなのである。もっとも、計算だけでは自動車につめ込む人数には限界がある。なぜなら、人間には関節があって、一定以上は曲らないようにできているからである。空間のムダをなくそうと思ったら、おそらく乗り込む人間がカラダの関節を自由自在にはずせるようにならなければならない。このことはゲームの参加者にとっても、私にとっても、大きな課題であるといえる。
私の詩に即して言えば、それはコトバの関節をはずすということだ。コトバとコトバのつながりや関係をなくすということだ。
現代詩にはなぜか公認の詩的言語、詩のコトバというものがあるらしくて、私の詩なんぞは何年か前には「便所の落書き」、最近では「ブタ」の言語などと呼ばれて諸先生のヒンシュクを買いつづけている。別にエライ(と自分で思っている)先生に褒められたくて詩を書いているわけでないからそんなことはどうでもいいのだが、私は、詩的言語という考え方そのものがじつは詩のコトバの関節を固くしてしまっている元凶ではないかと思うのだ。詩的言語で組み立てられた詩は、ちょうど業界用語だけで話し合っている会話と同じで、おもしろがっているのは当人同士だけ、まわりの人間には何を言っているのかチンプンカンプンでおもしろくとも何とも思わない。このことになかなか気づかないのは、おそらく、コトバというものの流通性や伝達機能を詩人たちがあまりにも当然のこととして甘えてしまっているからだろう。業界用語で詩を書く人間は、業界用語が外側に通じないということに全然気づいていないか、業界用語を使うことがプロっぽくてカッコイイと思い込んでいるかどちらかである。私は、こういうことをしていては現代詩はいつまでたってもメジャーにはなれないのではないかと思う。メジャーになるということは敵をたくさんつくるということだ。敵が多ければ多いほど現代詩は鍛えられるはずである。現代詩がメジャーになるためにまずやらなければならないことは、業界用語は世間さまには通じないという認識を詩人たちが肝に銘じることである。コトバの関節をはずしてコトバをつめ込めるだけつめ込みカーブを曲り切るという私のやり方がどれだけ世間に通じるかどうかはこれからのお楽しみなのだけれど、少なくとも業界用語の符牒に寄りかかった詩的言語よりは皆さまにおもしろがっていただけるのではないか―――というのが、私の、詩人としてのカンである。
(1984.4)
まさに何をかいわんや、である。
詩にかぎらず短歌、俳句についても同様のことがいえるのではないだろうか。読んでも分からない。分からないから読まない。しかも詩集は文庫本でないと文字数は少ないくせにやけに高い。それもあいまって詩からはなれていく人が多いように思われる。あるいは立ち読みで充分だとか・・
語彙が豊富で絢爛豪奢ななりをした詩も多い。ねじめさんの詩を読んでいて思うのは、旺盛なチャレンジ精神である。いまの位置に安住することなくどうすれば詩世界を拡大できるだろうか、どういう切り口で挑めば新しい鉱脈がみつかるのかを模索している。
そんなふうに考えるといかにも絶版はひどいなぁとさらにその感を強くします。
私たちはモテない社員の癒し係ではありません。
ハケン社員にとって胸のすくドラマ「ハケンの品格」は大反響をもたらした。
続編の制作を日テレは画策していたらしいが、篠原涼子の妊娠によりおあずけとなった。
あれからわずか2年くらいの間に非正規雇用者やハケン切りのニュースが連日流れ、世の中は不況一色になってしまった。
続編はスーパーハケンの大前春子がまたしても社員の目をむくスキルでわが道をゆく・・・そういう流れを継ぐものでおそらく考えていただろう。
しかし、ここ半年間の世界的な大不況を目の当りにして続編制作は実質凍結されるだろう。ハケン社員が正社員をのして活躍する・・もうこの設定は古くなってしまったのだ。つまりリアリティが失われてしまった。
ところで今日は、世間ではバレンタイン・デーなる日であるらしい。
ふと大前春子とクルクルパーマのバトルを思い出した。
義理チョコは会社の潤滑油だというクルクルパーマに対し、大前春子は500円をドブに捨てるようなものだとばっさり。
それにハケンは一ヵ月後のホワイト・デーに会社にいられるかどうかもわからないと。
たまりかねた春子が、
「そんなに義理チョコがほしいんですか?」と口にすると、
「欲しいに決まってるんだろ!」と大声を出す主任。
「福利厚生もボーナスもないハケンにたかるなんて間違ってます。
大体、私たちは、モテない社員の癒し係ではありません」
「そういうひと言が余計なんだよ、オマエは!!」
こうした二人の歯に衣着せぬバトルがこのドラマの見所でもあったのだが
