閑話休題 -29ページ目

 奈良雑詠十首

 

  寂しきに酒かたむけばそもはかに 奈良のみほとけ立ちにけるかも           三月堂 

 

  独りして寂しき秋を酔いゆけば まどろみ支うや奈良ぼとけたち              〃

 

  六根の心さわぎを消さむとて 月光菩薩にむかうかなしも                   〃

 

    ほのぼのと心温みに佇みぬ 月光菩薩は去りがたきかな                    〃

 

  眼閉づれば木沓木魚の音聞こゆ 水取の夜の夢近き寺                 二月堂

 

  「南無観」の声明と籠僧の木沓の音 天平の世に触れるよろこび             〃

  

  二巡り三めぐりすれば人ならぬ 阿修羅や六の手も親しみぬ               興福寺

 

  怒り立つおん顔ーかんばせーも秋に来て いろもしづけし伐折羅ばざら―大将     新薬師寺

 

    ひとつこむ二つを翳し三つと払つ 奈良の都の夢の鐘かな                東大寺

 

  一点鐘-いってんしようー池に響きて大仏の 灯影夢にゆるがんとする           〃

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 京都「花の御所」

 現在の京都烏丸今出川交差点、今の同志社大学の烏丸通りを隔てた西の、室町通りまでの一帯に、室町時代足利義満が建てた広大な邸宅、「花の御所」があった。当時町屋はすべて木の板の屋根だったが、「花の御所」は皇居の「御所」や大寺と同じく檜皮葺で、邸内には各武将たちから贈られた、珍石や桜や梅、桃の木が、花時には見事な花の邸となって、「花の御所」と呼ばれ、ここに住んだ足利将軍は室町殿とも呼ばれた。

 義満から数代後の義政の時代、応仁の乱(1467~1477})の時には、後花園上皇や土御門天皇が、御所を逃れてこの「花の御所」が仮御所となり、義政と同居されたこともある。この応仁の乱の時1476年に、西の近隣から火が出て、「花の御所」は類焼してしまって、将軍は他に移られてしまい、跡地は町屋になり、昔の面影はすべて消えてしまった。今は何の痕跡もなく、烏丸通りにある大聖寺の入り口に、碑が立つのみである。

 

 この跡地の一部は同社大学が買い取り、会館などが建てられているが、室町通りに面した大きな敷地に、戦争前に外人教授の宿舎の大きい建物があり、戦争中に学生寮になっていた。私は戦後早々同志社大学予科に入学して、この寮に入居していたが、まもなく米国からの教授が復帰されることになり、私たち寮生は立ち退いて他の下宿に移った。戦後早々で寮はコッペパンの食事が多く栄養失調気味になったが、私にとって青春の一時期、「花の御所」の跡地に住み得たことが今でも懐かしい。

 

   

           「花の御所」の地                  花の御所図              

       大聖寺入り口の跡地の碑

  

 かわいい女の子

 昨日、電車の中で、母子の二人づれを見かけた。子供は6歳位。顔は子供っぽく、品のあるかわいい顔立ちである。母親はあまり似ていない30過ぎの女である。どうして天使のようなこんなかわいい子を産んだのだろう。

 家から駅に向かう途中幼稚園があり、園児がかわいくて、いつも私の顔をほころばせてくれる。しかし高校を過ぎ、大人になり歳をとって行くと、女の顔立ちは平凡になり、品位が落ちて来る。年寄りでも品のある老人を見かけることが少ない。アメリカやヨーロッパの紀行映画を見ていると、上品な老女が沢山出て来る。それに対して東洋系はそういった上品な老女は少ない。なぜだろう。

 

 品性は、生まれつきの先天的なものか、育っていく家庭環境・勉強などの自己研鑽などの後天的なものかどうか、私にはわからないが、老女で品のある顔立ちは、亡くなった地唄舞の武原はんさんだろう。彼女は徳島の遊郭裏の長屋の鋳掛屋の母から生まれている。トンビがタカを産んだのだろうか。はんさんの舞に対する真摯な生活態度、教養を摂取せんとする姿勢。彼女の品のある女らしさは、後天的な品性の積み重ねのように思える。私のメモ書きにある、大原冨枝『海を眺める女』からの抜粋を紹介しよう。

