「映画の力」EPISODE:瀬木直貴監督「映画の底力を改めて実感した福島での出来事」 | C2[シーツー]BLOG

C2[シーツー]BLOG

川本 朗(カワモト アキラ)▶名古屋発、シネマ・クロス・メディア
C2[シーツー]の編集・発行人。 毎月30本アベレージで、
年間300本以上を鑑賞。“シネマ・コネクション”を
キーワードに、映画をナビゲート!
▶シーツーWEB版  www.riverbook.com

シーツーWEB版に戻る                 ムビステ!特設サイトに戻る

 

「映画の力」EPISODE:
映画の底力を改めて実感した福島での出来事

▶︎「映画の力」エピソードまとめ→

 

 2012年の春、知人が代表を務める映画会社から連絡があった。福島県浜通りのある小学校から「子ども映画学校」を開催したいという声があり、各地で映画学校を開催している僕に手伝ってほしいとのことだった。僕は映画『春色のスープ』(2008)の製作を機に、福島県の観光大使を拝命していたので、二つ返事で了承した。

 

 だが心配がないわけではなかった。当時は東日本大震災からまだ1年。その小学校には家族を津波で亡くした児童や、震災をきっかけに精神的に不安定になった子どもたちもいると聞いていた。僕の不用意なひと言が引き金になり、PTSD(心的外傷後ストレス障害)のスイッチを入れてしまったら……そんなネガティブな考えがよぎった。

 

 震災後、音楽や絵画、落語などの芸術や芸能が心のケアに役立っているとは聞いていたが、映画製作はそれらのものとは少し趣を異にする。映画も個人的な作業がベースにはなってはいるものの、総合芸術と言われるようにチームワークが極めて重要な芸術様式である。しかも、今回の参加者は、小学1年生から6年生まで、全校生徒に近い60名もの申し込みがあるということだった。60名を5班に分けて、子どもたち自身で発想し、演じ、監督やカメラマンを体験させて、わずか3日間でショートムービーを作りあげる。いつもは高校生以上を対象にしているので、どう考えても不安な気持ちが先行した。

 

 かくして僕を含む5名の映画監督と約10名のスタッフがその小学校に到着した。校長先生は、震災と自主避難で一層過疎が進み、まもなく歴史あるこの小学校が閉鎖される、その最後の思い出づくりに映画学校を思いついたと話してくれた。子どもたちの発想は実にユニークで、僕たちは感心しながらワールドカフェ方式で5本の企画にまとめ上げていった。町が震災前の状態に戻る魔法の薬を開発したが、その薬をどこかで実験しなくてはならない、成功と失敗の両方の可能性を考え苦悩するというヒューマンストーリー。子どもたちが少なくなったのは悪人が時空を超えて子どもを誘拐しているせいで、力を合わせて悪人をやっつけて子どもたちを現代に取り戻そうというヒーローもの。憧れの女の子に思いを打ち明けられずにいた少年が、20年後に音楽室で再会しようと約束をする淡い青春物語など、いずれも故郷への愛情が溢れた、そして同時に、否応なく染み付いた震災の記憶を垣間見る作品ばかりだった。

 

 始まってみれば不安な要素はどこ吹く風、笑いが絶えない賑やかな映画学校になった。僕は安堵して、講師の先生たちが編集している合間に、以前から気になっていた質問を子どもたちに問いかけてみた。どうして映画にしようと思ったのか、テレビ番組では何度も取材を受けたわけだからそれで十分ではないのか、それとも校長先生に映画学校をやろうと言われたから?

 

 少し意地が悪い質問かなと思ったが、子どもたちから意外な答えが返ってきた。

 

 テレビは1回しか見られないし、引っ越して行った友達が見るとは限らない。映画やDVDであれば、遠くの友達にも見てもらえる。そうしたら将来、懐かしくなってまた福島に戻って来てくれるかも知れないと彼らは言った。泣かせる言葉だった。映画の底力を改めて実感することが出来た。僕の方こそ元気をもらった気がした。

 

 映画学校の最終日には体育館で試写会を開催した。大画面に映し出された自分たちの作品に、子どもたちは時に笑い、時に驚き、心が動く度に声を出したり、立ち上がったり、近くの友達と感動を分かち合う。その騒々しさときたら台詞が聞こえないほどだった。教師や父母たちは子どもたちの奮闘ぶりに感動し、目頭を押さえていた。僕も不意に熱いものが込み上げてきた。会場全体が感動を共有し、まるでひとつの生命体のように強いつながりを感じた。

 

 映画を見る子どもたちのキラキラと輝く瞳を、僕は一生忘れはしない。そう心に誓ったあの日から、もう8年が経とうとしている。

 

▶︎「映画の力」エピソードを投稿する→

 

シーツーWEB版に戻る                 ムビステ!特設サイトに戻る