閑話休題 -36ページ目

 宮沢賢治の童話

 宮沢賢治(明治29~昭和8年)は、大正時代に童話作家・詩人として突出している。東北花巻に生まれ、盛岡中学、盛岡農林高校を首席で卒業。青年時代法華経の信者となって、菜食主義を続けて生涯独身を貫いた。彼の写真の風貌から窺える、東北人の粘っこい気性、秀才であるが武骨な顔立ち、よくあのような風貌から、読む人を楽しい幻想に引きずり込む、素晴らしいメルヘンが生まれたことに驚かされる。確かに世界中を見渡しても、大人の童話ではNO1だ。

 とにかく発想がユニークで、しかも少学生頃の子供の目線と、東北土俗の民話風な視点で、時には科学的な・天文学的な知性も見せる。大正という年代は、幕末の混乱・日清・日露の戦いの後の暫しの平和の中で、浪漫思想がはびこり、今も多く歌われ続けている、数々の素晴らしい童謡が沢山作られた黄金時代であった。

 

 作品群の中でも、風の又三郎セロ弾きのゴーシュ、狼森と笊森・盗森、銀河鉄道が、楽しくて面白い大人の童話である。あの驚くべき発想力は、勿論彼の頭脳から出てくるのであるが、何回読んでも心酔させる、永遠の力を持っている。

 またよく知られた「雨ニモ負ケズ・・」の詩も、東北人の一途な迫力に心打たれる。彼のような童話作家・詩人は二度と生まれてこなかった。ああ宮沢賢治!

 

 

 

若山牧水

 私が18歳の頃、旧制予科の文学の教授が、教室で若山牧水の歌を朗詠された。

 

  幾山河越えさり行かば寂しさの はてなむ国ぞ今日も旅ゆく

 

 歌いぶりは公家風な間延びしたものでなく、犬養先生の万葉歌の抑揚でなく、近代的な、伸びとあやがあり、聞く人が吸い込まれるような歌いぶりで、今も私の短歌朗詠には、先生のこの歌いぶりを拝用している。この歌の歌碑が、島根と広島か岡山の県境にあると聞いていたが、訪ねたいと思いつついまだ果たせないでいる。

 牧水の青春時代の短歌は、恋の賛歌よりも自然詠の中に、若き日の寂寥を歌ったものに秀作がある。

 

 白鳥はかなしからずや空の青 海のあをにも染まずただよふ

 きふうもまたこころの鉦をうち鳴らし うち鳴らしつつあくがれてゆく

 いざ行かん行きてまだ見ぬ山を見む このさびしさに君は耐ふるや

 山ねむる山のふもとに海ねむる 悲しき春の国を過ぎゆく

 はつとしてわれに返れば満目の 冬草山をわが歩み居り

 雪深き峡に埋もれて木の根なす 孤独に居らむ陽も照るなかれ

 夏の樹にひかりのごとく鳥ぞ啼く 息あるものは死ねよとぞ啼く

 ふるさとの尾鈴の山のかなしさよ 秋もかすみのたなびきて居り

 われを恨み罵りしはてにつぐみたる 母の口元にひとつの歯もなき

  抽斗の数の多さよ家のうち かき探せども一銭もなし

 

 詩人や小説家は20代の青春期に開花する。青春の血が騒ぎ、主として恋愛をテーマに、新鮮な発想や表現で世に出てくる。しかしその大半は30代頃には創造力は乾き、世に忘れ去られる。牧水の若き頃の歌はよい。だが名が出た後は、書肆にせかれて乱作気味になり凡作も多い。それに本来孤独性で、家庭よりも旅に過ごし、家計は苦しくなる母は生業を持たぬ彼をなじり、時として家に一銭もの金がないという程生活に窮した。

 彼は人生への寂寥を癒すため旅に出た。西行・芭蕉に流れる放浪の伝統にのめり込んだ。その中には素晴らしい秀歌もある。

 

