今日の一曲!サカナクション「ネイティブダンサー」【平成21年の楽曲】
【追記:2021.1.5】 本記事は「今日の一曲!」【テーマ:平成の楽曲を振り返る】の第二十一弾です。【追記ここまで】
平成21年分の「今日の一曲!」はサカナクションの「ネイティブダンサー」(2009)です。3rdアルバム『シンシロ』収録曲。僕がサカナを聴き出したのがちょうどこの頃で、友達から存在を教えてもらってどハマりした次第です。
当ブログは翌年の2010年に開設したため、当時代性のある記事も含めて、今までにも同バンドの作品を取り上げる機会は多くありました。ゆえに今更ですが、本記事では楽曲レビューに入る前に、アーティスト性について語ってみようと思います。そうする理由は後述するので、今は頭の隅に留めておいてください。
自分語りから始めて恐縮ですが、僕には邦ロック好きの面と電子音楽好きの面があります。このことは今回の振り返り企画に於いて、これまでに紹介した曲目をご覧いただくだけでも何となくは察せるでしょうが、各方面への興味はそれぞれ別口から芽生えたと言っていいものです。従って、この両面を高い次元で結び付けているサカナの音楽性に、僕が惹かれない道理はありませんでした。
この「高い次元で」が、抽象的ながら重要なワードです。ロックと電子音楽を掛け合わせたサウンドを展開している日本人ミュージシャン;対象が広いので形式はバンドに絞りますが、この観点でサカナは別にパイオニアというわけではなく、デビューがゼロ年代後半と比較的最近であるので当然ながら、前例を挙げることはそう困難ではないでしょう。それでも彼らの音楽には確かな革新性が感じられるわけですが、それが何故かと問われれば、「電子音楽への深い造詣があるから」が理由のひとつになると主張します。
複数の生身の人間が楽器を通してプレイを魅せる「バンド」というスタイルを取る以上、シーケンサーなどの機械類や打ち込みのサウンドに頼ることは、双方の良さを相殺しかねないと本来的には恐ろしいものであるはずです。割を食いやすいのはリズム隊で、特に途中からこの手の方向性にシフトした場合には、ベーシストやドラマーが自身の存在意義に疑問を抱き始め、結果としてメンバーの脱退を招いてしまう危険性もあると考えています。
勿論これは一例を述べただけに過ぎず、一般化しようとまでは思いませんが、この哀しい事態を回避する要素として、「電子音楽への許容度」は無関係ではないでしょう。極端に言えば、最初から「俺たちはこういうサウンドもありにしよう!」との寛容な理念の下に集えば、生身と機械のジレンマに陥ることも少なくなるであろうからです。ただ、これは言うは易く行うは難しの典型で、全員が同じ景色を見据えていたようでも、その実各人の方位角は微妙にズレていた(特にフロントマンとの差が顕著になりがち)というのは、バンドの存続危機あるあるかと思います。
お察しの通り、これはどんなタイプのバンドにも当て嵌まる問題ですし、究極的には「あらゆる音楽への許容度」が取沙汰されることになるでしょう。その中でも、複数の大きなジャンルを横断する音楽性を備えていて、且つマン vs マシーンの対立構造が根底にある場合には、一層指針を見失いやすくなるという意味で、ロック×電子音楽を例に取りました。過去にアップした別のアーティストの記事ですが、エレクトロニックジャムというジャンルについての記述も、この観点では参考になるかもしれないとリンクしておきます。
ネガティブな描写から始めたために誤解されそうですが、ここまでに示したのは言わば「悪いケース」です。サカナクションというバンドおよび彼らの音楽性に関して述べれば、対極の「成功例」に位置すると評しています。
フォーマットはロックバンドでありながら、メンバー全員が電子音楽への本質的な理解を果たしているからか、両者の融合には一切の恐れを感じさせません。リズム隊も含めて特定の楽器が割を食っている印象もなく、機械が支配する中でもきちんと生身の意義を示せているなと感じます。このハイレベルなプレイスタイルはデビュー時には既に形になっており、そこから推し測れるのは初期理念の明確さでしょう。リリースを重ねる毎に深化するサウンドも決して無軌道ではなく、狭間や曖昧の美学が宿る心地好いクロスオーバーが常に意識されていると、いずれも称賛に値します。