いまにして思えば、まだよき時代だったのかな・・とちょっぴり淋しい気がするのも確かなのだ。
100年インタビュー
100年インタビュー
--山田洋次(2007年11月15日)
渡邊あゆみ こんばんは。渡邊あゆみです。21世紀のいま、時代を創りあげる人々の声に耳を傾け彼らの思いと夢に迫る100年インタビュー。今回は日本を代表する映画監督をお招きいたしました。山田洋次さんです。国民的映画「男はつらいよ」を世に生み出し、これまでに数多くの映画を監督、2002年「たそがれ清兵衛」ではアカデミー賞外国映画賞にもノミネートされるなど日本だけではなく、海外でも評価が高い映画監督です。最新作は、吉永小百合さんが主演、その公開が待たれています。よろしくお願いいたしいたします。お忙しいなかありがとうございます。演出の専門家の前で今日はちょっと硬くなってインタビューさせていただきますけれども(笑)あのう、山田監督の映画にはファンが多く、この背景にいっぱいファンがいるということでその代表として、その映画に懸ける思い、それから監督の生い立ちなども伺うことができればと思っております。それではまずはやはり「寅さん」から入らせていただいていいでしょうか。
山田洋次 ええ・・
渡邊 「男はつらいよ」・・これ最初はテレビドラマでしかも脚本は・・
山田 ええ、もちろんわたくしが書いて、演出家はテレビの演出家が撮ったんです。
渡邊 それで・・しかもなんか、悲劇で寅さん最後ハブに噛まれて死んじゃうっていう。でもそれに対しては視聴者からは非難の声が・・
山田 そうそう。それはびっくりしましたねぇ。プロデューサーがとんで来て、大変なんですと、その抗議の電話から翌日手紙から・・なんで殺したんだ? ふざけてる、許さねえ、とかかなり怒っている。で、ある暴力団なんか、これから若い者がてめえんとこに行くから、ただじゃおかねえみたいなね。で、とっても僕はね、ああ、しまったなぁって思った。なんか勘違いしてた。作り手としてね。
渡邊 勘違いって?
山田 ええ。まあその寅さんが終るのはいいにしてもそんななぜ残酷な終り方をしなければならなかったのか。もっと観客が納得できるような、あいつ今頃どうしてるんだろうか・・莫迦なことやってるんだろうかって思い出すような形でなぜ終らなかったのか。一体僕たちっていうか、そういう脚本書いたり映画作ったりする人間の仕事はなんなんだろうか?観客とどういう関係にあるんだろうか?というようなことをしきりに考えさせられましてね。
渡邊 じゃあそれが映画化に・・
山田 そうです。スクリーンでもう一回、寅さんが元気な顔見せればね、その怒った人達は許してくれるだろうと、そう思って企画を会社に出したんです。
渡邊 監督が所属されていた松竹としてはあまり映画化に乗り気ではなかったと聞いていますが・・
山田 そうねぇ、むかしの話ですけれどもテレビで一回やったものをまた映画でやってどうするんだ?来るわけねえじゃないかって・・誠に単純な考え方で。
渡邊 お客さんは来ない?
山田 ええ。僕はテレビドラマと映画とは違うわけでもっと別なものが出来るんだし、しかも寅さんについては例の大勢のファンがそんなふうに口惜しがったり、残念だったりしてるんだから必ず来てくれるんだからと・・でまあ、喧嘩ごしに作ったんですよ。
渡邊 で、実際に公開が69年の8月。真夏ですよね。これは大ヒットだったそうですね。
山田 まあ、めちゃくちゃな大ヒットではなかったでしょうけれども、まったく期待してないわけでしょう。会社としては。で、喧嘩ごしで実現したわけですからね。で、大して期待してないのにわぁーっと来てくれたんですね。観客が。
渡邊 その、会社側としてはストーリーに関して何か当らない、当らない予感みたいなものあったんでしょうか。その設定とか。
山田 あの、当り前の話じゃないかと。つまり、地位も名誉も金もない、顔も悪きゃ頭も悪いっていうね、そんな男がね、綺麗な人に恋をして、失恋してしょんぼり故郷を去っていくなんてね、当り前じゃないかっていうんですね。で、僕はそれを決して嫌な気持ちがしないんですよ。うん、当り前って、なにか褒められているような気がしましてね。当り前の物語でどうしていけないのかって思っちゃうわけですよね。で、当り前の物語を僕は映画にしたいと思っていたのに。
渡邊 それがのちに48作も続くことになるんですけれども。6話か7話目くらいで監督自身この先どうしようかっていう時期があるということなんですが。これは一体何があったんですか。そのあたりで。
山田 うぅん。まぁ、ほら、そんなに長く続くシリーズなんてないじゃないですか。
渡邊 映画で?
