閑話休題 -35ページ目

春日野のバンビ

 人間でも、動物でも、子供は可愛いですね。歳をとると余計可愛く思えます。電車やバスの中で、可愛い子供を見て、微笑み、子供に声を掛けるのは、たいてい年配の女性です。だが小動物には子供もかわいいと近づきます。

 奈良公園の鹿は今年も80匹あまり生まれたようです。鹿苑で公開されたようですが、もう少し立てば春日野に放たれます。昔は生まれた時から春日野で育っていました。

 

 江戸中期、大和国榛原福地の田舎から、19歳の春奈良の内侍原家(なしはら)家に嫁いだ森川千代(1726-46)は、春日野に遊ぶ小鹿を見て、

 

      野にあそぶ鹿()の子もうれし着衣(きそ)はじめ

 

 と詠みました。小鹿の鮮やかな斑点の衣装を、昔の女が新しい着物の着はじめに寄せて詠んだ句です。ところが翌年3月半ば、近所の人に誘われて、春日野に若菜摘みに行った途中、急病を得て家に担ぎ込まれ、結婚一年も過ぎない20歳でこの世を去りました。

 父も俳人で、千代を可愛がっていたため嘆き悲しみ、彼女の生前の句集に加え、父の交友の大和・伊勢・江戸・中京・美濃・能登・越中各地の俳諧師、139名から追善句を求め、伊勢の建部涼帒に前書きを頼み、京都の書林・橘屋治兵衛から、延享3年(1746)、句集『雪石ずり』として出版されました。

 現在原本は、わずか東大図書館に残るものみです。

 

 あまりにも早すぎる死。長生きしてくれていたら、奈良の女俳人として、同期の加賀の千代と並び称されて、古都南都に名を残したであろうに!。

 

        

 

        

                             大和榛原福地にある森川千代の供養墓の碑

 

 

 

 

北原白秋の三人の妻―2と.3

 

 秋の第二の妻となったのが江口章子である。

 彼女は大分県国東半島の大地主・酒造家・廻船問屋の娘。明治36年に大分県立第一女学校に入学。在学中に大分で弁護士をしている安藤茂九郎と結婚。結婚式は盛大であったが、夫は芸者に子を産ませたことから離婚。ここから彼女の人生の放浪が始まる。

 

 彼女は有名文人に憧れ、上京して平塚らいちょうに身を寄せ、その夏北原白秋を訪問、先妻の福島俊子と離婚した後で、章子はすぐ身を任せて同居、後に正式に結婚する。白秋31歳、章子28歳。葛飾の茅屋に引っ越し、極貧の生活が始まる。このあばら家には文人や詩人たちが訪れて、有名になった「紫烟草舎」である。

 

   葛飾の紫煙草舎の夕けむり ひとすじ靡くあわれひとすじ  吉井勇

 

 ところが章子は肺を患ったため小田原に転居。小さな藁葺家で「木兎の家」と名付ける

この頃白秋は名童謡や歌曲を次々発表し、文壇に登場し騒がれる。それらの印税で3階建ての洋館を新築、その披露宴で章子は泥酔、兼て好意を抱いていた雑誌記者と駆け落ちする。章子は近くに住む谷崎潤一郎宅に転がりこみ、谷崎は白秋との和解を斡旋するが、白秋は拒否。 ここから章子の流転の人生が始まる。

 

 まず故郷の大分の寺に身を寄せた後、柳原白蓮の家に寄寓。その後突如京都大徳寺の芳春院に現れた後、綾部の郡是製糸の女舎監になり、のち一休寺の住職と結婚した後、一時帰郷して山居していたが、また大徳寺聚光院の中村戒仙の紹介で千葉葛飾の寺の辻堂で住まいする。

  この戒仙が聚光院の住職に昇格したので、押しかけて同居する。昭和五年結婚するが、この頃から精神異常が現れる。翌年の冬単身西国巡礼に出るが、大阪で倒れて、戒仙に迎えに来てもらう。聚光院は千家の菩提寺だが、その千家の法要の席に裸で飛び出したりして、精神病院に入院させられた。のち柳原白蓮の蓼科の別荘に行き、戒仙の努力で小さな観音堂を建ててもらい、法名妙章と名乗る。だが寺を手伝ってた男と駆け落ちする。 

