
今日の一曲!Mr.Children「I'LL BE」【平成11年の楽曲】
【追記:2021.1.5】 本記事は「今日の一曲!」【テーマ:平成の楽曲を振り返る】の第十一弾です。【追記ここまで】
平成11年分の「今日の一曲!」はMr.Childrenの「I'LL BE」(1999)です。曲名を全て大文字で表記することでわかる人にはわかる符号となりますが、本記事で主に扱うのはリカットシングルに於ける同曲のことで、7thアルバム『DISCOVERY』(1999)に収録されている小文字の「I'll be」とは異なります。
アルバムver.のほうが有名で、シングルver.はディスク自体のニッチさもあって印象が薄いかもしれないといった点では、今回の振り返りの第十弾で取り上げた別アーティストの楽曲と似た境遇にあると言えます。
フィジカルでの音源入手は上掲の8cmを購入する以外になく、唯一の収録先となっていたアルバム『Mr.Children 1992-2002 Thanksgiving 25』(2017)は配信オンリーでしかも期間限定の作品であったため、音源だけでもいいから今すぐに欲しいという方は、シングルの配信版を買うことになるでしょう。
また、後発でリリースされたバージョン(本曲についてはリカットゆえシングルが後です*)に於いて大胆な編曲が施され、アッパーなサウンドへと変貌を遂げているのも共通項です。歌詞内容は変わらずに、9分超えの大作が約5分半に圧縮されていることからもそれは推し測れます。
* 楽曲の実際の成立過程としては、先に出来上がっていたのはアッパーなアレンジのほうらしいです。Wikipediaに出典なしで掲載されていた情報がソースで恐縮ですが、この話は僕も昔何処かで知った覚えがあることを補足しておきます。この経緯が正しければ、前述の変貌云々には語弊があることになりますが、あくまでもリリース月日に基いて前後を判断したがゆえの表現だとご了承ください。
さて、この「I'll be」(=アルバムver./小文字)と「I'LL BE」(=シングルver./大文字)。どちらもリリース年的には【平成11年の楽曲】となるため、第十弾の時とは違って同時に扱っても本来は構わないのですが、冒頭に書いた通り本記事では後者にフォーカスしていきます。理由は突き詰めれば単純で、前者より編曲が好みだからです。
先に聴いたのはアルバムver.で、その段階では歌詞が抱く熱量に相応しいだけの壮大な音解釈を高く評価していたのですが、後にシングルver.の存在を知ってからは、このスピード感があってこそ真のポジティブネスが完成しているとの感想が上乗せされ、いつのまにかお気に入りが逆転していました。少なくとも中学生の頃には、既に「大文字のほうがいいじゃん!」と新たな発見を喜んでいた記憶があります。
長らくこの評価を堅持してきたものの、発表から20年経った今改めて同曲に向き合ってみたら、より深みのある「I'll be」を再び気に入るかもしれないと、一応の聴き比べを試みてみました。その結果、やはり「I'LL BE」こそが至高であるとの結論に至ったので、以降はこの理由を考察していくことで楽曲の掘り下げを行います。元々好きだったアルバムver.を否定する内容にはしていないので、あまり構えずにご覧いただければ幸い。
キーとなるのは「歌詞が抱く熱量」です。これは今し方アルバムver.に対して用いた言葉ですが、歌詞内容が同じである以上は、同様にシングルver.にも当て嵌められる理屈となります。両者の違いはもう少し具体的に修飾すれば見えてきて、前者は「ポテンシャルとしての熱量」を、後者は「アクチュアルな熱量」を宿している点で異なる、というのが僕の主張の肝です。
つまりは「潜在のI'll be」対「顕在のI'LL BE」の見方で、文法と文脈が対応しているのは前者でありながら、後者にはこの転倒を撥ね退けるだけの強い実現性があるところを絶賛します。この言い回しで小難しければ、歌詞から窺える未来志向のエネルギーが、アレンジの違いによって別々の顔を見せていると換言しても構いません。