 

  「人生、いい加減に生きていては過去は霧のように消えて行く。そうでない人間だけに過去は堆積して生きている。

  過去というものを縞目ように織り込んで、さらっと生きている女はいいなと思う。過去の苦しかったことも、それが瘤のような塊となって残るのではなしに、一つの縞目のように、光の具合でそれとわかるように織り込んで、さらっと生きているような、そんな女であって欲しい。

  人生はうかうかと生きていては、「過去」さえ残らない。・・何ひとつ生きて来た痕跡がなく、影を失った人間のように,、背後が空白であったとしたら、それは残酷な人生である。

 「過去」という白い航跡を長く曳いて、生きている年輩の女の姿というものに、私は心を惹かれる。愛憎を織りなした紬織のような、手ごたえのある女の過去を、私は愛する。

 

 

 

 

 方丈記のこと

 昔習った鴨長明の『方丈記』の冒頭、覚えていますか。少し長いですが引用します。

 

    ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたる例なし。

  世の中にある人と栖すみかと、またかくのごとし。

   たましきの都のうちに、棟を並べ、甍を争える、高き、賎しき、人々の住まいは、世々を経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋

  ぬれば、昔ありし家はまれなり。或は去年こぞ焼けて今年作れり。或は大家亡びて小家となる。住む人もこれに同じ。所も変わらず、人

  も多かれども、いにしへ見しひとはニ三十人か゛中に、わずかにひとり二人なり。朝あしたに死に、夕べに生まれるならひ、ただ水の泡に

  ぞ似たりれる。

 

  書かれたのは、今から818年前の1212年、鎌倉時代の初期。だが書かれている実相は今も変わらない。

 明治維新で財を成した貴族たちの豪邸は、戦災後、財産税で広大な邸を維持できず分割されて売りに出され、戦後の東京の大家は小家となり、マンションのコンクリート・ジャングルの乱立状態となる

 

 また東京は政治の中心、経済の一極集中により、人口も集まり過ぎて、仕事や文化の集中とは反比例に人間関係は冷たくなる。それだけではない。遺産相続で大家は売られて分割され、だんだん家は小家となる。マンション住まいとなる。

 さらに東京は人が多すぎて、出世する一部の人を除いて、大半は押しつぶされるか、吐き出されてしまう。それがコンビニ強盗になったり、連続殺人のような人間を生み出してしまう。家族で互いに支えあう人間としての務めを壊している。

 核家族化は、先祖の苦労されて築いてこられた財産を小口に分化されて、子孫は先祖の中高層級から低層階級化へと進んで行く。

 

今後の100年間を展望すると、東京は住みにくい都会になるのではなかろうか。

 

 再び言う。汝いずくんぞ田園に帰らざる。子孫のために原点復帰を果たすのだ。田舎ののびのびした、緑あふれる森や林、清い流れの川で、少年時代を過ごすことの出来る子供は幸せだ。田舎こそは子孫に偉大なる人物が輩出する土壌である。明治時代と同じように!。

 

  

 

 紅葉狩り

 いよいよ秋の本番、紅葉の季節を迎えた。

 日本列島は素晴らしい四季の変化、山海の恵みに恵まれて、日本人は四季の変化を楽しみ、春の桜見、秋の紅葉狩りは、日本人の心を捉え、季節を大事に生きる、世界でも珍しい感性豊かな民族である。私の好きな名句。

 

   落花の花に踏み迷う 片野の春の桜狩り  紅葉の錦を着て帰る 嵐の山の秋の暮れ     『太平記』

 

 片野とは枚方市の天の川界隈で、平安時代の箔らの花見や狩猟の御料地であった所。『伊勢物語』にも業平の桜狩にも出て来る。

 紅葉の名所は関西各地にある。京都嵐山のほか、各地の社寺で楓が育てられ、まことに見事な景観を生み出している。春の若葉から始まり、秋の紅葉に終わる樹々の変化は、自然が与えた贈り物である。今まで行った中で京都の嵐山近くの、車折‐くるまざき‐神社界隈の見事な紅葉の並木が圧巻である。