 

 また男と別れ、岐阜の虎渓山に参禅中の汽車の中で脳溢血で倒れ、半身不随となり、戒仙に来てもらうが、戒仙の再婚後でもあり、病体のまま養老院に入るが、同室の女が亡くなった途端に精神錯乱状態になり、大分の実家に引き取られる。土蔵の中で食い意地になり、1年あまりの生き地獄の末、最後糞尿にまみれて他界した。昭和21年。75歳。

 

  大正という時代、ハイカラ思想に跳んだ女。しかも多くの著名人の妻になりながら、次々と男を変え、数奇な流転の生涯の後は、故郷の土蔵の中で糞尿まみれの惨憺たる最後を迎えた。

 

 第三の妻佐藤菊子は大分市の時計屋の三女、秀才で大分高女を卒業。みるからにおとなしく、地味な人柄で、つつましい家庭的な人で、白秋との間に一男一女を儲け、白秋は家庭安穏になり、次々童謡を発表、国民的詩人と称され、菊子は幸せな生涯を送る。

 

                              瀬戸内晴美『ここ過ぎて』を参考

 

北原白秋の三人の妻

 白秋は生涯3人の妻を持ち、2人と離婚。その別れた妻はそれぞれ二度目の結婚をしているが、そのいずれも失敗、離縁している。3人目は最後まで白秋と共にして、幸福な最後を迎えている。

 

 最初の妻の福島敏子は人妻であった。彼女は三重県名張の村の医者の娘で、京都第一府立高女を卒業した後、アメリカ帰りの写真技師松下長平と結婚。「豊満な、非常に目の動くフランス人型の顔で、背のすらりとして、下腹部がきゆっと締って、腰の出張った、どう見ても日本の女ではなかった。』-―

瀬戸内晴美『ここ過ぎて』

 夫の長平は混血児の女を情婦にし、その子供を敏子に養育させた。悩み心の敏子は、丁度隣家に

住んでいた白秋と相思相愛になるが、貫通事件として夫に告発され、白秋と敏子は獄に繋がれる。

白秋の親が金を出し、示談が成立した後、二人は結婚。

 始め夫の父母と同居するが、敏子は性格が合わず、二人は三浦半島の家に転居。その家から見えた雨の降る城ヶ島を詠んだ、白秋の有名な「城ヶ島の雨」の詩が生まれている。のち小笠原の父島に旅行するが、金も使い果たし、敏子は白秋の実家に帰るが、まもなく家出して名張の故郷に帰り、白秋と離婚する。

 二度目の夫は奈良の医者。敏子はわがままで派手好き、料理にも凝るハイカラな妻であったが、

夫は美貌で優しい薬局に勤める女と通じたため、敏子は家出。昭和4年京都山科の貧者救済の施設「一燈園」に入り、4年後には東京国立音楽学校の女舎監になっている。

 

 封建時代の遺風が残る大正時代、故郷を飛び出して新天地の東京を夢見た敏子は、やはり時代から跳び出た女で、夢は無残にも潰れてしまった。白秋に出逢わなかったら、幸せな生活を送れたかもしれない。

 

別荘

 4月だというのに雨雲続きで、折角一年かけて咲いてくれたた桜の花もかわいそう。幸い5日だけは晴れたので、この日を選んで気の合う友達らと花見の会をした。今年最後の青空の下の花見だった。

 花曇りが何日も続くのはやりきれない。こんな日には無聊を紛らわせる、里山を見上げられるような田舎に、別荘があればよいのになあと思う。

 確か亡くなった大映画監督、黒澤明の別荘が思い出される。山の中腹にあるのか、比較的長い平屋のその別荘は、窓か大きく開放的で遮るものがなく、青空と樹木の緑一色の中、見渡す限り山並みが一望される。雑念が拭い去られ、頭の中が真っ白になる。憩というものの最高がある。

 黒澤はここであの素晴らしい作品の構想を練ったのだろう。彼は絵コンテが上手で、映画の主要な場面を、この別荘で安楽椅子で山並みを見ながら、書いたのではないかと想像してしまう。

 

 別荘にもいろいろある。軽井沢にしても資産エリート階級以外、所有しても次の代やその次に残るのはわずかだ。高度成長期に開発されたのも多くあるが、交通が不便だと、夏場の一時期しか使用しないため、管理費用を払っても家は傷んでゆく。