 私は昔から牧水が好きで、私は九州尾鈴山北麓に彼の生家跡を訪ねた。山深い里の一軒家で、家の前に耳川の支流が流れ、後ろは尾鈴山が迫っている。家の前に山々が重なり、ここで牧水の寂寥と抒情が生まれたのだと、その環境をうらやましく思った。

 

 

              牧水の生家趾                         牧水記念館

 

 

 

 

 

室津とお夏清十郎

 

   まてど暮らせど来ぬ人を 宵待ち草のやるせなさ 今宵は月も出ぬそうな

 

 もう忘れられた歌だが、大正時代一世を風靡した抒情画家、竹下夢二の歌に、多忠亮が作曲した名歌である。彼が故郷の岡山邑久おくに帰郷する前に、室津で恋人を待つ心境を歌ったという。一説に千葉県房総だというが、下図の夢二の「 室津之懐古」の絵から見ても、室津説も捨てがたい。

  室津は兵庫県竜野市の瀬戸内にあり、古代から瀬戸内航路の風待ちの港とし有名であった。また港町として遊郭があり、平安末期法然上人が四国に流される時に室津に立ち寄られた時、友君という室津妓女の長者が、上人に帰依したという話は有名である。

 

 この室津の酒造家に和泉清十郎というイケメンがいて、14歳の頃から毎夜遊君を相手に遊び歩き、契った遊女は廓の全員86人、誓い合った誓紙は千束にも達したという。それが度を過ぎるので、ついに父親が遊郭の現場に乗り込み、19歳の息子を勘当してしまった。

 清十郎は知り合いの姫路の但馬屋の手代として働いていたが、亭主の妹美しいお夏と懇ろになり、但馬屋一家挙げて花見の行楽の際、酒盛りで賑っていた最中、獅子舞が来て皆が見とれている隙に、清十郎はお夏を幕外に連れ出して契ってしまった。

 

 以来お夏の方が夢中になり、ついに二人は船で大坂に逃げるが、ある船客の忘れ物を取りに港に戻った時、二人を追っていた追手につかまり、連れ戻されて清十郎は座敷牢に入れられる。とろろが蔵の金七百両がなくなるという事態が起こり、清十郎が詮議されて疑われ、ついに当時の掟により死罪となってしまった。その金は後日別の所から出て来た。

 それを知ったお夏は清十郎恋しさに狂女となり、村の子供たちにからかわれながら、清十郎の墓に夜毎に来て弔うていたが,百ヶ日に当たる日に清十郎の墓で自刃した。それが諸国に伝わり、上方の狂言になって  二人の名を残したという。井原西鶴「好色五人女」

 

    明治になって坪内逍遥が「お夏狂乱」としうの劇作を書いている。

 また谷崎潤一郎は『乱菊物語』で、室津を舞台に、室君かげろうを取り巻く、奇怪な怪奇小説を書いている。よくもこのような発想が出来たものだと驚く小説である。

 

 私は古い江戸時代の街並みを残す室津に惹かれて3度足を運び、一度は港町を見下ろす旅館に泊まり、夢二の抒情を楽しんだ。小説の舞台となっている加茂神社も懐かしい.

 

              瀬戸内の海みはるかす賀茂の社は 朝けにはやもせみしぐれなり

 

   夢二の室津懐古                      夢二のお夏狂乱

                  室津の港                            賀茂神社

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

二月堂のお水取り

  今年も春の到来を告げる、奈良東大寺の二月堂のお水取りが始まった。

 一年は3ケ月毎、春夏秋冬の四季に分かたれ、3月から春が始まる。陽射しは和らぎを加えたが、まだ唱歌「早春譜」の「春は名のみの 風の寒さや」で、本格的な春は20日の春分の日まで待たねばならない。春分の日は、旧臘12月20日の冬至から数えて、丁度90日目である。古代ヒミコ(七世紀にアマテラスとされる)が、農耕開始の目途を決めるため冬至から始まる暦を作った。その農耕暦は天皇家の専売特許となり、中世伊勢神宮の「神宮暦」を求めて全国の農家からお伊勢参りが始まった。

