閑話休題 -30ページ目

海原にありて歌へる―大木惇夫

  私の生まれた村は、古い時代から交通の要地として栄えたが、明治以降鉄道の発達により、村が主産業として来た運送・廻船業はさびれ、江戸時代の古い街道筋を残す田舎の村になった。その中のある大家が、玄関口の八畳程の土間に書棚をつくり、村一軒だけの小さな本屋を営んでいた。

 昭和16年戦争の始まった年中学生になった私は、その店で初めて買った本が三好達治の『測量船』と、大木惇夫の「海原にありて歌える」の詩集であった。

 二つとも何度も読みふけり、暗唱して、私の若い心を育んでくれた。軍国少年であった私は、大木惇夫の詩に、戦に立ち向かう多感な少年の夢がふくらんだ。

 もうめったに手に入らない詩集なので、私の好きな詩を二編ここに掲げてみよう。

 

        遠征前夜                     戦友別盃の歌                 

     参宿オリオンは肩にかかりて              言うなかれ、君よ,わかれを

      香を焚く南国の夜                      世の常を、また生き死にを

      茫として、こは夢にらじ                   海ばらのはるけき果てに

      パパイヤの白き花ぶさ                   今や、はた何をか言はん

      はた剣のうつつの冴えや                  熱き血を捧ぐる者の

     郷愁は烟けむりのごとく                 大いなる胸を叩けよ

      こおろぎに思ひを堪へて                  満月を盃はいにくだきて

      はるかなりわが指す空は                  暫し、ただ酔ひて勢きはへよ

                                        わが征くはバタビヤの街

                                        君はよくバンドンを突け

                                        この夕べ相離さかるとも

                                        かがやかし南十字を

                                        いつの夜か、また共に見ん

                                        言うなかれ、君よ、わかれを

                                        見よ、空と水うつところ

                                        黙々と雲は行き、雲はゆけるを

 

 私の持っている詩集はざら紙に印刷された、昭和十八年の初版本である。幾たびか引っ越しをして来たが、この詩集だけは私の青春の思い出として、大切に持ち歩いて来た。 なお「戦友別盃の歌」は、森繁久彌か常々愛妾する詩であった。

 

近鉄と阪急。いづれも大阪の二大私鉄の話である。

  近鉄は佐伯勇氏が中興の祖となり、伊勢志摩・名古屋・奈良・吉野・京都線と、近畿の大交通網を造り上げた。阪急は創業者小林一三氏が神戸・京都・宝塚の沿線の住宅開発で、大私鉄に成長した。

 ただ代が変わり、時代が変化すると、線路延伸よりも、副業の百貨店の流通の拡充に重点が置かれるようになった。阪急だけは小林一三の影響からか、企業風土も東京風に染まっていて、関西色は少ない。宝塚歌劇団もそうである。だから営業利益追求を最優先するため、採算の見通せられない分野は、どんどん切り捨てて行く。

 

 明治・大正期の昔の大経営者は、本来の事業の利益追求の外に、社会に文化的貢献することを会社の誇りにしていた。住友は中の島図書館・美術館の新設に協力して、大阪の文化向上に貢献をした。また近鉄は歌舞伎座の誘致に寄与している。それに阿倍野のハルカスでは、人寄せとはいえ、階上の展望台のほか、文化芸術の展示会場に会場スペースを提供して、大阪の文化向上に貢献している。それに反して梅田の阪急は極端で、商業スペース最優先で儲からない文化的事業は拒んでいる。新しく出来る阪神百貨店のビルに、文化の香りを漂わす施設が出来るのだろうか。

 

 近鉄の中興の祖、佐伯勇氏のことだが、私は佐伯という氏の名と、彼の風貌に弘法大師を見る。

下の三人はいずれも讃岐の佐伯氏出身で、三人とも同じような卵型の顔つきである。

 

  

           弘法大師          従弟の円珍ー三井寺開祖         近鉄佐伯会長

 

 どうも日本人の顔つきというよりも、異種人型に近い顔つきである。古代佐伯氏は大伴家の分流とされ武門の兵と言われるが、司馬遼太郎さんの「空海の風景」が指摘されているように、蝦夷の俘囚が

