閑話休題 -27ページ目

万葉の女人7ー菟羅=芦屋処女

  前項の葛飾の真間の女と同じように、二人の男に求婚され、 悩み果てた末死を選んだ処女の話は関西にもある。有名な菟原=芦屋処女である。万葉集の高橋連虫麻呂の長歌9-1809に出て来る。

 

 彼女は8歳のまだ子供の時から、髪が伸びて束ねる頃まで、外には出ずに家に籠っているので、見たいという人が人垣を作って家の前に集まっていたが、その中で血沼壮士ーちぬのをとこと、菟原壮士ーうはらおとこーの二人が、互いに争って求婚し、刀と弓矢で決闘せんとした。その時処女は母に向かって、「私のような者に、二人の立派な男が争うのを見ると、たとえ生きていても結婚出来ません。いっそあの世でお待ちします」と死を選んでしまった。

 その夜、死んだ処女が、血沼壮士の夢に出て来てたので、彼も後を追って自殺し、残った菟原壮士は天を仰ぎ、叫びわめきながら地団駄を踏み、剣をもって後を追った。三人が亡くなった後、親類縁者が集まり、後の世まで語り継ごうと、処女墓と二人の男の墓を造って弔ったという。

 

  芦屋の菟原処女の奥津城ーおくつきーを 行きーくーと見れば音ーねーのみし泣かゆ   9-1810

  墓の上の木の枝なびけり聞きしごと  血沼壮士ーおとこーにし寄りにけらしも        9-1811

 

 菟原は今の芦屋市の海岸地帯、血沼は大阪湾南部和泉地方。二人の男が一人の女を争って決闘する、どこでもある話だが、芦屋乙女は死をもって二人の男に答え、二人の男も女に殉死する・・・

語り継ぐにふさわしい逸話である。

 大和物語や能「求塚」に語り継がれているが、芦屋乙女の墓は阪神電車石津川駅の南にある。

勿論昔のこととて墓の信憑性は分からない。

 

                          乙女塚古墳

 

 

 

 万葉の女人6ー葛飾の真間の手児奈ーてごなー

  その昔、葛飾の真間(市川市)に住んでいた てごな(かわいい女)で、万葉時代すでに有名になっていた女。江戸葛飾の真間に住んでいたが、化粧もせず、髪も梳らず、裸足で歩いて水汲みをしているような飾らない女であったが、笑って立っている顔は花のような美しさで、男たちは立ち去らず見つめ続づけたという。その中の二人から求婚されるが、一人に決められず、それを苦に沼に身を投げて亡くなったという。それが人々の口に広がって有名になった。万葉集には7首も載せられている。

 

  鶏が鳴く 東-あずまーの国に いにとへに ありけること と 今までに 絶えず言ひ来る 葛飾の

  真間の手児奈が 麻衣に 青衿ーくびー着け 直ーひたーさ麻を 裳ーもーには織り着て 髪だにも

  掻きはけづらず 履ーくつーをだに はかず行けども 錦綾の 中につつめる 斎児-いわいごー

  妹ーいもーにしかめや 望月-もちづきーの 満ーたーれる面ーおもーわに 花のごと笑―え―みて 立

  てれば 夏虫の 火に入るがごと 行きかぐれ・・・・              9-1807

 

    葛飾の真間の井を見れば立ちならし 水汲ましけむ手児奈し思ほゆ   9-1808

    葛飾の真間の手児奈良がありしはか 真間の磯辺に波もとどろに    14-3385

    足の音せず行かむ駒もが葛飾の 真間の継橋やまず通はむ       14-3385

    われも見つ人にも告げむ葛飾の 真間の手児奈が奥津城-おくつきー処 3-432

 

  私もこの手児奈の話に魅せられて、50年ほど前に、東京に行ったついでに真間に立ち寄ったが、彼女の井戸と伝わるのは残っていたが、墓は分からず、朱塗りの小さい真間の繼橋を見て帰った。

