南京大虐殺は嘘だった、無かったという根拠の乏しい言説が今また広がっている
そこには日本は悪くない、中国が悪いという意識を広げさせようとする意思が感じられる。
それとは直接関係ないのだけれど、わたしが体験した南京でのお話を少し書こうと思う。

私が初めて海外にいったのは、18年前。
養成所をでてフリーの役者として活動しはじめた頃だった。
初めての海外公演、題材は中国革命の父といわれる孫文と、その革命を支援した日本人、梅屋庄吉の交流を描いた物語だ。

日本での公演後、北京、上海、南京の中国三都市をまわる巡業。

海外公演で中国に行くことを家族に伝えると
両親はもちろんのこと、戦前上海租界に住んでいた祖母はことさら喜んでくれた。
しかし他の親戚からは
「危ない目に遭わないように、騙されないように、何されるかわからないからね」
と私を心配してか、中国への偏った認識からくる悪感情からかそういわれたことを覚えている。

さてそんなことはお構いなく、初めての海外公演、私は意気揚々と海を渡った土地、中国に足を踏み入れた。

北京で紫禁城の雄大さを目の当たりにし
街中にただよう獣の匂い
常に黄色がかった広い空に浮かぶ、大きな太陽に
この空が中国の人を中国の文化をつくったのだなと源流を見た思い
どの建物も高いのだけれどとにかく横に大きいから高いというより、デカい。スケールが違う。
上演場所の千人くらいはいる劇場では最前列に食事をするためのテーブルセットがいくつもあり
高級デパートのコーラの値段にびっくりした
(今より円は高かったはずだけど500ccのペットボトルが400円くらいした)

上海では祖母の所縁の地を巡り
私のルーツの一つがここにあるんだと感慨に耽る
近代化する高層ビル群のすぐ脇に
ジャッキーチェンの映画で出てくるような竹で作った足場に囲まれたこぢんまりとした住宅地
その路上で、鶏を締めるおばさん
首の皮一枚で胴体と繋がっている鶏が
円をかきながら走り回っている様子に度肝を抜かれ
思わず後退りした先に塗りたてのコンクリート
私は文字通り中国に足跡を残した

私自身は危ない目にあったことは一度もなかったし
中国語ガイドブックを片手に
お店の人に「谢谢你」と伝えると
みな少しびっくりした顔をみせたあとに
笑顔で「不客气」「不用謝」と返してくれた

そして南京。
日本人による大虐殺が行われた都市。
それまで無邪気に初めての海外公演を心ゆくまで楽しんでいたが
テレビでみた、日の丸を燃やす光景や、反日デモの光景が急に思い起こされた。

その日は私と年配の共演者と二人で外に出かけた
この地で起きたことを思いつつ、芝居の話をし、物思いに耽り
大きな川沿いを散歩していると

道に迷った。

二人して道に迷った。

どうしようかと相談するも
戻ろうにも歩いて来た道がそもそもわからない
…二人して。

ちなみにその年配の俳優さんは花房徹という。
適当に、なるようになるさという考えの二人が一緒になると碌なことにならないとこの時学んだ。

さて如何ともしがたい。二人とももちろん中国語はできない。
ただ止まっていてもどうにもならないというのは共通認識だ。
なので歩く、ただひたすらに川沿いを歩きつづけると
そこは…

行き止まり。

柵がある。
ダメだ、これ以上いけない。
二人してしょんぼりしていると
そこで声をかけられる

中肉中背、歳の頃は30くらいか。
メガネをかけ、作業着に見えるジャケットを羽織った男性。

中国語で話しかけられたが、わからない。
どうにかしてコミュニケーションをとろうと
拙い英語で話しかけると
あちらも拙い英語で答えてくれる。
道に迷ったらしいこと、日本から来たこと、ホテルに向かう地図をみせ帰りたいことを伝えると
地図を受け取りついてこいという。

ちょっとここで、まずいかもと私は思った。
これは何かまずいことに巻き込まれるかもしれないと身を構えた。
不安そうな顔で徹さんをみると同じ不安そうな顔で私を見返してくる
父より二つ年上の徹さんのそんな顔をみて
勘弁してくれよと思わずにはいられなかった。

しかし何も術を持たない私たちは彼についていくほか、選択肢は残されていなかった。
だって唯一の拠り所の地図はいまや彼の手にあるのだから。

彼はしばらく歩きながら地図をみて
歩き待ちゆく人になにか話しかけている
徹さんと二人、大丈夫なのかと話していると
突然彼はタクシーを止めた
そして、タクシーの運転手に地図を見せ
「ここに連れて行ってあげてほしい」と言ったのだと思う。
私たち二人にタクシーに乗るように伝え
彼は自分の財布からお金を出して、タクシーの運転手に渡した。

