閑話休題 -28ページ目

東儀ーとうぎ―家

 今音楽家として大活躍の東儀秀樹氏がおられる。宮内省雅楽部出身で、その他ピアノ・ギター・シンセサイダーなど、殆どの楽器をこなすマルチ音楽家である。東儀家は古い家柄で、その歴史は古い。

 

 5世紀前後、泰氏の祖の弓月君が韓半島から120県の百姓を連れて、日本に帰化して来た。総勢18,600人という。その数の真偽はともかく、大量の亡命人である。

 

 彼らはその祖先は秦の始皇帝というが、秦が敗れた後、また魏か燕(北京にいた民族)を滅ぼした時、滅んだ王族や民は朝鮮半島に避難、紀元前108年漢の武帝が朝鮮を植民地にした後は、今のソウル辺りで手工業や交易に携わっていた。

 ところが漢の支配が衰えた313年、東北部(満州)にいた高句麗が朝鮮を占領したため、もとのシナ遺民は半島の中央を流れる洛東江に沿って南下、今のシリア・バング゛ラデッシュの難民の如く、南朝鮮に逃げ延びて、その代表の弓月君が応神天皇に頼み込み、大量に日本亡命を果たした。

 

 彼らは織物・鍛冶・酒造り・さらに芸能などの諸技術に優れ、はじめ各地の豪族に接収されていたのを、五世紀後半泰酒君が雄略天皇の許可を得て、姓を「泰氏」として部族を統合させた。

 首長の居住地は、酒君は葛城、6世紀大津父伊呂俱は山城深草、7世紀河勝は京都盆地に移り、

大堰川に堰を儲けて開発、伏見稲荷神社や松尾神社、広隆寺を建て、聖徳太子の側近となった。

 

 ところが蘇我氏が聖徳太子の子孫を滅ぼした時、大使の側近であった河勝も狙われ、播磨の佐越ーさごしーに逃げ、そこで亡くなった。河勝を祀る大避神社や墓所の生島もここにある。

 その河勝の子の氏安に三人の子がいて、

  一人目は武を伝えて、大和の初瀬川の田原本町に武士団を率い、

  二人目は伶人ーれいじんーとなって四天王寺の舞楽を伝え、

  三人目は氏安の猿楽を伝えて、能の金春家の祖になったという。

 

 「君が世」を作曲した林広守、宮内省雅楽の東儀家も、その四天王寺伶人の流れに属する。先祖の河勝が聖徳太子野側近であったからその子が聖徳太子創建の四天王の雅楽に仕えたのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 素性法師―すしょうほうし

 

  あらたまの年たちかえる朝ーあしたーより、待たるるものは鶯の声

 

 年賀状に書いたこの歌は、今より1000年ほど前の素性法師の歌である。

 

 奈良時代、ある絶世の美女がいた。百済王の末裔で、日本に人質として河内安宿―あすか―現在の近鉄南大阪線上ノ太子駅付近―に来ていた王子の子孫で、安宿公奈予麻呂の娘、永繼でという女であった。その女に飛びついて結婚したのが藤原鎌足の曽孫、内麻呂で、彼女との間に真夏・冬嗣の二人の男子が生まれ、冬嗣は藤原家主流の北家の祖になる。

 その内麻呂の妻永繼が、美女であるという噂を耳にした桓武天皇は、永継を妃に差し出させ、生まれた男子はすぐに臣籍降下して長峰安世と名乗ったが、その子が僧籍に入ったのが有名な僧遍照で、遍照の子が素性法師なのである。二人とも京の紫野、今の大徳寺の近くにる、雲林院の別当となっている。

 

 大和在原寺において、僧遍照と小野小町との伝説の贈答歌。

   岩の上に旅寝をすればいと寒し 苔の衣を我に貸さなむ      小野小町

   世をそむく苔の衣はただ一着 貸さねば疎しいざ二人寝む     僧遍照  

  

   天津風雲の通い路ふきとじよ 乙女の姿しばしとどめむ       僧遍照  百人一首

 

   見渡せば柳さくらをこきまぜて 都ぞ春の錦なりける         素性法師

   今来むといいしばかりに長月の 有明の月を待ち出づるかな      〃   百人一首

 