 一番理想なのは家からも近く、山脈が見張なせるような、黒澤式の別荘があればいいなと思う。

多少の庭もあり、鳥獣囲いの中で蔬菜を育て、清い水があったら最高だ!。夏はバルコニーで夕焼けにに包まれながら夕食。朝はやかましい鳥の声で目覚め――――ああ、私の果たせない夢。

 

 

桜の花見

 梅の花見と違って、桜の花見は日本人を狂乱させる。かくも短い命の花にもかかわらず、その淡白な色合い、早乙女の清純を表すような淡いピンクの花が、枝一杯に咲き誇る。

 日本人は桜好きで、全国何処もかしこも桜の花で一杯である。明治の初期、江戸染井村の植木屋が、エドヒガンとオオシマザクラの交配によって新種のソメイヨシノが世に出て以来、日清・日露の戦勝祝いに、一挙に全国に広がった。

 

 桜の日本での開花の歴史は古い。戦前京大の植物学教授が、韓国済州島の桜が発祥と発表されたが、その三十年後の昭和37年に、小浜市の三方五湖にある6,000年前の縄文中期の鳥浜遺跡から、桜の皮で巻いた素晴らしい弓が二本見つかっている。

 すなわち韓国の南の済州島と、同緯度の日本列島西半分は、6,000前の急速な地球温暖期ー縄文海進期ーに同時的に開花しており、日本列島では吉野が桜の原産地と言われている。

 

 桜の研究に一生捧げた学者がおられる。大阪の笹部新太郎氏(明治18~昭和17年)である。東大卒後、家業の傍ら桜研究に一生を過ごされ、向日市や宝塚に桜の演習林を造られ研究に励まれた。

 福知山線武田尾駅を降りて北に向い、廃線跡をたどると演習林があり、亦楽山荘が造られている。

宝塚市に寄贈され、現在は市の管理になっているが、見事な山桜が咲きそろっている。大阪近郊では隠れた桜の園で、一度は訪れられるのをお勧めしたい。

 彼は「山桜が正絹だとすると、全国に広がるソメイヨシノはスフで、あのソメイを日本の桜というのは私の心外です」と、水上勉の小説『櫻守』で語っている。日本の本当の桜は、朱のさした淡みどりの葉と共に咲く山桜が、日本古来の桜で、これを鑑賞する目を持ってほしいと言われている。

 

  

            武田尾亦楽山荘の山桜                        同

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

京の文学16 渡辺淳一『化粧』

 東山高台寺の南の高台に高級料亭「蔦之屋」がある。その女将つねと、頼子、里子、慎子の三人の娘たちの物語。

 長女の鈴子は既に亡くなり、その七回忌法要の後、里子の夫菊雄の運転で、原谷苑の桜の花見から物語は始まる。金閣寺の裏から氷室道を辿ると原谷に着く。その近くの小山に何百本近い桜を育てておられる地主が、四月半ばの花時に公開されている。いろんな桜が一斉に咲きそろい、全国でもめったに見られない見事な桜の園である。

 

 亡くなった鈴子と次女の頼子、三女の里子は、行儀見習いと芸事の勉強のために祇園の舞妓になるが、鈴子と頼子は大阪の貿易商熊倉に処女を奪われ、鈴子は妊娠したのを苦に白浜で入水自殺する。頼子は東京へ出て銀座でクラブを開くが、そこへ熊倉が来たのをきっかけに、頼子は鈴子のために熊倉に復讐することを誓う。

 熊倉は東南アジアで大量に仕入れた家具類を、東京の大協デパートの秋山常務に売り込みの商談中に、二人が一緒に頼子の銀座のバーに現れる。秋山は頼子に一目ぼれをして関係を迫る。頼子は熊倉の商談をキャンセルすることを条件に体を許す。その結果商談は潰れ、資金繰りに窮した熊倉は自殺する。その知らせを聞いた頼子はマンションの姉の鈴子の遺影写真に報告する。

 