山田 ええ。続編とか続々編とか、第3部とかはね、ありましたよ。「君の名は」は三部まであって、それから総集編っていうのをやったのかな。6作、7作っていうのはないわけですよ。だからどっかで撤退しないとね。だんだん落ち目になってやめるのみっともないと思いましてね。で、そろそろこの辺でおしまいにしますか、ねえ渥美さん、って渥美さんに言ったことがあるんです。すると渥美さんがね、いま考えると渥美さんは何かのってたんだなあ。山田さん、私はね、近頃どこ行っても寅さん寅さんって言われるんですよ。
渡邊 もうその6作目くらいでですか。
山田 ええ。すでにね。それでこないだなんか、東京駅で酔っぱらったサラリーマンに「おい寅、お前の映画観てるぞ」って言うから、ありがとうございますって言ったらね、「渥美清はどうしてんだ」て言うんですって。
渡邊 ええ。
山田 ええ、元気ですってよろしく言っといてくれって、まったく真面目に言うんですって。
渡邊 ええっ!?
山田 で、そん時、私は、ああこの俺は渥美清じゃなくて寅さんなんだと思ったら私はなんか妙に緊張したものですよと。いままであの寅っていうのは俺が扮しているバカな男だ、俺自身はもうちょっと常識もある、まあ新聞くらい読むさと、あんなに年中恋愛ばかりしているわけじゃない。頭もいいと。あれは俺が演じている愚かな男なんだと思ったけれども、その時にね、こりゃいかんと思ったっていうんですね。油断してると渥美清は寅に追い越されていくぞと。その辺の渥美さんの言い方が独特なんだけれども。この役を続けるっていうのは相当役者として緊張感が必要なんじゃないかと、ただただ気楽にやってたんじゃあ駄目なんじゃないかと、つまりそういう期待を直接に観客から彼は感じたってことじゃないのかなあ。俺はちゃんとしなけりゃいけないんだぞって、そういう話を彼が僕にするんですよ。ということは渥美さんってそういう人なんですよ。そういう形でもっと続けませんかって提案したんじゃないかって。
息子よ
息 子
藤岡藤巻
いいか 息子よ
ひとつだけ お前に言っておくことがある
人生は河の流れのようだと云うのはウソだ
人生は河なんかじゃない 沼だ
いいか 息子よ
もうひとつ 言っておきたい事がある
転がる石のように生きると云うのはウソだ
人生はほっといても転がる
そして 正直に言おう 息子よ
他人の不幸ほど楽しい事はない
何たって世知辛い 世の中だ
夢だけはいつも胸に置いて生きよう
とかいう言葉なんかに 騙されるな
いいか 息子よ
男は家から一歩外に出たら
七人の敵が待っているというのはウソだ
本当の敵は ウチの中にいる
いいか 息子よ
人という字を よく見てみろ
人と人が支えあって 出来てる訳ではないぞ
大きい方が小さい方に寄っかかってんだぞ
いいか お前も父親に なるだろう
その時 分かって もらえればいい
この世にお前より大切なものはない
弱虫でもいいから 長く生きてくれ
そして オレの下の世話をよろしくたのむ
いいか 息子よ
確かに父はだらしない男だった
でも人類のほとんどはだらしない奴だ
そう思えば ましな方だよな
決して最低じゃなかったよな
そう言ってくれないか 息子よ
ファンクラブ
昨年暮れにはじめて「さだまさしファンクラブ」なるものに入ったものの隔月に送られる会報もたいしたこともないし、コンサートも素通りされるわでさんざんだったので退会しよう、と思っていたらなんと翌年分会費の引き落とし通知が来て、憮然とした。
連絡し返金処理願ったあとで、そういえばWEBで会員だけみえるサイトがあったなぁと思い出し、今夜いろいろみておりました。
会報のバックナンバーが閲覧できるというのでみていたら、さだまさしが結婚する際に書いたファンへの手紙があった。
--83年新年号より
約束どおりに・・・・
さだまさし 拝
いつもありがとう。
そんな風に改まっての書き出しに、少ォし照れてます。
実はついさっき、決心しました。
とうとう嫁さんをもらおうと思います。
今、とうとう、と言ったのは、彼女との交際の長さと、自分の年齢とをかけあわせての実感です。
永すぎた春、という風に仲間達が表現する位、のんびりしてました。
7年の間、まさに、じわじわとつき合って来て、お互いの個性も、それとなくおしつけ 合い、焦るでなく、せかされるでなく、極めて自然に、決めました。