朝廷に収用されて、畿内各地に分置され、中央の佐伯氏の部民となり、佐伯部を名乗った子孫たちで、東北人のたくましい血を受継いでいるように思われる。三人は文化(宗教)と鉄道の異才であった。

 

 

老後の設計

 人間fはいつ死ぬかという事は予見出来ない。いつまで生き続けらるかは「天命」に委ねるしかない。私は定年を過ぎて何年かたった頃、老後老醜をさらさないために、これからの老後の「生き方」の仕分けをしたいと考えた。

 60台、「華老」、華やかに生きる

 70台、「麗老」、麗しく生きる

 80台 「清老」、清らかに生きる

 90台 「真老」、真の老人として生きる

 

 私の計画はほぼ予定通り達成しつつある。そしてもう90台が近づいて来て、最後の真老に近づきつつある。この世に一代限りの生を享けて、最後心豊かに過ごせれば身の上ない喜びだ。

 人間は自然の摂理として、老いては肉体の衰えは如何ともなし難いが、情緒まで共に老いることはない…。心に潤いをなくし、情緒を失った老後は寂しい。人間ではなく生物に化してしまう。いかに其れから脱するかはそれぞれの老人の努力だ。幸い先人の古典や詩書があり、心の洗われるような、よい映画もテレビで鑑賞出来る。

 

 私は「真老」に入る前に、なけなしの金をはたいて家の増築をしている。これが出来れば庭に面した食堂が明るくなり、私の陽溜まりの小部屋も年内に完成する。寒い時外出に差し支える時は、サンルームで読書や好きな録画を楽したいと願っている。「真老」の準備だ。身分不相応な葬儀に金をかけるよりは、残り少ない人生を心豊かにするために金を使おうと思っている。

 

 日暮れは寂しいが楽しい。一生の終わりも寂しいが楽しい。自分の生活を大事にして来た者だけにその美しさは与えられる。―小林勇[夕焼け』 岩波書店元会長

 尊敬する女人―長谷川時雨 はせがわしぐれ

 長谷川時雨(本名安)―もうこの人の名前を知っている人は数少ないだろう。明治12年~昭和16年。

62歳で病没。明治維新早々の東京のど真ん中、日本橋で生まれ、幼い頃の街の様子を描いた「旧聞日本橋」は素晴らしい。

 

 ある歳になると、生まれ育った故郷の子供の頃の記憶をたどって、自分の生い立ちを書いてみたくなる。だが霞がかった幼児期の記憶は、身近な世界でも極めて少ない断片としてしか浮かんでこない。子供の頃の思い出を綴った中勘助の「銀の匙」を、夏目漱石が激賞したというが、この長谷川時雨の「旧聞日本橋」には及ばない。

 子供の時はアンポンタンと言われてからかわれたが、家の周りの小店の様子、表通りの大丸呉服店の中の様子や、子供仲間で「ここはどこの細道だ・・」と囃して遊んだ様子などを記憶をたどって書き綴り、まだお金で物を買うことを知らなかったころ、店の駄菓子を手に取った時、店番していた幼馴染のお其が、「泥棒・泥棒」と騒いだのに、時雨も一緒に泥棒と叫んでいたこと。

 書き出したら切りがないが、明治の初め、100年前の日本橋界隈の町の古い姿を、再び蘇らしてくれて、よくもこんな細事まで覚えておられたものだと感服する。しかも400ページに及ぶ大作である。

 

 またこの人の大作に「近代美人伝」 がある。江戸期にはなかった明治の女性の社会進出で、一世

を風靡した、マダム貞奴、樋口一葉、松井須磨子,平塚雷鳥、モルガンお雪などの18人の女人の伝記を書き綴った、現在でも貴重な作品である。その筆致もすぐれ、幼い頃から感性鋭く、文筆にたけ、それに美人である。明治には素晴らしい女人がいたものだと尊敬する。

 

再生という事

 人間も、動物も、魚も、皆夜になったら寝る。そして朝が来たら元気よく起きて、動き回って食事をし、生をつないで行く。日々循環の再生である。

 

 太陽も地球から一番遠ざかる時を、昔の人は「冬至」と称し、一年の始まりとし、太陽が一番地球に近づく時を夏至とし、その間に春分・秋分の四季を定めた。冬至は地球の再生の日であった、

