閑話休題 -32ページ目

山の温泉 奥穂高 中尾温泉

 アルプスの登山基地の1つ、岐阜の奥穂高温泉はいたるところに温泉が湧いている。

 黒部五郎岳から三俣蓮華岳から、槍ヶ岳から滝谷出合いを経る下山道や、また笠が岳から下山する時に、奥穂高温泉の湯で汗を流すのが、何よりもの楽しみだ。

 私はある夏、笠が岳でテントを張り、夜中に起きて素晴らしい星空に出会ったが、明くる日笠新道の下山の近道が先日来の豪雨で通行禁止のため、元来た道を弓折岳まで戻り,鏡平の小池新道を降り、遠回りして奥飛騨温泉に下山した。

 天気も良かったので温泉でゆっくりしたくて、中尾温泉に向かった。林間に中位の露天温泉があり、温泉の近くにテントを張り、丸二日、湯に入ったり、寝転んだり、手持ちの食糧で食事を作ったりして、私は独り優雅な夏を過ごした。ここには来る人も少なく、街から離れていて、うらやましい山奥の秘湯であった。

 

 二日間を過ごしてから、焼岳小屋を越して、上高地に出ようとしたが、途中登山道が分かりにくくて、諦めて元の西穂高に戻り、バスで奥飛騨温泉郷を抜けて、高山経由で大阪に戻った。今でも思い出す懐かしい温泉である。

 

 瀬戸内の海水浴

 海が恋しく、海水浴がしたくなり、旧友男女6人―平均年齢70歳位―で、数十年ぶりに瀬戸内の小島に出掛けた。波打ち際の渚で海に浸かり、塩辛い海水のおいしさを改めて味わった。その夜は遅くまで騒いで、笑いの渦の果寝についた。

 だが「割烹料理旅館」と称するその旅館の料理は、店主が一々料理をくどくどと説明するが、田舎料理に過ず、お世辞にもおいしいとは思わなかった。

 

 鯛は前もって「明石鯛」の舟盛りを注文していたが、出て来たのは地崎の中ぐらいの鯛、それも刺身を多く見せようとして薄切りで、醤油ではなく地元の塩で味わうのがよいと勧める。その鯛の荒焚も塩だけの薄味で、一口食べて止めてしまった。穴子の天ぷらも、大ぶりの穴子で、しかも揚げ方が中途半端で、期待していたのに失望した。

 

 私が明石の鯛にこだわるのは、味が抜群においしいからである。明石の南の海には、大きな崖に落ち込んだ楕円形の海盆」があり―明石天文台で模型が見られる―、そこにはいろんなプランクトンが豊富で、それを食べて稚魚から育った鯛は、身が引き締まって、味が濃く、他の海で育った鯛と比較にならないくらい美味である。

 

 紀元前3万年、氷河期の瀬戸内は森と草原に覆われていた。マンモス像が生息し、その一匹が当時池だったこの海盆の水を飲みに来て、足を取られて死んだ骨が出土している。そのマンモスを食糧にしていた原始人も、この水飲み場辺りの海岸で白骨化している。いわゆる「明石原人」である。

 

 この海盆の岸に西宮の恵比寿神社がある。古くから海の民が齋く神社である。この海盆のプランクトンで育った鯛・穴子・太刀魚・タコは、「前の魚」と呼ばれて、大阪人の食道楽の極上の魚とされた。

大阪は禅寺が少なかったから、精進料理は発達せず、大阪の料理は生きた魚の刺身など、魚をふんだんに使った会席料理が主体で、京都は足元にも及ばなかった。

 江戸も大阪のような豊富な魚に恵まれず、江戸湾で取れる穴子・こはだ・えび・さよりなどの魚を酢で〆て、寿司が出来た。江戸の前の魚だから、「江戸前」と名付けた。

 

 海水浴は良かったが、料理に不服で帰ったから、一言書かしてもらった。

 

 

 

 

 

 

 

 北アルプスの白地図に、自分で踏破したルートを赤鉛筆で線を書いている。この地図を見れば、自分の登山歴がまざまざ浮かび上がって来て、色々な思い出に慕っている。

 その中で、朝日岳には一度失敗しているので、黒部峡谷鉄道の終点、欅平から、アルプスの急騰で名高い百間大降りを踏破して、白馬岳を目指し、そこから雪倉岳→朝日岳→日本海の親知らずに抜ける、一週間に及ぶ大縦走を企て、テントや食料を一杯詰め込んだリックを背負い、単独で出発した。