自分は、独身でいる間に、夢だった中国での仕事も出来ました。
音楽も、生活も、自由にやって来ました。
ふと、30になっていました。彼女は、19才だったのが26才になっていました。
コンサートの楽屋に来る事もなく、仕事場にうろちょろするでもなく、それでも気づ かぬ所で、精一杯、彼女なりに、支えてくれていたのです。
幸福なんて、形式ではないけれど、結婚は、ひとつの方法論に過ぎないけれども、もう落ち着いても良いと。というより、それが、一番自然で、いられるのではないか-- と。
これが独身最後の手紙です。
31才になる前に、詩島で式をやります。親類だけで、ささやかにやります。
仲人は、国学院高校の時の恩師、安本衛先生に頼みました。
大げさな〝疲労宴〟はやりません。
それより、心から祝ってくれる方の家を、日本中廻って、個別訪問して、新婚旅行のかわりにします。
パーティにつかう金があったら、どこかへ持っていって、信号のひとつも建てるのにつかってもらいます。
それから、僕はまあ芸能人なので、ある部分しかたないけれど、彼女は、ふつうの女だから、サラシものにするつもりはありません。これからもずうっとです。
つまらない考え方かもしれないけれど、そこだけは守ってあげたいのです。
色々と心配かけました。これでおちつきます。
彼女は、とてもやさしい女です。
地味で、ごくふつうの女です。
今、とても少なくなった、ごくふつうの女です。
いろいろありがとう。この事で自分の世界が変わるかというと、多分変わりません。
だから、自然なのだと思います。
これで、もう、あまり、無茶なことなんか--
やっぱり、すると思う。
以上です。
夢みたいな気持も、妙にプレッシャーもありません。
ただ、少し、
照れくさいです。
---なかなか実感がこもっていてよろしい。
お相手の女性は元スチュワーデス。才色兼備なのであろう。
今年の6月頃のミュージックフェアにさだまさしの息子、娘が共演するシーンがあって驚いた。テレビ初登場だった。長男の名前が「大陸」。なんともインパクトのある名前。凛々しくヴァイオリンを演奏。長女「詠夢(えむ)」さんはピアノを優雅に演奏していた。
編 - 映子さんにとって、まさしはどんな人ですか?
映 - 彼の中には非常に気をつかう部分とずぼらな部分が混同していて、女性にとっては扱いやすい男性であると思うから、7年間長い交際をしてきましたが、イヤだと思ったことが一度もありません。
編 - ごちそうさまです。
映 - まさしんぐワールドの仲間達へ一言。
映 - 〝人生において、こんな大変なことは、そう沢山あるもんじゃない。ここで頑張らなければ、男じゃないよ〟といい続けて、二年経ちました。何回転んでも、必ず前より大きくなって起きあがれる人だということを信じて、あたたかく見つめてくださった方々に、感謝の気持ちで一杯です。
■中国から、彼はみんなに手紙を書いてくれているのに、私には来ないので、手紙を催 促したら、『おい出したぞ、おれは出したからな。要するに出したという事実が大切 なのだ。おれは出したぞ、あとで文句いうな。まさし』
とだけ書いた手紙が届いて、一人大笑いしました。
たしか長男が産まれたとき、いまはなき「Focus」に、あのさだまさしの息子・・ということで掲載されたのを思い出す。
こうした件についてもちろんさだまさし本人は心得ている。
佐田大陸へ
君の選べなかったものが五つある。
ひとつは、国だ。
君は好むと好まざるとにかかわらず、日本人として生まれた。
ひとつは、時代だ。
君は昭和59年に生まれた。
ひとつは、名前だ。
「大陸」だなんて、おかしな名前だと、親を怨むこともあるだろう。
ひとつは、住む場所だ。
君は、東京の渋谷区で生まれた。そして、長崎生まれの父と島根生まれの母と共に、千葉に住んでいる。
最後は、親だ。
君は、さだまさしの息子として生まれた。
それひとつとっても、君の意に反するものであろう。
それひとつとっても、仕方のない事でもあろう。
君は、昭和59年8月11日、日本の、東京の渋谷で、僕の子として生命を得たのだ。それだけはあきらめてくれ。 僕が最初に君に 「どうもすいませんでした」と言ったのは、
人間の一番基本になる
