『サムエル神父の聖書講座』 | 光の天地 《新しい文明の創造に向けて》

光の天地 《新しい文明の創造に向けて》

現代文明の危機的な状況に対して、新たな社会、新たな文明の創造の
必要性を問う。

【サムエル神父の聖書講座(P-1)】
 
                                 『サムエル神父の聖書講座』
                                  『無上の町』(番外編)
 
『無上の町』の番外編として、新たに『サムエル神父の聖書講座』を開設しました。
キリスト教や聖書に関して、日頃から色々な疑問や懐疑、迷いや不安など様々な問題を抱えて
悩んでおられる人も多いのではないでしょうか。そういった聖書に関するさまざまな問題について、
サムエル神父の講座を、テーマごとに不定期に開催いたします。信仰の有無にかかわらず、興味
のある方は、是非参加してみて下さい。初回のテーマは、「キリスト教の救いとは何か?」です。
お役に立てたら幸いです。
 
 
                     「キリスト教の救いとは何か?」
 
 
われわれ人間が神に求めるものと、神が人間に与えようとしているものとの間には、本質的な認識
のギャップというものが存在しています。では、その認識のギャップとはどういうものなのでしょうか?
 
われわれが学校に行って、数学や化学、物理などを学ぶ場合は、学ぶ以前においては、その教科
に対していかなる先入観や偏見を持ってはいません。しかし、宗教の場合は、キリスト教に限らず、
他の宗教においても、その宗教の経典や教義を学ぶ以前に、すでにその宗教に対するイメージや
願望などの先入観が存在しています。
 
宗教に対する観念は人によって異なっていても、宗教が人間の望みや求めるものをかなえてくれる
ものであるという認識においては、皆共通していると言えるのではないでしょうか。われわれ人間が
宗教に求めるものは、食べること、着ること、住むことのような、生存に関わる一切のことであり、そ
れは時代によって生活様式は変わっても、古代社会から現代に至るまで、洋の東西を問わず、本質
的には皆同じであると言えるでしょう。
 
それは特定の宗教や宗派、教団等に所属しているか否かにかかわらず、すべての人間の中に潜在
的に存在しています。たとえ神仏に対する信仰を持っていない人であっても、神社仏閣へ行って参
拝すれば、誰もが無意識に祈りを捧げるように、信仰心はすべての人間の心の中に存在しています。
 
古代社会の宗教のように、経典が存在しない宗教の場合は、その宗教の神に対して祈る人間の願
望と、その祈りに答えてくれる神との間に、不一致は存在しません。なぜなら、その神は、人間が創
創した偶像神であるからです。では、キリスト教のように、経典が存在する宗教の場合はどうでしょう
か。人間が神に求めるものと、神が人間に与えようとしているものとの間に、不一致は存在しないの
でしょうか?
 
われわれは古代宗教のような偶像の神と、経典が存在する神との違いを、その神が実在するか否
かの違いであると考えます。どんなに祈っても、実在の神でなければ、決してその祈りは聞き入れて
くれることはないだろうと。そして、その経典とは、その神が実在することを証明するものであると。
 
けれども、経典のない古代社会の宗教であるか、経典のある宗教であるとにかかわらず、神の形態
が偶像の神であるか、実在する神であるかにかかわらず、われわれがその神に祈る、その祈りの内
容だけを見てみれば、その祈りの内容自体には、何ら本質的な違いはないのではないでしょうか。
 
われわれが宗教の信者になる場合、学校の教科書のように、その経典を学ぶことを目的として、宗
教の信者になる人は多くはないでしょう。われわれは宗教の信者になって経典を学ぶ以前に、すで
にその宗教に対する願望というものが存在しています。例えば、あるクラブ活動で野球がうまくなる
ために、本屋に行って野球の本を買ってきても、それが間違えてサッカーの本を買ってきたことに気
がついたとしたら、その本を読む気にはなれないでしょう。或いは、その本がプロ野球を目指す高校
生や大学生向けの本であったとしたら、読んでいくらか理解できるところがあったとしても、あまりに
も難しくて、自分にとって役に立ちそうなところだけを読んで、後は読み飛ばしてしまうことでしょう。
 
では、神の教えとはどういうものなのでしょうか?聖書にはどのようなことが書かれているのでしょう
か?それはわれわれが求めるものと同じものなのでしょうか。それとも違うものなのでしょうか?
 