 

 大正五年から一年間ほど、北原白秋が二度目の妻、江口章子と、新婚生活を葛飾の真間で過している。極貧の生活であった。妻が焚く煙突から煙が出ていたのを見て「紫烟草舎」と名付けた。

 そこへ谷崎潤一郎・吉井勇・長田秀雄の三人が訪ねている。のちに吉井勇が

 

  葛飾の紫烟草舎の夕煙  ひとすじ靡くあわれ一筋

 

 と歌ったのを、棟形志功が板画にして『流離抄』に載せている。詩情あふれる作品である。

 

 葛飾の真間の繼橋吉井勇「葛飾の紫烟草舎・・」の棟形板画

 

 

 

 

 

 

 

 万葉の女人5ースガル乙女

 スガル乙女とは、蜂のように腰が引き締まったスタイルの乙女をいう。

 遠い昔の紀元前591年、シナ揚子江中流の楚の国の王に、霊王という王様がいた。その王は細腰の美女だけしか閨に入れないので、他の宮女たちは細腰になろうとして食事をとらなくなり、飢え死にする者が多く出たという。有名な故事がある。

 

 昔から細越の女は男にもてた。万葉時代にもすごい美女がいた。肩幅もあり乳房も大きいが、何よりもスガル―蜂のように腰の細い乙女で、しかも容姿が端正、花のように微笑んで立っていると、道行く人は自分の行く道を忘れて、乙女の後について彼女の家の前まで来てしまう。

 

  しなが鳥 安房に継ぎたる 梓弓の 周准ーすえーの珠名は 胸別ーみねわけーの 広き我妹ーわぎもー

  細腰の スガルおとめの その姿ーかおーの  端正ーきらきらーしきに 花の如 笑-えーみて立て

  れば 玉鉾ーたまほこーの 道行く人は 己が行く 道を行かずて 呼ばなくに 門に至りぬ・・・

                                                9-1738

  だがこの乙女は、自分の美貌とスタイルに寄ってくる男たちを迷わし、いろいろ男にみだらに振舞っていたということである。

古賀政男

 先日NHKのBS放送で、「昭和の歌人たち―古賀政男」の放映があった。彼の有名な数十曲を、現代を代表する歌手二十人程で、1時間半に亘って歌ったのだが、誰一人私の心を打つ歌手がなかった。

 

 日本には昔から民謡がある。労働歌や子守歌などであるが、いずれも底流に情緒や哀愁が流れ、日本人の心を満たしてきた。この抒情と哀愁の心を、演歌として登場し出したのは大正時代で、現代も子供たちに親しまれている童謡の名曲も、この時代に花咲いた。

 明治の格調ある新体詩に対して、大正の歌詞やメロディには、この民謡の抒情と哀愁の心を引き継いでいる。 古賀政男ー明治34~昭和53ーが育った時代の中心は大正時代である。この時代の人には義理人情と抒情の心がある。北原白秋・谷崎潤一郎・三好達治・吉井勇・堀辰雄、私の好きな森繁久彌も同時代人であった。

 私は昭和初めの生まれだが、職場で指導を受けたた先輩たちは、みな戦争帰りの大正時代人であった。気骨ある古風な明治の男に比べて、ひ弱く情緒的な大正の男たち-大正ロマンの人たちは、敗戦でゼロになった日本経済を、ここまで発展させた力を持っていた。

 

 さて日本の演歌には、抒情と哀愁が秘められている。それぞれの歌曲には歌の心がある。ショパンのピアノを誰が引いてもショパンの心を現さない。ピアニストがショパンの真髄の琴線に触れた時には、聴衆は感情移入されて情感にしびれるのである。

 日本の演歌も同じで、特に古賀政男の歌曲には、大正ロマンに触れる情感を求められる。「悲しい酒」や「影を慕いて」は美空ひばりに及ぶものはいない。「悲しい酒」に彼女は涙を流して歌っている。

