閑話休題 -26ページ目

 北大路魯山人の皿

 もう60年以上昔の話である。当時私は26歳の青春独身時代。ツルゲーネフの「あいびき」に出て来る

初秋の樺林の情景や、それに刺激されたと思う国木田独歩の「武蔵野」の描写に憧れて、その武蔵野を一遍見たくて、一人でSLの夜汽車に揺られて、大阪駅から東京に向かった。

 

 初めに井之頭公園に向かった。まだあたりには楢の類の落葉広葉樹の平坦な林が残っていた。

次いで中野駅に向かった。そこもかなりの武蔵野が広がっていた。

 関西は里山の森が多いし、海岸の防風林の松林があるが、詩情を呼ぶ風景ではない。武蔵野の場合、冬はことごとく落葉し、春は滴るばかりの新緑に包まれ、朝も、昼間も、夕暮れ時も、晴れた時も、時雨の降る時も、その中に鳥のさえずりを聴きながら、続く林間の小道を逍遥する。林の仲に畑があり、農家があり、鶏が鳴いている。武蔵野は牧歌的で、詩情に溢れる風景であった。今では開発が進み、その風光は様変わりしていると思う。

 

 職場は忙しいのですぐ帰りり支度を始め、何か土産をと高島屋百貨店に入った。折から北大路魯山人の個展をやっていた。その中から私は黄色の釉薬の中に織部風の緑をあしらった丸皿5組買った。当時月給が1万円前後の時代で、皿は1,500円であった。

 ところが彼の陶器は硬質の陶器ではなく、民芸風の焼物であったから壊れやすく、その後何回もの転勤引っ越しで、その中の2枚がひび割れてしまった。当時売りに出されていた凝固剤で繕ってみたが、割れたヒビは覆い隠せない。大阪の竹葉亭の御主人が、私の所にもって来られたら、専門の業者に頼めば本来の皿に蘇りますよと言って頂いたが、そのままになった。

 しかし名皿とは言え、5枚完璧でないと所蔵する意味はないと、家に来た骨董屋に見せると、450,000

で引き取ってくれた。完全に修復すれば好事家に倍に売れるのだろうか。

 私にとってはかない魯山人の皿であった。

 

 

 

木に花咲き・・・

 

  木に花咲き君わが妻とならむ日の 四月なかなか遠くもあるかな  前田夕暮

 

  旧制高校の文学の授業に、ハイカラで粋な文学の教授が、美しい声でこの歌を朗詠された。独特の節回しである。学校時代の大半の授業は社会に入ってから忘れてしまったが、この先生の時間は今も忘れがたく残っている。

   その時は私も若かった。まだ女性との交友などは軟派の男のすることで、女性との交際は風紀を乱すものとされていた。だからこの時代の若者は男女とも純情で、このような大正時代の前田夕暮の歌は、新鮮な憧れであった。

 時代が過ぎ、男女共学の世になってから男女の間が近くなり、男女間の恋は大正時代とは新鮮さが失われたのではないかと、考えたりする。簡単に愛し合い、簡単に分かれてしまう。戦後離婚が流行り、時にはシングルマザーとなって、生涯に禍根を残すことになる。

 やはり昔がよい。女は外に働きに出るのは下層階級で、結婚したら女は家で家事をこなし、自分の手で子育てをする。幼稚園や保育所もなかったが、子供は元気に外で遊びまわって大きくなる。その人たちが戦後の復興を担って、今日の日本が築かれたのである。

 j前田夕暮れにはもう一つ有名な歌がある。

 

  向日葵は金の油を身に浴びて ゆらりと高し日の小ささよ

 

          

                                  前田夕暮

 

 

 


 

 

 

 

 私の中学校時代、戦争が始まった。

 食べ物もだんだん無くなって行き、それでも一生懸命勉強をした。そして試験が済むと、村の小さな本屋に本を買いに出かけた。その時買った詩集に三好達治の「測量船」があった。戦時中の事とて、

紙質も悪かったが、私は愛読した。

 

  春の岬旅の終わりの鴎どり 泣きつつ遠く去りにけるかも

 

 に始まり、乳母車、甍の上などの抒情的な詩は、幼い少年にとっては新鮮な驚きであった。それ以来三好達治がこの春の岬を詠んだ場所を訪ねて見たいと思うようになった。その一つが彼が戦時中疎開していた越前梅浦であった。その梅浦に私は旅に出た。

 

