もつ焼き松っちゃん おかみの記 -4ページ目

街の「開発」が意味するものは?

金町駅周辺も高層ビルの建設でずいぶん変わってきた。国土の狭い日本は

上へ上へと高層化するしかないのかもしれないが、下はテナントで上がマンシ

ョン、入る店が多少異なりはしてもイメージはどこに行っても同じようで「開発」

の意味は何なのかと思ってしまうのは私だけだろうか。


 新丸ビルで脚光を浴びたと思ったら、同様のビルが林立し、やれ三ツ星だ、

五つ星のレストランが入ったと大騒ぎするのは日本らしい。いったいどこにその

地域の特色が伺えるのかと聞きたいくらいだ。


 いい加減に目を覚まさないと大切なものを失いかねない、と私は思っている。


 その土地に息づいている文化や風習などがあって現在に至っているのだから、

その辺を真剣に考え、意見を交わしていくことがあってよいのではないだろうか、

住民不在で住む土地まで変えられていくこの現状を悲しい気持ちで見守っている。

体の調整

 私の肩こりはひどいもので小学校4年くらいから肩こりだと言われた。

困ったもので自覚症状があまりないので、こりも年季が入っている。


 夫も永年の仕事の疲れか、包丁を持つ右肩から背中にかけて、痛み

が走りつらいことがしばしば。そんな訳で、二人とも整体で体の調整を

している。


 サラリーマンにしたら夫はとうに定年を過ぎているわけで、店を続けて

いくには、体の調整は欠かせない。心と体の健康は現代人の必須課題

で、適度の肉体的な疲労から心地よい眠りを得られるのが一番のような

気がする。


 「いいねえ。いつもぐっすり眠れて」と夫に言われる私だが、自分でもあ

きれるほどで、眠りと食事に支障が出た時は本当に病気かなと思う。


 ストレスは大きすぎれば大変だが、ストレスの全くない社会はあり得な

い。適度のストレスは自分を鍛える材料にもなる。真剣に向き合う場合と、

軽く受け流す、そのバランス感覚を身に着けることなのかもしれない。


 ストレス社会と言われて久しいが、身の周りにはストレスで病んでしまっ

た人も多く、心が痛む。


 そんな話をしていたら「夫が俺の十二指腸潰瘍はどうも薬の副作用だな」

と断言。分厚い薬の本を読みながら、脳梗塞の発症以来飲み続けている薬

のせいだと言う。この3年間に2回も入院し、その都度薬が増えうんざりして

いた夫は「薬に負けない自分も大事だ」とポツリ。確かにその通り。


 


 

食餌療法も大変ですね

 夫が新たな病と向き合うことになり、十二指腸潰瘍には消化のよいもの、

例えばおかゆやうどん、おじやや雑炊等を主体にして、香辛料や辛いもの

などの刺激物を避けなければならず、1週間はもってもそれ以上は結構き

ついもの。なにしろ飽きてしまう。味付けや材料を変えてみても、調理法は

揚げ物はできないので煮るか焼くか蒸すしかない。消化のよい野菜をふん

だんに使ってはいるが、野菜嫌いの夫にとってはしんどいのが分かる。


 でも、このところ愚痴を一切言わずにできる限り野菜に箸を伸ばし努力し

ているようだ。今日のお昼はさばの味噌煮を薄味で煮たら「とてもおいしい」

と言って喜んでほおばっていた。味噌汁はいつも具沢山にして野菜を多く

摂れるようにしている。齢を重ねると好きなものを好きなだけ食べるのは到

底無理な話。


 幸い夫は小食なので量はいらないのだが病によって食事が制限されてし

まった。今日は何を造ろうかと考える毎日だが、老年期を迎えた夫が穏やか

な日々を送っていけるよう、私のさり気ない気の遣い方が問われるようだ。


 家事の分担を考えた時期もあったが、我が家のような飲食店は男も女も同

じ家事の延長のような仕事を毎日こなしている。回転前の仕込みも閉店後の

片付けも仕事の比重から言えば、夫の方がかなり重い。そこで食事は必然的

に私の仕事となった。


 魚好きの夫には良質のたんぱく質はやはり肉より魚のほうがよさそうだ、と

実感。明日は秋刀魚にしようかな、などと考えていたらもう開店時間になって

しまったようで、ではまた。


 