「人生の並木道」はデックミネ、「無法松の一生」は村田英雄、「誰か故郷を思わざる」には独特の節回しで魅了される森繁久彌の歌が聞きたい。―もうとても無理だが。

  私が大正時代を恋ふる所以である。

 

 

 

 

万葉の女人4-笠郎女-かさのいらつめー

 万葉女流の歌人中、彼女の恋の歌は、いずれの歌も綿々と恨みや、泣くがごとき哀愁を秘めて歌い上げていて、何人の心を打つ。

 笠氏は岡山県笠岡市を本貫とした名族で、奈良時代朝廷に仕え、万葉集にも優れた歌を遺している

人が数名見られる。笠郎女はその一族の女で、殆どが大伴家持に贈った恋歌である。

 

   わが形見見つつ偲ばせあらたまの 年の緒長くわれも思はむ           4-587

       君に恋ひ甚いたもすべなみ平山ーならやまー 小松が下に立ち嘆くかも  4-593

       夕さればもの思ひ益る-まさるー見し人の 言-ことー問ふ姿面影にして            4-602

    皆人を寝よとの鐘は打つなれど 君をし思へば寝ーいーねかてぬかも             4-607

    相思はぬ人を思ふは大寺の 餓鬼ーがきーの後ーしりへーに額づくがごと        4-608

 

  大伴家持は名門貴族大伴家の嫡男で、天平時代歌詠みの歌人として知られ、彼を慕う女は35人を数える。その中で笠の郎女とは一時恋を交わしたことがあったのだろう。

 彼女は家持に形見(贈り物」)を贈ったりして彼に夢中であった。彼に会いたくて、家持の住む家近くの奈良山に登り、小松の下に佇んで嘆いたり、夕方や、夜に彼を思って寝られずに悶々とするが、いつになっても会ってくれず、やっと彼女は片恋だったことをさとり、相思はない人を恋するのは、お寺に行って仏様を拝まないで、足に踏みにじられている餓鬼を、後ろから拝んでいるようなもので、ばかばかしいったらありゃしないわと家持を責めている。ひたすら愛を求めるいじらしさ、だが男に一向に通じない哀れさに、笠郎女をいとほしく思うのは私だけだろうか。私も彼女が歌った奈良山を彷徨ったが、今はどこか分からなかった。この君に恋いの万葉歌碑は、佐保川に沿った狭岡神社の参道にある。

 

 私はこの歌を口ずさむ度に、北見志保子の「平城山ーならやまー」の歌を思い出す。道ならぬ恋に踏み迷って奈良に来た彼女の脳裏には、この笠郎女の歌が下敷きにあったのだろう。平井康三郎によって古調の曲譜を付けられたこの歌は、昔の女学生が学校で歌う名歌曲の1つであった。

 

   人恋ふは悲しきものか平城山に もとほり来つつたえがたかりき

   いにしえも夫―つま―に恋いつつ越えしたう 平城山の道に涙流しぬ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 万葉の女人3―磐之媛皇后

 厳密にいうと万葉以前の皇后であるが、万葉集には皇后の歌が5首載せられている。いずれも夫である仁徳天皇への激しい恋歌である。一説に後の人の歌を皇后の歌に仮託したともいう

 

  君が行き日―けー長くなりぬ山尋ね 迎へか行かむ待ちにか待たむ         2-85

    かくばかり恋ひつつあらずは高山の 岩根し枕ーまーきて死なましものを     2-86

    ありつつも君をば待たむうちなびく やが黒髪に霜の置くまでに          2-87

    秋の田の穂の上に霧らふ朝霞 いつへの方にわが恋ひやまむ        2-98

 

  これらの歌に見られる執念深いまでの歌から、恋心にも激しい気性が窺われる。後に皇后が留守の間に、天皇が異母妹の八田皇女を宮中に迎え納れられた。これを伝え聞いた皇后は、紀州への旅行先から難波の宮に帰らずに、淀川‣木津川を遡り、山城の筒城宮(京都府京田辺市)に入られ、会いに来た使者の説得にも応ぜず、天皇自らのお迎えにも応ぜず、5年後この宮で薨去され、奈良山に葬られた。磐之姫陵という。