             

 

初詣

 日本人として、毎年元旦には初詣は欠かせられない。

  今まで元気な頃は、大阪・京都・奈良・神戸の式内社―平安初期の『延喜式』の「神名帳」に書かれた神社―に順番でお詣りして来た。

 ところが昨年11月に大阪地下鉄の階段で転倒、救急車のお世話になってから、とても遠出は難しくなって来た。そこで近くの天神さんにお詣りすることにした。

 

 幸い元旦は天気が良く、バスで行こうか、歩いて行こうかと思いながら家を出たが、「歩こう」と決めて天神さんに着き、大勢の参拝客の列に並んでお詣りを済ませた。帰りも歩き結局往復1キロ強の道を歩いて帰った。清々しい気分で元旦を終えたことに幸せを感じた。

 

 今年貰った年賀状の、昭和一桁台の同輩は殆ど体の不調を訴えていた。それも大半足腰が弱り歩行がしんどく、家籠りの生活をしているという。私は79歳の時、心臓の大手術をしてもらっが、割合早く退院出来た。お医者さんから「普段の山歩きで足腰が鍛えられていた」からと褒められた。

 若い頃にはスポーツで体を鍛えなかったが、定年退職後自動車を売り、歩く習慣をつけ、特にアルプスはじめ、近畿の主だった山歩きで、青春の運動不足を補ったお陰で、今では同年輩に比べ足腰が丈夫だ。同輩は殆どが車で出かけ、歩くことをしなかった結果、歳をとって足腰が弱って来たのである。

 

 男も女も、若いのも年寄りも、バス停の一つや二つは、歩く習慣をつけることで、老後に足腰が強くなるという、有難い贈り物を授かる。皆歩きましょう。

 

 

 

 

明けましておめでとうございます

 平成30年の新春を迎えました。今年も皆様よい年でありますように。

  私の年賀状を送ります。                                          

ある年の正月

           ある年の正月、上高地の帝国ホテルが正月3ケ日だけ開業していると聞いて、

         年末 梓川の沢渡まで車を走らせ、雪道を歩いて釜トンネルを抜けて上高地 

         のホテルに着き、夜明け前の林道を歩いて、河童橋に三脚を据えて、奥穂高

         の新春の朝焼けを撮ったのがこの写真。

                    その後深い雪道を踏んで穂高神社奥社に初詣後、嘉門次小屋で焼アマメの

         御雑煮を頂き、さらに奥の横尾山荘まで歩いて一泊、冬の上高地を堪能できた

         懐かしい正月の冬旅であった。        

                           

           あらままの年立ちかえる-あした-より

             待たるるものは鶯の声                                                                    素性法師

                       

 

 

 年の瀬

 

   年の瀬や、年の瀬や、水の流れと人の身は、とめてとまらぬ色のみち、浮世の塵の捨所、

   頭巾、羽織を打ち込んで、肌さえ寒き竹売りの、あした待たるる宝船。

 

   色街での忘年会には欠かせられない、江戸小唄である。節回しも本調子、小唄独特のしっとりし

  た味わいに、特に最後の「あした待たるる宝船」は抑揚を揚げ、余韻ある納めをする。

 

   もうお座敷にはご無沙汰の歳だが、元気な頃は、年末の忘年会は大半が御座敷であり、美しい

  芸者に取り囲まれて、賑やかに騒ぎ、この年末締めの「年の瀬」を、芸者の三味線で歌ったことが

  懐かしく思い出される。昔の日本の懐かしい情緒ある風景であった。

 

                                        

 

クリスマス

 冬至の数日後、クリスマスがやってくる。戦後百貨店、商店などが、商品の売上げ増に、クリスマスが利用され、今は無くなったが、ひと昔前にはキャバレーやクラブ、バーなどでは、徹夜の乱痴気騒ぎがあった。キリスト教徒でもない人々とが、西洋の模倣に踊っていたのである。

 

 キリストがこの日に生まれたことは新約聖書には書かれていない。今日の「産経新聞」には、6世紀にローマの神学者、ディオニシウス・エクシグウスが、歴史及び占星術により決めて、紀元年としたという。しかし実際は紀元年より4~7年早いというのが、今日の定説だという。

