智恵子は東京に空が無いといふ

高村光太郎の智恵子抄に出てくるこの一節が

最近よく目の奥に浮かぶ


東京に空はない

空きがない、何も無い空間がない

東京のどこにいても

何かをしていなければならないという

焦燥感に襲われることがある


私は田舎育ちだから

周りは田んぼばかり

うちから3km弱離れている小学校は

遮るものなく遠くからでもよく見えた

秋には金色の稲穂が風に揺れ

穂浪の音が広がる

夏にはあたたかい大粒の雨が体をつつみ

稲妻が田を紫色に光らせる

私もその一部になった心地がしたものだ


何もしなくても

何も考えなくても

ただただそこにあることを許され

受け入れられ

そこで何かをすることが

却って罪であるかのような錯覚を覚える


あくがれて虚栄の途にのぼりしより

十年の月日塵のうちに過ぎぬ

ふりさけ見れば自由の里は

すでに雲山千里の外にある心地す


国木田独歩の詩が

東京に空が無いと言った智恵子の言葉にこだまをかえすように重なり響く


山林に自由存す

われ此句を吟じて血のわくを覚ゆ


心臓がうたう

芝居をやっていて

常日頃考えているのが

自分が俳優として何を社会に還元できるのかということだ


私の所属する劇団TRASHMASTERSでは

今まで社会問題を多数取り扱ってきた

近年ではIR問題や核のゴミ問題

入管収容所でのウィシュマさん死亡事件

について


そして2月に下北沢駅前劇場にて舞台上演され

8/30に映画上映開始された

「掟」は安芸高田市議会をモチーフに地方自治ひいては国政のあり方について問うた作品だ


当たり前だが作品には作り手の意思が反映される

舞台版は劇団で制作し

映画版に関してはより多くの人々が関わっている

それが大きくなればなるほど

あるゆる人の思惑が介在する


舞台版と映画版はその意味で良くも悪くも異なるものになっているが

そこに関してはもはや言っても詮無いことだろう



舞台版を上演した際に、気になる投稿が目についた

おそらく安芸高田市にゆかりのある方の投稿だとは思うが

「私は辛くてそれを見ることができないだろう」

という内容だった


私の所属する劇団は、まさに今起こっている問題について取り上げることが多い

それは今この時を生きる人々と作品を通して

一緒に考え、より良い社会に向け行動を起こしていく契機にしてもらいたいと思っているからだ


しかしながら当事者の方々の思い

辛さは正直なところ理解できる

私の所属する劇団だけでなく

こういった問題をとりあげると

「私たちの人生を消費するつもりか」

という声があがるのを度々みてきた


これに対して私は明確な答えをもたない

この世界に生きている限り私も当事者だとは思ってはいるが

どんなに言葉を尽くしても、結句私たちが

それをとりあげることによって辛い思いをする方がいるのは事実としてある

私に出来るのは、その方々へ想いを馳せ

責任を持って演じることしか出来ない

尊重するとはどういうことなのか

やるべきなのか否か

答えの出ない問いに、ことあるごとに頭を悩ませる



8/30から映画「掟」が上映開始された

9/13からは関西、中部、中国、北海道と全国へ拡大される

モデルのイメージが色濃くはあるが

フィクションとして出来ることならフラットに

目を開き"そこで起きていること"を観て貰いたい


そして共にこれまでを知り

これからを考えていきたい

耳をすますということ
目をむけるということ
そのことについてよく考えます

耳にはいる音、その声
目にはいる光、その形
ちゃんと見ているのか
ちゃんと聞いているのか

鼓膜を震わす響きを
瞳に映ったあの人を
肌を撫でる風を その香りを
ないものにしてはいないだろうか
しっかり触れようとしたのだろうかと

さまざまな出来事に
背を向け
目を閉じ
口をつぐみ

自らを守る為に
そういった選択が必要な時もあるけれど
その選択が
明日の自分を
明日の世界をつくるということを
忘れてはいないかと

目をつぶるうちに 瞼は開かなくなり
耳を塞ぐうちに 蓋はとれなくなり
そしてどうやら人間というものは
そのことすらも忘れてしまう生き物のようです

どうか耳をすましてください
目をむけてください

そして 歩き 手を伸ばし続けてください

その向こうに誰がいるのか
どんな光景が待っているのか

出逢えたら

彼らのことを
貴方のことを

おしえてください