今日は真夏・・・

 

財布も台所も物価も高騰・・・・・

経済的に不安定な世界・・日本とそのお隣の韓国も・・・韓国では今、興味深い「節約術」のアプリが人気があります。一人暮らしの方たちが、このアプリで何とか物価高を乗り切っているようです。そのキーワードは「知らない人とモノを買う」です。【写真で見る】と全く、知らない人と 「トッポギ小分け会」の様子をニュースで見ました。若者に人気のトッポギ店の前でメニューを選ぶ女性たち「私はロゼトッポギが好きなので、よろしければロゼはいかがですか?」とひとりが自分の願いを言うと「いいですね」そんな会話をしている人たちは今日が初対面で、スマホのアプリで募集された共同で購入する仲間です。

 

注文したのは、大皿のトッポギにサイドメニュー。

 

支払いはその場で割り勘で、互いに携帯を出して「送りました」送られた。相手は「確認しました」こうして仲間で注文した商品を注文し、それを折半するのです。物価高が深刻な韓国では今、節約手段としてこうした集まりが広がっています。トッポギができあがると、それぞれが持参した保存容器にきっちりと量りで3等分します。

 

集まりはアプリの掲示版に告知され、自分の好きな時間に集まることができます。「ルール」もあり、プライベートの質問は「NG」です。主催者は「性別や年齢は一切尋ねません。トッポギに関する質問だけになるので、そういった個人情報は共有していません」トッポギを分けたら即解散。

 

知らない人と分ける動きは大型スーパーでの買い物でも見ました。この日は3組が集まっての買い物です。主催者は「物価が上昇し始めてから、かなり集まりが活性化し、急速にメンバーが増えてきています」一緒に買い物に向かい1時間後に「量りを使い肉を分けたり、薬を分けたり、野菜をわけたりと。。すれを全て公平に分けています」作業が終わると、スマホを取り出し、送金が始まります。1ウォン(約0.1円)単位まで、一切の妥協なき割り勘です。

 

主催者は「複数人で分ければ、食品ロスも減って、かなり節約もできると思い、集まりを作りました」この節約術が、韓国ではいま、「知らない人」はいないし、活用うしている人は頼もしい「節約の味方」となっているとあり、本当にひしひしと現実の厳しさを感じました。これからこのようなアプリが増えて来るでしょうね。

 

日本でも共同購入システムは以前からありますが、少人数での共同購入できたら無駄が省けるのは事実です。私は妹と共同購入は既にしています。業務などの大盛りの野菜や肉などは、家で計りを使わず分けていますが。でも野外で、それも手袋をして量りにかけるのは不衛生だとか、全く赤の他人の人との買い物は、日本では正直、抵抗がありますね。

 

でもこのような独身者が生き残りを掛けている節約術をどうか悪用しないで欲しいと願っています。

 

中東情勢の緊迫化が続く中で起きている“ナフサショック”住宅メーカーは、中東情勢の悪化によりビニールやプラスチックなど、ありとあらゆる石油系製品の原料となる「ナフサ」が足りなくなっている中、その影響は住宅に入内な問題を投げかけ、住宅建設も止まる恐れがあるということで、改めて石油に依存する社会の大変さが際立ってきています。

 

なんともならない状態が深刻なのが「お風呂」です。「ユニットバスは、いろいろなものに樹脂製のものが使われている」以前発注した物が入ってきているだけで、今後発注が受けられないということで、ほとんどのメーカーが入荷時期を明確には示さないといいます。

 

予定していた工程がどんどん遅れていくだけではなく、再契約という事態になり、支払い面でも契約したときの金額よりも割高になるでしょうね。住宅の工期延長や納期遅れの可能性は?「今のところないが、メーカーの話を受けて一軒一軒の工程を考えると、5月末くらいから影響が出るのではないか」との事です。折角のマイホームは夢の夢になりそうです。本題に入りましょう。

 

