『サムエル神父の聖書講座』 | 光の天地 《新しい文明の創造に向けて》

光の天地 《新しい文明の創造に向けて》

現代文明の危機的な状況に対して、新たな社会、新たな文明の創造の
必要性を問う。

【サムエル神父の聖書講座(P-2)】
 
                      『サムエル神父の聖書講座』
                          『無上の町』(番外編)
 
                「キリスト教の救いとは何か?」
 
 
その不幸がより大きなものであればあるほど、われわれの不幸の重要性の認識も、より大きなもの
となるでしょう。では、数ある不幸の中でも、人間にとって最も大きな不幸とは何でしょうか?
もし、その不幸によって、それまで築き上げてきた幸福のすべてが失われてしまうものなら、われわ
れはその不幸に陥らないことを、何よりも優先しなければならないでしょう。
 
われわれの社会では、通信技術の発展によって、身の回りに起こる出来事だけでなく、世界中の
ありとあらゆる情報を得ることが可能です。われわれは日々の報道の中で、世界中で発生する数多
くの不幸な出来事を知ることができます。しかし、どんなに多くの不幸があって、それがどんなに大き
な不幸であっても、その不幸がわれわれの身に降りかかる可能性が高いものではない限り、その
不幸は重要性の認識において、それほど大きなものとはならないでしょう。その不幸が幸福よりも
優先しなければならないほど重要なものとなるためには、すべての人間にとって共通に降りかかる
ものであることが要件となります。
 
われわれ人間にとって共通の、誰もが免れることのできない最も大きな不幸は、死であると考えら
れています。確かに死によって、それまでの人生で得た幸福のすべてが失われてしまうことは事実
でしょう。しかし、もし、その人が死後の世界があって、死後にも生前の幸福がそのまま継続してい
くものであることを信じていたとしたら、その死はその人にとって、決して不幸なものとはならないで
しょう。また、もし、生前に不幸な人生を送って、その人が死後の世界は存在しないと信じていたとし
たら、その死はむしろその生前の不幸を消し去ってくれるものだと考えて、その人もまた、その死を
不幸なものとは考えないのではないでしょうか。
 
しかし、もし、死後の世界があって、たとえ生前に幸福な人生を送った人であっても、死後の世界で
生前の幸福な人生とは全く逆の、苦しみの世界が待ち受けているとしたら、また、生前に苦しみの
人生を送った人が、死後の世界でもその苦しみがなくならないで、ずっと継続していくものだとしたら、
そして、その死後の苦しみの世界が、一過性のものではなく、想像を絶するほど長期及ぶものであ
るとしたら、その死後の苦しみの世界こそが、人間にとっての最も大きな不幸といえるのではないで
しょうか。
 
人間の能力で死後の世界を知ることはできません。未だかつて、死後の世界の真実を知った人も
また誰もいません。その真実を知るものは神だけです。聖書にはその真実が書かれています。
死後の世界がどういうものなのか。それは苦しみの世界なのか、楽しみの世界なのか。どういう人
がその苦しみや楽しみの世界に行くのか。生前にどういう生活を送った人がそのような世界に行く
のか。その死後の世界に行く基準や条件、生き方の規範や規律などが、詳しく示されています。
 
もし、ある人が山歩きをしていて、大きなダムの側を通った時、そのダムに亀裂が入って決壊寸前の
状態になっているのを目撃したとしたら、その人はどうするでしょうか?山の麓に町があって多くの
人が住んでいるとしたら、その人は急いでその町まで駆けて行って、すべての町の住民にダムの状
況を知らせるのではないでしょうか。その町の人々がどんなに幸福に暮らしていたとしても、ダムが
決壊すれば、その町全体が濁流の飲み込まれて、その町のすべての住民の幸福もまた、一瞬のう
ちに破壊されてしまうことになります。その町の住民の幸福がどんなに大きなものであろうとも、ダム
の決壊による不幸の方がはるかに重大で、何よりも優先しなければならないと、その人は考えるの
ではないでしょうか。
 
神の教えもまた同じです。もし、死後の世界があって、ある条件によってはすべての人々が、苦しみ
の世界を免れることができないものであるとしたら、その教えはすべての人々に知らせなければな
い、人間にとって最も重要な教えとなるでしょう。ダムの亀裂を目撃した人が、山の麓の町の人々に
今の生活の幸福よりも、ダムの決壊による不幸からの避難を優先したように、神の教えもまた、幸福
よりも不幸から免れることの重要性を優先した教えであるということになるでしょう。
 
