今日も主にお逢いできましたか?

私もいつまでこのような挨拶ができるか・・・

 

しかし、山本由紀子、この命めされる日まで厳しいけれども、真実である神さまの御言葉これからも叫び続けていくでしょうよろしく・・・

 

今の時では配偶者の死後、義父母らとの親族関係を法的に解消する「死後離婚」が増加傾向にある。届け出のほとんどは女性で、親族関係に嫌気がさしたり、義父母の介護や墓の管理への不安を感じたりして関係断絶に踏み切るケースが多くなって来たそうです。専門家は、今後も増える可能性があるとの見方を示していますが?全く愛のない恐ろしい時代になりましたね。

 

では本題に入りましょう。

 

創世記4:20〜22い、カインの子孫について書かれています。昔は、この子孫の系図は抜かし・抜かしで・・誰々の子なんて知る必要がないじゃん~そう思っていたからです。しかし系図はすごく大切な書であることに気づいてからは、しっかり気にしながら読むんでいますぞ~

 

カインの7代目にトバル・カインという人が出てきます。トバルとは「鍛冶屋」と言う意味で、このトバル・カインが農機具や大工道具を作り、鉄工業や科学技術の先祖となり、トバル・カインの兄弟ヤバルが、農業、食糧の先祖、ユバルが芸術の先祖です。このように神無き人間の文明も、カインの子孫によって作られて行く事になります。

アダムとエバにはカインとアベルの他に、もう一人、セツという子どもがいます。

このセツの子孫から、ノア、アブラハムへとつながった信仰家系が受け継がれて行きます。今朝は「カインとアベル」のお話をしですが、要点を二つ絞って話を勧めて行きます。1つ目は「二人の供え物」についてです。この捧げ物が引き金となった人類最初の殺人事件が起こります。それが今日の聖書にある「カインとアベルの兄弟」です。

 

争いの原因となったのは、神様への二人の供え物です。

第二は「殺されたアベルの血の叫び」についてです。

 

創世記4:1〜5「さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、『私は主によって男子を得た』と言った。彼女はまたその弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。」

 

どうして..

神様は、アベルの供え物に目を留められて、カインの供え物を受入れなかったのか。どちらも、自分たちが汗水流して、アベル家畜の中から、カインは農作物の中から献げました。しかし、ここに献げ物に大きな違いを見つけることが出来ます。

 

アベルは、群れの中で丸々と太って完全な最上の子羊、それも初子をっ捧げています。一方、カインは「土の実り」です。私たちも神様に捧げる場合、どのような献げ物をするでしょうか。献金を例にとるなら、アベルの献げた最高の物、しかも初子という意味は、この献金は神様からいただいた祝福の全部です、そのすべての十分の一神さまに献げますという意味をもっています。

 

アベルは神様に先ず、感謝と悔い改めの祈りと讃美を持って礼拝し、神さまに捧げ物をしています。これこそが、神さまを第一にした信仰の行いです。決して残り物や余り物ではなく、「これは群れの中の最良の良く肥えた初子です。神さまにお捧げいたします。」という意味です。残念ながらカインの方は「土の実り」とだけ記されていますが、二人は神さまに献げた筈ですが、その二人の捧げ物には大きな違いがありました。そしてまた、カインとアベルの捧げ物に対する知識・認識度に相違があります。

 

ヘブル9:12に「血を流すことなしには、罪の赦しはありえない」とありますように、罪人の私たちが神様の前に出る時には、罪の贖いの犠牲の血が必要だったのです。アベルは、自分たちの始祖であるあのアダムの子です。アダムとエバが犯した罪について話を聞かされていたでしょう。

 

自分たちは罪人であり、犯した罪によってエデンの園から追放された。その時、神様が二人のために動物の皮で着物を作って着せて下さったこと。罪を贖う子羊の血によって、罪は聖められ、そして神様の前で感謝の礼拝をし、そして捧げ物を主に捧げる事が出来る・・・父親であるアダムから聞かされていたから、アダムはその事を心にとめて、神さまに捧げ物をするときは、「最良の肥えた子羊それも初子」を献げる事が出来たのです。

 

ここにアベルの信仰があります。

 

その信仰の故に、神様はアベルの供え物を目に留められたのです。親から、「これは悪いことだから、人様に迷惑かけることだからやっては行けないよ」と言われても、それを心に止めることもなく、右から左に抜けてく、聞く耳を持たない者は必ず正しい道から離れてしまいます。

 