 

  この3月1日から2週間、東大寺二月堂ではお水取りが始まる。これはインド僧実忠和尚(古事談3-6)が若狭に渡来し、豪族ワニ氏(春日臣)の招きで二月堂に迎えられ、奈良朝半ばからこの行事が始まった。本来は1年間の罪障を悔い、五穀豊穣を祈る法要であるが、その中に五体投地や韃靼-だったん-の火の行など、実忠和尚の西域の影響を残す行事が今も続いている。

 この法要に全国の神々が招かれるが、若狭の遠敷明神-おにゆうみようじん-だけが遅参され、そのお詫びに閼伽水-あかみずーを献じようとされると、堂の傍らから黒白二羽の鵜が磐を突き破って飛び出し、その跡から甘露が涌きだし(若狭井)、その香水を本尊の十一面観音に供えられてからこの法要をお水取りと呼ぶようになったという。始まって500年経った12世紀頃の伝説だという。この奇怪な伝承に若狭と奈良の結びつきが見られる。

 若狭の遠敷明神とは小浜市の若狭彦・姫神社の祭神、日本神話のヒコホホデミとトヨタマヒメの南方系の神である。神社の前を和邇街道が通る。実忠和尚を若狭から奈良に招致したワニ氏は、日本海で朝鮮と交易し、本拠の大和の天理の和邇までの道中に一族を配置して商売をした、弥生時代以降の有力海商の豪族であった。(下記地図参照)

 

 私は二度このお水取りを拝観、始めは廻廊を巡り、堂の下で有名なお松明の振り回しを見た。堂内では韃靼の火の行が行われ、堂の内外を火で清めるのである。日本的ではない行事で、寒中の夜、廻廊で振り回されるお松明は幻想的な風物詩である。

 二度目は許可を得て、二月堂の内陣に入れてもらった。堂の中央に観音菩薩が祀られ、周囲の狭い廻廊を、練行僧が下駄ばきで観音経を唱和してかけ巡る。このお経の唱え方、声明-しょうみょう-は東大寺声明と言われ、狭い堂内にこだまする、独特のリズムと格調がある素晴らしい声明で、始めの観音菩薩から、僧自体法楽の悦に入って駆け足になり、南無観世音菩薩が、次第に南無観世音、更には南無観、南無観とつづめられ、我らの眼前で片膝折りの五体投地が行われる。参篭している我々も恍惚とする無我の時間であった。

 声明は東大寺の外、高野山寺・相国寺などにもあるが、中でもこの東大寺声明は一番古く、リズムに西域風の古調を漂わせ、バッハの宗教音楽にも劣らない宗教的恍惚に浸される。機会があればぜひ東大寺声明を聞いてもらいたい。

                                                          

     和爾氏の支族分布図                   二月堂のお水取り

 

 

 

 

 

 

九重高原ー2

 最近は高速道が整備されて、家族づれの九重登山者も多い。とりわけ久住山麓には温泉が多いのが最大の魅力である。

 私は秋の半ば長者原から入山し、九住山を登り終えて法華院温泉に一泊。翌日は大船山1767mから、更に東の黒岳1334mを目指した。ミヤマキリシマは花時を過ぎていたが、鉢型の円い黒岳は全山紅葉て゛、まるで昔話しの絵本に出てくる山のようで,息を飲むくらい見とれた。坊がつるで賑う登山者もめったにここまでは来ない。九重連山の秘境である。是非一度足を延ばして全山紅葉の黒岳を見て頂きたい。

 もう陽も陰って来たので、急いで山を下った。その下山道が西の平治岳1643mとの境をなす谷筋で、両側の山のはざまで陽落ちは早く、午後3時過ぎには辺りは暗くなった。はじめての道であり、急いて下山した途中、小石に滑って右の肘の筋が前かがみに曲り、歩けなくなった。しかし山中でもあり、気を持ち直して杖に頼りつつ、やっと道路際に辿りつき、帰宅途中の農家の小型トラックに拾われて、やっと白水鉱泉に到着した。

