閑話休題 -33ページ目

中宮寺の弥勒菩薩

 法隆寺の東に中宮寺がある。法隆寺と同じ7世紀初頭に建てられた古刹で、聖徳太子の御母、

穴穂部間人ーあなほべのはしひとー皇后の御願寺の寺で、いつ頃からか間人皇后を中宮と呼ばれたところから、いつしか中宮尼寺と言われるようになった。

 創建当初の寺の遺構は既にない。その中に半跏して思惟されている本尊の弥勒菩薩が残されていて、素晴らしいお姿を拝むことが出来る。

  白鳳時代(大化の改新~奈良遷都の間)の名作で、 渡来人の作と思えるが、どのような人が造ったのだろうか。奈良や鎌倉時代彫刻のような写実性がないが、大らかで素朴、それでいて気品があり、国家の隆盛期の気が現れている、大傑作である。

 

 私が初めて弥勒菩薩にお会いしたのは、昭和27年頃のことで、当時宝殿はなく、庵室の玄関、3~4畳半の玄関に、黒ずんだ厨子の奥に、美しい弥勒菩薩が微笑んでおられるお姿が、咫尺の間に拝むことが出来た。

 弥勒菩薩は釈尊の滅後、56億7千万年の後に、我々の住む人間社会に出現し、大衆を救済されるという未来仏である。その間、瞑想にふけっておられるのか。「神々しいしいほどに優しい魂いの微笑―

和辻哲郎『古寺巡礼』―とをされている。その微笑みに吸い込まれそうである。

 

             まどろみと御口許の跡ゆえに 斑鳩道の春は恋しき

      幾世にも身は三界に半跏して 愛――しきまどろみ解かせ給うな

      拝―おろ―がめば心騒ぎもおきぬべし 思惟みほとけはいとほしきかも

      いろ落とし半跏を解きて今の世に 推古美人と化して給へや

  

            

 

 

 

法隆寺百済観音

 昔、法隆寺や中宮寺、法起寺の斑鳩によく通った。

 戦後間もない頃で、国鉄法隆寺駅から五重塔を目印に、また゜舗装されていない白っぽい地道をてくてく歩いて法隆寺に行った。人影も疎らな境内は、すさんだ戦後の心の癒し場でもあった。

 そして宝殿に入って、数々の仏道や壁画の模写を見ながら、百済観音の特別室への曲がり角が来るのが楽しみであった。

 幾星霜この斑鳩の里で、下界の衆生を救ってこられたみ仏の尊さに手を会わさざるを得ない。そのお顔があまりにいとけないだけに、また全体の剥落があまりにも痛々しいだけについ涙してしまう。

 誰が名付けたのだろう。百済観音は異国情緒を漂わせ、永遠の穢れを知らぬ純粋さと、あまりにも弱々しい女人のお姿に深い敬慕を抱かせる。

 百済はもと今のソウルを首都としていたが、5世紀後半、北の高麗(北朝鮮)に攻められて半島西南部に後退、爾来親交のあった日本に、続々亡命、渡来して来た、法隆寺の建物・仏像づくりは、百済人が、法隆寺近くの今の王寺に亡命・帰化して来た工人たちが、働き手であった。

 本堂の釈迦三尊も鳥仏師という帰化人の手で造られた。この百済観音も同様百済帰化人の仏師によって作られたに違いない。朝鮮人的な平顔、それに望郷の、祖国喪失の悲哀まで感ぜられる観音像である。私は手を合わせ、み仏を見つめ、縹渺たる雰囲気と気高い崇高さに打たれて、この場を去った。

  

  現世うつしよの幾風雪を添いませば いろ痛はしき百済みほとけ

  身は空にかけゆく如くにたたずみて 幾世おわしぬ百済みほとけ

  光背は炎となりていつの世か 御身は天くうにのぼりたまうや

  宝瓶に花挿し活けて逝く秋を 百済ほとけにたたえまつらむ

 

 

 

 

