Fantôme / 宇多田ヒカル | A Flood of Music
2016年10月01日

Fantôme / 宇多田ヒカル

テーマ:宇多田ヒカル・Utada
 宇多田ヒカルの6thアルバム『Fantôme』(ファントーム)のレビュー・感想です。"人間活動"と称して長らく活動を休止していた彼女が本格的に音楽活動を再開する…というニュースを春に耳にしたときは、待ってましたという思いを抑えられませんでした。

Fantôme/Universal Music =music=

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 活動休止中も配信シングルや記念アルバムなどの散発的なリリースはありましたが、オリジナルアルバムとしては5th『HEART STATION』(2008)以来なので、実に8年ぶりということになりますね。彼女はこの8年という長い月日の間に、母親(藤圭子)の死、再婚、出産など重大なライフイベントを経験していますが、アーティストとしてではない、"ひとりの人間としての宇多田ヒカル"という期間を経ての新作ということなので、これまでの作品には見られなかった新たな一面が見えるものになるのではないかと、発売前から期待大でした。

 先に結論からいうと、期待以上の作品が生み出されたなと軽く衝撃を受けました。個人的には間違いなく最高傑作だと思います。既に配信リリースされていた曲の良さは織り込み済みでしたが、椎名林檎が参加するという超絶的吉報に加え、『SONGS』(NHK総合)で披露されたアルバム曲の素晴らしさを受け、これはとんでもない名盤の予感がするぞと更にハードルを上げていたにもかかわらず、軽々と超えられてしまったという感じです。

 とにかくアルバムとしての完成度が高いと思う今作、1曲ずつレビューしていきます。


01. 道

 本人が出演しているサントリーのCMソングで、『SONG』でも披露されました。そこで聴いた時からガツンときていた曲で、新生宇多田ヒカルのアルバムの幕開けにポジティブな曲が据えられていることにまず安心しました。

 プログラミング主体のビート感のあるアレンジ…これぞ宇多田ヒカルの曲という懐かしいサウンドで更に安心。ガラッと印象を変えてくることもあり得ると思っていましたが、ブランクを感じさせないポップな曲に仕上がっています。「道」というタイトルにぴったりの、軽やかなステップを踏むような跳ね感のあるビートで凄く好み。

 しかし、彼女の歌声には確かに変化があるなと感じました。『SONGS』での糸井重里さんによるインタビューの中においても本人が語っていましたが、すごく自然体で歌っているというか、苦しそうな感じがなくなっていると思います。今までの歌い方もそれはそれで彼女の魅力であったと思いますが、今の歌声のほうが耳にすっと言葉が入り込んできますね。

 インタビューの中では、母親である藤圭子の存在の大きさについても語られていましたが、この01.「道」は、一見孤独な実在でも、心の中の大きな存在に寄り添われ、支えられ、導かれているんだという気付きに着目した、自分から自分へ贈る応援歌だと思います。きっかけは"あなた"でも、あくまでもこの道を往くのは自分であるという軸は揺らいでいないなと。

 宇多田ヒカルで"標識"というと「COLORS」の歌詞が思い浮かんだのですが、それと比べると、"人生の岐路に立つ標識は/在りゃせぬ"という、標識の存在ごと消し去った歌詞は痛快です。このような前向きな表現にあふれ、それらを端的に"It's a lonely road/But I'm not alone"というフレーズに集約させているのが上手いと思います。

 あとは、日本語詞によるユーモラスなメロディと英語コーラスの流麗なメロディが混在するBメロや、サビの"road"だけが間を置いて低音で歌われるところなど、いい意味でちょっとはずしてきていると感じるポイントが面白いです。


02. 俺の彼女

 ベースとピアノが印象的なクールなサウンドをバックに"俺"の視点で歌われるので、なんだかハードボイルドな空気が漂う始まり方ですが、ざわつくようなストリングスが入ってからは視点が"私(彼女)"に移り、すれ違う男女の様が描かれます。この交代が再び繰り返され、ついには"狐と狸の化かし合い"とまで表現される恐ろしい事態に。

 ここからは更に"私"の心の内へと描写が進み、徐々に疼いて破裂しそうな心情が述べられます。そんな想いとリンクするように厚みを増していくストリングスから受ける印象は、まだ静かな炎。ところで、サビのフランス語は直前の日本語詞の意訳でしょうか。いくつか英単語を連想できる綴りのものがあるので、それらをヒントにするとそうなんじゃないかと。

