閑話休題 -34ページ目

コンビニ人生

 何かこのような本が出たが、読む気にもならないのでまだ読んでいない。

 今は買い物も便利になったコンビニだが、店に入ると定格化された、乾いた現代生活者が目に見えて来る。要は人生の潤いがないのである。ただ一回限りの人生を、安易に、安直に暮して行こうとする人たちの、コンビニでの買い物生活者は最低に見えて来る。

 自分で食事を作るのを煩わしく思う人は、好い人生を送れない。バランスのとれた毎日の食事こそが生命の泉なのである。それに季節の旬のものを、味付けや、盛り付けに工夫を凝らした料理は、人間の頭脳を活性化し、作る人を長生きさせる秘訣である。それにお相伴に預かる家族も大喜びで、家庭の「和」の最も基礎的なものは、毎日の食事である。

 

 なぜこのような世になったのだろう。昔は庭には洗濯物が翻り、夕食時はおいしそうなにおいが家から流れて来る。お母さんは大忙しの毎日であった。 子供も家庭の仕事を手伝って元気だった。ところが今では学校から帰ると塾通いで、夕食も家庭の味がない、コンビニ弁当で済ましてしまうのもいる。

 このように都会で育った子供は、勉学に秀でていても、人間に潤いを齎す情緒の面で、緑の里山の森や川を遊び場にする田舎の子供にはかなわない。情緒のない人間は虫けらと同じだ!―梅崎春生『桜島』

 人間は医学・理化学・数学の分野以外で、いくら学問に優れても、世の中に出ては出世をする人と、出来ない人に分れる。「高校三年生」という歌があるが、その同窓会は10回とは長続きをしない。10年後には課長職が次々輩出して、乗り遅れた者は同窓会に欠席する。生存競争である。世に立つには頭だけではないからである。人に頼りにされる人格は、幼少年期の生活環境に形成されるのではなかろうか。それは大都会の人間の坩堝での中で育つのではなく、山や川の里山のある自然の中に育つのが最高である。

 

 私生児として生まれたレオナルド・ダヴィンチは、小学校にもやられず、ひとり山に登って、自然の中で素晴らしい情緒や感性を磨き、素晴らしい作品を残した。

 コンクリ―ト・ジャングルで育ち、子供の時から塾通い、大学生になったらアルバイトの金で遊ぶような人間は、社会と生活の中で次第に矯正されては行くが、それについていけない人間は落ちこぼれて行く。

 また情緒に欠けた者は、社長・頭取・事務次官などの栄誉を極め、世間的評価を得ても、最後晩節を汚す人が少なくない。人間としての基礎体質が、若い頃に情緒的に形成されていないからである。それはあくまで都会ではなく、田舎の環境の中に育つ。

 大都会の下層にくすぶるよりは、田舎の自然の与える豊かな情緒と、豊かな食べ物の恵みに感謝する先祖返りを果たし、2世、3世の次世代に夢を託すべきである。

 何ぞ今日故郷に帰らざる!。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

待賢門院璋子(たいけんもんいん・しょうし・たまこ

 京都は花見と゜きを過ぎると人出も少なくなり、静かになる。中でも緑が溢れる洛北双ヶ岡の山麓に、法金剛院がある。池の蓮の花が咲く頃は訪れる人もあるが、京では隠れ寺である。京都駅からJ嵯峨野線に乗り換えて2つ目の駅、花園駅の前にある。

 平安初期、右大臣藤原夏野の氏寺であったが火災で消滅、その跡に大治5年1130、鳥羽天皇皇后の待賢門院璋子が離宮にした寺である。

 

 この美貌の皇后の人生は波乱に富んでいる。徳大寺藤原公実の娘に生まれたが、3歳で白河天皇の寵妃祇園女御の養女となり、才智あって美しく、天真爛漫でかわいい盛りの4歳の璋子を白河天皇養女にし、毎晩抱いて寝て溺愛する。ところが初潮を過ぎた13歳のころ、56歳の天皇の子を宿す。困った天皇は信頼する部下に璋子を嫁入りさせようとするが、事情を知る部下が断ったので、とうとう

妊婦の璋子を、自分の孫の鳥羽天皇の中后にしてしまう。

 