詩篇51:19「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません。」ホセア6:6「神が喜ぶのは、愛であっていけにえではなく、神を知ることであって、焼き尽くす献げ物ではない」供え物に込めらた礼拝者の心を神様はご覧になられるのです。

 

アベルはこの砕かれた心、罪の告白という供え物を、神様の前に供えたのです。これが、カインの供え物にまさったアベルの供える時の心を神さまはご覧になったのです。この信仰の故に、神様はアベルの供え物を受け入れられたのです。私たちも献金をする時に気をつけるべきことは「私は罪人です。神さま。神さまの罪の赦しなしに私たちは生きて行く事が出来ません。全ての罪をイエス・キリストの十字架の血潮で洗い聖めて下さい。」悔い改めの心を持って献げることが大切です。

 

第二番目に

 

4:8〜12「カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。主はカインに言われた。『お前の弟アベルは、どこにいるのか。』カインは答えた。『知りません。私は弟の番人でしょうか。』主は言われた。『何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向って叫んでいる。今、お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる。』

 

アベルは兄を慕い、尊敬し、敬っていました。まさか兄カインの手によって、野原で殺されてしまうなんて思いもしなかったでしょう。しかし、兄カインは捧げ物の事で弟を妬み、そして殺人計画を立てそれを実の弟を殺してしまうのです。

 

神は、カインに向って「弟アベルはどこにいるのか」と尋ねておられます。カインは弟アベルを野原で殺しておいて知らないと言い切り、おまけに「知りません。わたしは弟の番人でしょうか」と逆ギレ・・罪を罪として悟らない人は全宇宙の万物の創造者、人も神に似せて造られた神様を侮るのですから、本当にカインは重罪を犯しました。

 

神さまはすカインがした全てをご存知ですが、あえてカインに問われたのは、カイン自ら罪を告白して悔い改める事を願われたのです。神様はカインに対して、「お前の弟の血が、土の中から私に向って叫んでいる」と言われた言葉に置いてそれを知ることが出来るでしょう。

 

地にしみ込んだアベルの血は、神様に向っていったい何と叫んだのでしょうか。私なら「神様、兄カインに死を・・私のこの恨みを晴らしてください。殺人者に死を持って報いて下さい!」と叫んだ

 

事でしょう。私の父親は多額の借金を残して、母と4人のこどもを捨てて、別の女性と逃げてしまったのです。だからその時から私はもし「父親が道であったら殺してやる。」どれだけ生活が苦しかったか。言葉には言えません。

 

しかしアベルは違います。罪を犯した兄のために執り成しの祈りを捧げたのです。

 

イエスさまが十字架で叫んばれたようにルカ23:34 「そのとき、イエスは言われた、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」と叫びの祈りを捧げられたように「神様、どうぞ、兄を赦して下さい。この罪を、私の兄弟に負わせないで下さい!」と赦しを叫んだのです。

 

私たちは、自分の兄弟をねたみ、そして憎み、兄弟に手をかけて亡き者にしたあげく、神様からとがめられた時に、自分は関係ないと言ってしらを切っているカインの末裔のようなものです。

 

私も毎日罪を悔い改めで祈っている一人です。それは人生には二つの道があるからです。それは「祝福と呪いの道」です。どちらを選ぶか、その選択は私たちにあり、どちらの道を選ぶかによって結果は「天国と地獄」の違いとなってきます。

 

つまり兄カインが、心を入れ替えて、神様に罪を告白し、神の前で罪を認め、悔い改めて礼拝するならば、これが祝福への道に変わります。私たちも罪を犯したなら、悔い改めて神様に喜ばれる祝福の道を正直に、素直に選ぶ者となりましょう。カインのような供え物ではなく、自分の罪を悔いて、イエス・キリストの十字架の贖いの恵みを表わす、子羊の血の供え物を献げましょう。

 

神の子羊であるイエス様は、私たちの罪のために贖いの供え物として、ご自身を捧げて下さいました。だから、全ての人は、あの十字架のイエス・キリストの死とは無関係ではありません。私たちは皆、アダムの子孫であり、カインの末裔なのです。

 

「イエス・キリストを十字架につけたのは私です」という罪の告白と最良の子羊の供え物を持って主を礼拝しょうではありませんか。アベルの声は深い地面の底から、私たちに悔い改めの供え物を献げる事を求めています。

 

神の子羊であるキリストの血は、すべての人の罪を聖める力があります。これこそが、神様に喜ばれる最高の供え物、私たちの霊的な礼拝ではないでしょうか。今日もこの主の招きにあずかって、共に恵みの礼拝を捧げることのできましたことを心から感謝し、御名を讃美いたします。