今日の足の不自由な者が癒されるといったお話で、聖霊による力ある御業がペテロとヨハネによって起こります。ここで間違わないようにすべきは、癒しを行われたのはイエス・キリストです。イエス・キリストの愛です。この奇跡はイエス様の愛の力によって、使徒ペテロとヨハネを通して現れたのです。

 

聖霊を受けた者は神様から愛と力を受理しています。だから自然に神さまの愛と力が心から沸き上がってくるので、キリストに似た者へと変えられていくのです。イエスさまを救い主と信じて聖霊をうけた人は、言葉と行いが段々とイエスさまに似てくるのです。その人の心と思いはいつも、キリストの愛に溢れていいるからです。

 

問題がある人やややこしい人は完全に無視していた人が、キリストにあって変えられたら、困っている人や止んでいる人と関わるようになります。私たちは単にイエス・キリストを信じている者だけではなく、私たちはれきっとしたキリストの弟子なので、弟子は当然、イエス・キリストに似ていくものです。

 

イエス様はただ奇跡を起こされるだけではなく、その奇跡にはその人に対しての愛と憐れみ、そして魂の救いも与えられました。これが神の愛です。神さまは“愛”だからです。今日の聖書の場面は、ペテロとヨハネが祈るために神殿で上っていく途上での出来事です。当時、午前9時と正午12時と午後3時に祈るのが、当時のユダヤ人の習慣で、言ってみれば、神殿で祈ることはごくごく日常的なことでした。

 

その宮の門の近くに、生まれつき足の不自由な男が、施しを恵んでもらうために朝から座らせられていたのですが、祈りにやってきた人たちは男の前を無関心で通り過ぎてゆく。これもまた悲しい日常的な風景ですが、この男性にとっては、足が不自由なために物乞い以外に仕事がありません。それに歩けないのですから仕方がない。時にはチャリンと硬貨を入れて去っていく人もいますが?

 

この足萎えの男性も昔は、この足の不自由な男の方も自分の絶望的な状況を打破してくれる人が現れくれるのではと期待感もあったでしょうが?

 

世の中は、そんな甘いものではありません。彼の前を通る人は面倒な人に関わりたく無いのでみな無関心です。当然、足萎えの男性の人生に「希望」などは一切ありません。その日、その日が食べていけるだけの施しが頼りなのです。神殿の入り口は美しい門と呼ばれるほどにきらびやかでした。

 

しかし、その”美しい門”と言われるその名が皮肉に聞こえるほど、その場にある日常の光景の中は愛が冷え切っていました。このような日常の光景の中で奇跡が起こったのです。神さまに愛されているペテロとヨハネが素通りせずに立ち止まって、彼をじっと見つめ、声をかけたのです。この愛による立ち止まるこれこそが、神の御手を動かした愛の奇跡なのです。

 

ペテロとヨハネは施しを乞うために座っているその男を無視しようと思えばできた事でしょう。

 

私が少年補導をしていた時の話です。それは暑い夏でした。たまたま母親の実家に帰り、兄弟たちと焼き肉をお腹いっぱい食べてから、猪名川の橋の上で涼んでいました。そこに橋の向こうから少年が走って来るではありませんか。その少年の様子がおかしいのです。裸足で靴をはいていないのです。

 

だから私はこの少年を無視することにし猪名川のダムを見ていました。無視しているのに、彼は私の前で止まったのです。えっ。何で止まるんや・・見てみないふりを決め込んでいたのに「少年はお腹が減ったと一言・・」仕方がありません。家はすぐそばですから、少年を家に連れて帰り、ご飯を食べさせ、服を着替えさせ、裸足で歩いていたので血が流れている傷を消毒して、靴を履かせて帰らせました。

 

私は無視したかったのです。でも出来なかった。

 

