『無上の町Ⅲ』(P-9) | 光の天地 《新しい文明の創造に向けて》

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現代文明の危機的な状況に対して、新たな社会、新たな文明の創造の
必要性を問う。

【新しい文明のビジョン(小説編)(P-9)】
 
                                         『無上の町』(第3巻)
                                       真珠の飾りを着けた都の果てに
 
                                                 《連載第 9 回》
 
                                                             5
 
翌朝ミキは、昨日深夜までかかって作成した請求書と、取引先の住所録のコピーをバッグに入れ、
田舎から持参したワインレッドのビジネススーツに着替えて事務所を出た。淳平は地方の取引先を
る回ため、ミキが作成した請求書を持って朝から車で直行していた。ミキは都心に向かう電車に乗
ってから淳平にメールを入れた。
 月末に決裁しなければならない支払手形の総額は一千万円だったが、月末には受取手形の決済
もあり、今日から月末までの店舗の売上を加えれば、実質的な資金繰りの不足額は、約五百万円
ほどだった。ミキが昨夜この不足額を埋め合わせるために作成した請求書は、卸売の取引先に対す
る十数件ほどの請求書だったが、取引先から帰ってきた淳平が彼女の机の上にのっている請求書
に目を止めて、一枚一枚注意深くめくりながら、「これはもうおれが回収してきた分だから」と言って、
三枚の請求書を抜き取った。淳平が回収してきた売掛金は約二百四十万円ほどあった。
 ミキが作成した請求書は大口の取引先を選んだため、会社も大体都心周辺に集中していた。淳平
が回収してきた売掛金を差し引いた残りの不足額は、取引先の件数にすると約五件ほどだった。こ
れくらいなら今日中に回収できるかもしれないと、ミキは電車の中でコピーした取引先の住所録を
眺めながら思った。けれども、それが誤算だったと気づいたのは、まだ取引先を数件しか回らない頃
だった。大口の取引先は会社の規模も大きく、たとえ請求書を持参しても、小口資金を超える支払い
に関しては、経理の責任者にも決済権限はなく、社長もほとんど不在だった。事前に連絡を入れて
いなかったため、突然、取引先を訪問しても、受付のロビーで待たされるか、応接室に通されても
二~三十分待たされるのが普通だった。彼女が請求書を持参して直接訪問した事情を説明すると、
接客に応じてくれた担当者は皆納得して好意的に接してくれたが、回収するまでには至らなかった。
 昨日淳平が回収してきた三件の取引先には、後日請求書を届ける約束で、その場で彼は請求書
を渡してはいなかった。会社の取引が長ければ、そのような便宜を図ってもらうこともあるのだろうと、
ミキは昨夜請求書を作成しながら思った。しかし、いくら会社の取引が長くても、何の面識もない者
が突然請求書を持参して会社を訪れても、その支払いに応じてくれる会社があろうはずもなかった。
 最後に訪問した会社は家族経営の会社で、奥さんが経理を担当していたため、金庫にある分だけ
といって、五十万円ほどの支払いに応じてくれた。十数件の取引先を訪問して、回収できたのは、結
局その一件だけだった。取引先を回り終えて会社に戻る頃には、すでに陽は落ちかけていた。
 会社に帰って来ると、ミキは気を取り直して、急いで小売の取引先の請求書の作成に取りかかっ
た。小売の店舗から購入する顧客には、飲食店や個人商店などの個人事業者が多く、支払いもそ
れほど大きな金額ではないため、請求書を持参すれば支払いに応じてくれるのではないかと考えた
のだった。しかし、売掛金が少額のため、資金繰りの不足額を埋めるためには、昨日作成した請求
書の倍以上の請求書を作成しなければならなかった。ミキはコンビニで買ってきた弁当に箸をつけ
ながら、パソコンのキーボードを叩いた。
  二十件ほどの請求書を作成した後、再度、資金繰り表を確認するために、手形台帳を取り出して
ファイルを開こうとした時、何か小さな紙切れのようなものが、ファイルの間からすり抜けて床に落ち
ていった。すかさず机の下にもぐり込んで、その紙切れを拾い上げてみると、それは百万円の金額
が記された支払期日が九十日の受取手形だった。どうしてこんなところに受取手形があるのだろう
と、いぶかしげに思いながら、ミキは暫くその手形を眺めていた。手形の発行した日付は今月の日
付けになっていたため、前の事務社員が淳平から渡された手形を、手形台帳のファイルにはさんだ
