「天体観測」と「スノースマイル」に挟まれてやや影の薄い「ハルジオン」もまた初期バンプの名曲 歌詞 | A Flood of Music

今日の一曲!BUMP OF CHICKEN「ハルジオン」【平成13年の楽曲】

 【追記:2021.1.5】 本記事は「今日の一曲!」【テーマ:平成の楽曲を振り返る】の第十三弾です。【追記ここまで】

 平成13年分の「今日の一曲!」はBUMP OF CHICKENの「ハルジオン」(2001)です。メジャー3rd/通算4thシングル曲で、アルバムとしては『jupiter』(2002)に収録されています。

 前回の浜崎あゆみの記事で述べた通り、2000年以降は僕の音楽趣味が本格的に開花してからの(=親の影響を脱して自らの嗜好が芽生え始めた)期間となるため、以降の更新分はその当時にリアルタイムで好きになったミュージシャンの楽曲からの紹介が中心となります。

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 今回の2001年~は中学生編で、そのトップバッターにバンプを持ってくるというのは、ある意味では非常にありがちなチョイスと言えるでしょう。なぜなら、その音楽性は思春期には刺さりまくる類のものであったからです。バンドの存在を一躍有名にした「天体観測」(2001)を選ばなかったのは少しひねくれていますが、中1の僕にとっては「ハルジオン」のほうが心に響くナンバーであったため、その頃に受けた衝撃を重視したレビューにしようと考えました。

 ただ、バンプを聴き出したきっかけ自体はとてもミーハーで、先の「天体観測」がヒットしていたから以外に理由はありません。しかし、同時期には親の影響でMr.Children・スピッツ・椎名林檎・B'zにも手を出していて(詳細は第十二弾および各リンク先を参照)、その結果「歌詞の良さ」が大きなウェイトを占めるような好みの基準が、僕の中に前提として出来上がっていました。この点に於けるバンプの優秀さは言わずもがなで、歌詞の情報量の多さとストーリー性に富んだプロットを、気に入らない道理がないだろうというわけです。


 ここで言う「歌詞の良さ」は、「歌詞の複雑性」に換言すれば幾らかは具体的になると期待します。以降の補足部は、逆の「単純性」を否定することで主張の補強を試みたものですが、特定ジャンルへのディス表現と自分語り成分が多めなので、苦手だと感じたら読み飛ばしてください。

 補足:当時流行していたバンドサウンドの別のメインストリームとしては、MONGOL800に代表されるような青春パンク系が挙げられるかと思います。モンパチをこれに含めるのには異論もあるようですが、少なくとも中学生の僕の耳は同類として認識していました。今でこそ嫌いではないものの、その頃はこの手のバンドに明確なヘイトを抱いていて、その理由は「歌詞がストレート過ぎるから」に尽きます。周りには好きな人が多かったのでこの意見は表には出しませんでしたし、なんなら話を合わせるために有名曲はしっかりカラオケで歌えるくらいには聴いていましたけどね。今なら「陰キャ乙」で片付けられそうなエピソードですが、いけ好かなかった原因のベクトルは寧ろ逆で、初めて彼女が出来たのが中1の頃だったので、「よくあんなピュアな歌詞を受け容れられるな」と、マセた思考で反発していたのだと自己分析します。バンプも含めて僕が当時好んで聴いていた音楽もメジャーに分類されるものなので、所謂厨二病的にマイナーに流れるのとはまた違いますが、そういう人達からしたら僕も目糞鼻屎だったかもしれないと自虐します。笑

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 …と、中学生らしいこじらせ真っ只中の記憶を掘り返すことで、僕と近い世代の方には懐かしさや恥ずかしさを味わってもらったところで、愈々「ハルジオン」のレビューに入るとしましょう。先に「その音楽性は思春期には刺さりまくる」と記したように、十代のとりわけ前半だからこそ感じ取れた何かを浮き彫りにしたいです。

 主に歌詞解釈に注力するつもりなので、先に作編曲面をまとめて処理します。初期のナンバーということもあって、バンドサウンド以外の装飾はなく、わかりやすくロックなトラックメイキングが特徴的です。渇いた質感と適度な自制心が滲む音作りに、青春パンク系の音楽とは異なるインテリジェンスが感じられ、目指す方向からして違うという理解に至るのには充分でした。

 この硬派な音をバックにして歌われるメロディは、意外にも疾走感を纏ったキャッチーなもので、J-POPのマナー【Aメロ-Bメロ-サビ方式】に則った楽想で3番まで着実に消化されていく点も加味すると、邦ロック好きの精神性に直に訴えかけてくるような馴染みやすさがあると言えます。勿論突き詰めていけば洋楽の影響を見出すことも可能ですが、リスペクトやオマージュとして奏でられるロックというよりは、日本語の利点を活かして自分達ならではの音で表現しようという気概が大きく感じられるところが、本曲ひいてはバンプに対して下したい高評価のポイントです。