 一方三女の里子は蔦之屋の料亭を継ぎ、若女将として人気を得る。そして養子に菊雄を迎えるが、菊雄はだらっとした京男で、小唄の稽古に先斗町に通って女を造るが、里子は男らしくない夫とそりが合わず避けるようになる。そんな中東京のコンピューター関連会社の椎名専務が、得意先接待にたびたび蔦之屋を訪れる。里子は椎名の男っぷりにのめり込み、ひたすら椎名の愛にすがるようになり、幾たびかの逢瀬の後て躰を許しついに里子は妊娠する。お腹の肥って来た里子は、母と夫に逃れるため、友だちの芸者千鶴が探してくれた、銀閣寺界隈のアパートに移り、無事椎名の面影を残す男の子を出産する。

 菊雄とは仲人の説得にも応ぜず、母も勝手な振る舞いに激怒するが、のち頼子の取りなしで赤ん坊を連れて帰ってきて、母のつねに初孫を見せる。途中泣き出した赤ん坊をつねが横取りしておしめを変えると、「あれ、オチンチンがある。偉い子や、立派になって、ええ子になってや」。今まで女の子しか生まなかったつねは、初孫の男の子は宝物であった。これで念願の蔦之屋の跡取りが出来た喜びが、彼女の今までの鬱憤を吹き飛ばした。菊雄との離婚も成立し、里子はマンションを引き払って蔦之屋の若女将に復帰

 一方椎名はフィリッピンに新工場建設を任命され、最後の二人の旅行をつねも許し、赤子の真幸をつねが預かり、二人だけで冬の丹後半島に旅行した。里子にとっては晴れ晴れとした旅であった。

 一方東京の頼子は、店の改装を日下という若い設計技師にやらせたが、それが気に入って二人は急速に接近。頼子は将来の夫に迎える心の準備をし、日下が大阪の父の法事に出掛けるのに合わせて、二人で京都のホテルに泊まり、一緒に真如堂にある鈴子の墓に詣でた時、日下は私生児で、父は大阪の貿易商の熊倉であったと告白する。心中驚愕した頼子は日下と別れようとする。日下が狂うが頼子は冷たく突き放す。

 

 京都の大料亭の女たちが不倫の波に身を任せた物語と言えば、通俗な作品と思われるが、小説としての筋立て、複雑な人間模様、京女の美しさと芯の強さ、それに京や銀座の夜の世界の描写など、とても他の作者の及ぶところではない。こと京都に関しても、これほどの夜昼の描写は、谷崎・川端の作品を抜いている。小説として渡辺淳一の円熟した名作の名に恥じない小説である。私は京の文学として絶賛したい。

 

 

               原谷苑 1                                                       原谷苑2

 

 

 

 

 

 

 


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花見の時期

 お正月は一年の始まりの目出度い日。

 4月1日は生きとし生ける者が、生きてる喜びを感じる春を迎え、あらゆる命あるものが再生(ヌ―ヴァ・ビタ)する喜びが始まる日。

 私のように歳を取ると、正月よりも4月1日が最も嬉しい。「今年も生きられて、桜の花の満開に出会える!」。今までの歳月よりも、生命の有難さが身に沁みて嬉しい。冬場と違って体か動きやすくなる。散歩も楽しくなる。ステッキが軽くなる。ちょっと遠出もしたくなる。田舎に住んでいれば、もっと山河に親しみ最高の余生だろう。

 

 今年も友達らと公園で花見をする予定だ。満開の桜の下で、普段食べることのないなだ万の花見弁当を広げ、女友だちが送ってくれたブグヒレでフグ酒をみんなで楽しみ、食事の後は野点で抹茶を頂く。その後は携帯プレーヤーで、森繁久彌の歌謡、旧制高校の寮歌集、最後は広沢虎造の浪花節、三十国船を聞くのもオツなものだと思っている。

 ああ四月!、今年が最後にならぬよう、神様・仏様にお願いしよう。

 宮尾登美子 『松風の家』

 この小説は、千利休の裏千家が、明治期の混乱と貧苦の中に生き、かつ復興をなし遂げた「女たち」の苦難の物語で、宮尾登美子は冷徹な目で実相を描いている。

 千利休の茶道は秀吉の命による切腹で一旦途絶えたが、子たちは前田家・蒲生家に引き取られたが、のち家康らの計らいで京に呼び申され、子の少庵、特に三代目の宗旦が、貧苦の中で利休の茶道を再興した。

