宮尾登美子 『松風の家』
この小説は、千利休の裏千家が、明治期の混乱と貧苦の中に生き、かつ復興をなし遂げた「女たち」の苦難の物語で、宮尾登美子は冷徹な目で実相を描いている。
千利休の茶道は秀吉の命による切腹で一旦途絶えたが、子たちは前田家・蒲生家に引き取られたが、のち家康らの計らいで京に呼び申され、子の少庵、特に三代目の宗旦が、貧苦の中で利休の茶道を再興した。
つづく戦国時代、千家は子孫はそれぞれ大名家のお抱え茶道指南となり幕末を迎えるが、各派はそれぞれ箔をつけるため、作法に複雑な格式ばった62通りもの茶事の作法を案出し、庶民無用の大名茶を確立した。
それが御一新で、大名家から去らざるを得なくなり、天皇も東京に遷られて京の公家たちも同行してしまい、加えて団栗圖子から出た天明の大火で、家元も焼けてしまい、京の茶道は火の消える苦難の時期を迎えた。
その苦難の時松山藩の世話で、親戚筋の三河松平家15万石の側室の三男、十歳の君松を養子に迎えたが、この方が十一代得々斎秀室で、茶道に目覚ましい上達を見せ家元を復興させた。その娘の猶子が、京の名家角倉家の次男を養子にして、十二代恭又斎として家督を継がせた。
角倉家は千家にも劣らぬ京の名家で、先祖が南蛮貿易で巨万の富を築き、また賀茂川に沿って高瀬川を掘作して船運の通行料で年間一万両を稼ぐ豪商であったが,御一新で高瀬川がたった4両で官に没収され、広大な土地は従業員の退職金になって消え、賀茂川縁りの邸だけになった。(のち山縣有朋が手に入れ、今は頑固ずし京都店になっている)
長男柳庵が後を継ぎ、次男が千家の猶子の婿養子になり、恭又斎として茶の家元となる。
恭又斎が婿入りに持って来た茶道具類は、永年角倉家に蓄えられた逸品類であったが、
それが格式ばった年中行事の費用に次き次き道具屋に売られてしまった。
それに旧家見識のつよい妻の猶子と肌があわず、茶の教授に出掛けていた山崎妙喜庵の大黒と懇ろになり、ついに女の子を儲けた。(小説では由良子)その結果大騒ぎの末に、明治28年恭又斎は、14歳の息子を円諒斎と名付けて千家13代の跡継ぎとし、自分はさっさと山崎に行ってしまう。いつまでたっても帰らぬ夫に、妻の猶子は木屋町の本家に談じ込みに行くが、兄の柳庵から何の回答も得られず、その場で髪を切り、尼姿になる。
明日の米もない貧苦に陥った裏千家は、ツケで買える食べ物の購入も断られ、蔵の骨董も金に換えられ、三度の食事も白かゆだけになり、大勢の使用人も離れて行ってしまう。
猶子としては息子の円諒際に、嫁入り道具の茶道具を持つ金持ちの娘を期待する。そして娶ったのが神戸の貿易商の娘、益子で、嫁いびりにノイローゼ気味となった益子を連れて、円諒斎は新天地を開くため東京に出て、益子の縁戚の斎藤中将の知己と紹介を得て、京に帰りついに千家茶道を復興させた。
山崎豊子の小説は、裏千家や出入りの人間たちの、複雑な人間模様を描き出し、裏千家の大家族の、明治からの家庭事情を克明に書き綴っている。
古い旧家が今日まで続いて来たのは、ご先祖に誇りを持ち、見識高く、代々引き継がれた女の庭訓を頑固なまでに守り続けて来た女たちで、家付き娘や他家からの嫁入り女にかかわらず、旧家という家柄はそれら女たちの力に支えられて続いて来たということである。