料理の器

 永井荷風の随筆集を読んでいたら、「矢はずぐさ」という小品に目が奪われた。

 彼は3人の女を妻としたが、その一人。芸者遊びに飽きたころ出会った、八重という若い芸者を家に入れた。勿論小学校を出ただけの芸者で、三味線、踊り、俗謡に通じているのは当然として、掛け軸の難しい漢詩をすらすらと詠む教養のあるのに、厳格な母の目にもかなって結婚式をあげたという。

 芸者上がりながら、掃除、洗濯、家事一切はもとより、庭掃除から、荷風の机の上の硯、筆の丁寧な掃除、それにもまして夕餉の食卓は、庭の野菜や山菜などの煮付けも上手で、何よりも食器の趣味がよく、料理と調和する食器に盛る感性も抜群であった。

 

 日本料理は器物の選択を最も緊要となす。特殊の芸術なり。酒楼にあっては直ちに主人が風懐の

 如何を窺わしめ、一家にあっては主婦の心掛けの如何を推知せしむ。    「矢はぎぐさ」

 

 西洋食器は主として白を基調に料理を目出たせようとし、シナはヒスイの箸を重用する。日本は杉の割り箸を最上とする。そして日本の器は色彩・文様多彩で、料理との釣り合いを考えて盛り付けする。

しかも日本の各地には、それぞれの地方の土を生かした焼物、多種の食器が造られている。料亭で使われているのは目利き優れて厳選し、高い金で備品としているが、荷風が論ずるのは一般家庭の器である。

 

 私も昔から陶器が好きで、各地の窯元を巡り自分好みを買い入れて、離れ6畳の整理棚も一杯になっているが、それでも新しい時代の美観をそそる食器を見つけると、今でも手を出してしまう。その器で料理を盛ると食事も心豊かになる。老後こそ手を惜しまず、美しい食器で日常の生活を楽しむのが、長生きする一策だと考えている。

 

興福寺阿修羅像

 天平時代の朔像の大傑作。もう70年前になるが、初めてこの像に接した時の感動は忘れられない。興奮してこの像の観想を一文にした。いまでも残っている。

 作者はこの像を造るにあたり、何回も素描を繰り返したに違いない。そしてモデルに奈良の神社か寺で、一心に祈りを捧げている少女の顔をスケッチしたのだろうか。正面の顔はまだ穢れない少女の面影が漂っている。何を祈っているのだろうか。

 

 阿修羅は死後六道の一つ。人間は死ぬとき閻魔様に審判にかけられ、六つの道に向かうという。

                 天・人間・阿修羅・餓鬼・畜生・地獄。

 天とは今世の行いと信仰厚い人は天上界に成仏する。その次は人間界に生まれるが、阿修羅はいつも修羅の世界に生きて、どうあがいても再び人間界には生まることが出来ない。興福寺の阿修羅像の正面の顔立ちは、荒々しい戦闘的な姿ではなく、どうしても人間界に戻りたいと一心に祈り続けているように私には思えてくる。その祈りの激しさは眉と額の筋に表されている。

 

 正面以外の横の二つの顔と手は、祈っている姿ではない。阿修羅の本来の姿を示しているのだろう。阿修羅界中で阿修羅に生きようとする力と、人間界に戻りたいという心の葛藤を、この像が暗示しているように私には思えてならない。

  三つの顔と、六つの手は、正面からはさほど異形児には見えない。造仏者のスゴ業である。

 

     二巡り三巡りすれば人ならぬ 阿修羅や六つの手を親しみぬ

 

 

漢詩の世界

 いきなりむつかしい漢詩で恐縮ですが、味わえば抒情に溢れる素晴らしい漢詩です。

 われわれの使う漢字は、今や旧遺物のようなもので、この大戦後、漢字を基本として来た中国は新漢字を使用、韓国も漢語からハングルに変えてしまい、日本だけが旧漢字を使っています。

 昔からシナは文明国で周辺を圧し、奈良・平安からその文化に憧れて日本から渡航して、シナ文化を移入して来ました。漢文が公用語になり、ひらがなは女子だけの文章世界になりました。