まま記帳せずに、金庫にも保管し忘れて辞めていったにちがいない。ミキは手形台帳にその手形が
記帳された形跡がないのを確認しながら思った。
 金庫に保管されていた受取手形は、すでに淳平が手形の割引に回していたため、一枚も残ってい
なかった。今からこの手形を銀行に持ち込んでも、審査には間に合わないだろう。もう少し早く気が
ついていたら・・・・それがミキには悔やまれた。しかし、淳平は手形はすべて自分の手帳に記入し、
資金繰りも常に経理の帳簿と突き合わせながら、ほとんど頭の中で把握していた。自分が回収して
きた手形であれば、手形の紛失に気がつかないはずがない。彼女にはそれが不可解だった。
 夜遅く、淳平がいつものように取引先からもらった、土産品の入ったのビニール袋をぶら下げて帰
って来た。
「遅くなってごめん・・・・渋滞に巻き込まれてね・・・・」
 と言いながら、淳平は上着を脱いで椅子の背にかけた。淳平はミキが置いた電話の伝言メモを見
ながら、パソコンのスイッチを入れた。ミキは彼の仕事が一通りかたづくのを待って、発見した手形を
手に取った。
「こんなものが出てきたんだけれど・・・・」
 と言いながら、ミキが身を乗り出すようにして、手形を淳平の前に差し出すと、淳平は受け取った
手形の表と裏を確認しながら、何事か考え込むように窓の方に目を向けた。
「前にいた経理の人が、あなたから受け取った手形を、金庫に仕舞い忘れたんだと思うけど」
「いや、これはおれが回収してきたものじゃないよ・・・・」
「えっ、そうなの?・・・・」と言って、ミキはびっくりしたように椅子に腰を下した。
「これ、どこにあったの?」
「手形台帳のファイルにはさまっていたのよ・・・・」
「この手形の日付をみると、事務社員が辞めた日と重なっているから、恐らく仕入れの担当者が回収
してきたものだろう」
 売上代金は、仕入担当者が取引先に商品を納品した際に、回収する場合があると言って、淳平は
机の引き出しからビジネス手帳を取り出した。
「そっちの帳簿には記帳されている?」
 と尋ねながら、彼は手帳をパラパラめくった。
「いえ、記帳されていないわ・・・・」
 ミキはもう一度手形台帳を開いて確認しながら言った。
「いつもは、おれが受け取るんだけど・・・・」
 淳平は手帳をめくりながら、開いたページを指でなぞった。
「あいにくその日は、おれが事務所にいなくてね・・・・仕入れの担当者が事務社員に渡したんだろう」
「事務社員があなたに渡すのを忘れたということ?」
「その日は社員が辞めた日でね。おれも事務所に戻るつもりだったんだけど・・・・」
 淳平は手帳にその手形を記入してから手帳を閉じた。
「それで、手形をファイルにはさんだまま、あなたが帰って来るのを持ってたわけね」
「仕入担当者から手形を預かった場合は、おれに渡すことになってことになっていたんだけど、その
日は店でトラブルがあって、帰りが遅れたもんだから・・・・」
「でも、どうして金庫に仕舞わなかったのかしら・・・・こんな大事なものを・・・・」
 ミキは社長室の横に置いてある金庫を見つめながら首を傾げた。
「いや、そうじゃないんだミキ、金庫に仕舞い忘れたんじゃなくて、金庫の開け方を知らなかったんだ」
「金庫の暗証番号を教えていなかったの?・・・・」
「一応、経理部長はおれが兼務することになっていたんだよ。まだ若い子だったから、新入社員に
手形の管理や、資金繰りの管理までやらせるわけにはいかないだろう・・・・」
「そういうこと・・・・」
 ミキはなぜ、今まで資金繰り表が作成されていなかったのか、その理由がわかって、納得したよう
に頷いた。手形台帳が直近まで記帳されていたのは、すべて淳平が記帳したものだった。
「手形台帳にはさんでおけば、おれが気がつくと思ったんだろう・・・・」
「じゃあ、私がもう少し早く気がついていればよかったわね・・・・今から銀行に持って行っても間に合
わないし・・・・」
「いや、そんなことはないさ」
「でも、あと二日しかないじゃない?」
「二日あれば十分だよ」
 と言って、淳平は笑いながら首を振った。手形の割引は銀行の審査が通らなくても、割引業者に
持ち込めば、その日に現金化することができた。彼は今までに何度も割引業者を利用していた。
「そう、それを聞いて安心したわ・・・・」
 ミキはフッとため息をつきながら、胸をなでおろした。
 淳平は手形を手にしたまま席を立って、ミキの机の前までやってくると、ミキの机の上に片手をつ
いて、今日までの実績を記入したパソコンの資金繰り表にじっと目を凝らした。
「これで何とかいけそうだな・・・・」
 しかし、この手形が現金化されたとしても、まだ不足額は百万円以上残っていた。ミキは淳平の言
っている意味がよくわからず、思わず振り返って彼の顔を見つめた。
 
                       (以下次号)