 

 蛙の手の形に似ているので、かえで―楓と名付けられているようだが、クヌギのような木の葉の紅葉は褐色になる。古人はそれを木の花という意味のという日本漢字をあててもみじと呼び、赤い紅葉の紅葉と区別している。この褐色に色ずくクヌギ林の椛の景色は、観光客には不人気だが、縄文人や明治頃までの日本人の山間に暮らす村人は、この実を採取して一年間の食料にしていた。この椛こそ懐かしい日本古代の原風景なのである。この椛の風景は大和の馬見‐うまみ-公園(広陵町)で出会える。紅葉と違って心休まる景色である。是非この風景に浸り、静かに我々日本人の生きて来た原風景を味わってもらいたいと思う。

 

 

 

 

  今から十数年前、2000年に入った頃から、葬式の仕方が大きく変わってしまった。殆ど内輪の家族葬になり、多くの知人に葬儀の連絡もなく、昔からいうと寂しい野辺送り―葬儀車で火葬場に運ばれ、親戚らに見守られて火葬される。

 キリスト教社会では、親戚はもとより知人や村人は、教会でお別れ式に立ち合い、土葬される墓地で祈りを捧げる。その他の国でも村挙げて葬儀を行う習慣が沢山ある。なのに日本だけが至極簡略になりつつある。

 

 日本では葬儀費用が高すぎるのか、私も有名な葬儀場を見て回ったが、小さな家族葬の部屋の簡単な設営でも400万円が最低である。

またお返しの手間も厭うのか、香典などの金品も受け取らないのが一般化してしまった。時勢とはいえ死者には寂しいことだが、昔と違って住まいがマンションになって、十分な古式の葬式が出来なくなったのが、大きな事情であろう。

 

 というわけで、私も見栄を張った葬儀は取りやめ、古式にのっとり亡父母と同じく自宅葬とすることにした。高い会場を借りる必要もない。

葬儀費用を抑えて「生きている最後を心豊かに過ごそう」と、今食堂の拡張・改装と家具・テーブル・椅子を別途発注している。また南側に

面して一畳強の私の「陽だまりの間」のサンルームを造って、歩くのも大儀になった老後には、この間で読書し、撮りためたビデオを見ることを楽しみにしている。そのために葬儀用貯金の大半を使うことにした。世の中の変わりように対処したという事である。

 

 

 

旧制高等学校・ナンバースクール

 戦後進駐軍により、貴族制度の廃止、農地解放、教育改革など、旧体制は改革を余儀なくされたが、それらの中で教育改革だけは、戦後後退した感じがする。

 

 昔と今の高等学校は様変わりで、知識はそれなりに教えているが、記憶式教育や試験などでは、自ら考え、思索する力は鍛えられない。知識は豊富であっても、体力が一級であっても、人間として思想教育が足りないのではなかろうか。大学入試のための勉学詰込みの寺子屋―学習塾が大繁盛である。戦前はこんな学習塾はなかった。高校時代は、一番知識や体力の成長期に当たる。この時期に人間として成長する基礎が形造られる、最も大切な期間である。

 

 昔の第一高校~第八高校まで、ナンバースクールといわれ、またそれに準ずる高等学校は、寮生活を主とし、先輩後輩の絆で社会での人間関係造りを体験させ、真善美の哲学・倫理・美術・文学・音楽など、大人に成長する前の、基礎的な教養を深めることが、三年間の課題であった。

 弊衣破帽は苦学生の象徴として、都人から愛された。学生は特別の待遇を受けられ、男は男らしく、女は女らしく教育され、男女共学などは論外であった。

 

 その世代に生きた者は、素晴らしい歌詩と音曲の「寮歌」で、青春賛歌と未来への希望を抱かせた。青年の若い血を騒がせる歌で、学生たちは放歌して青春の自由の気を養った。そして遊ぶだけではなく勉強した。そして目指す大学に進んで行ったが、高校時代の気風は衰えることなく慕われた。