 太陽の巫女であったヒミコはアマテラスになり、伊勢内宮に祀られて日本人の信仰の原点となっているが、五十鈴川に架かる宇治橋は、冬至の日の出の線に合致し、アマテラスか゛毎年再生され、永遠に生き続けられることを象徴している。

 

 古代人はみな再生を願って、宗教を創造した。NUVA VITA ヌーバービタ。ヌウバーはnew、ビタは

ビタミンの命を指している。この再生思想は古来日本人も憧れ、日本独特の修験道に発展していく。

白衣の死装束で山に入り、険しい山岳を「懺悔懺悔」を唱えて過去を懺悔し、何日も粗食・荒行に堪えて、「六根清浄」を唱えて心と体を鍛え清め、新しく生まれ替わる行をするのである。その結果の象徴が若王子である。

 

 日本の修験道の二大聖地、大峰山と出羽三山。この出羽三山の再生難行は、「秋の峰入り」の行に伝えられている。山に入る行者は一旦「仮葬式」を行い、その後使者を七度半たてて相手に求愛し、

婚約を整えた後は法要(結婚披露宴)が開かれ、男は幣束の梵天(男根の象徴)を奉じ、ほら貝に導かれて下居堂て゛「ア・ウン」の声を発しながら、梵天を神前めがけて突き入れる。これで夫婦和合がなされ、受胎する。そして七日間(昔は75日)出羽三山の行場で修行を行い、最後に三神合祭殿で産声を上げ、羽黒山の石段を一挙に駆け下って、正善院の前の護摩火を飛び越える「出成り」を行って、この世に再生するのである。何百年と続くこの行は、中世の山伏の再生願望の本領を伝えている。

 

                冬至の伊勢宇治橋の朝日の出 

 

 

             出羽三山の「秋の峰入り」

 

 

 

尊敬する女人―白洲正子

 明治の元勲、樺山伯爵の娘として生まれた白洲正子(明治43~平成10年)は、生まれつき聡明、幼くして能を習って一芸に達し、彼女の生涯のバックボーンになった。学習院を出て、趣味は能・古美術・

民芸など日本人の原点に生きた。特に京・滋賀の古寺や古仏を巡り、歴史観に交えられた随筆は、「かくれ里」「近江抄」などの名作になっている。当時の女人としも俊才で、また日本文化の本物志向で多くの人々の憧れを買った。

 

 夫は芦屋市生まれの白洲次郎(明治35年~昭和60年)は、若い頃から自動車を乗りまわし、イギリスに留学中も、派手な遊び手で、留学中吉田茂に愛され、帰郷して正子と結婚する。

 

 自宅は東京郊外の町田市に一山と、その頂上にあった農家の家を買う。家の中の調度は妻の正子の民芸調で整えられ、風雅な住む人の人柄を偲ばせる格調に満ちていた。

 戦時中は広い敷地で農耕に精を出していたが、終戦後に吉田茂に請われて政界入りし、堪能な英、ぬ語と、当時誰もが口にもできなかった日本精神で、GHQと渡り合った、気骨ある人物であった。

 ただ時には正子と衝突したが、正子にはかなわなかったといわれている。正子は自分の出自を誇りにしていたから、いつもそれを持ち出して次郎をやりこめたという。

 

 能を土壌にした民芸・文筆、格調高い趣味生活、食事も庭の野菜や、時に山椒を山盛りにしたご飯を食べたり、明治~平成にかけて、日本の古典的な風雅な一生を生きた私の尊敬する女人であった。

 

              若き日の頃と、老年の白洲正子

 

           白洲次郎・白洲正子夫妻

 

アメリカ映画「ガス燈」

 イングリット・バーグマン主演。霧深いロンドンの邸宅で起こったスリラー物語。

 母に先立たれた娘のポーラは、国際的なオペラ歌手の伯母の下で育てられるが、或る日伯母は謎の死を遂げる―未解決の事件。孤児になったポーラは、伯母の跡を継ぐためイタリアに声楽の勉強に行く。そこで知り合ったピアノ教師シャルル・ボワイエと恋に落ち、声楽の勉強を捨て、男と結婚する。

その時先生に問い詰められて、ある男と恋に落ちたことを告白する。その場面のポーラの言葉。

 