 

 欅平の駅に降り立ったのは昼遅くで、そこから約一時間で、登山口近くの祖母谷温泉に着き、テント場にテントを張って、入浴。翌日張り切って登り始めたが、一週間前の大雨で登山道が荒れ果て、かなり登ったが遂に道が、大崩れの涸れた河についてしまった。それを遡れば尾根筋に出られるものと、足を踏み入れた所、石が動いて十メートルほど川下に押し流されてしまった。これはやばいと、ようやく岸の木にすがって森林の土に足をつけらることが出来た。遭難手前であった。

 単独行でもあり、危険を感じて急阪をよじ登ってやっと元の場所に戻ったが、ついに諦めて下山する途中に、道の端に縄梯子―それも一本の太い縄に、結び目をつけた―が見つかったが、先程の事故で諦めて下山することにした。

 そしてまた祖母谷温泉に2泊テントを張って、温泉三昧に過ごした。山に登れなかったが、懐かしい

思い出となった。 

                  祖母谷温泉全景                   同 野天風呂

 北海道は遠くて、私にはたびたび行ける場所ではなかったその中で、山の湯の思い出は、大雪高原温泉と十勝温泉だけであった。

 

 大雪高原温泉は遠い。私は旭川の友人に頼って車に乗せてもらうことが出来た。旭川を朝出て、長い大雪山北麓の林の中を走り続けて、昼遅くにやっと大雪高原温泉に着いた。広い駐車場がある。車の音に気付いたのか、近くに住んでいるキタキツネが出迎えてくれた。

 温泉の効能については覚えていない。広い湯舟で旅の疲れを癒し、翌日からの大雪山の山旅に備えた。翌早朝、熊除けの鈴を鳴らして大雪山の高根ヶ原の尾根を目指した。時は九月半ばで途中の、高原沼の樹々、特に楓の色は本州並みではなくい。緯度からしてカナダの紅葉の色で、その圧倒的な美しさに感動した。

 高根ケ原は眺望が樺らしい。感動!感動!の連続である。いつかのブログで掲げたと思うが、その秋景色はとても内地では見られないほど素晴らしい。白雲岳で休息をとった後、黒石石室に一泊。

夜、壁の石組の隙間から冷たい風が容赦なく吹き込んでくる。殆ど寝もやらぬ一夜だったが、今となってはとても懐かしい。あくる日は寒さがひどく、縦走を諦めてロープウェイで層雲峡温泉に下山。一泊してから帰途についた。

 

  

               大雪高原沼の秋景色

                                         大雪高原の秋景色

雲上の温泉 仙人湯

 1990年の夏。我々は6日間のアルプス大縦走を企てた。

 まず大阪から夜行バスで富山に入り、富山電鉄で有峰口駅からバスで有峰湖の折立に着く。そこから縦走が始まる。折立から太郎平小屋(泊)→薬師岳2926m→間山→スゴ乗越小屋(泊)→五色ケ原→一の越山荘(泊)→立山→大汝山3015m→剣沢→仙人ヒュッテ(泊)→仙人湯→阿曽原温泉(泊)→水平歩道→欅平→宇奈月(泊)→富山(夜行バス)→大阪。まだ元気のある歳から出来たが、今ではとしても足が届かない。懐かしすぎる山旅となった。

 

 道中の思い出は数々ある。一番きつかったのは、立山から長い剣沢の雪渓を降り、その一番底から仙人ヒュッテまでの、高低差500mの直登であった。それまでの長旅の疲れもあって、何回も休憩し、喘ぎあえぎながら、やっと仙人小屋に着いた時は、半ば人事不省になっていた。宿の女将に勧められて風呂に入れてもらってやっと元気を取り戻し、暮れ行く時間を気にしながら、裏剣の夕焼けを取るために仙人池に向かった。だが池に着いたのが遅すぎた。

 翌日からは下りばかりで楽であった。途中に出会ったのが登山道脇の仙人湯の露天風呂、とにかく裸になって飛び込み、大自然を満喫した。高度は1500m位か。この秘湯には西からも東からも山旅で2日間登山出来る山男しか入れない。その下にも秘湯の阿蘇原温泉があり、長旅の疲れを癒すために一泊した。