 そして生まれた皇子は、鳥羽天皇には第一子であったが、叔父子とうわされたが、天皇は中宮の美貌と天真爛漫な性格に魅せられて、其の後に3皇子、2皇女を産ませている。この次男が後の世を

騒がせた後白河天皇である。

 ところが白河天皇は1123年、突如鳥羽天皇を退位させ、璋子の産んだ皇子を崇徳天皇にする。

 璋子は崇徳天皇の即位により、国母となり、待賢門院の院号を賜って、洛北法金剛院が造営されて出家された。警護役の武士であった佐藤義清は国母を「永遠の女性」と慕ったが、相手にされず、璋子が亡くなられると、妻子を捨て、放浪歌人となった。西行法師である。

 

 もともと鳥羽上皇は叔父子の崇徳天皇との中は悪く、ついに二人の確執が、それぞれ配下の源氏、平家の武士を巻き込んで、保元の乱1156を起こすが、崇徳側は敗れて四国に流される。そして平安王朝時代から世は武家の社会へと移って行く。その遠因となったのが、白河上皇の璋子への偏愛からであった。

 

 みなさん。嵐山・東山など人の押し寄せる観光地だけではなくて、歴史を秘めた静かなお寺を散策しながら、京の奥深い昔に思いをはせては如何でしょうか。

 

  

        待賢門院璋子像                          保元の乱

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

九州の秘境―三里河原

 今から38年ほど前、九州の人から、宮崎に殆ど人の入らない秘境があると聞いた。南九州の祖母・傾山の連山の東に、大崩山(おおくえやま)があるが、その山から流れる祝子川(ほうりかわ)は、三里が程ゆるやかな傾斜となって流れ、それを三里河原の秘境だという。

 早速山友達を加えて4人、早朝福岡空港から宮崎空港に飛び立った。空港から早速祝子川渓谷の登山口までタクシーで行った。当時麓には山小屋もなく、早速登山を開始。1時間ほど灌木の登山道を歩き、大きな壁の裾を巡ると、三里河原の入り口に達した。

 

 丁度東北の奥入瀬渓谷の三倍ほどの川幅で、溶岩の石ころが川に溢れ、両岸は川に削られた山肌が迫り、原生林がうっそうと茂っている。水は清冽に流れ、遡行するには右や左と石を渡る。時には川の中を歩く。勿論河には橋などはない。両岸の樹がうっそうと茂り、日も当たらない。だんだん上流に進むと、川の中の岩も大きくなり、野鳥の声も聞こえてくる。

 

 その日は川の三分の二まで来ると日が暮れて、左岸に多少の広場を見つけて、テントを張って野営する。そこまでは問題がなかったが、問題は真夜中。テント場の食料の匂いを嗅ぎつけたのであろう

か。テントの周り、木の上に沢山の獣たちの鳴き声が聞こえて、何とも不気味で熟睡が出来ない。アルプスの野営とは違って、まるで動物園の中でテントを張っているようなものだ。山は夜は静かと思うのは間違いで、原生林の中の夜は異様に騒がしい。

 翌朝は早立ちして、河原から山への獣道を辿り、ある尾根まで出たが、そこから先は木が茂って歩けない。諦めて下山することにして、あたりを見渡すとフライパン位のサルノコシカケ2つを見つけて、土産に頂いて下山した。

 しかし今となっては、九州の秘境三里河原の一夜は、二度と得難い思い出となり、懐かしい。

 

 

 

 

 

九州 祖母山

 先日NHKの「日本百名山」で、九州の祖母山が放映された。懐かしさのあまり食い入って見続けた。

もう30年ほど前、友達らの車数台で、高千穂峡を巡り、帰り道に尾平峠に差し掛かった時、祖母山の秀麗な姿が、午後の射光に輝いていた。おもわず写真を撮った。もちろんアナログであるが、風景写真としては私の好きな写真となり、ある銀行の二階階段の突き当りに掲げられていた。

 

 その美しい姿が忘れられず、翌年友を誘って尾平峠に車を止めて、山道を登り始め、途中馬の背の

危険地帯を乗り越え、無事頂上小屋に達し夜を迎えた。夜、小屋のお爺さんが盛んに薪をくべてくれて、酒を仰いで大いに騒いて寝に着いた。

 明くる日の朝まだき、ご来光を仰ぐため頂上に向かった。夜明けとともに見渡す360度の世界。西に阿蘇、北に九重連山、南には太平洋が朝日を浴びて輝き、東には四国の山がかすんでいる。とてつもない雄大なパノラマに驚くばかり。

