閑話休題 -37ページ目

京都黒谷の紫雲石

 京都バスに乗り百万遍手前の、東山東一条で降りると、京都大学のキャンパスが取り囲んでいるが、更に東に進むと吉田神社境内に入る。更にさほど高くはない吉田山頂上に登ると、吉田山公園に三高寮歌の碑が立っている。

           紅もゆる丘の花

           さ緑匂う岸の色

           都の花にうそぶけば

           月こそかかれ吉田山

 人口に膾炙された第三高等学校の寮歌で、戦前帽子は破いて油を塗り、学生服で黒マントに下駄ばき、汚い手拭いを腰にぶら下げて、寮歌を歌って都大路を闊歩する。所謂バンカラの気風が苦学生のシンボルとされ、都人から愛された。懐かしき良き時代であった。

 吉田山を降りると真如堂に着く。真如は悟りのこと、阿弥陀仏が本尊で、都の紅葉の名所でもある。この境内を南の奥に進み、会津墓地を過ぎると、西雲院の紫雲石の堂に着く。

 法然上人が比叡山を降りて、この地の石に休んでおられると、西の雲に紫の瑞雲がたなびいたといわれ、その石は祠を造って大事に保存されている。

 

 その昔、秀吉の朝鮮征伐の折、捕虜となって連れてこられた一人の朝鮮人は、「陰茎小」であっため、召使いとして秀吉の正妻北政所-きたのまんどころーに献上され、後に羽柴下総守に下げられて娘の召使にされた。ところがこの男はまめまめしく娘に仕えていたが、娘は17歳の若さで他界し、この山の下の黒谷に葬られた。男は無常を感じ、出家して各地を修行、のち帰って黒谷の娘の墓前でひたすら南無阿弥陀仏を唱え続けた。その態度に感激した黒谷の和尚は、法然上人の紫雲石の管理を任され、西雲院が出来た。男は宗厳と名乗り、朝鮮人にも慕われて、黒谷には彼らの墓も多いという。

 この紫雲石のある山頂から下の黒谷には墓石が蝟集している。見事な風景である。その墓の中を降ると金戒光明寺に着く。お堂に上がって御仏を拝むと心が落ち着く。京の隠れた散歩道である。

 

 

                                                                                     三高寮歌  紅もゆる・・碑

   

      法然遺跡・紫雲石の堂                  西雲院

   

 

 

 

 

夕顔―源氏物語

 『源氏物語』の光源氏には多くの女が登場する。それぞれに個性があり、現在の女性と共通しているのが面白い。その中でも悲しい運命に生きた夕顔は忘れられない女であろう

  地下鉄と阪急がつながる、四条烏丸駅の地下通路を南の端まで歩き、仏光寺の表示のある出口から地上に出て、寺の中を通り抜けて、堺町通りに出たところが夕顔町で,その一隅に夕顔の墳という碑が立っている。フィクションの女にも墓が造られている。

 

 夕顔は元公家の娘で、光源氏の友達、頭中将-とおのちゅうじょうーの女になり、玉蔓たまかずらという娘まで儲けたが、正妻に知れて京から追い払われる。夕顔は一旦乳母の西の京に移ったが、娘を残して再び京の五条の長屋に仮まいをしていた。その隣が光源氏の乳母の家という、紫式部はうまい設定を作っている。

 その乳母が老衰の病床にあり、見舞いに光源氏が訪れるところから「夕顔」の章が始まる。その時長屋の蔀ーしとみーから女たちが光源氏の車を覗き目する。垣根には夕顔が咲き、光源氏がその花を所望すると童女が扇に花を乗せて持ってくる。歌が添えられていた。

 

   心あてに其れかとぞ見る白露の 光添えたる夕顔の花

 

 この歌をきっかけに、乳母子の惟光ーこれみつーの手引きで、光源氏は身分を隠して夕顔と契る。ところがこの女は体つきほそやかに、おっとりして、いじらしく、男に甘えるタイプで光源氏はのめり込んで行く。ある夜姫を抱えて車に乗り込み、光源氏の知る大きな邸に連れ込み、歓楽を尽くす。その邸とは源融ーみなもとのとおるーの豪壮な河原院であった。