〝生まれた以上、死ぬまで生きるが、生きつづける事はない〟悲しみに対してだ。
愛する人と別れなければならない。
憎む人と出会わなければならない。
求めるものが必ず手に入る訳ではない。
人間という生物の生理に苦しまねばならない。
その中で、
生きてゆかねばならない。
年老いてゆかねばならない。
病を得る事もある。
そうしていつか必ず、
君は死んでいかねばならない。
そんな生命として、あえて君は生まれた。君が僕を選んだのでも、僕が君を選んだのでもない。
親と子は、お互いにお互いの持ち物ではない。強いて言うなら、お互いがお互いの預り物なのだ。
僕は君にとって不肖の父となろう。
君は僕にとって不肖の子となれ。
君の人生がどうなるのか、それは知らない。君が作るのだ。たったひとつ、君には幸せな事がある。それは可能性を、まだ持っていることだ。
僕は、健康である以外に、君に何も望まない。君もまた僕に多くを望むな。
生きるのは楽しいぞ。
辛いけど、楽しいぞ。
明日から何があるかわからん位、楽しい事はない。
真白のキャンヴァスだけは用意してやるから、君は、自分の力で、
自由な絵を書け
ごくろうさん。
おめでとう。
---得難い拾いものをした気持である。
ボブ・ディラン ノーベル文学賞受賞
青天の霹靂とはこういうことをいうのだろう。
おそらく誰しもが耳を疑ったのではあるまいか・・
ずっと村上春樹が候補といわれ続けてきた今年のノーベル文学賞。
蓋をあけると「ボブ・ディラン」・・・これには目を疑った。
しかし時間がたつにつれ銓衡委員のみる目に敬意を抱いた。
長く第一線で活動をつづけてきたシンガーソングライターへの敬意、そしていまなおライブ活動を勢力的に継続する者へのなににも代え難いアプローズだろう。
とはいうもののボブ・ディラン自身は降って湧いた栄誉に首をかしげているに違いない。
ただただ時代のうつり変わりのなかで、なやみながらも伝えたいことばを選んで音楽にのせて表現すること。時代はたがえどおそらく本質としてのスタンスは不変だったのではないだろうと勝手な憶測をめぐらせる。
1990年代にはいり、ロックからアンプラグドへの回帰の時代がおとづれた。
なかでもエリック・クラプトンがその機運を推し進めた感が大きい。
アコースティックのみでの弾き語りは、アーティストにとっては、ミスがあらわになり、文字通り演奏の真価を問われる。
ボブ・ディランもMTN アンプラグドに出演。快哉を博した。
個人的なことであるが、NYに遊んだ折、レコード店で買ったのがボブ・ディランのそれである。
まだDVDはなく、ヴィデオである。
当時洋楽でまがりなりにも聴いていたのは、S&Gくらい。ROCKを聴き始めるには時間を要した。そうした折り、クラプトンの弾き語りは、ストレートに胸に響いた。
時折、お茶の水から神保町へ歩いていると、クラプトンの「tears in heaven」が聞こえてきていやがおうにも聞き入ってしまう。影響をうけつつ楽譜をみると高度で歯が立たぬことを思いしったのも記憶に残っている。
さてボブ・ディラン。一聴するも何を歌っているのかまったく理解できない。自己流なのだろう。ただ、1曲「shooting star」には、感興。曲が響いた。これが聞けただけでもよかった。
フォークの流れは、乱暴にまとめると
①ピート・シーガー
②ピーター・ポール&マリー
③ボブ・ディラン ジョーン・バエズ ・吉田拓郎、小室等等
その他
という風ではないか。単純化甚だしいが。
ボブ・ディランに戻る。
「風に吹かれて」(Blowin' in the Wind)が代名詞としていつも紹介される。「I shall be released」『時代はかわる』『ミスター・タンブリン・マン』『ライク・ア・ローリング・ストーン』 などなど・・
これ以上書くとぼろがでるだけ。このあたりで筆をおこう。
とにもかくにも受賞を称えたい。
吉田拓郎の風に吹かれて
『貧困の壁』 養老孟司 深層ニュース
しばらくブログの更新はやめておこうと思っていたのだけれど、先日みた深層ニュースが動画でアップされていたので貼ります。
とはいえ、養老孟司さんの本はほとんど読んでいない。
持論がはっきりして、すぱっと言ってくれる人が(裏付けがあって)いることはありがたい。