 頂上で過した後、傾山への縦走を試みたが、草を追い分けて進む山道で、友が縦走を諦めたいと言い出したので縦走を中止、尾平峠に向かって道なき道を笹や小さな木にすがりつつ急降下、一時間後には全員無事に尾平峠に降り立った。懐かしい思い出の山である。

 

     尾平峠より見る祖母山

長崎ぶらぶら節

  九州にはよい民謡が沢山ある。前出の五木の子守歌、稗つき節,刈り干し切り唄、などの労働歌の外に、お座敷宴会用の博多節,久住高原、それにここに挙げる長崎ぶらぶら節、など。

 明治半ばに長崎に実際にあった話を、なかにし礼が小説に書き下ろした「長崎ぶらぶら節」のビデオを見て、改めて感激した。

 

 長崎の海辺、貧しい猟師の娘が、女衒ー(ぜげん、女を買い芸者や女郎に売る仲買人)に買われ、家を出て彼と一緒に、山路の峠道で肩車に乗せられ、彼の唄う「長崎ぶらぶら節」を小娘がついて歌う。その途中の川辺で無数の蛍が飛ぶのに見とれる。

 小娘は成長して愛八(吉永小百合)という芸者になる。美しく、三味線や踊りの芸も磨きがかかり、何よりも人柄が優しく、貧しい子供の面倒をみたり、相撲好きで、若手の不知火大五郎(永島敏行)を贔屓にして、子分らともご馳走をする姐御になった。

 

 長崎の豪家萬屋の旦那古賀十二郎(渡哲也)が、町と丸山の長崎芸者を総揚げして宴会を開いた。その時愛八は丸山の芸者を下に見る、町の芸者米吉(高嶋礼子)との間でもみ合いが起こり、古賀の仲介で互いに「芸で勝負する」ことで、急場の紛争が収まった。

 

 軍縮の国際条約で、廃棄となり沈められる「戦艦土佐」を送別する海軍士官の席に、愛八が招かれ、席上愛八は自作の送別の歌と、相撲取りの土俵入りの芸を御座敷で披露する。そして港を出て行く土佐を見送る丘の上で、偶然愛八と古賀が遭遇し、古賀は「長崎の古い歌を探しに歩かないか」と誘い、以来一緒に古い民謡を訪ね歩き、記録を始める。

 ある日に古賀と一緒に訪ねた90歳の元芸者の女から、長崎ぶらぶら節の唄い出しを聞いた愛八は、その昔女衒が峠道で歌っていた節だと思い出して、自分で三味線をとり歌と節をすらりと歌う。かくて長崎ぶらぶら節は後世に残ることになり、レコードは大ヒットする。

 

    長崎名物は はた揚げ盆祭り 秋はお諏訪のシャギリで 

    氏子がぶーらぶら ぶらりぶらりと いうたもんだいちゅ

 

 一方、自分の妹芸者であるお雪の病気を必死に看病し、その芸者のお披露の日に、古賀が主賓で出席するが、愛八はそのお座敷には出ず、お雪の全快のお礼に神社に向かう参道で、心臓発作で急死する。その死ぬ時、愛八の目の前が真っ暗になる中で、無数の蛍が愛八を取り巻いて乱舞するのを見ながら、死出の旅に旅立つ。

 

 吉永小百合は芸者が素晴らしく似合う。夢千代もよかったが、今回の愛八は良き時代の、最も優れた芸者を演じている。美しく知性的で、粋で品がよく、三味線・舞踊は玄人芸、それよりも哀れな境遇の娘にそそぐ愛情は、教会の慈善家たちよりも超えている。

 この話は実際会った話で、日本の片隅の遊里で、このような芸もたち、義侠心のある芸者がいたことを、日本人として誇りに思いたい。今も愛八の墓に花が絶えたことがないという。写真をみても、品のある顔立ちである。

 

    

         大正時代の愛八と古賀十二郎              映画の渡哲也と吉永小百合

 

 

五木の子守歌

  九州高速道路を南下し、熊本近くになると、突然前方に高い壁のような山脈が立ちはだかる。「九州中央山地」と呼ばれる、南九州を覆う山岳地帯―山塊である。高速を「松橋」で降り,砥陽町から山中に入り、V字型に浸食された川沿いの道を南下すると、五箇荘を通り過して五木村に着く。

