今日の一曲!フレデリック「うわさのケムリの女の子」 | A Flood of Music

今日の一曲!フレデリック「うわさのケムリの女の子」

 今回の「今日の一曲!」は、フレデリックの「うわさのケムリの女の子」(2014)です。アルバム『oddloop』収録曲。

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 曲名だけならば、過去にこの記事にも出したことがあります。そこに記したように、FRDCの中でも「特に気に入っている曲」のひとつです。




 本曲の魅力はいくつかありますが、個人的には左で鳴っているギターのメロディアスさこそが、最大の美点だと思っています。オブリガート的と言いましょうか、主旋律たるボーカルラインに負けない、主張の強さがお気に入りです。直下のパラグラフは、全てギターが奏でているメロについて語っています。

 "パイプの中から"~(0:29~)では、主旋律のポップさを際立たせている、跳ね感のあるキャッチーなラインが印象的で、文字通りつかみはばっちりです。続く"かかと踏む"~では、手数が少なくなることで生じた緩急が素敵で、何処かビーチの趣を漂わせたようなゆったりとしたプレイに、一層の心地好さを覚えます。サウンドから「波間」を連想してしまったがゆえの喩えですが、モチーフは明らかに「煙」なので、「揺蕩うもの」のイメージで共通項があるとご理解いただけば幸いです。曲が再び走り出す"窓に映る"~では、前出の跳ね感のあるラインの完全版といった向きの長いメロが登場し、バンドが得意とするオリエンタルなアウトプットが、殊更に顕著になったと感じます。


 このように、ボーカルよりもギターのラインを耳で追ってしまいがちになりますが、主旋律もなかなかどうして素晴らしい仕上がりです。これに関連した記述は本記事冒頭にリンクした記事の中にもあって、セルフ引用すると以下の通りとなります。

 キャッチーなサビメロの曲が多いため印象に残りにくいかもしれませんが、フレデリックの曲は何気にAメロに美しさが宿っているものが多いと思っていて、そこも高く評価してるポイントです。例えば冒頭で挙げた7曲の中では、「うわさのケムリの女の子」と「真っ赤なCAR」のAメロは神懸っていると絶賛します。

 引用ここまで。ちなみに後者には既にレビュー記事があります。さて、この時は深く考えずに「Aメロ」と書いてしまいましたが、上記で僕が想定していた本曲のセクションは、歌詞で言えば"かかと踏む靴でお出かけの不思議な子"の部分です。全体的に口遊みやすいメロが優勢であるため、当該パートの美メロっぷりがひと際ユーフォニアスだとの賛辞になります。


 上掲記事では、"窓に映る"~を無意識にサビと規定して、"かかと踏む"~をAメロに、"パイプの中から"~と"今夜ゆくのよ"~を共にフックと見做したのだと顧みますが、この区分には無理があったかもしれません。個人的な区分法については解説記事に丸投げするとして、今一度本曲のメロを区分してみようと試みたものの、どうも得心のいく結果が得られませんでした。"かかと"~がAというかヴァースであるとの認識は揺らがないのですが、コーラスを規定しようとすると、"窓"~も"パイプ~"も"今夜"~も、全てサビメロではないかと思えてくるからです。

 ラスサビではこれらが全て連続して出てきますし(1:58~)、バックのオケの統一性を考慮に入れると、少なくとも"窓"~と"今夜"~は、元来は連続性のあるメロだったのではと推測します。そこから後半にあたる"今夜"~だけが独立して曲の頭に出てくるため(0:15~)、区分がややこしくなってしまうのではないかとの分析です。"パイプ"~は、どのタイミングでも挿入的に登場するので、フックに分類するならこれのみにすべきだったと改めます。

 興味のない人からしたら「何言ってんだこいつ…」状態でしょうが、要するに「ユニークな楽想が実にFRDCらしい」というのが主張の肝でして、そこだけでも伝われば御の字です。メロ区分に関することは僕の個人的なこだわりに過ぎず、作曲者たる三原康司さんが上述のような作為的なメロ構築をしたかどうかは、全く定かでないとフォローしておきます。


 最後は歌詞内容を見ていきましょう。考察のし甲斐があるというか、表題の「ケムリ」の如くに掴みどころのない言葉繰りが特徴です。"うわさのケムリの女の子"のことが気になって仕方がない"僕"の歌であるのは確かながら、肝心の"女の子"の実態がよく見えてきません。文字通り"うわさ"上の存在で、現実には居ないような気もしてきます。結びの"いつまでたっても変わらぬ姿の"が非現実的解釈の決定打ですが、他にも"掴めぬあの子を捕まえに"だったり、"窓に映る君の横顔"だったり、"外で待ってる待ってるよ"だったり、見える範囲には居るけれども、ふれること能わずといった切なさが窺えるんですよね。まさに"ケムリ"です。

 しかし、その存在が"僕"にとって救いとなりそうなのも事実で、その悶々とした思いは"甘い退屈けちらしてくれよ"や、"僕の憂鬱けちらしてくれよ"に表れています。統合して考えると、"うわさのケムリの女の子"は「イデア的存在」なのではないでしょうか。噂で聞いた見知らぬ誰かに想いを馳せ続けた結果、その心象のみが肥大化している状態というかね。「見知らぬ」というのも、正確には「嘗て見知っていた誰かの現状」が噂として耳に入ってきた(=今現在は「見知らぬ誰か」になっている)との理解です。ゆえに姿は昔の儘ですし(="いつまでたっても変わらぬ姿の")、"かかと踏む靴でおでかけの不思議な子"に、"そよ風が君のその結ぶ髪をゆらす"と、妙に具体的なエピソードが入るのも、記憶由来のビジョンに思えます。