 

 下の漢詩は唐の白居易 772-846 の、「白氏文集」に納められた詩の一つで、平安貴族を魅了しました。『源氏物語』にも紫式部が引用しています。その有名な漢詩です。

 

  夜聞歌者卾州           停泊していた卾州(揚子江の武漢のこと)の夜に歌う者の声を聞く

 

  夜泊鸚鵡州  秋江月透徹   夜鸚鵡州(武漢)に泊まる 秋の河の月は透徹せり

  隣船有歌者  発調堪愁絶   隣船に歌う者あり 調べを発して愁絶に堪えたり

  歌罷繼以泣  泣声通復咽   歌止んで繼ぐに涙を以てす 泣声通うてまた咽ぶ

  尋声見其人  有婦顔如雪   声を尋ねてその人を見る 婦有り顔雪の如し

  独倚帆柱立  嫂娣斗十七八  独り帆柱に椅りて立てり 嫂娣ーへいていーたる歳十七八

  夜涙以真珠  双々墜名月   夜の涙真珠に似たり 双々として名月に墜つ

  借問誰家婦  歌泣何凄切   借りに問う誰が家の婦ぞ 歌泣何ぞ凄切なる

  一問一霑襟  低眉竟不説   一たび問いて一たび襟を潤す 眉を垂れてついに説かず

 

  隣り合った船に、十七八の顔の白い美しい女が、夜帆柱に倚って歌を歌っている。その声が悲しげで愁いに満ちており、歌い終わっては涙を流し、また咽び泣いている。その夜の涙は真珠のようで、名月と共に落ちるようである。どこの家の女か、またどうして泣くのかと問うたが、聞いても涙を流して襟を濡らすばかり。そして瞼をつぶってついに答えなかった。

 恋人と別れたのか、或いは婚家から追い出されたのか、事情は知る由もないが、白眉のうら若き美女が、船の帆柱で歌っては涙している。そこはかとなく哀愁の漂う情景詩である。

 声を出して詠んで下さい。

 

 

天才若人

 昨今新聞テレビで報道される、将棋の藤井総太四段、若いのに物おじせず、若人らしい爽やかな風貌で、表情も変えないで長時間の勝負をこなしている。自分の中学四年生の頃を振り返ってみても、足元にもよれない。脱帽である。

  しかも私が感動するのは、彼の「爽やかな顔つき」である。およそこの種の勝負の世界の人で、若いのにあの爽やかさは、生まれつきの品性と言ってしまえばそれまでだが、技と品性を兼ね備えて生まれて来たのは、余程前世の行いがよかったからであろう。素晴らしい若人である。

 

 「爽やか」といえば、スケートの浅田真央、それに羽生結弘がいる。二人とも世界の水準に到達した日本の若い英雄である。その彼らも奢り高ぶらず、爽やかな顔つきである。

 

 この三人とも本当の日本人の顔立ちで、浅田真央さんの笑顔は、爽やかな笑みをたたえて、見ていてもほれぼれする。

 三人の今後の人生の幸多からんことを!

尾瀬沼の初夏

 梅雨時だというのに、この所ずっと晴天続き、お陰で爽やかな初夏気分。つい昔の夏山を思い起こすシーズンに入ったようである。

 長期休暇が取りにくい時代だったので、永年思い続けていたが、大阪から遠い尾瀬沼に出掛けたのは、完全リタイアーした今日のような初夏の頃だった。重いリックを担いで、新大阪から新幹線の自由席に乗り込んだ。すると10年ほどの下の後輩が、東京出張でグリーン車に乗っていたが、私を見つけて缶ビールをもって自由席に挨拶に来てくれた。よい男であった。

 

 東京から上野に出て、上越線で沼田に向い駅前で一泊。そこからバスで戸倉に出て、鳩待峠から尾瀬沼に入った。水芭蕉もピークを過ぎた頃で、登山者も数少なく、ルンルン気分で木道を歩いて、尾瀬のほぼ中央の竜宮小屋で昼食を取った。