 

 この谷筋の狭い平地は落葉の灌木が見事な紅葉に覆われ、今まで見たこともないような錦の世界に感激した。その景色が脳裏から去らず、新緑の頃はどうだろうかと、5月の連休に、車で北の出口から樹海に入った。素晴らしい新緑が陽に輝いていた。入口には幽邃な湧き水の出る名所もあり。それに近くの白水鉱泉の水は完全な炭酸水で、宿に着くと温泉水と砂糖が山盛りに出されて、サイダーにして飲む、うれしい秘湯であった。

 

 

        久住黒岳の樹海ー秋                        同-新緑の樹海

             白水鉱泉

 

 

 

久住高原―坊がつる賛歌

 NHKの「日本百名山」シリーズは、自分もそのうちのかなりの山を登ったから、いつも昔を懐かしみ番組を見ている。先日九州久重高原が出てきて、懐かしい思い出が涌き出した。

 

 福岡には2年間単身赴任していたが、ある時九州朝日放送KBCから、単身赴任というテーマでテレビに出ないかと誘われた。その日スタジオに入ると、数人一緒だろうと思っていたのに、なんと私一人であった。まごついている私を、話題巧みなアナウンサーの問いかけに難なく答えていたが、最後に歌を一曲唄うよういわれた。とっさのことで困っていると、はやピヤニストがピアノに向い、私を促した。そこで意を決して歌ったのが、芹洋子の「坊がつる賛歌」であった。

 

      人みな花に酔う時も

      残雪恋いし山に入り

      涙を流す山男

      雪消の水に春を知る

 

 その夜博多の中州に飲みに行くと、仲居が「この人テレビに出ていたわ」と言われ、テレビの威力に吃驚したことを覚えている。

 

 別府から車で阿蘇に向かうと、始めて見る阿蘇山の北麓に広がる、大陸的な久住高原に「日本でもこんな所があるのか」と目を瞠った。それから九住には病みつきになった。

 福岡の大社長が、宴会でよく歌う一曲がある。

 

    久住高原 ススキに暮れて 馬もいななく 草千里

 

 馬子唄の民謡風で、哀調があり、酔中に、広びろとした草千里が眼に浮かんでくる。

 久住高原は男性的な北アルプスとは違って、最高山の九住山1786mにしても、その山容や少ない樹林帯のために、天地は開けて明るく女性的である。それに何といっても山のど真ん中に法華院温泉があるのが、九重登山の魅力である。

 登山口は長者原・牧ノ戸・赤川温泉口があるが、赤川温泉から北の山頂に向かって直登するコ―スは、眼下に雄大な阿蘇と草千里が、視界を遮る一点もなく俯瞰されて、私には一番印象の強かったコースであった。〈続く〉

 

 

            坊がつる                       久住高原

 

    牧ノ戸登山道からの久住山             冬の三股山

 

 

 

 

 

 

 

谷崎潤一郎『夢の浮橋』

 小説は下賀茂神社糺の森の東に接した、下鴨泉川町の谷崎の京都最後の住居、「僝湲亭」-せんかんていーが舞台。「植惣」という庭師が丹精込めた庭は幽邃であった。

 主人公の糺-ただすーは父母と乳母との四人暮らし。糺は乳母よりも母と寝ることを欲しがり、母の床で乳を吸いながらいつも眠りにつく。その母が23歳で他界する。「世にも美しい人であった」と乳母はいう。

 

  「坊ちゃん、お母さんに逢いとうございましたら、一生懸命仏壇を拝みやすのがよろしう

   ござります。そしたらお母さんが夢の中に出とでやすえ。そして糺、お前賢いなあとお

   云やすえ。お泣きやしたら出といでやさ致しまへんえ」

 

 糺が小学3年生の時、もと祇園の舞子で、16歳で木綿問屋の若主人に身請けされた後、離縁されて、実家で茶の湯と生け花を教えていた時父と知り合いになり、父と再婚。父は34歳、後妻は21歳の時であった。糺はその時9歳てあったが、糺も新しい母を気に入っていて、「お母さん」ということが出来た。母がある時、

