東儀ーとうぎ―家
今音楽家として大活躍の東儀秀樹氏がおられる。宮内省雅楽部出身で、その他ピアノ・ギター・シンセサイダーなど、殆どの楽器をこなすマルチ音楽家である。東儀家は古い家柄で、その歴史は古い。
5世紀前後、泰氏の祖の弓月君が韓半島から120県の百姓を連れて、日本に帰化して来た。総勢18,600人という。その数の真偽はともかく、大量の亡命人である。
彼らはその祖先は秦の始皇帝というが、秦が敗れた後、また魏か燕(北京にいた民族)を滅ぼした時、滅んだ王族や民は朝鮮半島に避難、紀元前108年漢の武帝が朝鮮を植民地にした後は、今のソウル辺りで手工業や交易に携わっていた。
ところが漢の支配が衰えた313年、東北部(満州)にいた高句麗が朝鮮を占領したため、もとのシナ遺民は半島の中央を流れる洛東江に沿って南下、今のシリア・バング゛ラデッシュの難民の如く、南朝鮮に逃げ延びて、その代表の弓月君が応神天皇に頼み込み、大量に日本亡命を果たした。
彼らは織物・鍛冶・酒造り・さらに芸能などの諸技術に優れ、はじめ各地の豪族に接収されていたのを、五世紀後半泰酒君が雄略天皇の許可を得て、姓を「泰氏」として部族を統合させた。
首長の居住地は、酒君は葛城、6世紀大津父や伊呂俱は山城深草、7世紀河勝は京都盆地に移り、
大堰川に堰を儲けて開発、伏見稲荷神社や松尾神社、広隆寺を建て、聖徳太子の側近となった。
ところが蘇我氏が聖徳太子の子孫を滅ぼした時、大使の側近であった河勝も狙われ、播磨の佐越ーさごしーに逃げ、そこで亡くなった。河勝を祀る大避神社や墓所の生島もここにある。
その河勝の子の氏安に三人の子がいて、
一人目は武を伝えて、大和の初瀬川の田原本町に武士団を率い、
二人目は伶人ーれいじんーとなって四天王寺の舞楽を伝え、
三人目は氏安の猿楽を伝えて、能の金春家の祖になったという。
「君が世」を作曲した林広守、宮内省雅楽の東儀家も、その四天王寺伶人の流れに属する。先祖の河勝が聖徳太子野側近であったからその子が聖徳太子創建の四天王の雅楽に仕えたのである。