 その後、燧ケ岳の裾野を通って長蔵小屋に泊まったが、その途中虹のかかっているのを見つけて撮ったのが下の写真である。ロマンチックな風景写真となった。

 

 長蔵小屋の夜は楽しかった。私のほか泊り客は、山形の米沢から来ていた男1、女2の3名だけで、

急に親しくなりワイワイ騒いで飲んだ。飲み屋の男女だろうか、気さくな美人の年増で、「米沢は良いところだから、一度来なさいよ」と勧めてくれた。山宿の楽しい、心温まる一夜であった。

 翌日は別れて、私は元の道を引き返し、このまま帰るのも芸がないと思って、帰り道に至仏山2228mに登り、尾瀬の全貌を俯瞰して帰路に着いた。

 もう二度と行くことのない尾瀬沼は、虹の写真と長蔵小屋の一夜、至仏山が強い思出に残っている。

 

   

                                                        尾瀬沼の虹

          

                 至仏山から尾瀬沼を俯瞰――対面するのは燧岳

 

 

 

 

 

 

 

 

谷崎潤一郎 陰翳礼賛

 前日、イタリヤ・フランスの白黒の映画は、光の当たる部分と影の部分のコントラストが、場面に素晴らしい陰翳を作り出し、そこはかとなくい抒情が感ぜられ、詩的な情景を見せてくれると書いた。

 このことを書いた後、ふと思い出して谷崎潤一郎の『陰翳礼賛』を読み返してみたら、

 

  映画を見ても、アメリカのものと、フランスやドイツのものとは、陰翳や、色調の具合が違っている。

  写真面だけで,どこかに国民性の差異が出ている。同一の機械や薬品やフィルムを使っても、どこ

  かに国民性の差異がでている

 

 この陰翳礼賛が書かれたのは、大正時代の白黒の時代であるが、カラーになるともっとその差が大きくなる。アメリカ映画はカラーですべて写実本来で、抒情的なものが少ない。この国民性はどこから出来たのだろうか。

 食べ物の差ではない。やはり石や煉瓦、コンクリートの建物と、木造の建物に暮らす差であろう。西洋建築は壁紙や調度類に気を配る。古い日本建築は木造で、木そのものが湿気を吸収し、快適な居住空間を作っている.室内にしても、洋室は壁紙を明るくして日光を反射させる上に、写真・絵画・彫刻や飾り物のごてごてした調度品を隙間なく並べる。

 日本家屋は、むしろ光の直接入るのを防ぐため、軒下を広げ、障子をもって光をやわらげ、飾りものにしても、床の間の掛け軸や生け花などで、それ以外の調度は邪魔になる。

 

  日本間は何をおいてなくとも心が鎮まるように出来ている。掛物や花生一つで気分がどんなにでも 

    変わる。西洋の生活はね。いろいろと置くものがなければいけないでしょう。洋間というのは、部屋

    に物がなければいけないようにできているんです。             大仏次郎 「宗形姉妹」

 

 私の家は数寄屋建築の好きな大工さんが、現在の生活を取り入れて設計施工をしてくれたが、吉野檜をふんだんに使ってくれて、それに日本間の三室、階段は聚楽壁を塗ってくれていた。この京都の秀吉の聚楽第敷地から出た、鶯色の聚楽壁は日本間にはぴったりで、私は和室に入ると心が自然に落ち着いてきて、日本人として喜びを感じる。障子と聚楽壁が部屋に独特の陰翳を与えてくれて、心に潤いの湧いてくるのを感じる。

 日本人にとって、明るすぎる部屋よりも、日光を和らげる障子や、陰翳を部屋にもたらす聚楽壁から、情緒的な雰囲気を身につけていくのではなかろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

イタリア映画

 まず私は、世界の名画をテレビで見るに過ぎない素人である。それでも名画は必ず録画し、この数は優に100枚を超えている。寝たきりになったら見たいと思って・・・。

 それらの中でとりわけ心に残っている作品はイタリア映画である。それも白黒フイルムである。デジタルのカラー映画はなるほど隅々まで綺麗に見えるが、古い白黒フィルムはそれに勝る「陰翳」があって作品に抒情をかもしだしている。

