閑話休題 -38ページ目

ほどこし

 

  「大きな町に近い、広い道路を、病みほうけた老人がひとりあるいてゆく。彼はひと足ご 

 とによろめく。やせ細った足は、つまずきながらもつれ、まるで他人の足のように力なく

 重たげに引きずられている。身にまとう服はぼろぼろ。むき出しの頭は胸もとに落ちたま

 ま、すでに力つきたようす。

  老人は道端の石に腰を下ろし、前かがみになって肘にひざを乗せ、両手で顔をおおっ

 た。曲がった指のあいだから、乾いた白い土ぼこりの上に涙が落ち始める。

  彼は昔を思う・・・・。昔はどんなに丈夫で裕福だったことかと。その富を敵味方の見さか

 いもなくふるまったことを。・・・いまはひと切りのパンもない。友はあざける。

  見知らぬ人が通りかかり、「君も世間の慈悲ぶかい人たちに、ほどこしを受けたまえ」と

 言って立ち去った。

  通行人が一人現れた。が冷ややかに顔を向けただけだった。けれどその後ろから、もう

 ひとりの男が来た。――この男は老人にわずかばかりのほどこしを与えた。

  老人はその小銭でパンを買った。――その一切れのパンは不思議に甘かった。――恥

 ずかしさが胸をしめつけるどころか、静かな喜びが涌いてきた」

                                ツルゲーネフ『散文詩』の中から

 

 「実際、身をもちくずして来た老人の、成れのはてを見るほど、ものあわれなものがまたあ

 ろうか。それが女であればなおさらのこと。気品はさらになくなって、もう誰も目につけて

 くれるものもない。自分がよこしまな道を踏んできたことは棚に上げて、ただ世渡りが

 下手で、むだに金を使って来たことばかりを、いつまでもくよくよしているのは、世にも哀れ

 をとどめるもののひとつである」

                               デュマ・フィス『椿姫』から

 

 日本でも中世から戦前まで乞食がどの村でも見られた。昔大阪では四天王寺で参詣者に施しを受けるために群がっていた。戦後は大阪釜ヶ崎のアイリン地区や、住吉区の公園や各地の橋の下に青いテントの仮設住居が見られた。

 人生は生存競争の場であることを教わらずに、わがままいっぱいに、己の欲望に金を使い過ぎた者の辿る道であった。

 それが今日、政府の福祉対策により、乞食は無くなった。有り難い世の中である。

 

 

 

穂積皇子の歌

  珍しく降る雪を眺めながら、万葉の昔の穂積皇子の歌を思い出した。

 

但馬皇女の薨りましし時、穂積皇子冬の日雪降るに、遥かに御墓を見さけまして、悲傷流涕して作りませる歌 

    降る雪はあわにな降りそ吉隠よなばりの 猪飼の丘の寒からまくに    2-203

 

  但馬皇女は天武天皇の皇女で、藤原鎌足の娘氷上娘ひかみのいらつめであったが、幼い15歳の頃母を亡くし独り身となったため、すぐに異母弟の武市皇子のもとに嫁がれた。

 武市皇子は30歳過ぎ、すでに2人の王子の父で、幼いひ弱で勝気な但馬皇女とはそりが合わず、亡き大友皇子の未亡人で、女盛りの十市皇女を愛されていた。それを知った但馬皇女は、同じ年頃の異母弟の穂積皇子に恋された。その不倫の愛は激しかった。

 

     秋の田の穂向ほむきに寄れる片寄に 君に寄るりなむ言痛こちたかりとも    2-114

  後れ居て恋つつあらずば追い及かむ 道の隈廻くまみに標しめへわが背  115

  人言を繁み言痛こちたみ己が世に 未だ渡らぬ朝川渡る                                   116

  言こと繁き里に住まずば朝鳴きし 雁かりにたぐひて行かましものを                 8-1515

 

  最初の歌は,熟穂が片方に傾くように、私も夫よりもあなたに寄りかかりたいわ。と言い、二番目の歌は穂積皇子が志賀の山寺に遣わされた時、貴方が遠くに行ってしまって、後に残って恋い焦がれるなら、貴方を追って行きたいわ。道の曲り角に印をつけおていてて下さいね。三番目の歌は、人の起きない朝未だき、皇女は家を抜け出して穂積皇子の許に逢いに行く。最後の歌は、二人の噂が広がり、こんなうるさい所なら雁になっても逃げだしたいわ、という但馬皇女は夫より穂積皇子に夢中である。

 