イエス様の愛が、イエス様に似てきたからです。ペテロもヨハネも同じです。見て見ぬ振りが出来なかったのです。彼らと共におられるイエス・キリストが無視することを許さなかったのです。愛の反対は無関心であるとはよく聞きますが、ペテロとヨハネは誰もが無関心でこの男を素通りする中、立ち止まり関心をもって、つまり愛と慈しみを込めて声をかけたのです。ペテロとヨハネはその男を見つめて、私たちを見なさいと言いました。彼らの愛と憐れみがそう言わせたのでしょう。そして二人は「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」と声をかけ、右手を取って彼を立ち上がらせました。

 

この男にとって、最も必要なものは、金銀ではなく、彼が自分で生きていけるようにしてあげることでした。愛は悩める者に関心を示します。彼が本当は何を必要としているのかをペテロとヨハネは見抜いたのです。ペテロとヨハネはイエス様がされるような、愛と慈しみによる行いをする者と変えられていたのです。これは、彼らが必死で努力してそのようになったのではなく彼らのうちにある聖霊によって突き動かされたからこそこのような愛の行動が出来たのです。

 

彼らの中のイエスがそうさせたのです。聖霊はまことに私たちを通してイエスの愛を現されます。それは、愛が欠如している私たちに、キリストの愛によって成長させ、建て上げられることを意味しています。しかしも、聖霊が与えるのは愛だけではありません。聖霊は根本的な解決へと導くダイナミックな力をも与えてくださるのです。「私たちには金銀はないがイエス・キリストの御名がある。そして、それこそがあなたにとって一番必要なものなのだ。」この確信の中、ペテロとヨハネは手を差し伸べ、「さあ、立ち上がり、歩きなさい。」と言って立ち上がらせた時、この生まれつき足が不自由であった者の足は癒され、自分の足で立ち上がることができたのです

 

彼が何よりも欲しかったものとは、自分の足で立って歩くという事と、施しを受けて生きることからの脱却でした。彼は欲しくてたまらなかった自立が、主イエス・キリストの御名の権威によって与えられたのです。そして、彼はこの驚くべき神奇跡を感謝し、心から主を賛美し、ペテロとヨハネと共に神殿の中へと入っていきました。

 

今までは宮の外に置かれていた人です。生まれつきの障害があった彼は、汚れていると言われていて、神殿で礼拝をすることは出来なかったのです。それが、彼が神を礼拝する者として神殿で祈り、神を礼拝するものとして、新しく造り変えられた。つまり、生まれ変わったのです。

 

使徒たちを通して、イエスの愛を受け、イエスの御名によって癒され、この奇跡を与えた神を心から賛美した彼の魂は、もはや罪人ではありません。罪から救われて神さまの子とされたのです。決して金銀では得ることのできない、宝を彼は事が出来たのです。それは彼がもはや世や人、金銀に頼って生きる者ではなく、神に信頼して生きる者とされたのです。神さまに栄光をおかえしいたします。

 

「イエス・キリストの名によって」とは「私ではなく、主がなされる。」という確信的な信仰告白による宣言です。私たちはこのイエス・キリストの御名にこそ格別な信頼を置きたいものです。なぜならイエス・キリストをかしらとし、イエス・キリストのからだなる教会とは金銀に頼るのではなく、イエス・キリストにこそ信頼する信仰共同体だからです。

 

私たちはこのキリストの愛と恵みこそが何にも代え難い宝なのだという確信をもって、目の前の立ち上がれないと嘆くだれかの前で愛を持って立ち止まり、「あなたの人生を根本から作り変えるお方を私は知っています。そして、私を通してそのお方があなたの人生に介入し、愛を注ぎ、心と体を癒し、救い出すのです。さあ、共に立ち上がって歩きましょう。」と手を差し伸べ、キリストの愛と救いを証しようではありませんか。

 

「イエスの御名によって、癒されよ。」です。金銀でも自分の能力でも知性でも経験でもなくイエス様の愛に私たちがより頼んだその時、そこにまことの愛が生まれ、癒しが起こされ、一人の魂が救われるという奇跡が起こるからです。アーメン。