 クリスマスにはサンタクローズとトナカイとが欠かせられないが、12月に雪が積もり、トナカイのソリが使われるのは、ヨーロッパでは北欧だけで、エレサレムなどでは雪景色は見られない。これは明らかに北欧の新年を祝う冬至祭りをキリスト教社会が受け入れ、日本は戦後クリスマスの模倣が広まった。

 

 日本人は宗教には大らかで、クリスマスを祝った後、新年は神社参拝、お盆には仏教信者になる。  私も戦後一時熱心なキリスト教徒で、礼拝堂で説教したり、教授からキリスト教神学の教授になるよう進められたが、大航海時代キリスト教が世界侵略の手先に使われ、その災いが歴史上はっきりしてきたし、偽善者ぶる厚かましさを嫌い、ついに私はエルサレムからギリシャへと走った。人間謳歌の世界にである。

 

 この歳になると、日本人として受け継がれてきた信仰、神社にお参りすると気分が爽快になる。自然との一体感に神的なものを感じ、日本っていいなあと思って来る。明治維新後、あるアメリカ留学生に外人は、「日本もやがてキリスト教社会になるであろう」と予言する人がいたようだが、日本人のカミへの信仰はどっしりして動かない。偽善者ぶるキリスト教信者は一部である。人生の再出発の結婚式に、教会の牧師に祝福、認知されるという、無信仰者の儀式は悲しいことだと思う。

 

 

 韓国旅行

 朝鮮戦争で疲弊した韓国は、朴大統領の就任後、1965年日韓基本条約が締結されて、日本からの多額の補償と資金援助を、経済復興に注ぎ込んだ結果、韓国の経済は急速に活性化、GNPも拡大、ソウル市内を流れる漢江ーハンガン―に因んで、1970年代「漢江の奇跡」と称えられた。

 日本でも話題になり、韓国への日本企業の進出も盛んになったので、韓国の実情をこの目に見て、私もビジネスの拡大を図ろうと渡韓、ソウルに向かった。1978年、今から40年昔のことである。

 

 建物も近代化されつつあり、韓国色の装飾を除けば日本と変わりがなかった。夜、妓生キーサンパーティにも招かれたが、立膝でサービスする美女に面食らった。

 夜の街を散策したくて、まだ舗装されていない裏通りは道もぬかるんでいた。暗い裏通りに電気の明るいビルの一階に喫茶店を見つけて入った。優に20坪はある店に椅子が詰め込まれて、若者たちで満員であった。その頃は珍しい日本人と、すぐみられて満目の視線を浴びた。

 きれいな娘がおずおずと注文を取りに来た。コーヒーを注文した後、トイレに入ったが、手洗いのコックは横向いたままであった。 そのうち恰幅のある大型の女将らしい女性がやって来た。北からの亡命者だと言っていたが、なかなかお目にかかれないほどの美人で、これからは日本人とも付き合いたいので、日本語を学んでいると言っていた。雑然とした店であったが、日本人が珍しいのか、皆から好意的に迎えられた。

 

 韓国財閥企業訪問したが、2~3社は好意的に会談が進められた。中には非好意的な会社もあったが、それらの中最も紳士的だったのはサムソンであった。その頃まだ繊維が主力で、社長は月に一回東京に飛んで、経営書・技術書を買い込んで、電機産業進出を考えていた。日本では家電業界は競争激化で、人員整理が盛んになり、三洋・ナショナル・シャープなどの技術者をサムソンは大量に雇い入れ、世界的な企業に成長し、日本の業者の商売敵になった。日本の撒いた種である。

 

 日中街を見学して歩いていると、高校生くらいの女の子が私の袖を引いた。遊ぼうというわけだが、関わり合いになるのを恐れて辞退した。いわゆる白昼堂々たる売春である。彼女らには羞恥もなく、金になりさえすればと割り切っている。戦時中金を求めて群がった女どもは、今頃になって、強制連行だと言い張り賠償を求めている。何たる厚顔さだろう。

 