 夫を思う激しい恋心が裏切られた時には、激しい嫉妬が生まれる。そのころ天皇は2~3人の妃をもつのが普通であったが、それでも激しい気性の皇后は、異母妹への浮気を許されなかった。

 筒城宮で薨去される前に、姫が生育った大和葛城の「わが家」の跡を望見するため旅に出られた。

その時の歌が残されているが、死ぬまでに生まれた地を一度目にしたかったのだろう。

 

 姫の御陵は平城宮の北、平城天皇陵の裏に大きな溜め池の氷上池があり、その池の真ん中を長く細い堤の道がついている。奈良の絶好の散歩道である。その道を通り抜けて、左手に曲がると、環濠に囲まれた壮大な御陵がある。初夏には杜若の群生地として奈良時代から名高い所である。

 一方、姫の育った宮跡は、御所市森脇の一言主神社の石段前を右に曲がる小道があり、その所謂葛城古道を登って行くと、綏靖天皇葛城高宮跡の碑があり、その奥に姫が育ったという「宮の芝」の伝承地がある。南大和平野を見下ろす葛城山麓の素晴らしい地で、当時眼下は家々もなく緑の絨毯で、遠くに大和高原から三輪山、南に音羽三山が見渡され、姫ならずとも気宇壮大に育つ環境である。

道を北上すると九品寺に出る。葛城古道のハイライトであり、ぜひ一度行かれることをお勧めする。

 

   

                    磐之姫陵                      姫の育った葛城高宮跡

 

 

 東西の食文化

 昔、東西の食文化のことを書いた本を持っていたが、いつの間にか無くしてしまった。

 日本列島の中央、日本海の糸魚川から南下し、諏訪湖、大井川から静岡に至る、所謂ホッサマグナと言われる地溝帯の東西で、昔から食生活が違い、大井川を越えて互いに嫁入りはしなかったといわれている。嫁入り先での日常の食生活が違い、嫁が困るから互いに結婚を避けたのである。

 

 それはさて置き食生活で東西の顕著な差は、西はうどんに対して、東はソバ、醤油は西が淡口で、

東は濃口、すしは西はお座敷で食べる箱寿司、東は立ったまま食べられる握り寿司。江戸時代に武士階級には寿司は広がらなかった。諸国から働きに来た職人や労働者が、屋台のソバや握り寿司で腹を満たしたのが始まり。上方落語で江戸ではソバを肴に酒を飲んでいる。上方では新鮮な海の魚で酒を飲むのにと、江戸を見下した落語がある。

 

 醤油と言えば西の淡口、ヒガシマル。東は紀州湯浅から進出した銚子のキッコーマン。ところが中央の名古屋ではたまり醤油が美味しい。特に桑名の貝新がシジミを佃煮にする時に出来るたまり醤油は最高である。昔名古屋で勤務したことがあったが、勤めの帰り道に栄と伏見通の路地の、飲み屋街に

小さな居酒屋があった。最後に出る、おばさんが作る貝新のしじみ佃煮とたまり醤油の炊き込みご飯のおにぎりが、天下一品でよく通ったことを思い出す。

 ちょっと値段が張るが、貝新のしじみ佃煮とたまり醤油の、炊き込みご飯のおにぎりが食べたくなって来た。

 

 

 私のカレー

 なぜか急にカレーが食べたくなって造った。丁度親類の者が来ていたので食べてもらった。お世辞無しで美味しいと言ってくれた。私も食べてみたが、深みの味の出たカレーであった。カレーは家の主婦ごとに違う。子供の好きな家庭の味である。さて私のレシピは、

 

