『無上の町Ⅲ』(P-8) | 光の天地 《新しい文明の創造に向けて》

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現代文明の危機的な状況に対して、新たな社会、新たな文明の創造の
必要性を問う。

【新しい文明のビジョン(小説編)(P-8)】
 
                                 『無上の町』(第3巻)
                                       真珠の飾りを着けた都の果てに
 
                                                 《連載第 8 回》
 
篠原と笠間が教会から去って行くのを見送って、一旦、奥の部屋に退いた後、再び礼拝堂に戻って
来ると、薄暗くなった礼拝堂に、まだ人影が残っているのに気がついて、神父は足早にその人影の
方に向かって歩いて行った。
「まあ、有田さんじゃありませんか?・・・・」
 神父はびっくりしたような顔で、両手を広げた。
 有田は椅子から立ち上がって、無言で神父の前に頭を下げた。有田は両親が信者だったため、こ
の教会で洗礼を受け、隣町のT市の高校を卒業した後、サムエル神父に憧れて司祭の道を志すた
めに、東京の神学校に入学した。しかし、同じ神学校で学ぶ同郷の仲間の、突然の自死をきっかけ
に司祭の道を捨て、今は東京で普通の会社勤めの生活を送っていた。司祭の道を捨ててからは一
度も帰郷することもなく、彼がこの教会を訪れたのは五年振りのことだった。
「今さら、神父さんの前に顔を出せるような身分ではないのですが・・・・」
 黒いスーツを着た有田が、うなだれたまま再び深々と頭を下げた。
「ご両親から事情はお聞きしています・・・・元気そうなお顔を拝見できただけで十分です」
 有田は思わず右手を口元に押し当てた。
「さあさあ、有田さん、ここは寒いですから、奥の部屋にまいりましょう・・・・」
 と言って神父は有田を手招きしながら、祭壇の方へ向かって歩いて行った。
 有田はオーバーコートを手に持って、神父の後からついて行った。神父に案内された集会室は、
入口から入って右側の壁にレンガ造りの暖炉があって、暖炉の中には積み重なった薪が赤々と燃
え盛っていた。部屋の真ん中に長テーブルが置いてあり、有田は神父に勧められるままに、暖炉寄
りのテーブルの椅子に腰を下した。
「ご無沙汰して、申し訳ありません・・・・」
 有田は両手を膝に置いて、頭を下げた。
「久し振りでしょう、有田さん、雪を見るのは・・・・」
 神父はいつの間にか降り始めた、窓の外の雪を眺めながら微笑んだ。有田は暫く無言で、神父と
一緒に降りしきる雪を眺めていた。
「神父さんには大変お世話になっていながら、何の連絡も差し上げないことに、ずっと気にかかって
いました・・・・」
「こちらには、いつ?・・・・」
「昨日です・・・・」
「そうでしたか・・・・」
 神父は有田の顔をじっと見つめながら頷いた。
「申し訳ありません。なんとお詫びしていいのやら・・・・」
 有田は思わず絶句して、テーブルの上で組んだ両手を固く握りしめた。
「お住まいは、今、どちらなんですか?・・・・」
「東京です・・・・」
 有田は司祭の道を断念したいきさつを、言葉を選びながら途切れ途切れに話し始めた。神父は有
田の顔を見つめながら、彼の話に耳を傾けていた。
 有田の話が終わると、神父は、「ちょっとお待ちになってください・・・・」と言って席を立った。暫くす
ると、助祭の正木老人がワゴンを引いて、神父と一緒に部屋の中に入って来た。正木老人はテーブ
ルの上にお茶とコーヒーを置いて、暖炉の火を確認しながら、ワゴンを引いて部屋から出ていった。
「今、お仕事は、何をなさっているのですか?・・・・」
 神父は有田にコーヒーを勧めながら尋ねた。
「出版社の仕事をしています。今までにも色々な仕事にやりましたが、ほとんどがアルバイトでした。
やっと、正社員の仕事につくことができました・・・・」
「アルバイトといいますと・・・・」
「私の場合は、履歴書を見ただけで断られてしまうのです・・・・今の会社は知人の紹介なのです」
 有田はゆっくりとコーヒーカップを持ち上げて口をつけた。
「ああ、そういうことですか・・・・」
「小さな出版社です・・・・日々の糧を得るためにも汲々としている毎日です。情けない話ですが・・・・」
「有田さん、差し出がましいようですが、この町にお戻りになるつもりはありませんか?・・・・」