 ここまで、"俺"は"彼女"の心に気付いていない道化のような描写のされ方でしたが、ここで"俺"もただ鈍感なだけではないことを示す一節が入り、男としては何とも言えない気持ちになる。なんて哀しい自己分析。

 最後のサビに入ると、ストリングスもドラムスも一層熱を帯びて、静かな炎どころではなくなっていきます。想いだけが炎上していく空しさよ。最後のノイズ混じりのシンセが狂気の後の冷静という感じで好き。しかし、ここで終わらずまた"俺"視点の始まりに戻るので、この二人の"化かし合い"は続いていくんじゃないかなぁと思う。

 こういうメロディ自体に派手さはないけれど、繰り返しとアレンジの積み重ねによって勢いを増していく曲が最終的にいちばん好きになることが多いです。それにしてもフランス語はこういう曲によくマッチしますね。


03. 花束を君に



 配信シングルで、NHK連続テレビ小説『とと姉ちゃん』の主題歌としても既にお馴染みですね。宇多田ヒカル復活の曲というイメージの方も多いのではないでしょうか。

 ストレートな歌詞に優しいメロディ、そして歌を引き立たせる主張しすぎないアレンジと、シンプルにいい曲だなと思えるようなつくりになっています。そんな中、特徴的に使われているのは息遣い(吐息)の挿入ですね。

 この曲に関してはあまりごちゃごちゃと語る必要はないと思います。聴けばわかる、素敵な曲。


04. 二時間だけのバカンス featuring 椎名林檎



 椎名林檎が宇多田ヒカルのニューアルバムに参加するという一報を受けた時は、思わず狂喜してしまいました。椎名林檎『唄ひ手冥利~其の壱~』(2002)収録「i won't last a day without you」(Carpentersのカバー)で一度コラボしていますが、オリジナル曲での共演は初。

 東芝EMIのデビュー同期ということで、以前から仲の良さは周知のところでしたが、こうして宇多田ヒカル復活のアルバムに椎名林檎の名を連ねることを良しとしたのをみると、共に何かやってやろうじゃないかという二人の熱い想いが伝わってくるようです。

 東芝EMIガールズとしても名を馳せた二人ですが、この04.「二時間だけのバカンス」は、ガールズという言葉ではおさまりきらない、大人の女性…もっといえば母となった二人による新たな魅力が花咲いた曲です。

 "ドレス"や"ハイヒール"が"物語の脇役"になったところからわかる時間の経過と立場の変化。歌の立ち上がりこそ憂いを帯びていますが、この曲はそんな愛すべき"優しい日常"からの"エスケープ"がテーマ。"足りないくらいでいいんです/楽しみは少しずつ"。確かにこの境地は20代の時には言えない(言っても説得性に欠く)なと思いました。笑

 1番を宇多田ヒカルが、2番を椎名林檎がメインで担当、Cメロはそれぞれ2行ずつ歌唱、ラスサビは二人でメインを張るという均等配分が行き届いたデュエット。サビは1番・2番・ラスト全てでメインとコーラスの分配が変動しますが、全部素晴らしいです。本来は二人とも主張が強い歌声だと思いますが、メインに回ってもコーラスに回っても心地好いですもん。宇多田ヒカルの歌声の変化については前述しましたが、「i won't last a day without you」と聴き比べると、椎名林檎の歌声もいい意味で刺がなくなっているなと改めて思います。

 作詞も作曲も宇多田ヒカルですが、椎名林檎が書いたと言われても不思議じゃないです。よくわかっているなぁと少しにやける。ただ、少し不思議なのは、Cメロの歌詞に"授業"という単語が出てくること。ここだけ急に10代が顔を出したような感じですが、精神性のことかな。それとも"レッスン"ぐらいの意味で使っているのかな。

 そしてMV(監督:児玉裕一)も素晴らしい!最初ちらっと見たのがラスサビの映像だったから、えっ、もしかしてそういうMVなの!?とドキドキしてしまいました。笑
 全体を通して見たらひたすらスタイリッシュで、この壮大で色鮮やかな独特の世界観というのが実に宇多田ヒカルのMVらしくて良かった。


05. 人魚

 クールダウンの役割を担っていると思われるゆったりとした曲。04.「二時間だけのバカンス」の"渚"と繋がっているようにも思える。

 「人魚」というタイトルに加えて美しいハープの音色が耳に優しく響くので、脳内に幻想的な映像が広がります。この世界観を壊さず着実に刻まれるドラムスもかっこいい。


06. ともだち with 小袋成彬

 『SONGS』でも披露された、小袋成彬とのコラボ曲。これもそこで聴いた時からめちゃくちゃいいと思っていた曲で、切ない歌詞に胸がチクチクします。

 同番組においては「同性愛者の同性愛者ではない方へ秘めた思いの歌」と解説されていましたが、異性愛者の関係においても成立する内容だと思いました(よって、次の感想は異性愛者としての立場から書きました)。友達を友達として見れないことに気付いてしまった時の心情が見事に表現されています。