  翌日は天下に名だたる水平歩道。黒部川の断崖絶壁に沿って歩ける小幅の岩道が延々と続き、緊張して慎重に進むと、やっと黒部峡谷鉄道の欅平駅の裏山に着いた。

 

  

           仙人温泉                      黒部の阿曽原温泉

 

    仙人池裏剣の夕映え....撮る時間遅すぎた         黒部峡谷の水平歩道

 

 

 

 

 

 

 

 

 

雲の上の温泉 高天原温泉

 この温泉は雲ノ平の奥にある。標高2100m、開けた台地の中の野天風呂である。

 その3日ケ前、私たちは新穂高温泉から入山した。その日は鏡平小屋に一泊、翌日は三俣山荘に泊まった。そして3ケ日に黒部川源流から岩苔乗越をへて雲の平に降り立った。

一名日本庭園とか言われるが、雑草や高山植物が生い茂り、ごつごつした岩が散在する、とても一休みして楽しむ風景ではない。もっと岩がない草原なれば、天上の楽園に思えただろう。

 荷物を高天原山荘に預けて、早速高天原温泉に直行。数名の先客があったが、温泉は広かった。

とにかく数日のアルプス歩きで、疲れ体には申し分ない温泉であった。

 40年ほど前の山歩きで、初めて出会った忘れがたい温泉であった。

  

  

                      雲の平                             高天原温泉

雲上の温泉 白馬鑓温泉

 朝日岳登山に失敗したので、そのまま下山するのも悔しくて、白馬岳まで戻り、その足で白馬鑓温泉を目指した。鑓ガ岳2903mを越して、温泉の表示板に従ってジグザグの急斜面を降りたところに、眼下に北アルプスを見下ろす高台に、小プール程の大きな露天風呂がある。高度2800m位だろうか。日本最高所の温泉で、眺望抜群、素晴らしい温泉であった。

 

 大きな山小屋があるが、私は温泉横のテント場に2日間テントを張った。朝昼晩裸で横の温泉につかり、テントで素っ裸でごろ寝する。いやはや醍醐味の二日間であった。特に朝早くの入浴と、夜の満天の星を仰ぎながらの入浴は、他の温泉では味わえない贅沢きわまる風呂であった。 もちろん三食とも自炊。ウイスキー持参の食事で、心と体の休養も十分とれた。

 下山は白馬岳に戻らず、直接短コースの白馬大雪渓に降りる道をとり、猿倉に戻って来た。印象の深い、記憶に長く残る温泉であった。

 

雲上の温泉―蓮華温泉

 私が初めてアルプスに山リーダへに連れられて、白馬岳から蓮華温泉に足を踏み入れたのは、今から55年前の昭和29年、私は26歳独身の青年時代であった。

 白馬から大雪渓を登り、蓮華温泉まで強行した。現在は立派に建て替えられているが、当時は兵舎のような、汚い掘っ立て小屋の長屋に板敷の部屋があった程度であった。温泉があったのだろうが覚えていない。

 朝、友を誘って、源泉に行こうと、タオルだけを持って出かけた。宿から20分以上山に登った、樹木の無い荒涼たる山肌に源泉が涌いていた。私たちは素っ裸になって飛び込んだ。山の朝のすがすがしさの中、気持ちよく汗を流した。自動で撮った写真が懐かしい。

 

 

     昭和29年 蓮華温泉にて 後は山小屋              蓮華温泉「仙気ノ湯にて

 

 その40年後、蓮華温泉をへて旭岳に単独行を企てた。テント生活を前提にしていたから、蓮華温泉小屋には泊まらず、やや離れた林間の広いキャンプ地にテントを張り終えた後、往復1時間以上かかる蓮華温泉に、一日二回、二日で4回入りに行った。殆ど私一人であった。

 

 その後、旭ヶ岳を登って日本海に出る計画であったが、直近の豪雨で橋が流されていたり、7月下旬だからとアイゼンも用意していなかったため、急勾配の雪渓を何回も滑り落ち、ついに登り切れず、諦めて下山した。私以外にも1人、2人組の登山者も敗退された。帰る蓮華温泉から遠く離れたところで日が暮れ、途中の小さな広場でテントを張って野営した。結局その日は朝日岳には登れず、温泉の思い出だけの山旅となった。

 

 

 

 

 

 

 

 