 つづく戦国時代、千家は子孫はそれぞれ大名家のお抱え茶道指南となり幕末を迎えるが、各派はそれぞれ箔をつけるため、作法に複雑な格式ばった62通りもの茶事の作法を案出し、庶民無用の大名茶を確立した。

 それが御一新で、大名家から去らざるを得なくなり、天皇も東京に遷られて京の公家たちも同行してしまい、加えて団栗圖子から出た天明の大火で、家元も焼けてしまい、京の茶道は火の消える苦難の時期を迎えた。

 

 その苦難の時松山藩の世話で、親戚筋の三河松平家15万石の側室の三男十歳の君松を養子に迎えたが、この方が十一代得々斎秀室で、茶道に目覚ましい上達を見せ家元を復興させた。その娘の猶子が、京の名家角倉家の次男を養子にして、十二代恭又斎として家督を継がせた。

 角倉家は千家にも劣らぬ京の名家で、先祖が南蛮貿易で巨万の富を築き、また賀茂川に沿って高瀬川を掘作して船運の通行料で年間一万両を稼ぐ豪商であったが,御一新で高瀬川がたった4両で官に没収され、広大な土地は従業員の退職金になって消え、賀茂川縁りの邸だけになった。(のち山縣有朋が手に入れ、今は頑固ずし京都店になっている)

長男柳庵が後を継ぎ、次男が千家の猶子の婿養子になり、恭又斎として茶の家元となる。

 恭又斎が婿入りに持って来た茶道具類は、永年角倉家に蓄えられた逸品類であったが、

それが格式ばった年中行事の費用に次き次き道具屋に売られてしまった。

 それに旧家見識のつよい妻の猶子と肌があわず、茶の教授に出掛けていた山崎妙喜庵の大黒と懇ろになり、ついに女の子を儲けた。(小説では由良子)その結果大騒ぎの末に、明治28年恭又斎は、14歳の息子を円諒斎と名付けて千家13代の跡継ぎとし、自分はさっさと山崎に行ってしまう。いつまでたっても帰らぬ夫に、妻の猶子は木屋町の本家に談じ込みに行くが、兄の柳庵から何の回答も得られず、その場で髪を切り、尼姿になる。

 

 明日の米もない貧苦に陥った裏千家は、ツケで買える食べ物の購入も断られ、蔵の骨董も金に換えられ、三度の食事も白かゆだけになり、大勢の使用人も離れて行ってしまう。

 猶子としては息子の円諒際に、嫁入り道具の茶道具を持つ金持ちの娘を期待する。そして娶ったのが神戸の貿易商の娘、益子で、嫁いびりにノイローゼ気味となった益子を連れて、円諒斎は新天地を開くため東京に出て、益子の縁戚の斎藤中将の知己と紹介を得て、京に帰りついに千家茶道を復興させた。

 

 山崎豊子の小説は、裏千家や出入りの人間たちの、複雑な人間模様を描き出し、裏千家の大家族の、明治からの家庭事情を克明に書き綴っている。

 古い旧家が今日まで続いて来たのは、ご先祖に誇りを持ち、見識高く、代々引き継がれた女の庭訓を頑固なまでに守り続けて来た女たちで、家付き娘や他家からの嫁入り女にかかわらず、旧家という家柄はそれら女たちの力に支えられて続いて来たということである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

千利休と女たち

 千利休1522-91は、珠光1422-1502の始めた侘び茶の中興の祖で、茶道を確立した。

 利休の先祖は千阿弥といい、足利義政の銀閣寺で茶坊主であったことは事実だが、子の与兵衛が応仁の乱に堺に移り、相当金額のはる堺の納屋衆(倉庫業)の株を買い、魚問屋(塩干物?)仲間になったが、そのような多額の財力をどうして蓄えたのか一切謎である。

 子の与四郎(利休)はその頃流行り出した茶の湯の作法に優れ、信長・秀吉の茶頭として仕えるため安土や京、大坂に別宅を構え、堺の商売は妻お稲と長男の与之助、使用人らに任せ、大名たちの茶の湯の指南をしていた。

 