 

  「糺さん。あんたお母さんの乳を吸うたのを覚えておすか。」

  「うん、覚えている」

  「あんた、今でもお母ちゃんにそうしてもらいたいとお思ひやへんか」

  「して欲しいことはして欲しいけど」

  「ほな、今晩はお母ちゃんと一緒に寝まへう。此方おいなさい」

 

 と母は半襟の合わせを押し開き、乳房を糺に吸わせる。出ない乳を吸い、子守唄を聞きながら糺は眠りについた。

 母は30歳を超えて「武」を産んだが、すぐ鞍馬の山奥の子に遣られた。人は母と糺の不義の子とみていたという。その母も糺の結婚三年後に急死する。糺は思い出の下鴨の家を売って鹿ケ谷の法然院近くに一戸を構え、丹波から無理やり母の思い出の子「武」を引き取り、長浜からも乳母を呼び寄せて三人で同居し、末永く暮して行きたいと考えている。

 

 谷崎潤一郎72歳の老年、中京の京女に口述筆記で書かせた小説である。谷崎の母は美貌であったが、谷崎32歳の時母がなくなり、それから谷崎の「母恋い」が始まる。彼の母恋は『吉野葛」に始まり、「少将滋幹の母」から「夢の浮橋」に完成しているが,「源氏物語」の光源氏が亡き母の面影を慕って、藤壺の女御と交わす不倫の恋が、この小説の底流にあり、谷崎の老後の倒錯した性の願望と結びついているという評が言われている。

 

 

 

 

 

 

 

 

新門辰五郎

 この侠客の名は今あまり耳にしないが、江戸末期浅草で火消を組の親方・鳶頭・侠客で、浅草寺伝法院新門の清掃・警護を任されていたから新門と名乗った大親分である。しかも娘の芳は将軍慶喜の妾といわれ、将軍家には可愛がられた大物の侠客であった。

 幕末、徳川慶喜が上洛するに先立って供役を仰せつかり、子分250人を率いて上洛、将軍宿舎となる二条城の普請の人足頭に取り立てられた。京の宿舎は諸説あるが、これだけの大勢の子分を住まわせるには、相当広大な屋敷が必要だっただろう。

 

 それに京で多くの人足を集めるのには、地元の侠客、会津小鉄に挨拶を通すのが普通だが、新門辰五郎は一切無視した。子分同士は一触即発の状態であったが、小鉄は相手は将軍家を背後に持つので簡単には手出しは出来なかった。真山青果の戯曲「新門辰五郎」では、小鉄の方が辰五郎を訪れ和解したことになっている。この戯曲を昭和51年東京歌舞伎座で、辰五郎が万屋錦之助、小鉄を中村嘉津雄が演じ、大好評であったという。

 

 さて慶喜上洛後も京の勤皇勢力は激化し、ついに鳥羽伏見の戦いに発展。幕府軍は敗れ、大阪城に住まいを移していた徳川慶喜は、味方の敗戦をみて、大阪湾に回航していた軍艦に乗って江戸へ帰ってしまった。ところが将軍のシンボルである馬印を大阪城に置き忘れていたのを、新門辰五郎が子分に担がせて、堂々と東海道を江戸へ帰った。敗戦軍のシンボルを高々と持ち歩く、たいした親分であった。

 

  

  新門辰五郎

                      徳川家の馬印  右から5番目の金扇が主

 

 

 

 

魯迅先生

  この頃「産経新聞」は、神武東征・ヤマトタケル・楠木正成などに、かなりの紙面を割いて特集を続けている。戦前への先祖返りの現象だろうか。そこには日本人の天皇家に対する絶対的な敬慕信仰が見て取れる。古代から何千年も続いてきた、抜きがたい信仰なのである。近隣・世界のどの国にもない、日本人だけの特殊な国民感情なのである。

