歌詞解釈が難しくアレンジも独特なスピッツ「甘い手」のレビューです。甘いて。ロシア語。ソビエト。 | A Flood of Music

今日の一曲!スピッツ「甘い手」

 

乱数メーカーの結果:889

 

 上記に基づく「今日の一曲!」は、スピッツのセクション(887~906)から「甘い手」です。詳しい選曲プロセスが知りたい方は、こちらの説明記事をご覧ください。

 

 

収録先:『ハヤブサ』(2000)

 

 

 過去記事に書いたことと重複しますが(「ホタル」の項を参照)、不本意なベスト盤『RECYCLE Greatest Hits of SPITZ』(1999)への反発が如実に感じられ、スピッツ史上最もロックと評せるのがこの『ハヤブサ』です。同盤の収録曲については、「ジュテーム?」「ハートが帰らない」をかつて取り立てました。

 

 硬派な面をわかりやすく味わいたいなら「放浪カモメはどこまでも album mix」「いろは」「メモリーズ・カスタム」「俺の赤い星」あたりが、キャッチーで聴き易いものから馴染んでいきたいという方には「今」「Holiday」「8823」「ホタル」あたりがおすすめです。こうして大雑把にカテゴライズせんと試みても、「甘い手」はそのエクスペリメンタルな作風で他曲とは一線を画しているため、類別不能のナンバーと特別視することになります。

 

 

歌詞(作詞:草野正宗)

 

 歌詞は二行から成るスタンザが六つと短く非常に詩的です。"遠くから君を見ていた"で始まり"甘い手で僕に触れて"で終わる世界観で、"君"と"僕"のアンタッチャブルな関係が変わるか変わらないかの瀬戸際までを描き、結末はリスナーの感性に委ねられています。

 

 "触れて"と願っている以上"僕"が"君"に触れたいのは明白なれど、そのモーションは"君"から起こしてくれと受動的なのが不思議な点です。"言葉も記号も忘れて"および"反射する光にまぎれた"の表現から"僕"の存在はひどく曖昧であることが窺え、実体を得るために"君"の"甘い手"が必要だというのが表題の意味するところでしょうか。そうだと仮定した上で僕の受け止めを述べますと、この望みは結局叶わずじまいであったとの推測です。

 

 "はじめから はじめから 何もない"の類型として「冷たい頬」(1998)の"それが全てで 何もないこと"を連想した ― 僕は同曲を「幻と消えてしまった恋の歌」と解釈しており、当該のフレーズは「取るに足らないサイドストーリー未満の虚しさ」から来ているとの理解です(詳しくは過去記事を参照) ― のと、アルバムに於ける次曲「Holiday」の歌詞内容が自称する通り"気持ち悪い人"のそれであるのを考慮すると、"君"が"僕"に触れることはなかったのかなと思えます。

 

 そんな"僕"の感性でとりわけユニークさを覚えたフレーズは、"愛されることを知らない/まっすぐな犬になりたい"です。裏を返すと「愛されることを知れば歪む」と考えているわけで、過剰なまでのピュアさで君を神格化しているところにインパルパブル(英:impalpable)な美意識が垣間見えます。この文脈に相応しい日本語が思い浮かばなかったため横文字を持ち出しましたが、「(物理的に)触れられない/感じられない」をコアとして「実体がない」とか「理解し難い」といった意味です。

 

 "君"に触れたいのに実体のない"僕"からは能動的に動けない、ゆえに"僕に触れて"と"君"に願うしか出来ないけれど、"僕"の価値観は受動的な姿勢と相容れない(愛されることを知れば歪む)ので、単に「触れたいけど触れられない」のジレンマでは説明が付かず、「触れられたら終わり」の危うさにこそ幸福を見ている気がするとまとめます。

 

 

メロディ(作曲:草野正宗)

 

 歌詞がコンパクトなだけにメロディも最小限で、"遠くから"~のヴァースと"はじめから"~のコーラスの二種類しかありません。それなのに物足りなさが全くないどころか寧ろ確かな聴き応えを得られるのは、旋律の性質に寄り添った編曲の巧みさに解を求められると分析します。本来は続くアレンジの項で語るべきポイントですが、メロディと切り離せないのでここでの言及です。

 

 ヴァースのラインに特徴的な形容は「浮遊感」で、一音一音が空間に響き渡っていく余地のある音運びが意識を宙に飛ばします。末尾の母音が長く聴こえると表現すれば、日本語での歌唱に適したモーラ重視の旋律が機能しているとも言えるでしょう。ヴァース間を繋ぐギターも幻想的で、温かみのある独特の揺らぎとディレイによって拡散していくサウンドからは、エントロピーの増大を感じます。

 

 このままだと"僕"はどんどん希薄になってしまうため、"君"の"甘い手"で実体化させてほしいというのが先述の歌詞解釈でした。この視座は作編曲の面からもアプローチ可能で、ヴァースのふわふわとした印象はコーラスで俄に払拭されます。ソリッドなギターを合図にオケのコード感が一気に増し、メロディに指向性が生まれて「高揚感」を得たと表現したいです。

 

 こうして「"君"に触れられなければ"僕"は無秩序になっていく一方だ」との概念を取り込むと「触れられなくても終わり」が導き出せるので、どう転んでも"僕"の存在証明が不能になる我ながら厳しい聴き解き方をしたなと独り言ちます。全く甘くないですね。笑

 

 

アレンジ(編曲:スピッツ&石田小吉)

 

 

 本曲を殊更実験的に仕立てているファクターとして、ソビエト映画『誓いの休暇』(英題:Ballad of a soldier)からのサンプリングが挙げられます。日本語版Wikipediaでは同映画およびアルバムのページにもこの旨がソースなしで書かれていますが、歌詞カードにNarrationとしてクレジットされている正しい情報です。監督のGrigory Chukhrayは現ウクライナの生まれなので、奇しくも今の世界情勢下に於けるタイムリーな紹介となります。

 

 …と言っても僕は同作を未鑑賞ゆえ、残念ながら内容を引き合いにすることは出来ません。映画のストーリーと絡められたのなら、また違った解釈が浮かぶことでしょう。ちなみに僕が観たことのあるウクライナ関連の映画は、『戦艦ポチョムキン』(英題:Battleship Potemkin)と『僕の大事なコレクション』(原題:Everything Is Illuminated)だけです。

 

 サンプリングは2番後の間奏に登場し、先にヴァース間で披露されていた幻想的なギターサウンドと共に情景を彩ります。特に新たな展開で聴かせる4:58~は暴力的なまでの美しさを誇り、初めて耳にした小学生の時分によくわからないままに圧倒された思い出の中でも、20年以上が経過しレビューのためにこれを鑑賞し直している現在の感性でも、スピッツというバンドの表現力の高さに脱帽するしかない名編曲であるとの評価です。

 

 

備考:伏見瞬『スピッツ論』

 

 

 年明け頃にたまたま本屋で見かけて摘み読みしてみたところ、何処を切り取っても「ガチ勢が書いた文章だ」とわかる分析の鋭さに心が躍り、気が付くとレジへと足が向いていました。他の積読本が多いので未だにしっかりとは読めていないのですが、序文で「作品の内実と音楽家の人生」の力関係についてきちんとふれている時点で、著者の論考は信頼に足ると判断出来ます。