 妻のお稲は室町末期、一時は畿内を平定した四国の武将、三好長慶の妾腹の妹で、利休との間に与之助紹安 じょあん)-と、おゆう、お袖、お吟、おこうの4女を産んでいる。

 た利休は京で妾のお幹との間に娘のお亀(おちょう)を儲け、

 さらに堺の遊郭乳森-ちもり-の遊女、美貌のおりきが、鼓を習っていた能楽師の宮王三郎に身請けされ、吉兵衛少庵)という男子を生んだが(一説に戦国武将松永久秀の種ともいう)、宮王が頓死し、その未亡人のおりきを、利休は子連れで妾にした。

 

 利休は茶道の形、即ち茶道の型、作法を創出し、器物にこだわり、わびの茶器を創り出した。朝鮮の山野に捨てられていた茶碗、竹の姿形の良い茶匙・茶筅・花池などの茶道具に洗練された感覚を見出し、秀吉に仕えて政治の助言者にまで出世するが、傲慢の幣もあり石田三成らの武将の反感を買う。莫大な金を投じて大徳寺に山門を寄贈したが、その階上に利休像を造ったことが秀吉に睨まれる原因となって、ついに切腹を命じられた。たしかに

「晩年の利休は少しおかしく、増上慢になっていた」-司馬遼太郎。

 

 嫡子の紹安は岐阜土岐氏に、庶子の少庵は会津蒲生氏に身を寄せたが、のち家康らの取りなしで、京に召喚されて利休の茶道を継ぐ。少庵は14歳で大徳寺の小僧になっていたが、性小心で、妻の利休の妾腹の娘お亀は気が強く、夫婦仲は良くなかったという。その子の宗旦は茶道に精進して、三代目として千家流の基を創った。その背後には父の利休の茶道を、長く残したいという強い思い入れが、お亀にあったからだといわれている。

 宗旦は四人の男子に恵まれた。

 長男  宗拙は勘当されたが、

 次男 宗守は塗師に養子の後、高松松平家に仕え利休の茶室官休庵を相続し、のち

     茶道の武者小路家を興し、

 三男 宗左は紀州徳川家に仕え、利休の不審庵を相続、表千家を興し、

 四男 宗室は加賀前田家に仕え、宗旦の今日庵を相続、裏千家を興す。

 

 千家は女たちの働きが、長年の歴史を支え続けて来た。そのことは茶道が明治維新で。大名筋の支援を失い危機になった時、裏千家が蘇えったのは女たちのパワーであった。

 家は実の娘や他家から嫁に来た女たちによって、四百年の歴史を続けて来たのである。

 宮尾登美子『松風の家』につづく。

 

 

 

 

 

 

 

明治の東京大地主

 珍しい資料を見つけました。明治初年の東京市の大地主リストです。横山源之助『明治富豪史』 。4万坪以上の大富豪は次の12名です。

 

  岩崎一家    221,000坪  三菱財閥

  三井一家    172,000     三井財閥

    峯島家      119.000

 

    阿部正植     65,000   旧大名 伯爵

  渡邉清右ヱ門 63,000

    安田善次郎     57,000       安田財閥

  酒井恵道    50,000    旧大名 伯爵

  徳川茂承    49,000    徳川家 侯爵

  浅野長勲    48,000    旧大名 侯爵

  鹿島チヨ     46,000        鹿島建設

    土井利与    43,000       旧大名  子爵

  阿部正功     40,000        旧大名 子爵

 

 東京市の公有所有地は、この資料では34,000坪で、大地主の多くは大商人と、旧大名の華族たちです。だが太平洋戦争敗戦の際、財産税で旧華族は土地を手放し、法人化して財産を残した財閥のみとなりました。

 

 岩崎家は岩崎弥太郎が明治初期から築いた三菱財閥で、土佐藩の下級武士に生まれ、目先の早いことで藩の長崎交易に携わり、後に四国と大阪の海運業を興し、さらに政商として佐賀の乱・台湾征討・西南戦争の軍需物資の輸送で財を成し、日本郵船や三菱造船所を興して、新興財閥の雄となりました。

 同じ時期、岩崎と長崎で豪遊し、のち大阪の知事となった五代友厚は、銅山開発で財を成し、造幣局を誘致して銅地金の納入で財を成し、今の日銀大阪支店3,000坪の地に別荘を建て、松と高価な庭石を配して、要人を招き芸者を揚げて豪遊しましたが、銅鉱山の枯渇から衰退。個人資産はほとんど残っていません。同期の岩崎とくらべて、運命の差に驚くばかりです。