 ところが夜中二人の枕元に、魔性の女が現れて夕顔にとり憑き、途端夕顔は頓死する。近くに住む光源氏の恋人、先皇太子妃の六条御息所ーみやすどころ―の生霊であった。

夜中の事とて源氏は慌てふためくが、やっと明け方惟光が駆けつけ、宮中に知れると厄介なので、惟光は鳥辺野の知り合いの庵室に運び込み、葬儀の手配をする。

 虚脱状態となった光源氏は顔面蒼白となって、人から物の怪ーもののけーが憑いたと噂される。それでも火葬の前の夕顔を一目見たくて、夜中惟光と馬で賀茂の河原伝いに東山に行き対面するが、その帰途失神状態となって落馬する。帰宅後思い病になり、加持の療養

のために北山に隠棲する。

 

 物語はすべてフィクションだが、能の「夕顔」は「夕顔の巻は、殊に勝れて哀れなる」と謡う。また「男の人は夕顔が好きですね」と瀬戸内寂聴さんはいう。

  夕顔の連れ込まれた邸は、六条の加茂川沿いにあった左大臣源融の広壮な別荘で、毎日浪速から海水を運ばせて塩を焼いたといわれ、その跡の高瀬川沿いに小さな碑が立っている。京都観光とは違った、源氏物語のロマンを慕う一日であった。

 

   

          夕顔の墳                 夕顔              この付近源融河原院趾

 

 

 

 

 

 

日本刀発祥の地

 奈良県の東南部に、三重県と接する大宇陀町がある。冬登山で紹介した奈良東部の高見山の北に広がる、3~400mの穏やかな高原で、低い小山があちこちに点在して、日本の田舎の原風景を今も残している。

 太古縄文後期の4000年前まで、奈良盆地は大和湖と呼ばれた湖であった。だから縄文人は北のソフ・東のツゲ・南のウダの高原に住んだが、中でも宇陀は清冽な水のお陰で、木の実・禽獣・川魚に恵まれ、南・東の山から丹が産出、縄文古代人に富を齎した。

 今は近鉄榛原駅周辺に人家が多いが、昔は盆地の中の東西の二つの拠点、松山と古市場に人々の交易のために栄えていた。古市場には宇陀水分神社があり、後ろの山には昔丹を産出していた大和鉱山があった。人家も密集し、古い交易地の面影が残っている。

 

 その古市場から、芳野川に架かる宮前橋を渡り、なだらかな坂道を2キロ程登ると、稲戸という小さな村に辿りつく。そこに八坂神社があり、鳥居前の古井戸に「刀工天国の井」の碑が立っている。ここが日本刀発祥の地とされている。古伝によれば、今から1400年前の文武天皇の大宝年間701~703、宇陀の天国ーアマグニーという者が、自分の銘を持つ日本最初のソリのある鎬造―しのぎづくり―の刀を造って皇室に献上したという。古代の剣は直刀だが、この新しい刀は「手先三分の二を片身に仕上げ、日本刀のように軽くそりを持たせて、先端だけは諸刃の直刀」であったという。

 

 献上された刀は宮中に保管されていたが、、朱雀天皇の時、関東で起こった平将門の乱で活躍した平貞盛に下賜され、代々平家重代の宝刀として相伝されていたが、壇ノ浦の戦いで対馬藩主の手に入り、明治15年宮中に献上され、御物になったといわれている。

 諸刃の剣に比べて三分の二が片身だから、剣としては軽く携帯にはよかったが、恐らく鉄の品質が悪く,実戦には適さなかったかと思える。その鉄が強靭になったのは、中国山地の砂鉄で強靭な日本刀が出来、南北朝時代武士の全国移動に携帯に便利な日本刀が、重い直刀の剣に変わって行ったのであろう。岡山の福岡あたりが主たる生産地であった。

 