 ① フライパンに、みじん切りしたニンニク2片を、オリーブオイルで炒める。

 ② そこに玉ねぎ中1ヶをみじん切りにして、あわせ炒める

 ③ 軽く塩胡椒をした細切れ肉50グラムを入れ、一緒に炒める。

 ④ あまり炒め過ぎない状態で、トマト缶半分と、ローリエ3枚を入れて煮る。

 ➄ 別鍋で茹でておいたジャガイモ・人参・キャベツと、煮汁(汁が多いほどよい)を加えて炊き込む。

 ⑥ そこにコンソメスープの小片6ケを加えて煮込む。

 ⑦ 全体が煮立った時、カレー粉1カップを入れる。市販のカレールーは色も味も濃い過ぎるので使

    わない。SBカレーの黄色い本物のカレーの色である。

 ⑧ スパイスは、コリアンダ―とクミン小さじ半分づつ位。

 ⑨ 最後にリンゴ1ヶ分を摺ってまぜて、煮て出来上がり。これでカレーの辛さが抑えられ、甘みとうま

   みが加えられる。

 

  全体を余り煮すぎて、汁が少なくなっては口が重い。さらっと仕上げた方がよい。

  肉は少なく、野菜のスープをメインにするとおいしい。スパイスも別に無くてもよい。

 

万葉の女人2-泊瀬の女

 前回奈良盆地の東南、泊瀬(長谷)の但馬皇女のことを書いたついでに、万葉集に遺された泊瀬の女について書いてみよう。

 泊瀬は大和川の上流で、それ以上谷や石が多くて船は遡れない。三輪の交易地を目指して、大和川を遡て来た舟は、三輪山の南の瀬に泊まるので泊瀬とよばれ、初瀬とも長谷とも書く。また始めて天下を統一された雄略天皇の泊瀬朝倉宮が置かれたところでもある。

 ここからは谷道が伊勢街道に通じていて、関東との出入り口に当たる所から、万葉時代には川沿いの街道には多くの人が住んでいた。この道は豊泊瀬路ーとよはつせじーと呼ばれ、丸い川石が敷かれていて滑りやすい道だったという。万葉集にも40首以上の歌が残されている。それも恋の歌が多い。

 

  こもりくの豊泊瀬路は常滑-とこなめーの 恐きーかしこきー道ぞ恋らくはゆめ   11-2511

  

  豊泊瀬路はいつも滑りやすい恐ろしい道ですから。私との恋に気をとられて、すべって怪我をしないようにお帰りなさいよ。妻問して朝帰りする男に贈った泊瀬女の歌である。それでも暗い夜道を何人もこの道を女のもとに通った。

 

  泊瀬川夕渡り来て吾妹子ーわぎもこーが 家の門ーかなとーに近づきにけり      9-1775

     隠口ーこもりくーの泊瀬小國-おくにーに妻しあれば 石は踏めどもなおし来にけり 13-3311

 

  当時、女の家に通うには―夜這い結婚ーは、相手の両親の承諾が絶対条件であった。それがない秘密の妻問いは制裁を受け、時には傷害事件ともなった。それでも親に内緒の恋愛はあった。

 

  事しあれば小泊瀬山の岩城-いわきーにも 隠ーこもーらば共にな思いそわが背   16-3806

 

  ある男女が恋に落ちた。女は父母に知らせてないので、男は女の親から殺されることを恐れた時、

女は「親に知れて反対されたら、一緒に死んで小泊瀬山の岩城(墓)に入りましょうよ。何もくよくよしないで。あなた!」若いのに度胸の据わった泊瀬乙女の歌である。 一方またこんな歌もある。

 

  泊瀬川速み速瀬-はやせーをすくいあげて 飽かずや妹と問ひし君はも              11-2706

 

  泊瀬川の流れの速い所の、きれいな水を手で救い上げ、私に飲ませてくれてれて、「もっと欲しくないかね、お前」と言ってくれた、ああ、あの優しい方よ!初恋に胸躍らせる泊瀬乙女の歌である。