 ソウルを散歩して一番気に入ったのは元王宮跡の公園で、売店で焼酎を買って、寒い冬枯れの景色の中のベンチに座って、その昔の栄華を回想したことが、今も記憶に残っている。

 

 

 

 

 忖度―そんたくーということ

 森友・加計学園問題から、新聞紙上を賑わせ、今年の流行語大賞にもなった忖度という問題。

 諸橋「漢和大辞典」には「人の意中を推し量る」とある。これは人間社会では、生存に必要な潤滑油のごときものである。

 サラリーマンの社会にあっては、社長ほか上司の意向を思い図って仕事をするのが、上下社会での

生き抜く働き方で、それに頓着せず、たとえ優れたアイデアや行動であっても、上司の意向を無視して

反発して行動すれば、会社からはのけ者扱いされる。

 だから忖度とは人間組織の上下社会の潤滑油なのである。だが忖度が過ぎても周囲から煙たがれ、反対に忖度のない人は馬鹿にされて、サラリーマン社会では出世できない。

 

 家庭でもそうである。夫や妻が相手の気持ちを忖度せずに行動すれば、夫婦の溝は深くなる。

家庭での忖度は、夫婦和合の、最も必要な要素であり、潤滑油である。

 すなわち、忖度は性悪説ではなく、性善説なのである。

旧友を悼む

 年の暮れ、喪中はがきが届けられる季節に入った。今年も10枚を超えるだろう。その中の一人に、享年85歳の友の悲報が届いた。滋賀の産で、職を同じくしたのは6ケ月位だったが、ケレン味のない、上からも下からも愛された御仁であった。

 永らく病臥に近いと聞いていたが、西宮の住居を訪ねた人も、人が住んでおらず無人だという。或はとも考えたが、恐らく病院に入院されていることだと思い、連絡の途絶えたまま年末の喪中はがきで、すでに2月に、滋賀の故郷で亡くなられたことが分かった。

 

 一昔前、この君の尊父が無くなられた時、私は名古屋から会葬に出かけたことがあった。冬の伊吹おろしの雪の村道を、彼は白装束、はだしでわらじを履き、父の位牌を捧げて野辺送りをされた。その時の印象が今も残っているが、今度は彼が父の葬儀と同じように、古い田舎の葬儀にのっとって、寒中雪の降りしきる2月の野辺を黄泉の国に旅立たれた。

 

 都会では葬儀は簡単になり、家族葬でひそかに行わるようになった。しかしご先祖から引き継がている田舎の葬儀は、親子の過去・現在・未来の絆を強く意識したもので、人としてこれほど美しいものはない。田舎に故郷を持ち、先祖の墓の傍らに眠る者は幸せだ!

 

 

 

  この間、NHKの番組で、ルーマニアの冬の森の物語「オオカミと羊飼いのホステリナ」という記録映画が放映された。オオカミが今もヨーロッパには生息していて、そのオオカミと羊飼いが共存し、それに羊をガードする牧羊犬の心温まる行動にも感動した。

 森の生態系の頂点にあるオオカミは、明治末期に奈良県の大峰山脈でその最後が確認されてから、

日本では絶滅したが、昔からオオカミにまつわる民話がいろいろ語り継がれている。だがヨーロッパでは、スペインとフランス国境のピレネー山脈には、多くのオオカミが生息していて、冬の降雪期には食べものを求めて、人馬を襲う話が、デフィの『ロビンソンクルーソー』にも出て来る。またオオカミの遠吠えは、自己の存在を示すと共に、仲間との連帯のサインだといわれている。

 

 日本でも平安時代、オオカミが京都市中・内裏にも出没した記録が残されている。延暦21年802には

オオカミが朱雀大路を走っていて殺されたとか、斉衡2年855にはオオカミガ京に入り人を食い殺し、同じように女を襲って三人噛み殺したとか、230年間に12件のオオカミ被害が記録されている。京の北山はオオカミの巣窟であった。 ―平岩米吉 『狼』 より。

 

 オオカミは恐ろしいカミであり、大神として人々は恐れたが、カミとして祀った神社はない。今の人々にはとっくに忘れ去られた恐ろしい獣であるが、ライオンやトラとは違って、なぜか人間との親しみがあるのはどうしたことだろうか。