病に負けず共存して生きる

 このところ夫の体調が思わしくなく、鳩尾がジクジク痛むことがあり、検査

したところ、2ミリほどの胆石と十二指腸潰瘍とのこと。本来は入院した方が

治りが早いが、2回の入院を経験した夫は「入院だけは勘弁してほしい」と、

医師に懇願したらしく毎日の通院を条件に薬による治療が始まった。


 「また、病気かよ」と少々落ち込んだ夫だが、「病気にならない人はいない。

病に負けず共存しながら元気に生きればいいじゃない」と一言激励。老年期

に入るとどうしても保守というか、維持に回らなければならない時があり、それ

が一つの苦しみでもある。釈迦は人間が避けることのできない苦しみを[生老

病死」の四苦と説いた。老いの先が死であるから、そして確実に少しずつ死に

向かっているから苦しみなのである。そこを生き抜いていく勇気、力こそが人

間の本来の真価のような気がする。


 「いい意味での楽観主義でいく。これは本当に難しいな。人間ができていな

いんだな」とポツリと夫が漏らした。


 人間ができていないことを知ったこと。それは大きな進歩。「汝自身を知れ」

とはソクラテスの永遠の命題だが、己の未熟さを悟ることは成長の証だと私は

心で思った。顔に似合わずナイーブな夫に、ともに支え合うところに夫婦の営み

があることを、改めて実感するこのごろだ。


差別意識

 中山大臣の辞任問題で、辞任の根拠となった発言に対し、呆れ返り

国会議員の心の根底にある差別意識に対し憤りでいっぱいになった。

会見では妻の中山恭子総理補佐官の心境を聞かれ、平然と「家内」と

述べ、また妻も妻で公的な場で「お騒がせの主人がおりまして」「うっか

り口が滑った」はないだろう。妻を家内と呼び、夫を主人と呼ぶところは

夫婦の関係自体が互いに学び合い、高め合う姿とはいえない気さえす

るのである。


 女性蔑視の発想を変えていくべき女性・妻の働きかけはとても大事で

普段の会話の中で私は夫に言ってきたし、今もそうしている。まして単一

民族などと人権にかかわる発言には、国会議員である資格もないと思う。


 人間の中に巣食うエリート意識、人を見下す鼻持ちならないプライド、

ヒエラルキーが生み出す心の闇の部分を乗り越え克服する、そんな努力

を政治家には見せてほしいものだ。

優しさの表現

 人間には誰しも優しさ、相手を慈しむ心があるはずだが、残念なことに

日本人はその表現が得手ではないために相手に伝わらないことが多い

ようだ。私ども夫婦においても、無口な夫に対し「男は黙って:****ビール

じゃないんだから、言葉で表現してみたら」とずいぶん言ったもの。そう言

えば言うほど話さなくなる夫にイライラしたものだが、最近は年輪を重ねた

せいか、彼なりの優しさの表現が分かるようになった。


 仕入れであちこちを見て回る夫が、旬の果物や野菜を買い求め、カウン

ターに置いてある。これは私に食べさせたいという彼の気持ち。また、新聞

や雑誌を見ていて私が好みそうなテーマの記事を切り抜き、何も言わずに

テーブルに置いてあったり。変わらぬ日常の中で、彼のこんな配慮に幸せ

を感じることがしばしばある。出会いを含め10数年の月日の中でお互いが

それなりに努力し、相手を知ろうと願ってきた積み重ねなのだと思う。


 表現するのは確かに言葉だけではない。心を形にする作業を自分流に作

り上げることなのかもしれない。いいことばかりではない日々の生活を豊か

にする、さり気ない優しさの表現を身に着けると、それはきっと自分を彩る素

敵なアクセサリーになるのではーー。

齢を重ねる意味

 私が20代のころ、50歳を超えた人は今で言う「おじさん・おばさん」の

イメージよりももっと年老いていたように思う。それだけ寿命の延びととも

に豊かさが見た目にも大きく印象を変えるようになったということだろう。


 でも、ひたひたと進行する老いの波は顔の表情や髪の太さ、肌の張り、

ひざや腰の痛みなど、いやおうなしに感じさせられることがしばしば。「あ

ーしわが増えた」「しみが出ちゃった」と言うたびに夫は「お前さん、馬鹿言

ってんじゃないよ。年とらないとでも思ってたのかい」の一言。男は気楽で

いいな、と思ったりもするが感じるポイントが違うだけで、夫は夫で体の衰

