黒谷ー会津小鉄 | 閑話休題

黒谷‐会津小

  幕末、賭博は全国を風靡していた。中でも有名なf博徒の侠客は、上州の定忠次水の次江戸の新門辰五京都の津小と言われるが、中でも新門辰五郎は、将軍徳川慶喜に見込まれ、京都上洛に付き添い辣腕を振るった。また会津小鉄は京都守護職松平容保に見込まれ、彼を守護した義侠でもあった。

 

 小(郎(1833~84の生まれは、関東とも大坂とも言われるが、小さい頃母と東海道を物乞いの旅に出る。ところが母は大坂天王寺で雪駄直しの男と一になってしまい、11歳で捨てられたは、一人でに下り、大名中間頭の下で食客なる。そこでえたバクチで、17で手が付けられぬゴロツキになり江を追われた。

  彼はひもの女に春させながら京に流れ下り、公卿屋敷の賭場に餅・などをりに行った傍らバクチをし、当時欲な大物親方を殺して一躍有名になる。その後三河原で野天バクチを始め、張りいに勝ってのし上がる。会津の松平容保に可愛がられ、子分と黒谷に住んだ。このころから会津小鉄と名乗ったものと思われる。

 幕末鳥羽伏見の戦いに会津方は勤皇軍に敗れ、慶喜が江戸帰還のために、容保は戦死者を放棄して江戸へ帰る。小鉄は子分を動員し、会津の戦死者の遺体を黒谷に運ばせ、埋葬し供養した。

 

彼は体は小さいが顔や体は刀傷で醜を極め、右手の小指と指は刀傷で芦のように細り、左手は親指、人差し指以外は無かったという。親方になってからは、時の金で日350円のテラを集め、ゼニの重みで押入れの底がけたという

維新後京都に津小鉄会を結成し、会長となる。子分は2000人もいたという。最後は獄に入り、砒素を飲まされ半身不随になって死んだ。彼が最後に住んだ吉田村の邸は1800坪の広壮な豪邸だったが、官によって取り潰された。

鉄会は今も京都の指定暴力。彼の立派な墓が西雲院にある。浜口雄幸閣の信大臣小泉又次氏も小鉄会の組員で、入墨大臣として有名であった。小泉元首相は祖父と一緒に風呂に入り、祖父の入れ墨をよく洗ったといわれている。現国会議員の進次郎氏はひ孫に当る

 

    

              黒谷の会津藩士の墓地                   西雲院前の会津小鉄の墓

 

 

 

 

 

幕末有名な客は、