                    梅浦

   その海岸に向かうバスは山深い峠を三つ越えた。杉木立は驟雨にけぶる。ねむの木には

  薄紅色の花が・・・。山百合とあじさいの花が季節を告げる。山間の空はにぶい銀色だ。

  バスは海に突き当り、そこには小さな漁船がひしめいている港が現れる。

   北国のものがなしい海――私は詩人の歌を想い出して、旅情をなぐさめる。

   夜、強い光を振りかざしながら、漁船が沖へ出て行く。縹渺たる漆黒の世界に、その光だけが

  夢幻を伝える。そして私はその中で夢をもとめる。

六口島花壇」懐古

 倉敷市の下津井港から、手漕ぎの渡し舟に乗って30分ほどで、瀬戸内でも比較的大きな島に着く。

岡山の豪商が島全部を買い取って別荘にしていたが、戦後料亭「六口島花壇」として営業されていた。

何かの雑誌で知って、この料亭に泊まりたくなって出掛けた。今から50年程昔の話である。

 

 下津井湊から小型の手漕ぎ舟に乗って島に着くが、桟橋はない。舟はそのままガリガリと音を立てて砂浜に乗り上げる。乗客は舳先から渚に飛び降りる。無人島に着いた喜びを感じる。

 料亭は島の中腹にあって瀟洒な建物で、前の広い芝生の庭からは、対岸の四国の山脈が遠望され、

眼前は瀬戸内の島々が点在し、その島影を縫って大小の舟が光を投げかけながら、夜の海を行き来している。陽が落ちると幻想的な視界が広がり、誰にも詩人的感慨を与えてくれる島であった。

 だが今ホームページで当ってみると、「六口島花壇」は既に廃業されていて、倒壊寸前の廃墟の建物だけが写っていた。華やかなりし昔を想い出して、私は懐かしさに泪がこぼれた。

 

   なぜか島の日落ちは速い

   島々は既に黝ずみ

   暮れなずむ空と海とが

   おぼろげに瀬戸の陰翳を支えている

 

   墨絵のような島の夜

   静寂に潮騒がさわぎ

   漁火が波間にただようーそして

   光を岸まで投げかけて船が島をよぎる

 

   夜の海が全身の肌に沁みる

   渚から「瀬戸の花嫁」の唄が漂う

   六口島のこの華麗なる情景よ

   われ酔いしれて夜に沈まん

   

    

                      在りし日の料亭六口島花壇と船着き場しの渚

 

宝満山

 福岡大宰府の東北に、きれいな甘南備型の宝満山829mがあり、昔から信仰の山として親しまれ、山をご神体とする「竈門神社」がある。 中世は修験道で栄えたが、今は一般客の手近なハイキングコースの山となっている。

 私も博多在住の折、春夏秋冬よく皆と登った。その時の歌が3首残っている。

 

  豊満のかもしか新道岩根みち 山けわしけどこころさやけし

  汗さわに雪踏み分けて頂きに 登れば指呼に玄海も見ゆ

  豊満の桔梗ケ原の大山桃 萌え立つ葉末に春雨流る

 

  特に今も印象に残っているのは、冬登山で滝の水が玄海おろしに凍りつき、大きな氷の塊となってぶら下がっていたのを、石を何回も投げつけて、落ちて来た氷の塊を新聞紙に包んで持ち帰り、ウイスキーのロック割りにしたが、その味の美味しかったこと。

 それに宝満山では天然わさび場がある。玄海からの雨風のお陰で冷たい清冽な小川に生えている。

同じようなわさび田は西の背振山にもある。ここの水も美味しい。太閤秀吉も朝鮮征伐の際にも、お茶の水に運ばせたと言われており、いまでも茶人に親しまれている。

 この頃、博多湾沿岸には波に千切られたワカメが岸に打ち上げられる。拾って来て茹でると茶色のワカメが、目の覚めるような緑に変色する。美味しい。

 大都会の近郊にこんな自然が残る博多、万歳!。

 

 

 

 

万葉の女人ー9(終)

 まず初めに初恋に酔う乙女の歌である。 

 

   わが背子にわが恋ふらくは奥山の 馬酔ーあしびーの花のいま盛りなり   10-1903

 「わか゜」を繰り返し、奥山の馬酔木が、白いかわいい花を一杯つけて花盛りであるように、私の貴方への初恋は、今はち切れそうに花盛りなのです。いじらしくも、ひたむきな万葉乙女の歌で、万葉集を代表する歌の一つに数えられている。その女が人妻になると、

 

     夕さらば君に会はむと思へこそ 日の暮るらくも嬉しかりけれ     12-2922

 夕べになると男が泊まりにやって来てくれる。日が暮れるのも嬉しいものだ。待ち遠しいわ。太昔の男が女の家を訪れる、妻問い婚の女の歌である。同じように旅に出た夫を待つ歌がある。