 神父は微笑みながら、湯呑茶碗を手に取った。
「私がですか?・・・・」
 有田は神父の言葉が理解できずに、神父の顔を見つめ返した。
「有田さんはご存知かどうかわかりませんが、前にこの町の町長をやっておられた野平町長の息子
さんの良介さんが、去年の春の町長選挙に当選して、今はその良介さんがこの町の町長をやって
おられます。良介さんは新しい町をつくるためのプロジェクトを立ち上げて、色々な会議を主催されて、
私もその会議のメンバーとして参加させてもらっています」
「それは私も聞いています。私は良介さんより学年が下ですから、直接お話したことはありませんが、
この町の同級生を通して、東京の方にも色々と情報が入っていました」
「今、この町の人たちが総出で、このプロジェクトを推し進めようとしています。有田さんもこのプロジ
ェクトに参加されてみてはいかがですか・・・・このプロジェクトはこの町の人以外にも多くの人に参加
を呼びかけています・・・・」
 神父は湯吞茶碗を両手でつかみながら、ニコリと微笑んだ。
「しかし、私には、まだこのプロジェクトがどういうものなのか・・・・」
 有田は困惑したように足元に視線を落とした。
「この町の信者さんの中には、農業をやっておられる方が沢山いらっしゃいます。農業というのは自
然相手の仕事ですから、朝早くから夜遅くまで、土曜日も日曜日もありません。雨や風の強い日で
も仕事をしなければならないこともあります。収穫の時期になると、一家総出で仕事をしなければな
りません。洗礼を受けた身であっても、日曜日のミサに毎週皆さんがそろって出席されるわけでは
ありません。むしろ、そういう方は稀なくらいです。仕事をもっていると、毎日聖書を読む時間もとれ
ません。たとえ、毎日聖書を読んでいても、書かれている意味がよくわからないと、嘆かれる信者さ
んも沢山いらっしゃいます・・・・」
 有田はうつむき加減のまま、じっと神父の話に耳を傾けていた。
「毎日、決まった時間に教会に行くことや、毎日、聖書を読むことだけが信仰の道なのではありませ
ん。先ほどまでおられた、商工会の会長をしておられる笠間さんは、信者ではありませんが、この教
会によく寄付をされ、日曜日のミサにもちょくちょく顔をお出しになります。そういう方もおられます」
 神父はお茶を一口飲んで、雪が降りしきる窓の外に目をやった。
「私は信仰の道を捨てました・・・・しかし、ほんとうに、その信仰を捨てたのかどうかすら、今の私に
はわからないのです・・・・」
 有田はテーブルを見つめながら、腹の底からしぼり出すような声で言った。
「有田さん、この教会に空いている部屋がありますから、そこに住んでみてはいかがでしょう・・・・」
 有田は神父の言葉に驚いて、思わず顔を上げて神父の顔を見つめた。
「この教会にですか?・・・・」
「もし、よろしかったら、ここでお仕事をしていただいてもかまいません。そうすれば、私も助かります
から・・・・」
 神父がテーブルの上で両手を広げながら微笑んだ。
「私がですか・・・・とても、今の私にそんな資格があるとは思われません・・・・」
 有田は目をそらせて、赤々と燃える暖炉の火をじっと見つめた。
「この教会には多くの信者さんがいらっしゃいますが、すべての人が洗礼を受けておられるわけで
はありません。洗礼とは、イエスキリストと一体となって、すべての罪から解放されることを意味して
いますが、洗礼を受けたからといって、直ちに救いに至れるわけでもありません。罪を犯しても、そ
の罪を悔い改めて許しを請えば、神は喜んで許しを与えてくれることでしょう。しかし、それで、救い
が得られるわけでもありません・・・・」
 神父は暖炉の壁に掛けられた、小さな絵を見上げた。
「罪を犯した人が悔い改めて、神から許しが得られたとしても、罪自体は残ります。有田さん、もし、
あなたが神から許しが得られたとしたら、ご自分を許すことがおできになりますか?・・・・」
「たぶん・・・・できないと思います・・・・」
「人間は悲しい存在です。愚かな、弱い存在です。傲慢で、浅薄で、常に自分が他人に勝っていな
ければ気がすみません。どんなに罪を犯しても、何とか隠して免れようとし、わずかばかりの善行で
それを補おうとします。ほとんどの人が、自分は正しい人間だと思っています。法律に反する行いを
しない限り、罪の意識を持つことはできません。罪の意識とは、実際に罪を犯したかどうかということ
ではなく、自分は救われない存在であることの自覚なのです」
 
                       (以下次号)