 初めて日本刀を造った天国ーアマグニー、彼に続く刀匠も、天座ーアマノザー、天藤ーアマノフジーと、すべて天を名乗っている。アマとは海人の事であろう。というのは稲戸の西と南に接して「和田」「小和田」という村がある。このワダは海霊を神格化したワタツミのワタ、=海であるから、海人が内陸に移住した地に名付けられており、この日本刀は恐らく対馬から宇陀に移住して来た、鉄の鍛造にたけた海士族一派の作であろうと私は考えている。

日本刀の淵源は八世紀初頭に遡り、韓国は自国が発祥と言っているがとんでもない。

 

 この神社から四方を見渡すと、緑の山々が重なって「懐かしさ」と「安らぎ」を覚える日本の原風景を伝えている。それにここの村人は水が最高だという。住みたいような地である。

         日本最初の日本刀のイメージ図  2/3ガ片身でソリあり、先端直刀

 

                稲戸の八幡神社の日本刀発祥の井戸の碑

 

 

 

 

i-i

京都愛宕山

 京都の西北に聳える愛宕山890m。独立峰の堂々たる山容を見せて、「火の要慎」の火の神様として古くから都人に崇められ、今も月参りに登る人がいるほどである。

 私も4~5回は登っているが、秋の紅葉の過ぎたころ、登山道は落ち葉が敷き詰められて、登っていても心もわくわくして来る。また冬はさほど積雪もなく、皆と2回登ったことがある。

 嵐山から清滝行のバスに乗り、表参道から登り始める。黒門を過ぎると神社が見えて、

清滝から2時間30分で頂上の神社に達する。明智光秀が本能寺に攻め寄せる前、この神社で連歌の会を催し、「愛宕百韻」の中のあの有名な一句はよく知られている。、

      

      ときは今天が下しる五月哉

 

 私は68歳の時、登山友だちと木曽御嶽に登ったが、その時友から「大部足が弱りましたね」と言われた。それでも友に梓川の釜トンネルまで送ってもらい、友と別れて上高地・涸沢でテントを張り、翌日好きな北穂高に登ったのが、私の山登りの最後になった。

 だが御嶽山は今までの山とは違い体で感じる霊気に触れた。「よく登らせて頂きました」と思わず心の中で叫んだ。その喜びの冷めやらぬ日に、帰阪して京都嵐山に行った折、以前登った愛宕山を仰いで、「これから毎月登山をしますから、元気をお授け下さい」と願を立てたが、その後急に心臓手術を受ける羽目になり、愛宕山月参りの夢は途絶えた。

 

 

            嵐山渡月橋と愛宕山                     愛宕山冬の山道

            愛宕神社

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

奈良高見山の霧氷

  雪がさして積もらない大和でも、南の吉野山や大峰山は雪が深い。中でも吉野東北部の孤峰、三角錐の美しい高見山(1248m)は見事な霧氷で知られている。

 私はこの雪山に3度登山した。最初は単独で、登山口からl林道の旧伊勢南街道を進み、小峠を過ぎ、その奥の大峠(高見峠)から山頂に直登した。寒い日であったが、空は晴れていて頂上のパノラマが美しい。下りは樹氷の中の平野道分岐への登山道を下山した。2~3度目も同じコースで、友数人を連れて登った。

 大阪界隈で樹氷が見える雪山登山ができる山は数少なく、高見山は大阪から電車・バスのアプローチがよくて、晴れた冬場の土日・祝祭日の山頂神社付近は、雪山を楽しむ男女の賑わう。我々はコッフェルで湯を沸かし、牛乳を暖めてカプチーノのコーヒーを楽しんだ。帰途は榛原の温泉で体を温め、ビールを楽しんだ。懐かしい思い出の山である。

 

         

 