 

  嗚呼玉杯に花うけて・・  第一高等学校 東京

  天は東北山高く・・     第二高等学校 仙台

  紅萌ゆる丘の花・・      第三高等学校   京都

  北の都に秋たけて     第四高等学校 金沢

  武夫原頭に草萌えて    第五高等学校 熊本

  新潮走る紅の・・      第六高等学校  岡山

  北辰斜めにさすところ   第七高等学校 鹿児島

  伊吹おろしの雪消えて   第八高等学校 名古屋

 

  北辰(北極星)が日本列島の南端、鹿児島を斜めにさすという意味で、鹿児島七高の寮歌であるが,歌詞も素晴らしく、歌の調子も豪快で素晴らしい。五高(熊本)と七高のOBたちが、野球対抗試合をする、「北辰斜めにさすところ」という映画が、三国廉太郎と緒方直人らによって演ぜられ、私も見に行ったが懐かしく感動を呼ぶ映画であった。このような血を沸かせる映画が、テレビにも登場しないのが残念である。

 

 甲子園高校野球の勝者を讃える校歌は、私はなぜか感動を覚えない。血が騒がない。それに比べて、阪神球団の「六甲おろし・・」は血が躍る。あれが昔の寮歌の心を受継いでいる。あの「六甲おろし」があるから、阪神チームの人気が高いのだ。球場でファンは「六甲おろし」を歌い、酔しれるのだ。寮歌の世界である。

 年寄りの世迷言とは思うが、それにしても「寮歌」はいい。寮歌集のテープを時々聞くのが楽しみだ。

 

 

   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

冬の御鍋―縄文の貝塚

 いよいよ寒くなり、とり鍋・肉鍋・海鮮鍋・・・鍋物の季節到来です。

 これは、縄文時代からの日本独特の冬の料理です。

 と言いますのは、下の図で見るように、氷河期が終わった120000年前から、地球は急激な温暖化に向かいました。紀元前4000年頃がピークで、北極の氷が解けて、海水が現在より10m上昇しました。

 この頃、関東平野は内陸の90kmの奥まで奥東京湾が広がり、栃木県藤岡町に大きな貝塚が出来ています。伊勢湾は濃尾平野の奥まで、大阪湾は生駒山麓まで、津軽平野や新潟平野も海でした。勿論瀬戸内には緑に覆われた低地があり、瀬戸内の中央に南北に分水嶺かあり、それを境に川が紀伊水道・豊後水道に分かれて流れていました。そこも海水が上昇して海になり、今日の瀬戸内海が生まれました。分水嶺の所は宇野―高松間の瀬戸大橋になっています。

 

 その海水と川の淡水が交わるところに貝が大量発生し、縄文人はそのシジミ貝に目を付けました。

シジミはいくら食べてもお腹が膨れません。彼らは貝の身を取り出して、汁だけ集めてだし汁に使い、身は乾燥させて干貝にして瓶に入れ、担いで山奥に交換に出かけました。捨てた貝殻は各地で日本独特の貝塚として残っています。

 

 その干貝に水を加えてだしにし、交換して来た獣肉・根菜・野草・鶏肉や野鳥の肉、川魚・海の魚などを鍋に入れ、温かいごちゃ鍋料理が、彼らの毎日のご馳走でした。この栄養満点の料理でした。

 日本人が今でも冬に欠かせられない鍋料理は、コメのない縄文時代の日本人の日常食だったのが、延々と今日の日本人に引き継がれているのです。

                                     

 

 

 

 

「国宝展」縄文火炎式土器と土偶

 先日、旧友の一周忌法要が京都建仁寺僧堂であり、その帰り道に京都国立博物館の「国宝展」を見に出かけた。寒い小雨の降る、しかも薄暗くなった3時過ぎで、空いていると思ったところが、長い行列が出来ていて、吃驚した。会場もガラス窓にはずっと行列。ゆっくり人の後に続いてみていたら、6時間もかかる有様で、私は後方から覗き見しながら、国宝を見て回った。