 ということで、以降は歌詞内容を掘り下げていきます。先に全体の構造をざっと表すと、"生きていく意味"や"自分の価値"の象徴として確かにあったはずの"白い花"が、気付かぬうちに枯れていたとわかって絶望を意識した後に、再び"新しい芽"を見つけて希望を取り戻すという流れとなり、展望の明るい話運びが印象的です。このようにストーリー性は申し分ありませんが、この表示の仕方では「歌詞の複雑性」に結び付きにくいと思うので、もう少し細かく分解していきます。

 まずは立ち上がりの一節、"虹を作ってた"から。この水遣りの婉曲表現は一見ロマンチックで素敵に映りますが、行為の対象或いは目的に「花を慈しむこと」が意識されていないのが哀しく(="白くて 背の高い花"は、"視界の外れで 忘れられた様に 咲いてた"からです)、あくまでも「虹を作ること」に主眼が置かれているので、"僕"が自分本位に陥っていることを明らかにするには充分です。とはいえ、"名前があったなぁ"に、"思い出せる 忘れられたままの花"と、存在の輪郭が浮かび上がる段階には来ているため、現状に何処か違和感があることは認識していると受け取れます。


 これを受ける2番は、更に過去を顧みて「なぜ虹を作ることを始めたのか?」が問われるシーンです。直接的な動機は"一度 触れてみたかった"と純粋なものですが、"大人になったら 鼻で笑い飛ばす 夢と希望/ところが 僕らは 気付かずに 繰り返してる/大人になっても 虹を作っては 手を伸ばす"と続くことを踏まえると、いつの間にか本来の目的が消失している哀しさが描かれていると受け取れます。

 Bの"幾つもの景色を 通り過ぎた人に 問う/君を今 動かすモノは何? その色は? その位置は?"も、後のサビで"ほら 今も 揺れる白い花/僕は気付かなかった 色も位置も知っていた"に結ばれることからも明らかであるように、原点は「虹をつくること」ではなく「花を慈しむこと」にあったはずで、そのために"ブリキのジョウロ"を傾けていたのではないのか?と、根源を問うものでしょう。


 3番A頭のフレーズ、"虹を作ってた いつしか花は枯れてた"が、この目的の挿げ替えを端的に表すもので、いくら水を遣ってもそれが花に対する行為でないのであれば、"視界にあるのは 数えきれない 水たまりだけ"なのも当然です。その後も悔恨の歌詞が続き、"枯れて解ったよ あれは僕のタメ 咲いてた"で、事の罪深さが重く圧し掛かってきます。

 ここで終わっていても、それはそれで訓戒めいていて悪くはないと思いますが、"水たまりの中の 小さな芽 新しい芽"を登場させることで、"生きていく意味"と"自分の価値"を回復するという展開の美しさを前にすると、やはり未来志向のクロージングこそが最適解ですよね。これは編曲の観点でも言えることで、アウトロの切なくも煌めくギターサウンドを耳にしたら、この幕の引き方で良いんだと納得せざるを得ません。

 "枯れても 枯れない花が咲く/僕の中に深く 根を張る"には、今度こそ盲目にはなるまいとする強い意志が窺えますし、〆の"僕の中で揺れるなら/折れる事なく揺れる 揺るぎない信念だろう"からは、困難や障害のメタファーたる意地悪な風に吹かれても、しなやかに受け流して咲き続けられるだけの自己が確立したことが見て取れ、この"僕"ならば「花を慈しむ目的で虹を作ること」が可能であると断言出来ます。


 この一連の流れの中で、僕が特に好いている点は二つあり、ひとつは「虹」という普通であればそれ自体がメインとなりうるモチーフを副次的に扱っているところで、ここまでの歌詞の掘り下げは主にこの点を明白にするものでした。

 ただ、決して「虹」が軽視されていると言いたいわけではなく、その美しさと儚さが各々の"夢と希望"を代弁していることは、2番の歌詞からも確かです。もうひとつの美点はここにあって、Aの"大人になっても"や、Bの"幾つもの景色を 通り過ぎた人"に示されている通り、年齢や経験を重ねれば重ねるほどに眩しくて見えなくなってしまうような危うさへの言及が、当時未だ中学生だった僕には予言じみて聴こえました。「この曲の真の意味はもっと大人になってからではないとわからないんだろうなぁ」といった感想が、子供の立場でいられる安心感と早く大人を知りたい欲求との狭間に生まれたがゆえに、殊更「刺さった」のだろうとまとめておきます。


 実際、僕は中学卒業と共にバンプからは一度卒業していて、その後再び聴き始めたのは二十歳を過ぎてからでした。嗜好・遍歴紹介記事の範疇では、m-floやRIP SLYMEも同じ経緯を辿っているのですが、今は共に好きでも一度離れてしまった存在とそうでない存在が居るのは、ピンポイントで思春期の(主に十代前半時の)心にだけ響く繊細さがあるかどうかで分かれる気がします。あくまで個人的なケースなので一般化するつもりはありませんし、どちらが優れているという話でもありませんけどね。