 友達を好きになってしまうということは割とよくあるので、この曲の心情はよくわかります。しかし経験上、恋仲になるような人とは"友達"といえる期間が存在しないです。恋人になる人とはお互いに最初からそういう予感めいたものがあるというか、段階を踏んでいく感じじゃないんですよね。だから、友達は友達のままにしておいたほうが幸せだと頭では思います。

 二人の歌声が奏でるハーモニーも素敵で心地好いんですが、なんといってもブラスアレンジがとても素晴らしいと思います。基本的にはゆるりとした感じのトラックですが、ブラスが入ることで沸々と湧き出る想いが表れているような、そんな心の動きを感じますね。


07. 真夏の通り雨



 『NEWS ZERO』(日本テレビ)のテーマ曲としてもお馴染みの配信シングル曲。既に公開されていたMV(監督:柘植泰人)で全体像は把握していましたが、改めてCDで聴いてやはり名曲だなと思いました。このアルバムでいちばん好きです。MVも他人の日常風景ばかりなのに全て自分の思い出のように感じられてより一層切ない。

 ピアノだけをバックにしっとりと歌い上げられる前半、メロディの美しさと歌詞の儚さに胸を締め付けられます。歌詞が"今日"に移り、心臓の鼓動のようなキックが入るパートは、夢幻の世界を置き去りに現実が進行している様を表現しているのだろうか。

 クライマックスといえる"木々が芽吹く"~のパートは、泣きたくなるようなストリングスと切なさが具現化したようなメロディがあわさって、"真夏の通り雨"という激しさを増す自然現象に平静を装っていた心がかき乱されていく過程をなぞっていくよう。特に"思い出たちがふいに私を/乱暴に掴んで離さない"という表現が心に刺さりました。幸せな思い出や記憶に襲われるような感覚、わかります。

 そして再び心臓の鼓動のようなキックが、今度は早鐘を打つような間隔で挿入され緊張はピークに。他アーティストを引き合いに出しますが、ここのキックとストリングスが光るアレンジは、パートナーとの別離をテーマにしたbjörkのアルバム『Vulnicura』(2015)に見られるような世界観で好きです。国は違えど、共通の世界を構築しているような気がする。

 ここまでの展開で既に涙腺にきていたのですが、最後の"ずっと止まない止まない雨に/ずっと癒えない癒えない渇き"の繰り返しで完全に崩壊。今年リリースされた曲の中でいちばん心を抉った曲&フレーズです。宇多田ヒカルの別離の曲には「SAKURAドロップス」や「Letters」などがありますが、曲のラストに低い声でフレーズを繰り返すパートがあるところが共通していて、どうもそういう展開に弱いみたい。3曲ともフェードアウトしていく終わり方なのがまた切ない。


08. 荒野の狼

 いきなり変なことを言いますがどうしても思っちゃったので先に。Aメロのはじまり、マックのポテトが揚がった時のメロディ。笑

 シニカルな歌詞と凝ったアレンジが光る曲です。特にBメロのアレンジが好きで、1番の切ないピアノも2番の勇壮なブラスも素敵。そういったサウンドがまさに"荒野の狼"って感じがします。

 あと、"夜"の空気感も良く出ていると思った。サビは心象風景で、サビ以外が現実描写だと思いますが、どちらにおいても時間帯は深夜二時から日の出直前あたりまで。"朝が怖い"に"明日が怖い"…不安と抱えながらも夜の闇に矜持を保ち確かに生きているもの達の想いを歌ったエレジーであり、そんな"私たち"のラブソングと受け取りました。

 しかし最後は"永遠の始まりに背を向ける 私たち"と結ばれ、哀しい性を思わせます。そしてラストのブラスセクションは朝日が射してきたということの表現だと思いました。夜を越えた眼には暴力的過ぎる陽光を浴びて、また独り。


09. 忘却 featuring KOHH

 本作の中でいちばん異色の曲。というか宇多田ヒカル全曲中でもかなりの異色作。ラッパーのKOHHをフィーチャリングしたトラックメイクが新境地という感じです。

 1分半を超える長いイントロの後にKOHHのラップからスタート。彼のラップは初めて聴きますが、ポエトリーリーディングに近いというか、独特な感じですね。この曲だけたまたまそうなのかもしれませんが、泣き出しそうな声色がクセになります。