 

   おどま盆ぎり 盆ぎり 盆から先きゃおらんと 盆が早よ来りゃ 早よ戻る

   おどまかんじん かんじん あん人達ァよか衆 よか衆 よか帯 よか着物(きもん)

 

 有名な民謡の里である山の奥に住む貧しい木樵の娘が、14歳頃に山持の大家の子守に雇われ、つらいのか早く盆が来て里に帰りたいと、家恋しいと幼子心に哀愁あるリズムで歌う,8月15日の盆が先に来るわけがない。わかっていても早く家に帰りたい、子守に雇われた小娘の切ない祈りの歌でもある。

 しかし実家は貧しい。われわれはかんじんで、雇われた主人の家はよか衆だ。かんじんとは勧進と書く。物乞いに歩く人のことで、本来は托鉢僧のことから、乞食まがいの人のことをいう言葉になった。

 奈良時代僧侶の試験は難しく入門は厳しかった。そのため官許を得ることが出来ない者は、托鉢や物乞いの勧進に命を繋ぎ、修行する。それら私度僧の勧進の中でも有名なのは、平家に焼かれた東大寺再建のための資金集めに勧進された重源上人(1121~1206)である。彼らの集まる場所は、高野山の尾根筋にある立派な寺院ではなく、尾根から別れた13の谷―「別所」というーの仮小屋に住み、全国を歩いて弘法大師信仰を広め、護符を売り、勧進し、納骨,高野詣での宿舎の手配、寄付金や手数料を寺に納め、高野山が経済的に困窮していた時代に裏方の財政を支えた。これが有名な高野聖であり、全国に弘法大師信仰や伝説を広めたのも彼ら高野聖であった。

 

 この五木の子守歌の里を五月連休皆を誘って出かけた。V字型に大きく切れ込んだ五木川に沿って南下、全山様々な色合いを見せる緑に覆われた道を辿り、昔は庄屋であったような大きな大きな家の民宿に着いた。木材の産地だけに立派な家づくりである。宿では20畳位の板敷の広間に、真ん中に大きな囲炉裏があり、ヤマメの櫛が囲炉裏を囲み、山菜の御馳走に預かった。今となっては二度と行けない、九州の秘境の旅であった。

  

       民宿の囲炉裏風景                         見上げる絶壁の上に立つ大家     

 

五木の子守歌

菖蒲

 五月節句の花、菖蒲(あやめ)、また杜若(かきつばた)は、刀のような形の緑の葉に、すっくり伸びた茎に美しい紫の花を咲かせる。江戸初期、本阿弥光悦の「杜若群生図屏風」は、菖蒲を一挙に日本の花に押し上げた。

 ところが奈良時代は、菖蒲は花をめでるのではなく、花を摘み取り草木染の染料にしていた。しかも奈良山の佐紀丘陵にある古墳の池が群生地であった。「佐紀」は「杜若」の枕詞であった。その中で、特に「磐之姫古墳」の濠には、今も季節には杜若が咲き誇る。

 

 新緑に燃える頃、奈良山の佐紀丘陵は、大阪近郊には得難い素晴らしい散歩道である。近鉄京都線の「平城駅」から、神功皇后陵、成務天皇陵、日葉酢媛皇后陵、孝徳天皇陵,平城天皇陵と緑と水に包まれた静かな散歩道を歩く。そこから大きな溜め池「水上池」の真ん中に造られた、小さな細長い土手を歩く。気分最高の水上の道である。京都ではお目にかかれない、奈良ならではの、いいなあと感ずる道である。それを通り過して、コナベ古墳を右に見ながら少し北に行くと磐之媛陵に着く。杜若が濠に咲き誇っている。

  この「磐城姫」は5世紀始め、葛城襲津の娘で、応神天皇の皇太子仁徳天皇―今世界遺産登録で運動中の、堺市の仁徳天皇陵―の天皇の皇后になった姫である。天皇への熱烈な恋歌が万葉集に遺っている。半面嫉妬も強かった。皇后が和歌山に行啓中に、天皇が異母妹の八田皇女を宮中に迎えられたと聞き、怒って難波宮に戻らず、船は淀川を遡って山城の筒城宮(京田辺市)に入られ、使者や天皇が来られても会おうとはせず、5年後にこの宮で薨ぜられた。