長々と小難しく書きましたが、伝えたいのは「彼らがロックも電子音楽も深く愛しているのがきちんと伝わってくる」ということです。このどちらかが欠けていたり、メンバー間で意識に格差があったりすると、精神性まで含めたジャンルの融合(乗法的なアウトプット)には至らず、ノウハウとしてロックのアプローチと電子音楽のマナーを把握しているだけ(加法的なアウトプット;先の「無軌道」もこれに含む)で終わってしまうと思います。これは売れたとしても一過性のブームで、すぐ後に活動が鈍ってしまったバンドのイメージです。
結果論となりますが、これらのマイナス要件にサカナが一切当て嵌まっていないことから、逆説的に同バンドの成功と音楽性のオーセンティシティが立証されます。一般層にも広く名前が認知されるほどには売れたとして差し支えなく、どちらかと言うと暗めの世界観が提示されていることと、アッパーではない電子音楽も取り入れていることを加味すれば、寧ろ快挙ではないでしょうか。
極め付きは、諸々の活動は精力的に行われていたとはいえ、純粋な新譜のリリース(ベストアルバム『魚図鑑』(2018)収録の「陽炎 -movie version-」は例外的に扱うという意味)がシングル基準では約2年年、オリジナルアルバム基準では約6年も空いているのにも拘らず、表舞台から消えることなく、来る6月にリリース予定の新作にも期待が集まっているという事実です。
まとまりのないアーティスト評ですみませんが、具体例として楽曲と絡めた上での着地を試みたいので、このまま「ネイティブダンサー」へのレビューへとなだれ込みます。冒頭にも記した通り、ハマり出した時点での最新作が『シンシロ』であったため、当時は同盤をヘビロテしていました。中でも本曲に対する個人的な評価は別格でして、あまりの完成度の高さに衝撃を受けたことを覚えています。
この初聴時のインパクトを重視したからこそだと留意していただきたいのですが、ここまでに説明してきた「ロックと電子音楽の高い次元での融合」が窺える傑作として、「ネイティブダンサー」は好例であるとの認識です。これを「アーティスト性を体現する楽曲」と換言すれば、長々と書き連ねた上掲のアーティスト評も、実は本曲への言及として読むことが出来ます。これが、冒頭で「後述する」とした理由です。
これを踏まえると、あるツッコミどころが浮かぶと思うので先制しておきます。それは「本曲にロックの要素はあまりないのでは?」といった疑問です。確かに、本曲のつくりは電子音楽オリエンテッドだと言えるものですし、何よりギターが登場しない点でロック的には異質と言えるでしょう。ただし、これには「不在ゆえに際立つ存在感」があり、出てくる余地を残しているという意味では、「可能性のロックナンバー」であると感じます。これを最初に語るポイントとするのはややこしいので、まずは楽曲を通時的に分解した上での感想を載せてから、最後に改めて言及しますね。
イントロから特徴的なのはシンプルなピアノのループで、1番Bメロからはストリングスも主張してきますが、ここまではロックは疎か電子音楽としての要素も薄く(せいぜいBから入るシェイカーくらい?)、比較的お利口な編曲です。しかし、この落ち着きは1番サビで俄に破られ、ダンサブルなシーケンスフレーズとエッジィなシンセによって、一気にテクノらしさが顔を覗かせてきます。
そこから先は積み重ねと反復の美学が光る、実に電子音楽らしい楽想です。盛り上がりを見せた1番サビ後の間奏には、丁寧にチルアウトのセクションが用意されていますし、2番はAメロの時点から絶妙なベロシティーのキックが配置されているので、同じピアノループも今度はクラブミュージックのそれのように、踊れる変貌を遂げています。テクノらしい内省的な趣から、次第に忘我の音楽としてのエレクトロっぽさが滲んできている*と表現してもよく、この移行は2番サビから鳴り出すややノイジーな電子音(ピコピコ)のシグナルの強さで確信に変わりました。
*「テクノ」と「内省(的)」のコロケーションや、「忘我(の音楽)」が意味するところについては、お手数ですが当ブログ内をこれらのワードで検索して、ヒットした記事または記述から推測していただければと思います。