えや薬の副作用などで、たまに落ち込んでいる姿を見る。


 齢を重ねることは人生の円熟味を増すというメリットがある反面、「維持」

というか「保守」というかちょっぴり寂しいブルーな感じになるものなのかも

しれない。これは明らかに若い頃にはなかったことで、この感情が分かる

ようになったことも、私にはメリットだと思う。なぜなら、少し弱くなった自分

をどうやって前向きにするのか、といろいろ知恵をめぐらせたり、また、他

者へのやさしさに向いたりと、20代の頃の上昇志向とは違う重厚味が出

てきたようにも思う。


 人間一人では生きていけない。他者との関係の中で自分をどう生かすの

か。とても難しいテーマだが、他人を蹴落としてまでも自分を押し出すやり

方は、最終的には自分を傷つけるだけ。相手を受け入れ、認められる懐の

深さ、なんて言ってしまうと恐ろしい。実際に私の若い頃を思えば、言いた

い放題で、お恥ずかしい限り。そう思える今を大事にして、身近なパートナ

ーとの関係を大切にと思い、傍らにいる夫の顔をチラッと見たが、何を考え

ているのやら、でもこれでいいのかもしれませんね。

表現力を磨く

 今は昔と違って通信アイテムも多種多様で便利な時代になった。表現する

媒体は増えたが表現力が上がったかどうかは別問題。自分の心やだれにも

譲れないポリシーをきちんと表現しているかというと実際はそうでもなさそうだ。


 誰かに気を遣ったり、傷つきたくないから敢えて意見を言わなかったり深入

りをしないという若者が多いともいう。これは一見優しいようだが、私はそうは

思わない。相手と深くかかわれない、またかかわり方を知らないという現代の

病理のような気がする。物心がついたときからテレビゲームで育ち、パソコン

のノウハウも熟知し、デジタル時代を生きてきた世代特有の生態ではないか

と思う。


 常に生きた人間との会話しかなかった我々の世代にはとても違和感がある

のは否めない。もっと人間の中に入り込んで喜怒哀楽をきちんと知り、そして

悩みや苦労を自分と他者とのかかわりの中で解決の糸口をつかもうとする、

その一歩を勇気を持って踏み出してみたら、と言いたい。私はやっぱり古い時

代の人間なのでしょうか。


 若い人が人と話していても、その会話内容が携帯で話しているのと一緒で、

表現力に乏しいのが気になる。モノを書いてきたせいかもしれないが言葉の持

つ意味にも、もっと敏感になってほしいし、そこから発する情感というものにも、

こだわってほしい。そもそも文化というものは人間が生きる生活そのものから生

まれたものなのだから。

携帯電話を遂に使用

 携帯を持たない主義も相当長くなり、「相変わらず頑固ね」と言われ

ていましたが、遂に先日夫婦で購入し、使い始めました。理由は、夫

が、3年前脳梗塞を患っており、障害こそ何もありませんが、いざとい

う時に連絡が取れなかったりしたら大変だと、友人からも忠告され、持

つに至ったわけです。


 出先で公衆電話を探さすに済む事はやはり便利。待ち合わせも気を

もんで待つ必要もなくこれまた便利。便利続きでちょっと怖い気がする

のは私だけかなあ。シングル時代はモノを書く仕事だっただけに、便利

の落とし穴を散々書いてきた私にとって当たり前なのかもしれません。


 でもどんなに便利であっても要は使う側のモラルや生き方が反映され

るものだと思うのです。便利に慣れすぎずにいきたいと思います。


 

雨に打たれて

 昨日は夕方から約束があり雨の中、傘を差しながら近所まで出向きました。

途中から雨足がひどくなり、はいていたスニーカーの中も水浸し、久しぶりに

雨に打たれて、猛暑が続いていたせいかもしれませんが、気分爽快でした。


 今日は、朝から濡れた洋服や靴を洗い、ベランダに干していたら、いのちの

終わりを告げるかのようにセミの鳴き声が甲高く響き、秋の気配を感じさせてい

ます。


 季節の変わり目は、ちょっとメランコリーになりませんか?  残り少ない季節

を惜しむ気持ちなのかどうかは分かりませんが、この気持ちが私的にはとても

気に入っているのです。日本の良さは四季があること。この自然の摂理が人間

を育てているとも言えるのでしょう。自然に逆らわず、共存していく中に本来の人

間の生き方が築かれるような気がします。