ネタ切れの今日は、植村君に代わり高橋が爆笑シリーズを書きたいとおもいます。シリーズその②で植村君より「優秀な原田門下の中でも異彩を放っていたw」などと過分なお褒めの言葉を頂いたので、植村君の異彩ぶりについてもご紹介いたします。
例年1月に調布市民会館たづくりで催される原田門下生発表会「フェリーチェの会」。(幸一郎の幸 幸せのイタリア語訳のfeliceに由来してます。) 例年桐朋の受験や卒業試験の直前に開かれる門下の優秀な小学生から大卒の研究生まで40人ほどの演奏する、朝10時から夕方6時までのマラソンコンサートです。(今でもやっているはずです。入場無料。若き駿才の演奏を聴きたい方は1月にぜひいらして下さい。) 桐朋に首尾よく入った正月ボケの男子生徒たちは(とりわけ大学生)辛うじて撃沈をまぬがれ、女子生徒はしっかりと演奏するのが常でした。しかも桐朋のある調布市で寮生活や一人住まいをする女子学生たちは、演奏後ひそかにアパートや寮に戻り洗濯物やスーパーで買い物などをすませてから夕方5時40分ごろに再びホールに駆けつけ、記念撮影と打ち上げのパーティーになに食わぬ顔で参加する要領の良さでした。
忘れもしない植村君の初参加した2002年のフェリーチェの会はたまたま会場予約ができなかったせいか、僕の記憶では唯一の府中の森ウィーンホールでの開催となりました。僕は桐朋の大学2年でしたが、彼は菊里高校3年で受験生。その日三重県から単身上京してバルトークの2番の協奏曲の1楽章を演奏してのデビューは存在感十分でしたが、そのときの彼のステージ上でのいでたちが異彩を放っていました。
学ランでバルトーク。真っ黒の詰襟でした。1952年の話ではありませんよ。2002年です。粋がってたんですね。学生服に身を包んだ姿が、当時の彼の最高の自分像だったのでしょう。素朴なようでいて結構ナルシストでしたから。ご両親はネクタイでも締めて行けときっと反対されたのでは。反抗期丸出し。(ちなみにご両親はこのブログでも紹介した中日新聞の記事に登場されてます。)
打ち上げの際に、幹事のご父兄の方がマイクを持ち植村君に近寄りました。(米田理沙ちゃんのお母さんだった気がします。) まず「はじめして。植村太郎です。三重県から来ました。」などと卒なく自己紹介を済ませたところで、「いつも先生からレッスンでどんなお言葉を頂いていますか?」と質問をされると、先生もいる前で何の躊躇もせずに言ったひとことがこちら。
「先生からいつもシンプルなお言葉頂いてます。」
会場が爆笑につつまれたのは言うまでもありません。まだ学校にも入ってない高校生のくせにこいつはなかなかやるなと惚れました。