今日は秋晴れ・・やっぱり雨よりは晴れている方が気持ちが良い・・・さて
今日の礼拝では魂に幸いを得、全てに恵まれましたか・・・
神さまに感謝致します。
今日は伝道の者を通して恵まれましょう。
7:15〜22「私はこのむなしい人生において、すべての事を見てきた。正しい人がただしいのに滅び、悪者が悪いのに長生きすることがある。」ソロモン王のように栄誉栄華を極めた人物はいません。しかしその彼が、「善人が滅び悪人が栄える。」という悲しき現実を見てつぶやいているのです。昔も今も世の中はかわりませんね。本来であれば善が栄え、悪が滅びるべきだと思うのが道理です。しかし、今の世界を見ても現実はその逆転現象が起こっています。この矛盾は一体なんだろう。
今月9日金曜日に、トランプ大統領は国内の事情を優先して同盟国との関係を後回しにして、ロシヤと軽油の取引を開始する契約をしました。本当に常識外れの取引外交の悪いところが出てきています。その原因は今のアメリカは軽油の価格高騰で物流や農業が悲鳴を上げ、支持基盤であるトラック運転手や農家に向けて、即ち自分が解決したというアピールの狙いがあったからでしょう。しかし、ロシアへの制裁を自ら緩めて外貨を渡す形になっの不満を少しでもなくすためです。本末転倒です。
ウクライナや欧州連合が不信感を抱くのも当然です。そんな20日に、ウクライナによるロシアの製油所攻撃が行われた事をドナルド・トランプ米大統領は強くウクライナを非難し、ゼレンスキー大統領に代わる新たな指導者を選ぶ時期にきていると主張したのです。昔、大岡越前とか水戸黄門のテレビ番組がありました。隠れて悪さをする悪人を大岡越前や黄門様とそのご一行が退治するさまを見るのがスカッとしました。その退治する時間だけでテレビの視聴率がグンと伸びるといった現象が昔も今も起こっています。
しかし、これらのドラマが人気な理由は世の中、そうではないという現実がある事の裏返しのようにも思えます。
私は今、妹の代理で法定に立っています。妹がある悪質な女性ドライバーから、自分の車の後ろに妹の自転車が当たったと言う難癖をつけられ、それが訴えられて裁判になっているのです。簡易裁判に4回立って弁護していますが、この事件は高齢者を狙った悪質な事件の一つだと思います。
原告の車の後ろを妹の自転車が通り過ぎようとした時に「車の後ろのバンバーの所とその左下の所に自転車があたって2ケ所傷がついたので修理代金12万円を弁償して欲しい。」去年の11月に弁護士と名乗る者から電話があったのですが、事故現場のことを聞いてもはっきりと回答がなかったので、悪質な詐欺電話と思い電話を直ぐに切りました。
でも気になったので、妹に「車に自転車が当たったの?」と聞いたら、車に手に当たっただけで警察に電話され、交通課の事故係の担当の方も来られて検証されたが、車に傷がないのを見て妹にもう帰って良いと言われたそうです。事故とか物損の話など一切なかった。私はその事を確認するために警察に妹を連れて行きましたが、警察の交通課の専門の担当者から物損事故書類も発行されておらずメモ程度にしか残されていないと妹が言っていた通り、物損事故ではなかったのです。
でも相手から物損事故だと言ってお金を請求されています。「だったら交通課の小林係長が証言してあげます。」と言って下さったのです。なのに、訴えられて裁判になって、この女性ドライバは他で傷をつけたのを、たまたま高齢者の自転車が車の後ろを通ったのを見て車から下りてきて「今、私の車に当たったでしょ。物損ですよ。」と言って妹を脅迫して来たのです。本当に悪質な女性ドライバーです。
次回は11月6日金曜日5回目の裁判です、祈りの応援お願いします。
10月6日の4回目裁判の時に、裁判官が原告の弁護士に向かって「車の傷の位置と自転車とのペダルによってできた傷の位置の高さが違うのが問題ですね。」それに対してもっと明確に回答をするように指示されていました。この裁判で弁護士を雇ったら20万円必要となります。やってないことに無駄なお金を使いたくないので主に祈りました。すると神さまが私に知恵を与えて下さり弁護士は雇はず、私が代理弁護を務めています。このように何が正しくて何が悪なのかを完全に理解し、判断することが難しい時代の流れになっています。
今日の箇所での善という言葉は本来、正しい、正義、義という言葉ですが、人によって正義だと認識する意識の違い、また同じ思いでもやり方が違うこともあります。しかし、武力という抑止力を持って平和を保とうとする考え方と武力そのものを放棄して平和を作り出そうとする考え方があり、どちらかが100%正しくどちらかが100%間違いとも言い切れない複雑な世の中、つまり世のルールは時代と共に正義の量りが違って来ています。
現代のイスラム過激派なども自分たちの行なっているテロ行為は聖絶だ。正義だと勘違いしているように。これらの一番厄介なことは、自分たちが絶対に正しいと思い込んでいる所です。時代と共に変化する正義や悪は不完全であり完全ではありません。全て人間が考えることだからです。そのことを私たちは心に留めておくべきであり、その点を踏まえた上で私たちは、何が正しく何が悪なのかを謙虚に聖書に尋ね求めていくべきなのです。