歌詞の仄暗さとも相俟って、トラックの序盤から中盤までは冷たいサウンドスケープが展開されていると感じますが、終盤の電気的な音作りも込みで考えると、具体的な情景として「雪起し(降雪を予感させる雷鳴のこと)」のビジョンが見えた、或いは聞こえた気がしました。"いつかあの空が僕を忘れたとして その時はどこかで雪が降るのを待つさ"で幕を開け、"思い出のように降り落ちた ただ降り落ちた そう雪になって"と結ばれることを読み解くと、電気(雷)を思わせるサウンドは吉凶を占うものなのかなと。
歌詞解釈も放り込んで駆け足気味ではありますが、ぼちぼちまとめに入りたいので、最後に前述の「可能性のロックナンバー」について語ります。上掲の楽曲分析の内容から察せたとは思いますが、僕自身も本曲にあまりロックの要素を見出してはいません。それでも敢えて細かい点を挙げるならば、2番A直前のハードなドラムスと、アウトロで殊更に力強くなるベースのプレイを推します。
どちらも非常に格好良く、特に前者は周辺のアレンジごと神懸っていると絶賛したいです。徐々に音数が減って冷静さを取り戻していく1番後間奏の凛々たる質感を、突如として増大する熱量(=ドラムスの激しさ)によって打ち破ったかと思えば、それは直ぐに鳴りを潜めて続くシンセで即座に忘れ去られ、キックの復帰を以て2番Aが本格的に走り出すというシークエンス。この20秒足らずのセクション(2:01~2:19)については、わかりやすい「ロックと電子音楽の高い次元での融合」だと考えています。
ただ、既に述べている通り、全体的には電子音楽的なトラックメイキングが優勢であるとの理解ですし、ギターが排されていることでロックチューン的に物足りなく感じてしまうのは否定出来ないため、上記のような妙味は例外的である印象です。しかし、かと言って本曲にはロック性が皆無なのかと問われれば、必ずしもそうではないと思えるのが不思議なところで、この説明のために「可能性としてのロックナンバー」という言葉を用意しました。
既に世にある概念を交えて説明すると、芸術の分野に於ける「未完の美/不完全の美」が便利で、本曲に登場しないギターについて先に「不在ゆえに際立つ存在感」と記したのも、ミロのヴィーナスの両腕やサモトラケのニケの頭部のような扱いをした結果だとすれば、幾分はわかりやすくなるかと期待します。要するに、想像によって理想形を補完する能力に訴えかけてくるものがあるという意味で、「ネイティブダンサー」を聴いたリスナーが、各自で勝手に岩寺さんを曲中に置く楽しみがあるから、即ちアレンジの余地があるから、それぞれが思い描くロックが脳内で完成しているのではないかと、こう思ったわけです。
批判的な意味で例示するわけではありませんが、電子音楽畑出身のミュージシャンが作った完全打ち込みのダンスチューンに、生のギターを重ねて編曲してみろと課されたとしても、本曲に対して起こるような想像力が同等に働くかは疑問に感じます。なぜなら、これには「フォーマットが(ロック)バンドである」ことが重要で、特定のギタリストの存在と当該の人物が奏でる個性がイメージ出来ないと、補完の選択肢が多過ぎて想像が具体性を伴わないからです。
従って、このような体験は「電子音楽への深い造詣があるロックバンドが、敢えて余地を残すようなトラックを繰り出した場合」に起こりやすいものだとまとめられるため、そこまで含めて「ロックと電子音楽の高い次元での融合が窺える傑作」と表現したのでした。
本記事の内容は僕の個人的な解釈に基づくもので、記述の全てが妄想の域を出ないことには留意していただきたいのですが、サカナクションが「この余地を実際にどう処理したか」に関して言えば、ライブアレンジに於ける「ネイティブダンサー」を聴き、とりわけ使用楽器を具さに注視していれば、ある程度は把握することが出来るはずです。
当ブログが第一期の頃の記事が中心ゆえ、特に更新年が2016年より前のものは内容に期待しないでいただけると助かりますが、曲名で過去の投稿を検索してみたところ、これまでに8度も本曲について言及していたことが判明しました。その中にはフェスでの演奏を実際に聴いたものや、ライブDVDのレビューとしてふれたものも存在するため、興味のある方はブログ内検索をご活用ください。過去の自分では言語化に至らなかった本曲の良さを、現在の自分でどこまで語れるかに挑んだ結果が本記事であると、そう捉えていただければ幸いです。