  その滞在中に、自分の生まれ育った葛城の故郷を一目見たいと、奈良や山の辺の道にまで出かけられた。その時詠まれた歌が『日本書紀』に遺っている。

 

 つぎねふ 山背河を みやのぼり 我がのぼれば、あおによし 奈良を過ぎ 小盾倭を過ぎ

 わが見が欲し国は 葛城高宮 わが家のあたり

 

 彼女の生まれ育った伝承地は残っている。近鉄御所駅から森脇の一言神社に向い、石段を登らず右手に続いている古い古道を登って行くと、「綏靖天皇葛城高宮」の碑があり、その奥に姫が詠った高宮の「宮の芝」伝承地がある。葛城山麓の中腹で、南大和平野を見下ろす絶景地である。当時は家も少なく、眼下は一面に緑の絨毯が広がり、視界の奥に大和の山々が連なっていて、姫ならずとも壮大な気風に育つ環境である。この高宮の地に立てば、1600年前の姫の娘時代が偲ばれる。

   

               磐之姫古墳の杜若               磐之姫が娘時代過ごした葛城高山宮之芝

 

 

 

 

 

五月五日 端午の節句

 日本人は昔から偶数が好きで、特に「八」は、大八島国、八百万の神、八重垣、また末広がりの八を聖数としていたが、五世紀になりシナの奇数の聖数も取り入れて、一月一日、三月三日、五月五日、七月七日、九月九日を、季節の区切りとして祝いの日として来た。

 五月五日の端午の節句は、昔から菖蒲を病からの厄除とし、菖蒲と尚武の語呂から、男の子の成長を祝うハレの日に定め、鯉のぼり、冑などを飾って祝って来た。

 

 それについて紀元前シナの楚の国の悲劇の忠臣、屈原(BC343~278)の故事が、日本の節句に係わっている。当時楚の国は揚子江南部に国を建てていたが、黄河上流の漢族が秦を建て、楚国を併合せんと狙っていた。それを屈原が察し、王に忠告進言するが相手にされず、ついに屈原は覚醒を促さんと、自ら汨羅(べきらの淵に身を投げた。その時の有名な詩が残されている。

 

  屈原曰       屈原曰く

  挙世皆濁       世を挙げて皆濁り

  我獨清               我独り清めり

  衆人皆酔       衆人皆酔い

  我獨醒               我独り醒めたり

  是以見放      是を以て放たれたり

 

  その後王は秦に幽閉され、屈原の予言通り楚国は滅亡へと突き進む。

 彼の死を悼んだ民衆は、命日の五月五日に沢山の舟を出して、争って汨羅の淵に行き、屈原の供養に食べ物を投げ込んだ。ところがすべて魚に食べられるので、屈原は「もち米を蒸し、真菰の葉で巻いて粽(ちまき)にしてほしい」と頼むので、以来人々は五月五日にちまきを作り、屈原に捧げ、自らも食したという。その古事から日本でも端午の節句に粽を食べる風習になった。

 

  憂国の詩人で入水した屈原は南シナだけではなく、戦前の日本でも敬慕され、大画伯の横山大観の「屈原」は感動する名作で、また戦前の若人に流行り、私も声を大にし歌った昭和維新の歌でも、憂国の屈原を慕っている。

 

     汨羅の淵に波騒ぐ      権門上に傲れども      昭和維新の春の空

     巫山の雪は乱れ飛ぶ     国を憂ふる心なし       正義に結ぶ丈夫が

     混濁の世に我立てば     財閥富を誇れども       胸裏百万兵足りて

     義憤に燃えて血潮湧く    社稷を思う心なし       散るや万朶の櫻花

 

     

                                                       横山大観 屈原

   

                     九州日田の大農家の鯉のぼり

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

西院河原地蔵和讃

 現代少子化で子供数が少なくなっている。悲しむべき現実だ。医療も充実した現代は、幼児の死亡率は大幅に減少したが、戦前までは幼い子供が病に侵され夭折した者多く、人々は悲しみ、あの世での子供の平安を地蔵菩薩に祈った。その時人々が唱え、念仏したのが地蔵和讃であった。京都で念仏の普及に勤められた、六波羅蜜寺の空也上人の作と伝えられる。今の若い人は知らない人が多いが、昔の女は地蔵尊の前で、数珠を繰りながらこの和讃を唱えていた。全文は下記の通り。