    こんなことははじめてですわ。

    予想もしてなかった。

         何も見えなくなって

    心から愛した音楽さえ

    おっしゃる通り 上の空です

    あまりに幸せで悲劇は理解できません

 

 新婚旅行は夢の内だった。だがロンドンに帰り、伯母の家に落ち着くと、男の態度はがらりと変わる。

プレゼントしたブローチをこっそり抜き取っておきながら、何処に落としたと責めたり、自分の時計を彼女のバックに隠して、時計がないと騒ぎ立て、それをポーラのハンドバックから取り出し、彼女を責める。ポーラーは次第に自信を喪失し、神経病者になって行く。

 夫は毎晩遅く外出する。その後決まって天井から足音が聞こえたり、ガス燈の火が暗くなったりして、ポーラは恐れおののく。実は夫は裏側の空き家から屋根を伝って、家の最上階の物置に忍び込み,伯母の遺品のダイアモンドを探し回っていたのだ。

 一方叔母の絞殺犯人探しに執心していた警部アントンは、彼女の夫の毎夜の外出に不審を抱いて尾行し、ついに夫を捕まえて監獄に送る。やっとポーラは夫の真相をつかんで幕となる。

 

  人間、男も女も青春の一時期、誰もが恋の夢遊病者になる。ポーラと同じように、相手以外何も見えなくなる。周囲が見えず上の空になる。ところが結婚して相手の真相に触れ出すと、夫婦喧嘩が始まり、さらには離婚へと進む。シングルマザーとなる。青春の一時期の恋の失敗が終生に跳ね返る。世界の精神が進歩していてももこの病だけはどうしても無くならない。

 さてこの作品は、霧のロンドンにガス燈が灯る頃と、室内が主たる場面で、白黒の映画が陰翳を与え抒情的な作品に仕上がっている名作である。バーグマンの演技も素晴らしい。

 

  

 

 昨日お彼岸の墓参りの帰途、近鉄布施駅に途中下車し、長らく行かなかった駅(南口)の元禄寿司に立ち寄った。ここが全国はもとより、世界各国にも風靡している回転ずしの総本家である。

店主がアサヒビールの工場見学の際、流れる円形ベルトコンベアーにヒントを得て、 昭和33年、回転ずしを考案し、万博にも出店して人気を博し、昭和51年に新案特特許が切れると、瞬く間に大手資本が進出し、今や日本人にとって、大人も子供もにとっても、身近なお寿司屋さんになっいる。

 

 問題はすしの中身である。元禄寿司は大半@120円だが、魚が大ぶりの肉厚で、とうてい他の店の追随をゆるさない。布施本店はメンツにかけても新鮮で、ボリュームも他社より大きい。

 私も多くの回転ずしに出入りしたが、売り上げ日本一とか、顧客満足時ナンバー1とか新聞に大げさに宣伝する大型店は概してまずい。大起という魚屋の寿司と称する大型店も、開店当初は良かったが一年も経つと儲け主義が目立って、最近魚の切り身が薄いうえに、値段が高い。

 

 食については、昔から「食い倒れ」の大阪と言われて、お好み焼き・焼きそば・串カツ・うどんすき・カップラーメン。大衆的で味にうるさい。そればかりではない。大阪。紀州・瀬戸内の美味しん魚介に恵まれている。大阪人は店構えが京や東京のような角ばって権威を示そうというのではなく、さりげなく街並みに溶け込み、各家で工夫し続けて何代も続けている。食べ物がおいしければ、家構えに頓着なく、人が並ぶまでになる。東京のように「かっこ」をつけない!。いいね!いいね!。

 

 一度は親友たちを連れて行きたいところである。店は狭いが・・・美味しくて、安い。

 

     回転すし元祖の布施駅前の元禄寿司

 

 

建賢門院珠子―たいけんもんいん しょうし たまこ

 京都駅から山陰線に乗って、2つ目の駅が花園駅である。京都でも観光客も少なく、妙心寺・等持院や双ヶ岡など、落ち着いた洛西の風光が楽しめるところである。

 その駅前にひっそりと法金剛院がある。建賢門院珠子の別荘を、寺にしたもので、平安初期の昔は線路を越えて南に広がる広大な敷地であった。大きな池を中心に、離宮の寝殿や堂塔が立ち並び、