ここで私たち二人はとんでもない思い違いをしていたことを思い知る
流石に状況が飲み込めた私たちは
どうにかしてコミュニケーションをとろうと
必死で
日本語で
「いやいや、無理無理、そこまでしてもらうわけにはいかない」と訴えた
彼は笑顔で「大丈夫、大丈夫、ちゃんと送ってもらうよう言ったから」
と中国語で言っていた。
のだと思う。わからんけど。多分そうだ。

私はこの時、想いは言語をこえる
…こともある、ということを学んだ。

タクシーに乗り込まされる私たち。
彼は笑顔で、手を振りこちらを見送っている。

感動しつつ、いい人だったね
でもあんなにまでしてもらって悪かったねと
車内で二人で話し合う。
タクシーはどんどん進んでいく。

どれくらい時間が経ったろうか、長く乗っていると不安になってくる。
私も、たよりない同行者も口数が減り
この後に及んで、どうしよう、もしかしたらやばいところに連れてかれるかも知れないと不安な面持ちの男二人。

そして、放り出された。

私たちの宿泊するホテルの前に。

あれだけしてもらって、あんなことを考えるなんて
我ながら度し難い。恥ずかしい。

決して裕福そうな身なりでは無かった彼が出してくれたシワだらけのお札。
彼はどんな気持ちで私たちにあれだけのことをしてくれたのか

もう一度、彼に会いたい。
そしてあの時はありがとうとお礼を言いたい。

智恵子は東京に空が無いといふ

高村光太郎の智恵子抄に出てくるこの一節が

最近よく目の奥に浮かぶ


東京に空はない

空きがない、何も無い空間がない

東京のどこにいても

何かをしていなければならないという

焦燥感に襲われることがある


私は田舎育ちだから

周りは田んぼばかり

うちから3km弱離れている小学校は

遮るものなく遠くからでもよく見えた

秋には金色の稲穂が風に揺れ

穂浪の音が広がる

夏にはあたたかい大粒の雨が体をつつみ

稲妻が田を紫色に光らせる

私もその一部になった心地がしたものだ


何もしなくても

何も考えなくても

ただただそこにあることを許され

受け入れられ

そこで何かをすることが

却って罪であるかのような錯覚を覚える


あくがれて虚栄の途にのぼりしより

十年の月日塵のうちに過ぎぬ

ふりさけ見れば自由の里は

すでに雲山千里の外にある心地す


国木田独歩の詩が

東京に空が無いと言った智恵子の言葉にこだまをかえすように重なり響く


山林に自由存す

われ此句を吟じて血のわくを覚ゆ


心臓がうたう

芝居をやっていて

常日頃考えているのが

自分が俳優として何を社会に還元できるのかということだ


私の所属する劇団TRASHMASTERSでは

今まで社会問題を多数取り扱ってきた

近年ではIR問題や核のゴミ問題

入管収容所でのウィシュマさん死亡事件

について


そして2月に下北沢駅前劇場にて舞台上演され

8/30に映画上映開始された

「掟」は安芸高田市議会をモチーフに地方自治ひいては国政のあり方について問うた作品だ


当たり前だが作品には作り手の意思が反映される

舞台版は劇団で制作し

映画版に関してはより多くの人々が関わっている

それが大きくなればなるほど

あるゆる人の思惑が介在する


舞台版と映画版はその意味で良くも悪くも異なるものになっているが

そこに関してはもはや言っても詮無いことだろう



舞台版を上演した際に、気になる投稿が目についた

おそらく安芸高田市にゆかりのある方の投稿だとは思うが

「私は辛くてそれを見ることができないだろう」

という内容だった


私の所属する劇団は、まさに今起こっている問題について取り上げることが多い

それは今この時を生きる人々と作品を通して

一緒に考え、より良い社会に向け行動を起こしていく契機にしてもらいたいと思っているからだ


しかしながら当事者の方々の思い

辛さは正直なところ理解できる

私の所属する劇団だけでなく

こういった問題をとりあげると

「私たちの人生を消費するつもりか」

という声があがるのを度々みてきた


これに対して私は明確な答えをもたない

この世界に生きている限り私も当事者だとは思ってはいるが

どんなに言葉を尽くしても、結句私たちが

それをとりあげることによって辛い思いをする方がいるのは事実としてある

私に出来るのは、その方々へ想いを馳せ

責任を持って演じることしか出来ない

尊重するとはどういうことなのか

やるべきなのか否か

答えの出ない問いに、ことあるごとに頭を悩ませる



8/30から映画「掟」が上映開始された

9/13からは関西、中部、中国、北海道と全国へ拡大される

モデルのイメージが色濃くはあるが

フィクションとして出来ることならフラットに

目を開き"そこで起きていること"を観て貰いたい


そして共にこれまでを知り

これからを考えていきたい