  但馬皇女が28歳の時、夫の武市皇子が突然薨ぜられた。未亡人となった後も穂積皇子を慕い続け、奈良遷都2年前の和同元年708、40歳頃藤原京で静かに死んで行かれ、遺体は吉隠の猪飼の丘に葬られた。その年の冬、雪の激しく降る日に、恋人の穂積皇子が、雪の降りしきる猪飼の丘の皇女を偲び、悲傷流涕して詠まれたのが冒頭の歌で、死人をあたかも生きている人のように、寒さに気遣い、思慕を寄せたこの歌は、人々の涙をそそった。

 

 私はある秋の最中猪飼の丘を訪ねた。桜井から長谷寺行きのバスで、途中角柄つのがらというバス停から、険しい山道を登ること1時間余り。山の頂には奈良朝最後の天皇、光仁天皇の母,橡姫(春日宮妃)の立派な御陵があり、その北の丘が猪飼の丘と言われるが、もう辺りには何の手がかりも得られず、空しく紅葉の散りしきる山を降りて来た。万葉かぶれの人は、雪の降る中を穂積皇子の歌を偲びつつ登るのが願いであるという。

 

 日本海のドカ雪

今日は大阪は白銀の朝を迎えました。清純な世界―詩情を覚えます。それは暖かい部屋の窓から見ているからですが、大雪で屋根の雪下ろしや道路の雪掻きとなればお手上げです。

 

 10,000前までの日本列島は日本海がなく、冬のシベリア寒気団がやって来ても、サラサラの雪を降らせるだけで、人間も獣も雪の上を歩いて生きていました。むしろ八ヶ岳高原などは、冬でも禽獣が獲れて、人々がこぞって集まり活気のあふれた地域でした。

 

 ところが9,000前に、沖縄列島に沿って流れていた黒潮が、宮古島あたりから枝分かれし、対馬海峡に流れ込み、対馬暖流となって北陸沿岸を北上し、6,000年前頃には青森まて゜達し、日本海に暖流を齎しました。そのため冬季シベリア寒気団が南下して、日本海の温かい水気を含んだ湿った雪となり、ドカ雪を齎したのです。世界でもこれほどの大雪に毎年見舞われるのは、日本だけです。

  しかし人々はこの過酷な環境に耐え抜きました。このドカ雪は人々に恵みを齎したのです。それは雪解けの清冽な水です。その水によって、素晴らしい米・酒・果物・織物染色などに、超一級品を生み出しました。日本人は素晴らしいですね。

 

利尻岳

 昔、今は廃刊となった山岳雑誌『岳人』に、厳冬の利尻岳(1719m)東壁を単独で登攀し、途中岸壁にロープを張って寝袋でビバークし、翌朝頂上に到達した山男の記録を読んで感激した。

 私はとてもそのまねは出来ないが、一度全山雪に覆われた北海の利尻岳の写真を撮りたいと、1月14日千歳空港に飛んで札幌で一泊、翌朝市内の丘球空港から一番機で石狩平野を見下ろしながら稚内空港に着き、8人乗りの小型プロペラ機に乗り継いで、海面5~600mの上をすれすれを飛んで、利尻空港に到着した。

 空港には宿の娘さんが四輪駆動車を持って迎えに来てくれていた。まだ日も明るいので車で島を一周してもらい、途中利尻岳の全貌が見渡される所で降りて、深い雪原に三脚で

撮ったのが下の写真である。小さな島の中央にそそり立ち、白き神々の座カムイ・シンダラと言われる、荘厳な山容に圧倒され眺め続けた。

 翌日は猛吹雪。テレビの気象画面ではシベリアの寒気団が利尻島から北海道一面覆っていた。そのお陰で昼食は吹雪舞う小さな町の居酒屋で、生簀から取り出したホタテの刺身のおいしかったこと、荒れ狂う北海の海の景色に立ち尽くしたことが強く思い出に残っている。私が50歳の頃のことで、もうこの歳では二度と行けない記念すべき旅となった。

 

 旅に出て取れたての魚の味に出会えることがうれしい。舌が今でも覚えている。利尻のホタテの刺身、函館の居酒屋の烏賊ソーメン、金沢近江市場の小料理屋の寒ブリの塩焼き、別府空港内鮨屋の関サバの刺身、また博多料亭老松の天然フグ料理は天下一品である。

 

 

 