 

   

    豊泊瀬路―勿論道は広げられている              泊瀬川(大和川上流)

 

 

 

 

 

 

 

 

 万葉の女人1 但馬皇女たじまのひめみこ

 いよいよ本格的な雪の季節に入りました。日本海とは山々で遮られている奈良は、大雪に逢うのは珍しく、万葉集でも奈良の雪の歌は少ない。それで゛も吉野や三輪から東国に抜ける泊瀬谷は、風が抜きぬける谷間だけに、雪深い地で゜あった。その泊瀬の奥、吉隠ーよなばりーには、読む者の涙を誘って止まない穂積皇子の歌がある。

 

    降る雪はあわにな降りそ吉隠の 猪飼の丘の寒からまくに   万葉集2-203

 

  恋人の但馬皇女が薨かりし時、冬の日の雪の降るに、遥かに皇女の御墓を見さけまして、悲傷流涕ひしょうりゅうていして詠まれた歌という。

  但馬皇女は天武天皇と藤原鎌足の娘、氷上娘ーひかみのいらつめーとの間に生まれた皇女だが、15歳の時母を亡くし独り身となったためにすぐ異母兄の高市ーたけちー皇子に嫁がれたが、皇子は30歳を過ぎ゛、既に2人の子持ちで、年下の但馬皇女はもの足らず、異母姉で、大友皇子の未亡人であった女ざかりの十市皇女を愛しておられたため、但馬皇女は同じ年ごろの異母弟の但馬皇子を慕い、皇女は道ならぬ恋に走ってしまわれた。彼女の皇子を恋ふる歌は激しすぎる。

 

   秋の田の穂向きに寄れる片寄りに 君に寄りなな言痛-こちたーかりとも    2-114

        穂積の皇子が近江に遣わされた時、                         2-115

   後れ居て恋つつあらずば追ひ及ーしーかむ  道の隈廻-くまみーに標結へーしめなゆへーわが背

      人言を繁み言痛-こちたーみおのが世に 未だ渡らぬ朝川渡る          2-116

      言繁き里に住まずば今朝鳴きし 雁にたぐひて行かましものを              8-1515

 

 秋の実りの穂が垂れるように、夫より穂積皇子に寄りかかりたいわ、世間の噂がやかましかっても。

 貴方が旅に出られ、後に残って恋いつつあるよりも、貴方を追って行きたいわ、道の曲り角に印をつけて下さいね。ここでは皇子を「わが背=夫」と詠んでいる。人言がうるさいけれど、朝まだき起き出して、穂積皇子に逢いに朝川を渡って行きます。こんなうるさい所なら、雁になっても逃げて行きたいわ。

 

 その但馬皇女は、夫の武市皇子が薨去された後、奈良遷都2年前、藤原京で亡くなられた。享年40

歳頃と言われている。その年の冬、雪の激しく降る時に、かっての恋人の穂積皇子が、雪の降り積もる泊瀬の猪飼の丘に眠る皇女を偲び、皇女が寒さに震えないように、雪よはげしく降ってくれるなと、悲痛流涕して詠まれたのが冒頭の歌で、我々の情感を揺すぶって止まない歌である。

 

 この猪飼の丘の但馬皇女の御墓は今はどこか分からない。近鉄桜井駅から出る長谷寺行きのバスの角柄で降りて、激しい急坂の林間を登った所に、春日宮妃陵がある。志貴皇子の妃で光仁天皇の

御母である。この御陵の辺りが猪飼の丘と言われるが、今皇女の墓は不明である。

 私は秋にこの御陵に詣でたことがあるが、万葉かぶれの者は、雪の降る日を待ってこの猪飼の丘に登り、穂積皇子の悲痛の歌を偲ぶのが願いであるという。もう1300年も経っているというのに、何という歌の魔力なのだろうか。

 

                              白壁皇子( 光仁天皇)妃の泊瀬猪飼の丘の御陵