しかし、その人がどんなにダムの亀裂の事実を町の住民に訴えても、すべての町の人々がその避難
することにに同意するわけではありません。 なぜなら、町の人が誰もダムの亀裂の事実を見たわけ
ではなく、その人の言うことが正しいと信じる証拠が何もないからです。たとえ信じたとしても、避難
するためには、家を捨てて町から出ていくという、大きな決断を迫られることになります。避難して町
が濁流に飲み込まれるという不幸を逃れることができたとしても、その町で得た人生の幸福の、すべ
てを捨てなければなりません。また、たとえそれがどれだけ大きな不幸だとわかっていても、その不
幸が今すぐ訪れるわけではありません。それは明日かもしれませんが、一年後かもしれません。
十年後かもしれません。先の見通しが長ければ長いほど、その決断も鈍ることにもなるでしょう。
 
幸福か、不幸か、どちらを選択するかは、すべてその人の言葉を信じるか否かにかかっています。
聖書の教えも同じです。死後の世界がどういうものなのかを知る人は誰もいません。幸福か、不幸
か、どちらを選択するかは、すべて神の言葉を信じるか否かにかかっています。
われわれが宗教に求めるものは、現在の幸福であり、未来の不幸ではないでしょう。この世の幸福
であり、死後の不幸ではないかもしれません。われわれが神に祈るのは、どんなに努力しても、人
間の力では、その望みをかなえることができないからでしょうか。けれども、われわれが祈る、この
世の望みのすべてがかなえられたとしても、その幸福が死後の世界にも継続するものなのか、それ
とも逆に苦しみの世界に落ちてしまうものなのか、それを知っている人は誰もいません。
 
神の教えとは、ダムの決壊を知らせる教えであり、その避難する場所がどこにあるのかを知らせる
教えです。山の麓にある町とは、地上の国を意味し、その地上の国でどんなに多くの幸福を積み上
げたとしても、いずれはダムの決壊によってすべてが濁流に飲み込まれてしまう、儚い幸福にすぎ
ません。濁流から逃れるための避難所とは、神の国を意味し、そこにおいてしか人間の真の幸福は
ありません。それが聖書の教えなのです。
 
キリスト教の救いもまた同じです。しかし、神の教えは、人間にとっての最も大きな不幸を免れて、
真の幸福に導くものではあっても、われわれにとっては、いつ訪れるかわからない遠い未来の不幸
よりも、今日のパンを欠く不幸の方がはるかに重要だと考えます。死後の世界の不幸より、この世の
幸福を得ることの方がはるかに重要だと考えます。それは決して間違いとは言えないでしょう。
 
たとえ死後の世界の苦しみが、人間にとっての最大の苦しみだと信じても、ダムの決壊の事実をニュ
ースの報道などで目にしない限り、目の前に決壊したダムからの濁流が迫って来るのを目撃しない
限り、誰も今の生活の幸福を捨ててまで、神の国という避難所に向かおうという気にはならないこと
でしょう。しかし、われわれの現代社会に渦巻いている未曾有の出来事や、世界各地で頻発してい
る地球温暖の異常気象による災害や、コロナウイルス感染症の蔓延、地球環境破壊、戦争の勃発、
食糧危機等、われわれの生活を根底から揺るがすような様々な諸問題は、正に決壊したダムから
次々と流れ押し迫って来る濁流そのものではないでしょうか。
 
ダムの水量は、人類の欲望の総量を意味しています。一人一人の祈りは小さなものではあっても、
すべての人間の祈りの総量が地球一個分を超えてしまえば、いつかは地球は決壊してしまいます。
形あるものはいつかは滅びます。この世の中には形のないものも存在しています。それは決して
滅びることはありません。決して滅びることのない、永続的な幸福を得ること、それが神の教えでも
あります。
 
キリスト教の救いとは、神の指差す方向にあります。しかし、神の指し示す方向ではなく、直接神の
方向に向かう人がなんと多いことでしょう。われわれ人間が神に求めるものと、神が人間に与えよ
うとしているものとの間には、見分けることが困難な認識のギャップが存在しています。それを知る
ものは幸いです。しかし、それを知ることができなければ、どんなに真剣に神に祈っても、神はその
祈りに答えてはくれないでしょう。そして、いつかは神に疑いを感じて、信仰を見失ってしまうかもし
れません。
 
神はすべての人間の祈りをご存知です。決して無視してしているわけではありません。もし、どんな
に祈っても、その祈りに神が答えてくれないのであれば、それが神の答えなのです。
 
                         (完)