ぬるしべの仙女

 ぬるしべとは漆部のことで、昔漆を各地から集めて、朝廷に貢納していた部族のことで、その棟梁は都にいて各地の部民を統括していた。

 今から1400年昔、難波に都がおかれていた孝徳天皇の時代、奈良の宇陀の山奥、曽爾の(奈良県と三重県の県境)、秋は全山ススキで覆われ、今も観光の名所で人々が押しかける俱留尊山ーぐるそんーの麓に、漆部の民がせっせと漆を集めていた、そこに美しい女がいた。彼女は都にいる漆部の長、漆部造麿ーうるしべのみやっこまろーの妾、すなわち現地妻であった。

 

 その女は「自性ーひととなり風流で、ひとたび笑うと千金の容色あり。七人の子を育てたが貧しくて食に乏しく、それでも毎日沐浴ーもくよく・風呂に入ることして体を清め、日々野に出て薬草を採り、家を清めて琴を弾き、歌う姿は天女のごとくで、ついに仙草を食べて天に飛び去った」                                           『日本霊異記』

 

 平安時代始めの記録だが、当時禽獣も多かった草深い曽爾の山里に、このようにつつましく、優雅な心をもった女が住んでいたとは、心がわくわくして来る。古代の日本にもこういった素晴らしいく、貧なれども風流の心を失わない、うるわしいい女がいたということは、なんともうれしい限りである。

 私は彼女の塚があると聞いて、ある晴れた秋の日に自動車で出かけた。彼女の俤を慕って、古光山の裾野の今井の里を訪ね廻ったが、里人にも忘れ去られており、碑などの痕跡は何一つ残っていなかった。ただ漆の若木が沢山植えられていて、漆の里の復活を目指しているようだった。

 

 

       大和曽爾の元ぬるしべの仙女の住んだ今井の里

 

 なお江戸末期の『大和名所図会」という古書に、ぬるしべの仙女が琴を弾き、子供たちがたわむれている挿絵があるが、どうしてもそのページの転載がきなかった。後日の機会を俟ちたい。

 

 

 

 

 

 

 

成人の日

  1月9日が成人の日。前日8日のテレビは、各地の成人式の映像を伝え、着飾った若くてぴちぴちした女性が登場する。今日は女の盛りの記念日で、十七・八は二度候や」と言われるように、もうこの年ごろは二度とは来ない。

 明治生命の社長となり、名作『大阪の宿』でデ゛ビューした作家の水上滝太郎は、岩波文庫谷崎潤一郎の『吉野葛』の跋文に、『吉野葛』を読みて感ありの文に、

 

  女の一生において、妙齢の頃は、ちょっと位目鼻立ちが悪くても、皮下脂肪が薄皮に

  光沢を加えて、年ころの者に限る美しさを与える。それが男を知り、子供を生み、所帯

  にかまけ、あぶらが抜けてくると、たちまち生まれつきの道具が露骨になって来て、伸

  びていく頃の美しさは、跡形もなくなってしまう。

 

 中には老後まで美しさを保っている人があるが、外国の映画を見ると、歳をとっても上品な女性が登場する。映画だけではなく、ルポルタージュの旅行記録を見ても、年寄りできれいな人を見かける。

 日本の女性の長寿は世界でもトップクラスとはいえ、まだ欧米の女性たちと何か差がある。それは教養の差ではないかと考えたりする。学校で学んでいるようだが、遊んで卒業し、基礎的な日本人としての教養を身につけない女性が多いのではなかろうか。学校教育も片寄ったりして、人間教育がおろそかになっているのように思える。だから卒業したあと

顔などの化粧に凝って、心の化粧 がおろそかになっている。

 大阪市大教授松本徹の王朝譚小説『袈裟の首』に、東京から来た年配の女友だち数人が、京都の『源氏物語』の跡地を巡っている話が出ていて、うらやましく思った。きっと和服がよく似合う、きれいな人ではないかと想像してしまう。

 

 丹頂鶴は、白黒のコントラストも素晴らしく、頭には丸い丹の朱色を頂き、優雅で端正、高貴な姿の上、また空飛ぶ姿は息を止めるほど美しい。創造主の神の絶妙作品です。

 日本列島が好きなのか、江戸時代まで西日本から東北にかけて多く生息し、美しい姿は人々に「鶴は千年」の瑞鳥として愛されて来ました。

 今の大阪湾の浜辺にも居たようで、『万葉集』にも歌われています。

 

 大和恋ひ眼(い)の寝らえぬに情(こころ)なく 渚崎廻(すさきみ)に鶴(たづ)鳴くべしや  71

 

  難波の宮にお供した宮人が海辺に鶴の鳴く声を聞き、故郷の大和を偲んでいる歌です。

 