落慶法要には鳥羽上皇・崇徳上皇が百官を引き連れて参列され、108人の僧侶の読経は辺りの山々にこだましたという。

 

 珠子(1101~1145)は、徳大寺藤原公実の娘。生まれながらにして美貌で、愛嬌に溢れる類まれな女で、一目ぼれした白河上皇ぱ3歳になった養女を、自分の愛妾の祇園女御の養女にした。後には

かわいい盛りの珠子を皇女にして溺愛、いつも珠子を抱いて就寝されたが初潮を迎えた13歳の時に、56歳の白河上皇に処女を奪われた。彼女の性格は天津奔放で、上皇の外にも藤原秀通、僧増賢の童にも通じたと噂される。のち北面の武士であった佐藤清秀も一目見ただけで激しい恋患いになり、自分の妻子を厭い出家した。かの西行法師である。

  

 上皇は噂を気にし、関白藤原忠実の嫡男、秀通に嫁がされようとするが、噂のために関白が辞退。

自分の孫の鳥羽天皇の中宮とする。天皇16歳、球子18歳。ところが中宮になられてからも、白河上皇は逢引を重ね、ついに上皇の子を出産される。後の崇徳天皇である。

 「叔父子」を産んだいた珠子中宮も、鳥羽天皇はあまりの美しさに惹かれ、中宮との間に後白河天皇を産まれている。この父違いの天皇が戦いを起こすのである。世にいう保元の乱である。後白河天皇側についた平家が勝ち、崇徳天皇側に着いた源氏は敗れ、都を追われる。途中子の頼朝が捕らえられて都に戻され,池の禅尼の請いにより許されて伊豆に流される。

 

 後平家打倒に立ち上がった源頼朝は鎌倉幕府を開く。政治の実権は京の公家から鎌倉の武士の手に移り、王朝政治は武家政治に転換するが、そのきっかけとなったのが建門院球子の不倫であった。

 

 能に「恋の重荷」という名曲がある。庭師の老人が、垣間見た美貌の女御に恋し、女御は錦に包まれた石を担いで庭を廻ったら、姿を見せてやると言われ、老人はその石を担ぎで回るうち息が絶えたという話である。その女御とはこの建門院珠子の事であろう。あわれな話である。

 

池はけん建造当初より小さくなったが、それでも池の蓮の開花するの夏の朝は 観光客が賑っている。

   

 

かつお節と昆布

 今日は9月18日。昨夜から日本列島を暴れまわった台風も一過。今朝から太陽が輝き、爽やかな朝を迎えました。

 それにしても地震・台風・豪雨・火山噴火など、日本列島は地球災害が集中し、大陸の人から見たら大変災害の多い国に見えるのも当然だろう。

 しかし考えてみれば、日本列島は直接太平洋に面していることが、基本的な理由だろう。そのために日本人は、主食のコメが豊かな水に恵まれて育ち、大地は緑に覆われて山の幸多く、また四面を取り巻く大洋から、数多くの旬の魚貝類に恵まれ、火山近くは日本人の大好きな温泉に恵まれている。

 

 私は就寝前、床についてから昆布の二切れを噛んで味わっている。その後はお腹を暖めて寝るために、かつお節と昆布のみそ汁を飲んでいる。この二つを味わうと日本人であったことに幸せを感じる。大豆は里の恵み、かつお節と昆布は海からの贈り物である。

 

 鰹は生魚としては日持ちが悪い。江戸中期、和歌山の漁師が鹿児島南方の海で、かつおの一本釣りで大量のかつおを獲れたが、腐るのを惜しんで、南九州の枕崎に持ち帰り燻製にしたら、その削り節から絶妙の味が出たところから、かつお節が日本料理に華々しく登場した。

 

 更に江戸中期、大型の帆船の登場で、大阪から瀬戸内~日本海まわりの航路が出来て、北前船で北海道の昆布が大坂に持ち込まれ、大阪で選別・加工されて、かつおだしに昆布だしが合わされて、日本料理の基本の味付けが完成した。

 いずれも近世からの産物であるが、南北に長い日本列島が、海から得た贈り物である。遠い南洋で生まれた黒潮が、日本に恵みを齎してくれるのだ。「日本っていいなぁ」