海原にありて歌へる―大木惇夫
私の生まれた村は、古い時代から交通の要地として栄えたが、明治以降鉄道の発達により、村が主産業として来た運送・廻船業はさびれ、江戸時代の古い街道筋を残す田舎の村になった。その中のある大家が、玄関口の八畳程の土間に書棚をつくり、村一軒だけの小さな本屋を営んでいた。
昭和16年戦争の始まった年中学生になった私は、その店で初めて買った本が三好達治の『測量船』と、大木惇夫の「海原にありて歌える」の詩集であった。
二つとも何度も読みふけり、暗唱して、私の若い心を育んでくれた。軍国少年であった私は、大木惇夫の詩に、戦に立ち向かう多感な少年の夢がふくらんだ。
もうめったに手に入らない詩集なので、私の好きな詩を二編ここに掲げてみよう。
遠征前夜 戦友別盃の歌
参宿オリオンは肩にかかりて 言うなかれ、君よ,わかれを
香を焚く南国の夜 世の常を、また生き死にを
茫として、こは夢にらじ 海ばらのはるけき果てに
パパイヤの白き花ぶさ 今や、はた何をか言はん
はた剣のうつつの冴えや 熱き血を捧ぐる者の
郷愁は烟けむりのごとく 大いなる胸を叩けよ
こおろぎに思ひを堪へて 満月を盃はいにくだきて
はるかなりわが指す空は 暫し、ただ酔ひて勢きはへよ
わが征ゆくはバタビヤの街
君はよくバンドンを突け
この夕べ相離さかるとも
かがやかし南十字を
いつの夜か、また共に見ん
言うなかれ、君よ、わかれを
見よ、空と水うつところ
黙々と雲は行き、雲はゆけるを
私の持っている詩集はざら紙に印刷された、昭和十八年の初版本である。幾たびか引っ越しをして来たが、この詩集だけは私の青春の思い出として、大切に持ち歩いて来た。 なお「戦友別盃の歌」は、森繁久彌か常々愛妾する詩であった。