われわれ人間が求めるものとは何でしょうか。われわれが求めるものには、人によって千差万別で
様々な種類の望みがありますが、いかなる望みであっても、集約すれば、幸福になることと、不幸に
ならないことの、二つの要素に分類されるのではないでしょうか。しかし、この幸福になることと、不
幸にならないことの間には、互いに相反する矛盾というものが存在しています。
 
われわれが日々の生活の中で求める幸福とは、食べることや着ること、住むことなどの生活に関す
る直接的なことから、野球選手になることや、オリンピックに出場すること、歌手や俳優になること、
小説家や科学者、教師や医者になることなど、教育やスポーツ、文化、芸術等、様々なジャンルに
渡って存在していますが、そのジャンルや種類がいかなるものであろうと、本質的にはそのどれも
が願望の達成であり、欲望の充足であり、またその拡大を意味していることにおいては、皆共通して
いるといえるのではないでしょうか。
 
また、人間にとっての不幸とは、食べ物や着る物、住む所などの生活に必要なものを得ることができ
なかったり、病気や事故や災害に遭ったり、受験や就職試験に失敗して、自分の望む職業につくこ
とができなかったりと、その種類も幸福と同じくらい沢山の種類がありますが、それらの不幸のすべ
てが幸福の裏側に潜在的に内在しているもので、幸福と不幸は表裏一体の関係になっているとも
いえるでしょう。
 
美味しい食べ物や飲み物を取れば、幸福感を得ることができますが、食べ過ぎたり飲みすぎたりす
れば、病気になって苦しむことになります。衣料品や装身具、調度品などの欲しい物を買うことがで
きれば、幸福感を得ることができますが、必要以上に購入すれば、生活資金も不足して困窮するこ
とになります。映画や観劇、音楽、ゲーム機器、ギャンブル、インターネット、スマホ、アルコール飲
料、スイーツ等、現代社会では即効的に幸福感を得ることができる様々なものが存在していますが、
過度に使用すれば、知らず知らずのうちに中毒症状に陥って、金銭的に借金を重ねたり、心身の病
にかかって苦しむことにもなります。
 
幸福になることと、不幸にならないことは、人間にとっての共通の望みではあっても、その根拠とな
る欲望においては、全く正反対の関係になっています。幸福になることは、欲望を充足することであ
り、それを更に拡大していく努力が要求されますが、不幸にならないためには、その欲望を本能のま
まに放縦するのではなく、その欲望を限度を超えないように制御、抑圧する努力が必要になってきま
す。幸福と不幸は、努力の方向性においては、一方は欲望を肯定するのに対して、もう一方は否定
するというように、二律背反の関係になっています。
 
では、われわれはこの幸福と不幸について、どちらを優先するのでしょうか?どちらが重要性の高い
ものと考えるのでしょうか?
 
もし、食べ過ぎや飲み過ぎで、腹が痛くなったり、頭が痛くなったりしたとしても、薬を飲んだり、医者
に見てもらって、わずかな期間で治るものであるなら、その苦痛はそれほど重要なものとは考えない
でしょう。その不幸の重要性が低いものである限り、われわれの関心は幸福の達成へと向かいます。
そして、食べたり、飲んだりすることに対して、さほど注意を払うこともなく、欲望を制御することにも、
注意を向けることはないでしょう。
 
しかし、食べ過ぎや飲み過ぎが習慣化して病気になり、医者から注意を促されたり、入院を余儀なく
されるような事態に陥ったりした時、われわれは自らの意志で、食べたり飲んだりしていた時の幸福
を捨てて、その病気の原因となった、欲望を制御する努力を迫られることになります。そして、その時
始めて、幸福と不幸の重要性の認識が逆転することになります。今までどれほど多くの幸福を築き
上げてきたとしても、一旦、病気になって病院のベッドに横たわって、一生入院しなければならない
ような事態になったとすれば、それまでの幸福のすべてが失われてしまいます。どんな幸福によっ
ても、その不幸を贖うことはできないことでしょう。重要性においては、幸福よりも不幸の方がはるか
に重要性が大きいと言えるのではないでしょうか。
 
                         (以下次号)