雀さんの夕食

 雀は渡り鳥ではなく、日本に居ついた昔から、人里に近い所で生をつないでいる。ところが人間が近寄ると、逃げてび去ってしまう。太古に人の食料になったことの、遺伝子が受け継がれているのだろうか。それでもかわいい。チイ・チイの鳴き声は、カラスのようなだみ声でなく、人の心を和ませてくれる。

昔に比べて雀の数が減ったようだが、それでも近くの並木道には、かなりの雀が住み着いている。

 

 私は夕食の前、仏壇の前の日のお供えご飯と、新しい夕飯の少しを加えて、庭に撒いてやる。いつも午後4時過ぎである。この頃は時間になると催促の鳴き声が聞こえてくる。そして撒いた後、私が近くにいると寄ってこないから、家に上がって庭に居なくなると、途端、何処から跳んでくるのか、その中のあるものが仲間に連絡するのか、30羽くらいの雀が、競って白米のご飯を食べに集まってくる。観察していると、雀世界にも序列があるのか、ボスのような雀が食事する時、その他の雀は周りにチイチイと啼いて、順番を待っている。中には母雀が小雀に口移しにご飯を与えている。

 私が三口位で食べきる量を、30羽以上が一粒か二粒づつで、かわいいお腹がいっぱいになるのか、飛び去っては次の雀に代わる。とにかくムレで生きている以上、彼らにもルールがあるらしい。

 

 仏教では施餓鬼せがきと言って、餓鬼道に落ちた人の供養をする。私の古いお墓では、お供え物の明細が記されていて、水・洗米・塩・小豆・小餅を墓石にお供えして、供養が済むとそれらを一か所に集めて、森の獣に供養する。ある時1時間ほど経ってから、再び来ると、何と御餅が16ケ全て無くなっていた。お坊さんは「それでいいのです。供養です」と言われた。すれば私の雀さんへの毎日のご飯も供養となる。有り難いことである。

 

 

法起寺の塔

 法隆寺・中宮寺を拝観した後、道を北にとって菜の花の畠道を歩くと、前方の木立の上に、法起寺の搭の先端が現れる。飛鳥時代の昔の春の斑鳩路の、心温まる風景である。塔は眼前に仰ぎ見るより、

少し離れたところから眺めると、より心が浮き立つ。

 この寺の 創建は聖徳太子時代、特に三重塔は706年完成、高さ24m。日本最古の搭で現在国宝である。されとて塔にまつわる伝説とてない。長らく沈黙して、静かに斑鳩の一隅に佇んおられる。

 

 明治の俳人、正岡子規に師事した高浜虚子 1874-1959 が、『斑鳩物語』にこの塔のことを書いている。夏目漱石に激賞された小編である。またこの人の小説『風流懺法』もよい。

 

 官命により法隆寺法隆寺の調査に来た「予」か゜夢殿の前の宿屋の大黒屋に泊まる。奥から走って出て来たのは十七八の娘である。色の白い、田舎者にしては才はじけた顔立ちだ。手ばしこく車夫から余の荷物を受け取って先に立つ。廊下を行っては三段程の階段を登り、また廊下を行っては三段程の階段を登り、一番奥まった中二階に余を導く。小作りな体に重そうに、荷物を下げた後姿が余の心を牽く・・・・

 

 この純朴な女中の「お道はん」と交わすユーモラスな会話に、思わず含み笑いをしてしまう。そして二度と見ることのできない、明治の斑鳩の長閑な風物が、絵物語のように浮かんでくる名編である。

 そしてこのお道はんが、法起寺の若い僧と恋をしていて、その逢引の様子を余が塔の三層から見下ろしている。

 

 勝気なお道はんが、美しい僧の了然にもたれて泣いていて、涙にぬれている顔が、菜種の花の露よりも,光って見えている。

 

 私も昭和三十年頃、この塔に登ったことがある。今は国宝なので一般の人は中に入れないが、その時は寺僧が留守だったのか、入り口に鍵もかかっておらず、誰にもとがめられず塔の中に入れた。そして虚子と同じように、狭い塔の木組みをよじ登り、三層まで登って撮ったのが下の写真である。見渡す限り稲刈りの終わった田圃が広がり、遠くに三輪山が霞んでいる。今では家が立て込んで、このような美しい大和国原の景色は、遠い過去のものとなってしまった。

 

   

              斑鳩の 法起寺の搭             塔の三層からの大和国原 昭和30年