平成21年分の「今日の一曲!」はサカナクションの「ネイティブダンサー」(2009)です。3rdアルバム『シンシロ』収録曲。僕がサカナを聴き出したのがちょうどこの頃で、友達から存在を教えてもらってどハマりした次第です。
当ブログは翌年の2010年に開設したため、当時代性のある記事も含めて、今までにも同バンドの作品を取り上げる機会は多くありました。ゆえに今更ですが、本記事では楽曲レビューに入る前に、アーティスト性について語ってみようと思います。そうする理由は後述するので、今は頭の隅に留めておいてください。
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自分語りから始めて恐縮ですが、僕には邦ロック好きの面と電子音楽好きの面があります。このことは今回の振り返り企画に於いて、これまでに紹介した曲目をご覧いただくだけでも何となくは察せるでしょうが、各方面への興味はそれぞれ別口から芽生えたと言っていいものです。従って、この両面を高い次元で結び付けているサカナの音楽性に、僕が惹かれない道理はありませんでした。
この「高い次元で」が、抽象的ながら重要なワードです。ロックと電子音楽を掛け合わせたサウンドを展開している日本人ミュージシャン;対象が広いので形式はバンドに絞りますが、この観点でサカナは別にパイオニアというわけではなく、デビューがゼロ年代後半と比較的最近であるので当然ながら、前例を挙げることはそう困難ではないでしょう。それでも彼らの音楽には確かな革新性が感じられるわけですが、それが何故かと問われれば、「電子音楽への深い造詣があるから」が理由のひとつになると主張します。
複数の生身の人間が楽器を通してプレイを魅せる「バンド」というスタイルを取る以上、シーケンサーなどの機械類や打ち込みのサウンドに頼ることは、双方の良さを相殺しかねないと本来的には恐ろしいものであるはずです。割を食いやすいのはリズム隊で、特に途中からこの手の方向性にシフトした場合には、ベーシストやドラマーが自身の存在意義に疑問を抱き始め、結果としてメンバーの脱退を招いてしまう危険性もあると考えています。
勿論これは一例を述べただけに過ぎず、一般化しようとまでは思いませんが、この哀しい事態を回避する要素として、「電子音楽への許容度」は無関係ではないでしょう。極端に言えば、最初から「俺たちはこういうサウンドもありにしよう!」との寛容な理念の下に集えば、生身と機械のジレンマに陥ることも少なくなるであろうからです。ただ、これは言うは易く行うは難しの典型で、全員が同じ景色を見据えていたようでも、その実各人の方位角は微妙にズレていた(特にフロントマンとの差が顕著になりがち)というのは、バンドの存続危機あるあるかと思います。
お察しの通り、これはどんなタイプのバンドにも当て嵌まる問題ですし、究極的には「あらゆる音楽への許容度」が取沙汰されることになるでしょう。その中でも、複数の大きなジャンルを横断する音楽性を備えていて、且つマン vs マシーンの対立構造が根底にある場合には、一層指針を見失いやすくなるという意味で、ロック×電子音楽を例に取りました。過去にアップした別のアーティストの記事ですが、エレクトロニックジャムというジャンルについての記述も、この観点では参考になるかもしれないとリンクしておきます。
![]() | ネイティブダンサー 250円 Amazon |
ネガティブな描写から始めたために誤解されそうですが、ここまでに示したのは言わば「悪いケース」です。サカナクションというバンドおよび彼らの音楽性に関して述べれば、対極の「成功例」に位置すると評しています。
フォーマットはロックバンドでありながら、メンバー全員が電子音楽への本質的な理解を果たしているからか、両者の融合には一切の恐れを感じさせません。リズム隊も含めて特定の楽器が割を食っている印象もなく、機械が支配する中でもきちんと生身の意義を示せているなと感じます。このハイレベルなプレイスタイルはデビュー時には既に形になっており、そこから推し測れるのは初期理念の明確さでしょう。リリースを重ねる毎に深化するサウンドも決して無軌道ではなく、狭間や曖昧の美学が宿る心地好いクロスオーバーが常に意識されていると、いずれも称賛に値します。