その理由は、神様のみが善悪の全てを知っておられるからです。神の正しさ、神の義だけが絶対なのです。7:16−17「善人すぎるな、賢すぎるな。どうして滅びてよかろう。悪事をすごすな、愚かすぎるな。どうして時も来ないのに死んでよかろう。」この意味をしるために良い例があります。ルカによる福音書の15章11~32節に出ている放蕩息子の兄のような者です。この、放蕩息子のたとえは、弟が父親に財産の分与を要求する場面から始まります。そしてこの要求は非常に常識外れなもので、当時のユダヤ教社会のなかで、生きている父親に向かって財産の分与を要求する事自体が非常識であり、父に背いた親不孝な行動だと言う事です。
12節では「それで、父親は財産を二人に分けてやった」と記されています。それでも、放蕩息子の父親は、子どもの無茶な要求に対して財産を分けて上げることにしたのです。父親が諌めても聞く耳を持たなかったからです。ただ「これしたらあかん。あれしたらあかん。」とやりたいことができない不満があったからです。そんな親の思いを無視して弟の放蕩息子はその財産を売り、お金に換えて早々に家を離れて異邦の地、親の目が届かない遠い国に旅立って行きます。
そこには監視人がいません。だから毎日が放蕩三昧で仕事もせずに快楽を求め全てのお金を使い果たしてしまいます。お金があったときには放蕩息子の回りには友達と思われる人が大勢いたのですが、お金がなくなるとお金目当てに友達をよそってきた人たちが全員離れて行き、彼が助けを求めても誰も知らん顔です。そうです。「人も金がなくなれば去っていきます。」そうこうするうちにその地方に飢饉が襲います。そして異邦人の地には身寄りがありません。身寄りがない放蕩息子は、食べることも寝起きするところもありません。
やっとの事で豚の世話をする仕事にありつきますが、ユダヤでは豚を飼う習慣がありません。ユダヤ人にとって豚は汚れた動物とされていて、異邦人しか豚の世話をしなかったからです。
放蕩息子は財産を多く持つ父親によって経済的に豊かな家庭生活を送ってきましたが、今は、食べ物にも窮する社会の底辺に落ちてしまったのです。そこではじめて放蕩息子は「我に返ります。」どん底に落ちた弟は、自分の間違いに気づいたのです。そして、「父のところでは,あんなに大勢の雇人にあり余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。と彼はこれまで、遊興にふけり、生きて財産を浪費したことを後悔し、その根源がどこにあるかを知り、「父よ、私は天に対しても、そしてあなたの前に罪を犯しました」と告白しています。
「もう息子と呼ばれる資格はありません。雇人の一人にしてください」と父に言おう。」 父から離れ、父との関係を損なったことこそが罪であり、それが死を招いているとやっと悟ったのです。我に返った息子は、家族の元に帰るのです。父親は毎日家の門の所で息子が家にかってくるのを待ったいたのです。遠くに人がふらふらと下足取りで歩いてくるではありませんか
故郷に帰って来た息子・・豚小屋で寝起きしていたのですから、全身汚れて悪臭を放っています。それそうです。それを遠くから見ていた父親が息子だとわかった瞬間、走り寄って首を抱き、接吻をし、水浴をさせ、上等な衣服を与え、手には指輪、裸足の足に靴をはかせ、祝宴まであげてお祝いをします。自分かってな穂応答息子のために・・
私たちも普段の生活のなかで、自己中心的な行いをし、様々な人に対して放蕩を尽くしています。
私たちの人生というのは私たちが主役のように思っている人が殆どですが、身勝手な放蕩息子に祝宴まで開いてあげて、帰ってきたことを祝ってくださった父親すなわち主役は、神さまなのです。面白くないのが父親の元で忠実に仕えてきた兄です。召使いから事情を聞いて、放蕩の限りを尽くし落ちぶれて帰還した弟を父親は赦し、そればかりか、羊をほふり宴会まで開かれています。それを聞いた兄は激怒し、家に入ろうともしなかったと記されています。
その気持ちはよく分かります。
しかし、ここで重要な事は、父の財産を使い尽くしたことが問題ではなく、父の望む生き方へと 帰って来た弟へと目を向けるようにと、父親は兄に弟は「死んでいたのに生き返り、いなくなったのに見つかったからだ」と言います。「生き返った。 滅びていたが、見いだされた」この父の 言葉が繰り返されています。神さまが私たちに求めておられる大切な事は、父の言いつけにうわべだけ従う規範ではなく、父と子の親密な交わりと関係が必要なのです。
どんな罪で汚れた惨めな姿であっても、ありのままを父に委ねるとき、罪から解放され、癒されて神の子として生きるべき命が与えられるのです。父なる神さまは、放蕩息子の帰りを待ちわび、自分のもとに帰って来ることを喜ばれるのです。祈りましょう。