ミスチルのナンバーには言葉に勇気付けられるものが数多くあり、中でもとことんポジティブシンキングが突き詰められている歌詞は殊更に愛おしく、例えば後発の楽曲では「CENTER OF UNIVERSE」(2000)や「跳べ」(2005)のそれが好例ですが、これらの根底にある前向きで明るい展望を内包せしエッセンスは、疾走感を纏う編曲でこそ強く抽出されるとの認識です。「CENTER~」では曲中盤からの開き直りにも似た急加速で、「跳べ」では離陸へ向けて着実に滑走していく積み重ねの楽想で、この本質へアプローチしていると理解出来ますが、これと同様の趣を顕著に味わいたいのであれば、分があるのはシングルver.であると感じます。
サビの"生きている証を 時代に打ち付けろ/貧弱な魂で 悪あがきしながら"の部分を例にとってみましょう。アルバムver.では、アンビエントな立ち上がりから落ち着いたアレンジをバックにテンダーな歌声でもってここまで来て、相対的に声量の増したボーカルで歌い上げられるセクションです。これも確かに前向きなアウトプットではあるのですが、イメージとしては這う這うの体から漸く立ち上がろうとしている段階に映り、歌詞で言えば後半の"貧弱な魂で 悪あがきしながら"に重きが置かれている印象を受けます。
一方のシングルver.では、イントロから青空や大海が目に浮かぶような光を帯びたサウンドスケープが披露されていて、ボーカルの質感も歌い出しから明瞭です。メロディラインにもバンドサウンド(とりわけBメロ裏のギター)にも上昇の向きがあり、その心地好さを巻き込んだまま、"生きている証を 時代に打ち付けろ"に続いていきます。今度は反対に前半の歌詞が際立っていて、実際に何かを残せそうな勢いと余裕を感じさせるところが尚更に素敵です。
このように本曲の歌詞の大部分は、明るいサウンドでこそ説得性を大いに伴って響いてくるものだと考えています。アルバムver.の音も総合的には決してネガティブではないのですが、枷を外しきれていない引っ掛かりがある面は否定出来ません。ただ、これをリアルな人間らしさと見做すのであれば、真に胸に刺さるのは小文字の「I'll be」であろうとフォローはしておきます。
それでも敢えて大文字の「I'LL BE」を推すのは、歌詞に散見されるファンタジックな言辞や比喩に、寧ろ人間らしさ(=人間或いは個人という枠組みの限界)は似合わないと考えているからです。例えば"今日はゾウ 明日はライオンてな具合に/心はいつだって捕らえようがなくて/そんでもって自由だ"は、わかりやすく人外へとトランスフォームしている一節ですよね。
"笑いたがる人にはキスを/そしていつだって I say yes."には、現実的に実行するのが難しい過剰なまでの積極性と全肯定のアクションが含まれていますし、"不安や迷いと無二の親友になれればいい"は、相当の遅疑逡巡を背景にした悟りの境地でこそ出る言葉でしょう。"腑甲斐無い自分に 銃口を突き付けろ"も、精神的な自害の提示で覚悟のほどが伝わってきますし、"駆け引きの世界で 僕が得たものを/ダスターシュートに投げ込むよ"に見られる能動的な手放しは、言うは易く行うは難しの典型です。
このような種々の困難を乗り越えて何かしらの偉業を実現させそうな、言わば人間離れした痛快さを意識させる言葉の数々は、「I'll be」の編曲では願望の成分が優勢で、「潜在的な可能性の美学」に誘導するものである気がします。一方で「I'LL BE」の編曲は、自己実現へ向けた明確なナビゲーションとして、「顕在化しつつある情熱への気付き」を促すものであると僕には思えたため、成功の見込みがより大きく描かれている後者の励まし方のほうが、一層好みだというロジックです。
同じことを何度も言い換えているだけな気もしますが、以上が「歌詞が抱く熱量」に対する「潜在 vs 顕在」の見方で、「同一の歌詞が編曲の違いで意味合いを変える」ことの説明でもあり、総合して僕がシングルver.の「I'LL BE」を好む理由となります。
最も気に入っている歌詞を取っておいたので満を持して最後に引用しますと、2番Aの"ピーナツをひとつ 噛み砕きながら 飲み込んでしまった想いは/真夜中 血液に溶けて 身体中をノックした"は、何気ない日常のモーションから期せず覚醒に至る時の頭脳の明晰さを鮮やかに切り取ったフレーズであると解釈出来、この天才的な表現力には脱帽するほかありませんでした。
【追記:2019.5.20】
ブログを整理している過程で、非公開にしていた旧い記事に本曲への言及があったことに気が付いたので、どうせならと復活させてみました。