 たとえば奈良の写真集でも、入江泰吉氏の写真集は、仏像にしても景色にしても、殆どアナログの白黒で、それが被写体の陰翳を添えて素晴らしい作品を作られている。カラー写真、ましてやデジタル写真はその足元にも及ばない。今でも時々「大和路」の写真集を見るが、何度見ても飽きない。

 

 イタリア映画の白黒の映画も素晴らしい。私は大好きである。白黒の陰翳に抒情感がにじんでいて、そこはかとなくイタリアの風物が抒情的に映し出されている。それに子役の活躍が素晴らしく、作品の中で際立って映えている。子役を配する作品は一層引き立って見える、脚本の妙である。例えば、

  鉄道員

  自転車泥棒

  靴磨き

  穢れなき悪戯

  

 などは素晴らしい白黒の作品である。何回見ても見飽きない。

 

 フランス映画の 望郷 などの白黒映画にも好いものが多い。日本でも黒澤明の 七人の侍 生きる 用心棒 隠し砦の三悪人 などや、最近では新藤兼人の 裸の島 も素晴らしい。

 

 どうも歳をとったから懐古趣味を囃すのではない。カラーにはない、陰翳の素晴らしい、白黒映画の芸術性を、新しい映画監督の新作品に期待してやまない。良いものは良いのである。

 

   

                     鉄道員                            自転車泥棒

  

  

  

 

地球温暖化の問題

  6月半ばというのに、気温は時として涼しく感じる時があります。このままでは今年の稲作の水にも影響するとも言われています。この低温は地球温暖化とどう影響するのでしょうか。

 

 今年に入ってアメリカのトランプ大統領が、世界規模の温暖化対策のパリ―協定から、離脱すると宣言しました。各国はその対応に大慌、だがその後の対策は進展していない。

  中国も経済第一主義だが、北京のスモッグには弱って、地球温暖化に取り組み始めた。ソーラー始め省エネは企業の重要な課題になっている。植樹をふくめ、樹木の緑化が見直されている。

 

 気象学者や環境学者は地球の温暖化に厳しい意見で臨んでいる。だが地球の長い歴史を見れば、

下図のように温暖化と冷却化は、周期的な循環にあることを教えている。

           

 1万2千年前の氷河期の終末から始まった地球温暖化は、次第に北極と南極の氷床が溶け、前6世紀湖から世界の海水が100米も急上昇した。縄文海進期といわれた時代で、日本でも陸地であった瀬戸内低地は海になり、大阪湾は奥に侵入して河内湖を造り、関東の平野も宇都宮辺りまで海が広がり、シジミが採れて貝塚が出来ている。濃尾平野も伊勢湾台風で水没した地域まで海が奥深く侵入していた。この温暖期のピークの紀元前4千年頃に、どんぐり・栗などの落葉広葉樹か青森まで広がり、縄文人は、列島の最北に、日本最大の三台丸山遺跡の東北文化を残している。

 

 上表に見通り、前4000年をピークに地球は冷却化に向い、気象の冷却の変動によるインフルエンザなどにより人口も激減した。その冷却の底が紀元前500年頃で、それを底に気候は回復して現在の気温に安定した。

 この地球の寒冷期の底の紀元前500年頃、世界規模で人類の大移動が始まり、特に人類に不思議な「精神革命」を齎したと、安田喜憲教授が言っておられる。ギリシャではソクラテス・プラトン・アリストテレスがギリシャ哲学を完成、インドでは釈迦が、シナでは孔子・孫子・老子・孟子が輩出している。

 

 地球規模の気候変動の長い歴史をみると、長期的に温暖化と冷却化が循環している。現在の温暖化もその周期の一つとみれば、学者の騒いでいる温暖化も、歴史的視点からも考え直される。

皆さんどう思われるでしょうか。