 ラップが終わると宇多田ヒカルに選手交代。緊張感の漂う間が存在を顕にしているメロディを経て、メインの歌詞を追従するコーラスが独特の浮遊感を生んでいるサビへ。"強いお酒にこわい夢"という組み合わせに潜む狂気にドキッとします。

 2番のラップはライムとフロウがより鮮明になり1番とはまた違った印象に。サビも1番にあった間が省かれ矢継ぎ早に紡がれるメロディへと変貌を遂げているので、1番の段階では少し難解な曲かなという印象だったのが、いつの間にかすっと耳に馴染む展開になっていて流石です。


10. 人生最高の日

 この曲は過去作に入っていても違和感がないと思いました。新機軸の曲の後に登場するので、余計に懐かしいような気持ちになって安心した。

 この曲はハッピーなクラップが素晴らしいと思います。これだけでも心が躍る。恋をして周囲の余計なものが見えなくなっていく感覚が、歌詞にも音にも表れている感じ。サビのバックでずっと鳴っている優しいシンセの音もいい味出してます。

 "こんな歌聴いてテンションあげなくたって/平常心 崩壊寸前"という自己言及的な一節があるのも面白い。今後この曲をこういうシチュエーションで聴くであろうリスナーのことを予測した歌詞じゃないかな。


11. 桜流し



 ラストは、配信シングルおよびDVDシングルとして活動休止中に唯一リリースされた、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』のテーマソング。リリースは4年前ですが、埋め込んだMV(監督:吉崎響)は、本作の発売を記念して新たに制作されたものだそうです。

 "人間活動"中の曲をラストに持ってきたのは意外といいますか、そもそも「桜流し」は収録されないんじゃないかと思っていました。

 しかしそういった背景は考慮せず純粋に曲だけみれば、ラストを飾るのに相応しい歌だと思います。歌詞全体としては重い別離の内容ですが、"Everybody finds love/In the end"というフレーズに代表されるように、この先も続いていくということを言いたいがためのこの位置なのかなと思ったので。

 "もう二度と会えない"~ラストにかけての苦しいほどの美しさは圧巻です。クレジットに生楽器としては載っていないので打ち込みだと思うのですが、笛のような音色が胸を締めつけます。このようにアレンジにおいても、この完成しきったラストの後に配置できる曲はなかなかないよなと思いました。


 以上、全11曲。こうして並べてみると、本当にアルバムとしての完成度が高いなと思います。今までの作品の完成度が低いといいたいわけではありませんが、曲のバラつきが大きいというか、個人的に好きな曲とそうでもない曲の差が大きいと感じていたのは事実です。

 しかし、このアルバムは全ての曲がバランス良く配置されていて、かつ単品で見てもいい曲ばかりだなと思いました。従来の楽曲を思わせるものもありましたが、新機軸の曲やコラボ作品もあって、むしろバラエティに富んでいるのに、どうしてこんなにまとまっているんだろうと不思議に思いましたが、それについては『SONGS』でのインタビューで本人が語っていたことに答えがあるような気がします。それを踏まえつつまとめてみます。

 まずは、01.「道」のところでもふれましたが、彼女の歌声が自然に響いているという点は大きいと思います。曲によって声色を使い分けていないというか、宇多田ヒカルが曲毎に別の主人公として振る舞って(演じて)いる感じがないので、全て同じ人が感じた想いなんだという一貫性を歌声から感じ取ることが出来、それがまとまりがあるという印象につながっているのではないでしょうか。

 次に、これは"人間活動"を経たことが大きく関係していると思いますが、歌詞の説得性が増したというのも感じられました。この点に関しては「リアリティ」や「肉体的になった」という言葉で語られていたと記憶していますが、まさにその通りで、アーティストとしてではない様々な経験を持ったことで、歌詞の目線が自分自身の目線とより近くなったのではないでしょうか。それは即ちリスナーの視点に近づいたということにもなるので、より深く響くようになるのも頷けます。

 再度いいますが、『Fantôme』は宇多田ヒカル史上最高傑作だと思います。彼女はただ休んでいたわけではなく、今や新たなステージへと進んだ状態であるということを本作で証明してくれたので、これからの作品についてもより良いものになるという予感しかしません。きっとまだまだアウトプットしたいことがたくさんあるはず。でも、とりあえず今はこのアルバムをじっくり聴き込もうと思います。
ようのプロフィール
音楽が僕の耳に届くまで(詳細はイヤホン延命記へ)
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