平成11年分の「今日の一曲!」はMr.Childrenの「I'LL BE」(1999)です。曲名を全て大文字で表記することでわかる人にはわかる符号となりますが、本記事で主に扱うのはリカットシングルに於ける同曲のことで、7thアルバム『DISCOVERY』(1999)に収録されている小文字の「I'll be」とは異なります。
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アルバムver.のほうが有名で、シングルver.はディスク自体のニッチさもあって印象が薄いかもしれないといった点では、今回の振り返りの第十弾で取り上げた別アーティストの楽曲と似た境遇にあると言えます。
フィジカルでの音源入手は上掲の8cmを購入する以外になく、唯一の収録先となっていたアルバム『Mr.Children 1992-2002 Thanksgiving 25』(2017)は配信オンリーでしかも期間限定の作品であったため、音源だけでもいいから今すぐに欲しいという方は、シングルの配信版を買うことになるでしょう。
また、後発でリリースされたバージョン(本曲についてはリカットゆえシングルが後です*)に於いて大胆な編曲が施され、アッパーなサウンドへと変貌を遂げているのも共通項です。歌詞内容は変わらずに、9分超えの大作が約5分半に圧縮されていることからもそれは推し測れます。
* 楽曲の実際の成立過程としては、先に出来上がっていたのはアッパーなアレンジのほうらしいです。Wikipediaに出典なしで掲載されていた情報がソースで恐縮ですが、この話は僕も昔何処かで知った覚えがあることを補足しておきます。この経緯が正しければ、前述の変貌云々には語弊があることになりますが、あくまでもリリース月日に基いて前後を判断したがゆえの表現だとご了承ください。
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さて、この「I'll be」(=アルバムver./小文字)と「I'LL BE」(=シングルver./大文字)。どちらもリリース年的には【平成11年の楽曲】となるため、第十弾の時とは違って同時に扱っても本来は構わないのですが、冒頭に書いた通り本記事では後者にフォーカスしていきます。理由は突き詰めれば単純で、前者より編曲が好みだからです。
先に聴いたのはアルバムver.で、その段階では歌詞が抱く熱量に相応しいだけの壮大な音解釈を高く評価していたのですが、後にシングルver.の存在を知ってからは、このスピード感があってこそ真のポジティブネスが完成しているとの感想が上乗せされ、いつのまにかお気に入りが逆転していました。少なくとも中学生の頃には、既に「大文字のほうがいいじゃん!」と新たな発見を喜んでいた記憶があります。
長らくこの評価を堅持してきたものの、発表から20年経った今改めて同曲に向き合ってみたら、より深みのある「I'll be」を再び気に入るかもしれないと、一応の聴き比べを試みてみました。その結果、やはり「I'LL BE」こそが至高であるとの結論に至ったので、以降はこの理由を考察していくことで楽曲の掘り下げを行います。元々好きだったアルバムver.を否定する内容にはしていないので、あまり構えずにご覧いただければ幸い。
キーとなるのは「歌詞が抱く熱量」です。これは今し方アルバムver.に対して用いた言葉ですが、歌詞内容が同じである以上は、同様にシングルver.にも当て嵌められる理屈となります。両者の違いはもう少し具体的に修飾すれば見えてきて、前者は「ポテンシャルとしての熱量」を、後者は「アクチュアルな熱量」を宿している点で異なる、というのが僕の主張の肝です。
つまりは「潜在のI'll be」対「顕在のI'LL BE」の見方で、文法と文脈が対応しているのは前者でありながら、後者にはこの転倒を撥ね退けるだけの強い実現性があるところを絶賛します。この言い回しで小難しければ、歌詞から窺える未来志向のエネルギーが、アレンジの違いによって別々の顔を見せていると換言しても構いません。