 

   これはこの世のことならず      ただ明け暮れの嘆きには

   死出の山路の裾野なる        むごや悲しや不憫やと

   さいの河原の物語           親の嘆きは汝らが

   聞くにつけても哀れなり        苦患(くげん)を受くる種となる

                                われを恨むることなけれと

   二つや三つや四つ五つ        くろがねの棒をさしのべて

   十にも足らぬみどり子が       

   さいの河原に集まりて         その時能化(のうげ)の地蔵尊

   父こいし 母こいし            ゆるぎ出でさせ給いつつ

   こひし、こひしと泣く声は                 汝等いのちみじかくて

   この世の声とはことかわり       冥途の旅に来たるなり

   悲しき骨身を通すなり         娑婆と冥途は程遠し

                          われを冥途の父母と

   かのみどり子の所作とて       思うて明け暮れ頼めよと

   河原の石を取り集め          幼き者を御ころもの

   一重、積んでは父のため       もすその中にかき入れて          

   二重、積んでは母のため       いまだ歩まぬみどり子を

   三重、積んでは古里の          錫状(しゃくじょう)の柄にとりつかせ

   兄弟わが身と回向して          忍辱(にんにく)慈悲のみはだえに

   昼は一人で遊べども          忍辱(にんにく)慈悲のみはだえに

   日の入相(いりあい」のその頃は   抱きかかえて撫でさすり

   地獄の鬼が現れて           哀れみ給うぞ有難き

   やれ汝らはなにをする                   南無延命地蔵大菩薩

      娑婆に残りし父母は                      おん かかか びさんまえい そわか

      追善作善のつとめなく

 

   仏様の中でも地蔵尊は<人々の身近に、街の中や道の辺に祀られている。幼い子供のよだれの沁み込んだ「よだれかけ」を奉納し、「この子が我が子です」と祈る。新しい「よだけかけ」では意味がないという。

 お姿は釈迦の弟子のスタイル、僧形の姿で現れられるが、る。現世はもとより、あの世の冥府をも管理されて、地獄の十王も従えられるといわれている。だから人々は地蔵菩薩にすがるのである。

 

         寂しければある日は酔ひて道の辺の 石の地蔵に酒たてまつる    吉井勇

 

 

 

 

 

美空ひばり

 桜の花の命は短く、気が付くと野山の装いは、目の覚めるような新緑に一変している。寒さも遠のき、暑さもまだ縁遠く、緑爽やかにして風香り、生きとし生けるものに生がみなぎり、万物が嬉々として生を喜びあっている。西洋にも「風の三月と雨の四月から、美しい五月が生まれる」という諺があるそうだから、やはり地球全体が爽やかなのだろう。

 

 若い時には連休を利用して旅にも出かけていたが、こんな老人になるとつい家で過してしまうことが多い。私はビデオ収録が出来るようになった時代から、名画の数々をVHSやDVDに収録、VHSはかさばるので大半破棄したが、DVDだけは日本・世界の名画を300枚以上保存している。寝たきりになったら楽しみたいと思って・・・。

 今日は急に美空ひばりの歌を聞きたくなってプレーヤーで聞いた。やっぱりすごい!。

    お祀りマンボ  マドロスソング  港町十三番地  りんご追分  佐渡情話 津軽のふるさと

    悲しい酒  テネシーワルツ  愛餐餐

 

 昔友達が、美空ひばりが他界した時、今まであまり好きでなかったが、歌はいいですねと語った。

あの精細な声、音階の情感、声帯の豊穣さ、発音の正確さ、英語の歌のリズム感―特にそれぞれの歌が秘める情感―歌の花を、的確につかんで歌っている。聞く人が背景の情景まで想像して、歌に

涕する。「悲しい酒」の時は自ら涙を流していた。余人の中で突出した天性の声を持っていた。

 

 雲雀の美しい声を模して名付けられた芸名そのものの歌手であった。戦後雨後の筍のように輩出した歌手は数多いが、ヒット曲が続かないと忘れられていく歌手が多い。 だがひばりの場合、頭脳と声帯、精細なリズムを捉える耳、首から上は特別仕立ての天才であった。まさに戦後唯一の歌の「女王」であった。