 それはさて置き、楠木正成が湊川へ出陣する時、わが子正行と、山崎の桜井の里で子別れする有名な場面があり、今も桜井公園にその場面の石像がある。

 

 話が変わるが、今まで私が見た劇作で、忘れ難い一場面に「魯迅先生」がある。清朝の打倒と新国家建設の先駆者で、その彼が日本の東北の学校に留学して、いよいよ日本を去ることになった送別会の場面である。

 古い大阪歌舞伎座で開かれた新国劇で、若い魯迅先生は新人緒方拳で、送る先生が島田省吾、島田が魯迅先生の送別のはなむけに歌ったのが、唱歌「桜井の里」であった。

 

     青葉繁れる桜井の

     里の別れの夕間暮れ

     木下蔭に駒止めて

     世の枠末をつくづくと

           忍ぶ鎧の袖の上に 

     散るは桜かはた露か

     

  十数番ある歌の中の数曲だったが、島田省吾のドスのきいた音声に、音調や小節に、彼独特の情趣溢れる歌い方に、若い私は魅了された。その印象が強く私は何回も稽古したが、到底達することが出来なかった。森繁久彌の謡いぶりも素敵だが、あの声をだみ声式に重みを持たせたのが、島田省吾の唄いぶりであった。島田省吾は素晴らしい俳優だった。

 今日の「産経新聞」トップの楠木正成の記事から、つい思い出してしまった。

 

    

                                 島本町桜井の楠公父子の別れ像

          

          島田省吾

 

 

黒谷‐会津小

  幕末、賭博は全国を風靡していた。中でも有名なf博徒の侠客は、上州の定忠次水の次江戸の新門辰五京都の津小と言われるが、中でも新門辰五郎は、将軍徳川慶喜に見込まれ、京都上洛に付き添い辣腕を振るった。また会津小鉄は京都守護職松平容保に見込まれ、彼を守護した義侠でもあった。

 

 小(郎(1833~84の生まれは、関東とも大坂とも言われるが、小さい頃母と東海道を物乞いの旅に出る。ところが母は大坂天王寺で雪駄直しの男と一になってしまい、11歳で捨てられたは、一人でに下り、大名中間頭の下で食客なる。そこでえたバクチで、17で手が付けられぬゴロツキになり江を追われた。

  彼はひもの女に春させながら京に流れ下り、公卿屋敷の賭場に餅・などをりに行った傍らバクチをし、当時欲な大物親方を殺して一躍有名になる。その後三河原で野天バクチを始め、張りいに勝ってのし上がる。会津の松平容保に可愛がられ、子分と黒谷に住んだ。このころから会津小鉄と名乗ったものと思われる。

 幕末鳥羽伏見の戦いに会津方は勤皇軍に敗れ、慶喜が江戸帰還のために、容保は戦死者を放棄して江戸へ帰る。小鉄は子分を動員し、会津の戦死者の遺体を黒谷に運ばせ、埋葬し供養した。

 

彼は体は小さいが顔や体は刀傷で醜を極め、右手の小指と指は刀傷で芦のように細り、左手は親指、人差し指以外は無かったという。親方になってからは、時の金で日350円のテラを集め、ゼニの重みで押入れの底がけたという

維新後京都に津小鉄会を結成し、会長となる。子分は2000人もいたという。最後は獄に入り、砒素を飲まされ半身不随になって死んだ。彼が最後に住んだ吉田村の邸は1800坪の広壮な豪邸だったが、官によって取り潰された。

鉄会は今も京都の指定暴力。彼の立派な墓が西雲院にある。浜口雄幸閣の信大臣小泉又次氏も小鉄会の組員で、入墨大臣として有名であった。小泉元首相は祖父と一緒に風呂に入り、祖父の入れ墨をよく洗ったといわれている。現国会議員の進次郎氏はひ孫に当る

 

    

              黒谷の会津藩士の墓地                   西雲院前の会津小鉄の墓

 

 

 

 

 

幕末有名な客は、