ミスチルのナンバーには言葉に勇気付けられるものが数多くあり、中でもとことんポジティブシンキングが突き詰められている歌詞は殊更に愛おしく、例えば後発の楽曲では「CENTER OF UNIVERSE」(2000)や「跳べ」(2005)のそれが好例ですが、これらの根底にある前向きで明るい展望を内包せしエッセンスは、疾走感を纏う編曲でこそ強く抽出されるとの認識です。「CENTER~」では曲中盤からの開き直りにも似た急加速で、「跳べ」では離陸へ向けて着実に滑走していく積み重ねの楽想で、この本質へアプローチしていると理解出来ますが、これと同様の趣を顕著に味わいたいのであれば、分があるのはシングルver.であると感じます。
サビの"生きている証を 時代に打ち付けろ/貧弱な魂で 悪あがきしながら"の部分を例にとってみましょう。アルバムver.では、アンビエントな立ち上がりから落ち着いたアレンジをバックにテンダーな歌声でもってここまで来て、相対的に声量の増したボーカルで歌い上げられるセクションです。これも確かに前向きなアウトプットではあるのですが、イメージとしては這う這うの体から漸く立ち上がろうとしている段階に映り、歌詞で言えば後半の"貧弱な魂で 悪あがきしながら"に重きが置かれている印象を受けます。
一方のシングルver.では、イントロから青空や大海が目に浮かぶような光を帯びたサウンドスケープが披露されていて、ボーカルの質感も歌い出しから明瞭です。メロディラインにもバンドサウンド(とりわけBメロ裏のギター)にも上昇の向きがあり、その心地好さを巻き込んだまま、"生きている証を 時代に打ち付けろ"に続いていきます。今度は反対に前半の歌詞が際立っていて、実際に何かを残せそうな勢いと余裕を感じさせるところが尚更に素敵です。
このように本曲の歌詞の大部分は、明るいサウンドでこそ説得性を大いに伴って響いてくるものだと考えています。アルバムver.の音も総合的には決してネガティブではないのですが、枷を外しきれていない引っ掛かりがある面は否定出来ません。ただ、これをリアルな人間らしさと見做すのであれば、真に胸に刺さるのは小文字の「I'll be」であろうとフォローはしておきます。
それでも敢えて大文字の「I'LL BE」を推すのは、歌詞に散見されるファンタジックな言辞や比喩に、寧ろ人間らしさ(=人間或いは個人という枠組みの限界)は似合わないと考えているからです。例えば"今日はゾウ 明日はライオンてな具合に/心はいつだって捕らえようがなくて/そんでもって自由だ"は、わかりやすく人外へとトランスフォームしている一節ですよね。
"笑いたがる人にはキスを/そしていつだって I say yes."には、現実的に実行するのが難しい過剰なまでの積極性と全肯定のアクションが含まれていますし、"不安や迷いと無二の親友になれればいい"は、相当の遅疑逡巡を背景にした悟りの境地でこそ出る言葉でしょう。"腑甲斐無い自分に 銃口を突き付けろ"も、精神的な自害の提示で覚悟のほどが伝わってきますし、"駆け引きの世界で 僕が得たものを/ダスターシュートに投げ込むよ"に見られる能動的な手放しは、言うは易く行うは難しの典型です。
このような種々の困難を乗り越えて何かしらの偉業を実現させそうな、言わば人間離れした痛快さを意識させる言葉の数々は、「I'll be」の編曲では願望の成分が優勢で、「潜在的な可能性の美学」に誘導するものである気がします。一方で「I'LL BE」の編曲は、自己実現へ向けた明確なナビゲーションとして、「顕在化しつつある情熱への気付き」を促すものであると僕には思えたため、成功の見込みがより大きく描かれている後者の励まし方のほうが、一層好みだというロジックです。
同じことを何度も言い換えているだけな気もしますが、以上が「歌詞が抱く熱量」に対する「潜在 vs 顕在」の見方で、「同一の歌詞が編曲の違いで意味合いを変える」ことの説明でもあり、総合して僕がシングルver.の「I'LL BE」を好む理由となります。
最も気に入っている歌詞を取っておいたので満を持して最後に引用しますと、2番Aの"ピーナツをひとつ 噛み砕きながら 飲み込んでしまった想いは/真夜中 血液に溶けて 身体中をノックした"は、何気ない日常のモーションから期せず覚醒に至る時の頭脳の明晰さを鮮やかに切り取ったフレーズであると解釈出来、この天才的な表現力には脱帽するほかありませんでした。
【追記:2019.5.20】
ブログを整理している過程で、非公開にしていた旧い記事に本曲への言及があったことに気が付いたので、どうせならと復活させてみました。
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