長々と小難しく書きましたが、伝えたいのは「彼らがロックも電子音楽も深く愛しているのがきちんと伝わってくる」ということです。このどちらかが欠けていたり、メンバー間で意識に格差があったりすると、精神性まで含めたジャンルの融合(乗法的なアウトプット)には至らず、ノウハウとしてロックのアプローチと電子音楽のマナーを把握しているだけ(加法的なアウトプット;先の「無軌道」もこれに含む)で終わってしまうと思います。これは売れたとしても一過性のブームで、すぐ後に活動が鈍ってしまったバンドのイメージです。
結果論となりますが、これらのマイナス要件にサカナが一切当て嵌まっていないことから、逆説的に同バンドの成功と音楽性のオーセンティシティが立証されます。一般層にも広く名前が認知されるほどには売れたとして差し支えなく、どちらかと言うと暗めの世界観が提示されていることと、アッパーではない電子音楽も取り入れていることを加味すれば、寧ろ快挙ではないでしょうか。
極め付きは、諸々の活動は精力的に行われていたとはいえ、純粋な新譜のリリース(ベストアルバム『魚図鑑』(2018)収録の「陽炎 -movie version-」は例外的に扱うという意味)がシングル基準では約2年年、オリジナルアルバム基準では約6年も空いているのにも拘らず、表舞台から消えることなく、来る6月にリリース予定の新作にも期待が集まっているという事実です。
まとまりのないアーティスト評ですみませんが、具体例として楽曲と絡めた上での着地を試みたいので、このまま「ネイティブダンサー」へのレビューへとなだれ込みます。冒頭にも記した通り、ハマり出した時点での最新作が『シンシロ』であったため、当時は同盤をヘビロテしていました。中でも本曲に対する個人的な評価は別格でして、あまりの完成度の高さに衝撃を受けたことを覚えています。
この初聴時のインパクトを重視したからこそだと留意していただきたいのですが、ここまでに説明してきた「ロックと電子音楽の高い次元での融合」が窺える傑作として、「ネイティブダンサー」は好例であるとの認識です。これを「アーティスト性を体現する楽曲」と換言すれば、長々と書き連ねた上掲のアーティスト評も、実は本曲への言及として読むことが出来ます。これが、冒頭で「後述する」とした理由です。
これを踏まえると、あるツッコミどころが浮かぶと思うので先制しておきます。それは「本曲にロックの要素はあまりないのでは?」といった疑問です。確かに、本曲のつくりは電子音楽オリエンテッドだと言えるものですし、何よりギターが登場しない点でロック的には異質と言えるでしょう。ただし、これには「不在ゆえに際立つ存在感」があり、出てくる余地を残しているという意味では、「可能性のロックナンバー」であると感じます。これを最初に語るポイントとするのはややこしいので、まずは楽曲を通時的に分解した上での感想を載せてから、最後に改めて言及しますね。
イントロから特徴的なのはシンプルなピアノのループで、1番Bメロからはストリングスも主張してきますが、ここまではロックは疎か電子音楽としての要素も薄く(せいぜいBから入るシェイカーくらい?)、比較的お利口な編曲です。しかし、この落ち着きは1番サビで俄に破られ、ダンサブルなシーケンスフレーズとエッジィなシンセによって、一気にテクノらしさが顔を覗かせてきます。
そこから先は積み重ねと反復の美学が光る、実に電子音楽らしい楽想です。盛り上がりを見せた1番サビ後の間奏には、丁寧にチルアウトのセクションが用意されていますし、2番はAメロの時点から絶妙なベロシティーのキックが配置されているので、同じピアノループも今度はクラブミュージックのそれのように、踊れる変貌を遂げています。テクノらしい内省的な趣から、次第に忘我の音楽としてのエレクトロっぽさが滲んできている*と表現してもよく、この移行は2番サビから鳴り出すややノイジーな電子音(ピコピコ)のシグナルの強さで確信に変わりました。
*「テクノ」と「内省(的)」のコロケーションや、「忘我(の音楽)」が意味するところについては、お手数ですが当ブログ内をこれらのワードで検索して、ヒットした記事または記述から推測していただければと思います。