三人の女人

 今日まで長らく生きて来て、いろんな人と交わって来たが、今も私の心に強く残って、忘れがたい三人の女人がいる。

 一人は母の兄嫁である。戦前のお盆には、ご先祖の墓参りと子供の夏休みの遊びを兼て、家を出て独立した男や、他家に嫁いだ娘などが、子供たちをつれて実家に里帰りする習わしがあった。私の母の実家には家族のほかに、集まった男女4人、子供たちが8人が加わり、田舎の広い家の中は、郡鳥が飛び交うような騒然たる騒ぎの中、三度の食事や、子供のおやつ。洗濯など、兄嫁の忙しさは大変で、親たちが帰っても、子供は暑中休暇で居残り、子供たちは遊びに夢中であった。

 そんな毎日多忙な中でも、母の兄嫁は嫌な顔は一切見せず、子供にも平等に優しくもてなしてくれた。当時の写真を見ると、私は小学校入学前の5~6歳くらいであったが、幼い子供心にも、「いい人だなあ」と思った程である。この背のすらりとした兄嫁の一視同仁、観音菩薩のような慈悲の面影を、今も思い出すのである。

 

 もう一人は芸者上がりのお茶屋の女将である。財界のお歴々も集う、その筋では知れたお茶屋に、私は偉い上司に連れられて30歳頃、宴会の末席に連なった。その女将は若い者に向かって、「偉い人はいずれ止めて行かれるが、あんたたち若い人はこれからや。大事にしておかないと。」ともてなしてもらった。小唄を始めて教わったのもこの女将であった。すらりとした美人型で、客人には如才なく接し、何よりも人間にケレン味がなく、誰からも慕われる素晴らしい心の持ち主であった。

 

 最後の方は、これもさる有名なクラブのママである。財界や地元の人たちからは誰彼なく

愛され、このクラブがはゃっているのは全くママの人柄からであろう。性格は上のお茶屋の女将を若くしたような、明るいカラッとした性格で、ある時私はそのお母さんに、「いい娘をお産みやしたね」 といったことを覚えている。女の持つ悪い情念を置き忘れて、生れ育った、女人として徳を持った人で、今も現役である。

 

 

 

 

 

 海竜王寺ー宮古娘

 奈良平城宮に沿って法華寺があり、その隣に海竜王寺がある。今は静かな隠れ寺であるが、その昔いいろな伝承を持った お寺であった。

  下の平城宮の地図を見て頂きたい。縦に伸びる東二坊大路が、一条南大路と交わる所の(〇の部分)で少し曲がっている。整然たる大都市計画を目指した権力者の藤原不比等が、遷都以前からここ建っているこの寺を壊すことを避けたのである。この寺には聖武天皇の生母である、宮古娘が住まわれていたからである。                                          

  飛鳥時代の697年、文武天皇が15歳で即位された時、妃に紀伊朝臣竃門娘と石川朝臣の娘が選ばれた。ところが天皇はこの二人よりも、竃門姫の侍女、2つ年上の宮古姫を愛され、皇子まで生まれてしまった。驚いた文武天皇の乳母は、夫の藤原不比等と相談して、宮古姫を不比等の妃の加茂姫の養女とし、宮古姫を天皇や皇子と隔離して、遠く離れた奈良に寺を建立し、そこに移り住まわせるのである。発掘調査では海竜王寺は飛鳥時代のものと判定されている。かくて宮古姫は生まれて来た子を抱くことも出来ず、泣きわめいて、廃人同様の鬱病になられて行く。

 ところが文武天皇は707年25歳で崩御されると、宮古姫の生んだ首皇子は聖武天皇として即位する。宮古姫は皇太夫人になられたが、寺の一室に籠ったまま人を遠ざけられた。その鬱病を癒すため、唐帰りの玄ぼうー日偏に方ーが伺候するが、ついに二人は愛欲に溺れ、子供を宿してしまった。するとやっと生気を取り戻された姫は、わが子の聖武天皇と37年ぶりに再会され、百官は慶賀したと記されている。

 その生まれた子が善球法師で、興福寺で修行され、光仁天皇に引き立てられて、前出の

秋篠寺の開基となられた。

 宮古姫は754年薨去。藤原不比等は姫の霊を慰めんがため、紀朝臣に命じて宮古姫出身の和歌山御坊に寺を建て供養された。それが安珍清姫の伝説で有名な道成寺である。

 