 

 特に立ちすくんだのは、縄文時代の土器や土偶で、今まで写真では知っていたが、実物を目の当たりに見ると、目が覚めるような感動に襲われた。

 火炎式土器は(下記図版1)、新潟県長岡市馬高から出土したもので、縄文中期ーBC3000年から2000年に作られたものた゛という。壺の上部周辺を粘土で、炎が燃え立つような複雑な模様をめぐらし、縄文人の情念の叫びを見る思いであった。東北の縄文人には、血のねばり濃い、たくましい肉体と精神、装飾過多にも見える心の表現――その流れが祭りの「ねぶた」の山車や、宗形志功の板画の世界に生きている。この火炎式土器は、南方系弥生人とは異世界の風土に生まれた傑作である。現物を見て私は立ち尽くした。

 

 さらに縄文中期と後期に造られた女形土偶{(下記図版⒉ー3) も素晴らしい。これも写真で見るよりも迫力があり、心を動かされた作品である。造ったのは火炎式土器と同じく女であろう。女体の肉体を捨象化して、やや現代アートの作品にも引けを取らない、美的感覚もすぐれた土偶である。

 縄文中期から後期BC3000年から2000年は、前の温暖期が終わり、気候が急低下した時期に当たる。そのためインフルエンザなどの病気が流行って、人々は多く死んで行き、人口が急減した時代に当たり、人々は病と死を恐れて、超自然的な精霊に真剣に祈りを捧げた。この像はそういった当時の人々の祈り――呪術的な、土俗信仰を現したカミの女神であったと思われる。

 

  

戦争文学

 前章、大木惇夫『海原にありて歌へる』を書いたついでに、私の青少年期の血を騒がした、戦争文学に付いて、私の蔵書から振り返ってみたい。今や絶版となった本ばかりだが、私の人生には捨て難い本ばかりである。

   まず田川水泡の「のらくろ」漫画がある。入隊から大尉まで、全八巻がある(戦後復刻版)。小学生の頃父が少年雑誌を買ってくれて、この漫画に夢中になった。その夢が忘れられず、戦後復刻版を全部揃えた。今ではたわいない漫画だと思えるが、少年の頃は雑誌の届くのが楽しかった。

 それに佐藤紅緑の「ああ玉杯に花うけて」。貧しい家庭だが、勉強が好きで、ついに第一高校に入学する、少年の努力を讃えた物語で、当時の少年の心に響いた小説である。

 また山中峯太郎の「敵中横断三百里」は、満州の曠野を、敵情視察に向かった勇敢なる騎兵の物語で、この本も戦時中の少年の心をとらえた小説である。

 

 太平洋戦争に入ると、鹿児島の少年が海軍兵学校に入隊し、開戦直後、真珠湾攻撃に魚雷艇で突入、戦死した若人の生い立ちからの小説、岩田豊雄「海軍」が若人を奮い立たせた。

 「麦と兵隊」を書いた火野葦平の「陸軍」は、小倉の幼児の時、乃木希典隊長に抱かれて、小水を漏らした子供が、父母に支えられて、陸軍士官学校に入り南方方面で活躍する物語で、筆者の絶妙な筆遣いに心打たれる小説である。

 この戦時中に書かれた小説は多く、みなそれぞれ個性派の作者たちによって書かれているが、戦後それらを纏めた「戦争文学全集」が毎日新聞社から、全八巻で出版され、小説は全6巻、45の戦時文学が収録されている。桜井忠温「肉弾」,火野葦平「麦と兵隊」、石川達三「生きている兵隊」丹羽文雄

「海戦」、井伏鱒二「遥拝隊長」などがある。

 

 今やこれらの文学作品は忘れ去られ、消し去ってしまおうという世の中であるが、我々の先人たちは、いかに苦労の中で戦ったという、日本人としての記録は消し去ってよいといものではない。これほどの戦時文学を残した国も世界に例を見ない。長く後世に遺されるべき作品である。