  ところが戦国時代初め、その肉が珍味だと言って、千利休が貴人の茶会の懐石料理の材料として使い始めてから、将軍や大名らが鶴の捕獲を競い、丹頂鶴は姿を消して行きました。その復活を北海道の農夫の有志が、冬季にトウモロコシなどの餌をやって、鶴の野生の繁殖を助けてくけたお陰で、多くの鶴を幸い今も見られるようになりました。

 

 私はかねて憧れていた丹頂鶴の写真を撮りたくて、冬の北海道に飛びました。札幌から汽車で釧路へ、駅からバスで釧路湿原に向い、鶴の観察できる近くの民宿に泊まりましたが、翌朝目を覚ますと、雑魚寝の蒲団はがら空き。みなさん早起きして撮影場所のカメラの場所取りに出掛けた後でした。 すでにいい場所もなく、大型カメラ(ペンタックス6×4)でとにかく撮影しましたが、鶴の小さな姿しか撮れず、宿で主人から笑われました。そして主人の持っている500ミリの大型望遠レンズを貸りて、翌日撮ったのが下の写真です。

 翌日足を延ばして鶴の野営地を訪ねました。阿寒川の上流で、浅い流れの中で夜を過ごします。野獣の害から逃れ、それに川は雪原よりも冬は暖かく、足の一つを羽に包み、一本足で川中で夜を過ごします。脚の皮は固い角質に覆われて、冷たさも感じないのでしょう。

 

 山は富士、花は桜、鳥は丹頂鶴。いずれも日本のシンボルで、鶴は日本の「国鳥」です。

恵まれた日本列島に住む日本人にとって、誇らしい鳥です。

 

  

 

                                               

 

 

 

 

 

 

 三か月、晴天続きで、春みたいな陽気のよいお正月でした。近年にない温かいお正月は、今年の激動する世界情勢にも穏やかさが戻てくる兆しでしょうか。期待したいです。

 私は2日間、初詣でに明け暮れました。いやどのお宮も長い行列で、皆さん幸せをお祈りしておられました。

 

 それを観て感ずることは、戦後華やかに流行したクリスマスのお祝いは、団塊時代か過ぎてからだんだん下火になり、デパートの宣伝は華やかですが昔のような活気がなく、虚しさが残るようになってきました。

 それに引換えて初詣は依然衰えを見せません。より盛んになって来ているようです。2日は

大阪市内の難波神社(祭神仁徳天皇)、座摩神社(大阪の地主神、もと天満台地にあったのを、大阪城築城とともに西区に遷座)、それに豊国神社(太閤秀吉)の三社めぐりをしました。大阪城には多くの外国人が見学にこられ、豊国神社の私の前にも、三人の中国人の若者が長い行列に加わり,社前でおさい銭をあげ、日本人と同様に手を合わせて参拝していました

何という光景でしょう。

 

 私は豊国神社の奉賛会代表から勧められて、提灯式の灯篭1基を奉納しました。昨日初めて私の名が書かれている提灯を見て、爽やかな気分で大阪城公園を後にしました。

  今日一日、道で出会った人に、神社の場所を訪ねると、みんなが親切に教えてくれました。こんなやさしい人が住む、日本は最高の国です。

謹賀新年

 

  大和の天理市の山際に鎮座する、大和では三輪大社につぐ古い神社です。

 これし私が新年の参拝の時に撮った写真です。この鶏のすがすがしい姿。

 今年もよい年 でありますように!。

 

  

 

年の瀬や

  いよいよ今年も終わりに近づきました。昔若い頃は御座敷で忘年会の毎日でした。高度成長期の懐かしい思い出です。その忘年会で歌うのが、「年の瀬」の小唄でした。

 江戸から昭和まで、江戸深川、柳橋の花街で、年末に三味線を添えて流行ったのが、この歳迎えの小唄です。小唄の文句は粋で、色っぽく、節回しも江戸情緒たっぷりので哀愁を漂わせ、忘年会には欠かされない小唄でした。今夜もどこかで粋人が、酒に酔いながら「あした待たるる宝船」と歌っている事でしょう。

 

    年の瀬や。年の瀬や。水の流れと人の身は、とめてとまらぬいろの道。

   浮世のちりの捨て所。頭巾、羽織を打ち込んで。肌さえ寒き竹売りの、

   あした待たるる宝船。        江戸小唄

 

 

 一方家庭では、お正月を迎えて「蓬莱」をこしらえて新年を迎えます。

 

            蓬莱の山まつりせむ老いの春     蕪村

 

 

 皆さん。よいお正月をお迎え下さい。