 海もない奈良に海竜王寺と名付けられたのは、宮古姫が紀州の海人の出身で、母から引き継いだ海竜王の念佛像を日夜拝んでおられたからである。

 

                                               海竜王寺本堂

 

 

 

 

 

 

 

もち花

 大阪も二度雪に見舞われましたが、翌日にはすぐ解けてしまう小雪でした。その中で梅の蕾が膨らみ、気の早い蕾は白い花をつけ始めました。もうすぐ春ですね。今日は陽射しも穏やかで、春の訪れを告げているようです。

 

     もち花の梢や春に手が届き       森川千代

 

 昔の田舎の農家や、都会の老舗の商店、それに色街の家々では玄関やお座敷に、お正月にはもち花を造り、飾っていました。お正月は新春と言われるように、春の入り口で、人々は春を待ち焦がれるシンボルとして、正月の飾り物にもち花を作っていました。このような情緒を愛でるのは日本人だけでしょう。日本っていいなあ。

 今では都会で枝になる柳の木も少なく、餅つきもしないよぅになったので、目にする機会が減って来ました。私は生花店で3本買ってきました。餅ではなく赤白のプラスチック製のもち花でした。それでも日本間は華やかになります。早く本物の春が待ち望まれます。

 

  

 

寒牡丹

 今年も1月20日から寒の入りに入りました。

 大和の二上山の麓、染野の石光寺では、珍しく寒牡丹が見ごろとなります。先代の住職から丹精込めて育てておられて、、寒牡丹は健気にも色鮮やかに、多くの花弁をつけていて、期待していた以上に見事であり、今や大和路の冬の風物詩ともなっているという。

 

    あるだけの襟をかさねて冬牡丹           森川千代

 

 森川千代(1726~46)は、江戸の中期,大和国宇陀榛原福地という所に住んでいた娘で、19歳で奈良に嫁入りした1年後、急逝した女俳人です。遺句集は父が『雪の石刷り』という句集に纏めて、京都の書肆から出版されました。今は東大図書館に一冊しか残っていません。

 寒牡丹は江戸期から栽培されていたようで、あるいはこの句は大和の長谷寺の寒牡丹を詠んだ句かもしません。おそらく彼女15~16歳頃の句と思われます。着物の襟をいくつも重ね着したような、寒牡丹の華麗さをを詠んだ、若い女の感性がうかがえる名句です。

 

  

 

新聞記者

 

 「ふたりの友達がテーブルをはさんで茶を飲んでいる。そのとき往来で時ならぬ騒ぎが起 

  こった。あわれっぽいうめき声や、いきりたった罵声や、やじ馬のどっと笑う声が聞こえ

  てくる。

  「やあ、だれか殴られているぞ」と、友だちのひとりが窓から首をだして言った。

 「罪人かい?人殺しかい?」  ともうひとりが聞いた。

 「いや何をしたにせよ、無法きわまる私 刑 なんか許してはおけないぞ。さあ、ひとつ助太

  刀してやろう。」

 「だが、殴られているのは人殺しじゃないよ」

 「人殺しじゃない?じゃ泥棒か?どっちみち同じだ。やじ馬から救い出してやろう。」

 「いや、泥棒でもない」

 「泥棒じゃないって?じや会計係か、鉄道の従業員か、軍隊の御用商人か、ロシアの文

  芸保護者か、弁護士か、穏健主義の編集者か、社会奉仕の先生か?何はともあれ、助

   けてやろうよ。」

 「いや違う。・・・殴られているのは新聞記者だよ。」

 「新聞記者だって?じゃ、まあ、お茶を飲んでからにしよう。」

                               ツルゲーネフ『散文詩』から

 

  この短文をどう解釈するか。これは人それぞれに任せねばなるまい。

 今度のアメリカ大統領トランプ氏は、就任早々「私とメディアとは戦争状態にある。彼らは地球上でもっとも不誠実な輩だ。」と言っている。