歌詞の仄暗さとも相俟って、トラックの序盤から中盤までは冷たいサウンドスケープが展開されていると感じますが、終盤の電気的な音作りも込みで考えると、具体的な情景として「雪起し(降雪を予感させる雷鳴のこと)」のビジョンが見えた、或いは聞こえた気がしました。"いつかあの空が僕を忘れたとして その時はどこかで雪が降るのを待つさ"で幕を開け、"思い出のように降り落ちた ただ降り落ちた そう雪になって"と結ばれることを読み解くと、電気(雷)を思わせるサウンドは吉凶を占うものなのかなと。
歌詞解釈も放り込んで駆け足気味ではありますが、ぼちぼちまとめに入りたいので、最後に前述の「可能性のロックナンバー」について語ります。上掲の楽曲分析の内容から察せたとは思いますが、僕自身も本曲にあまりロックの要素を見出してはいません。それでも敢えて細かい点を挙げるならば、2番A直前のハードなドラムスと、アウトロで殊更に力強くなるベースのプレイを推します。
どちらも非常に格好良く、特に前者は周辺のアレンジごと神懸っていると絶賛したいです。徐々に音数が減って冷静さを取り戻していく1番後間奏の凛々たる質感を、突如として増大する熱量(=ドラムスの激しさ)によって打ち破ったかと思えば、それは直ぐに鳴りを潜めて続くシンセで即座に忘れ去られ、キックの復帰を以て2番Aが本格的に走り出すというシークエンス。この20秒足らずのセクション(2:01~2:19)については、わかりやすい「ロックと電子音楽の高い次元での融合」だと考えています。
ただ、既に述べている通り、全体的には電子音楽的なトラックメイキングが優勢であるとの理解ですし、ギターが排されていることでロックチューン的に物足りなく感じてしまうのは否定出来ないため、上記のような妙味は例外的である印象です。しかし、かと言って本曲にはロック性が皆無なのかと問われれば、必ずしもそうではないと思えるのが不思議なところで、この説明のために「可能性としてのロックナンバー」という言葉を用意しました。
既に世にある概念を交えて説明すると、芸術の分野に於ける「未完の美/不完全の美」が便利で、本曲に登場しないギターについて先に「不在ゆえに際立つ存在感」と記したのも、ミロのヴィーナスの両腕やサモトラケのニケの頭部のような扱いをした結果だとすれば、幾分はわかりやすくなるかと期待します。要するに、想像によって理想形を補完する能力に訴えかけてくるものがあるという意味で、「ネイティブダンサー」を聴いたリスナーが、各自で勝手に岩寺さんを曲中に置く楽しみがあるから、即ちアレンジの余地があるから、それぞれが思い描くロックが脳内で完成しているのではないかと、こう思ったわけです。
批判的な意味で例示するわけではありませんが、電子音楽畑出身のミュージシャンが作った完全打ち込みのダンスチューンに、生のギターを重ねて編曲してみろと課されたとしても、本曲に対して起こるような想像力が同等に働くかは疑問に感じます。なぜなら、これには「フォーマットが(ロック)バンドである」ことが重要で、特定のギタリストの存在と当該の人物が奏でる個性がイメージ出来ないと、補完の選択肢が多過ぎて想像が具体性を伴わないからです。
従って、このような体験は「電子音楽への深い造詣があるロックバンドが、敢えて余地を残すようなトラックを繰り出した場合」に起こりやすいものだとまとめられるため、そこまで含めて「ロックと電子音楽の高い次元での融合が窺える傑作」と表現したのでした。
本記事の内容は僕の個人的な解釈に基づくもので、記述の全てが妄想の域を出ないことには留意していただきたいのですが、サカナクションが「この余地を実際にどう処理したか」に関して言えば、ライブアレンジに於ける「ネイティブダンサー」を聴き、とりわけ使用楽器を具さに注視していれば、ある程度は把握することが出来るはずです。
当ブログが第一期の頃の記事が中心ゆえ、特に更新年が2016年より前のものは内容に期待しないでいただけると助かりますが、曲名で過去の投稿を検索してみたところ、これまでに8度も本曲について言及していたことが判明しました。その中にはフェスでの演奏を実際に聴いたものや、ライブDVDのレビューとしてふれたものも存在するため、興味のある方はブログ内検索をご活用ください。過去の自分では言語化に至らなかった本曲の良さを、現在の自分でどこまで語れるかに挑んだ結果が本記事であると、そう捉えていただければ幸いです。