 

   他国ひとくにーは住み悪―あーしとぞいふ速すみやけく 早帰りませ恋ひ死なむとに   15-3748

     わが背子が帰り来まさむ時のため 命残さむ忘れたまふな       15-2774

 

  ところが来るといった夜に、待てども来ない男を恨む女の歌。

 

 わが背子が来むと語りし夜は過ぎぬ しえやさらさらしこり来めやも

「しえや」はエーイ。もういくら待ってもやってくることはないだろう。捨て鉢な女の気持ちがにじんでいる歌である。またこんな歌もある。

 

     ちはやぶる神の社し無かりせば 春日の野辺に粟-あわー蒔かましを    3-404

 妻を持つ佐伯赤麻呂に恋した娘子の歌で、春日野の神の社(相手の女のこと)がなければ、春日の野辺に貴方と一緒に、粟(会うにかける)を蒔いていたでしょうに。残念だわ。

 

 万葉の昔の女にも、今と変わらぬ女の性-さがーが出ている。

 

 

 端唄「梅は咲いたか、桜はまだかいな」

 きのうの雨で、庭の白梅の花もかなり散りました。

 この2~3月の季節、お座敷で歌われる「梅は咲いたか、桜はまだかいな・・」の端唄があり、三味線に合わせて、よくこの端唄を聞かされたものです。

 

  梅は咲いたか 

  桜はまだかいな

  柳アなよなよ風次第

  山吹ア浮気で色ばっかり

  ションガイナ

  

 自分も歌ったのですが、なぜ山吹が浮気なのか分からずに歌っていました。この端唄は、花柳界の芸妓のことを歌った歌だという事をやっと教えられました。

 梅の花はまだ初々しい若い芸子、桜は一人前になった芸妓、柳はゆらゆらして移り気の多い芸妓、山吹は花の色ばっかりで、実を結ばない浮気者の芸妓。

 なるほどそういわれれば、梅が咲いた頃に口ずさんでいたこの歌、そうだったのですか。

 野蒜ーのびる

 いよいよ暖かくなったので、庭の掃除をしていましたら、いつか近くの道路わきから移植した「のびる」が、青い茎を沢山出していました。

 春を告げる野蒜。小さなネギのような茎がはえ、抜くと茎下の白い球根がちぎれるので、スコップで掘り返し、一握りの野蒜を集めました。

 それを丁寧に洗って雑物を取り除き、軽く茹でて、白味噌・合わせ味噌・砂糖・酢を併せ、酢味噌にして頂きました。球根は歯でかむとピチィと音を立て、何とも言えない美味しい味です。

 野蒜は田舎に行けば、道路脇・田圃の畔・土手などにいっぱい生えている、雑草みたいな春の山菜です。今では殆どの人は見向きもしませんが、昔の日本人は、蕗のとうと同じ春の山菜として親しんできました。

 日本人の春の旬の食材で、お陰で一足早い春の味を楽しみました。

 

春一番

 3月1日、季節の巡りの春一番が吹いて、長かった冬も遠ざかって行きます。

 春先に西シナ海から吹き寄せる南風(はえ)を、玄界灘の漁師は春の訪れを告げるので「春一番」と名付けたという事ですー西日本新聞。

 この「はえ」は船乗りにとって怖い風で、船の横原に吹き寄せるので転覆することが多いのです。

かの元寇でシナ・高麗の船がほとんど沈んだのも、この「はえ」のためだと言われています。。

 季節は着実にやってきます。これからは春雨ごとに春が到来し、黄砂で春が終わります。

 

 博多では室見川の白魚の料理が始まります。それに玄海の魚は大阪・東京などに送るられますが、

せりに間に合わない地先の魚は市内の柳町市場や西陣の魚屋に並びます。新しくて、美味しくて、安くて、博多ほど近海の魚に恵まれたところはないです。

 春一番が吹いて、地先の魚が出回る頃、博多暮らしの昔がを懐かしいです。

 

 

 

 万葉の女人8ー夫をいたわる人妻

 

  つぎねふ 山城路を 人夫ーひとつまーの 馬より行くに 己夫-おのづまーし 歩-かちーより行けば 

  見るごとに 音ーねーのみし泣かゆ  そこ思ふに 心し痛し たらちねの 母が形見と わが持てる

  真澄鏡-ますかがみーに 蜻蛉領巾-あきつひれー 負ひ並め持ちて 馬買へわが夫ーせー

                                                                                          13-3314

    泉川渡瀬-わたりせー深みわが夫子-せこーが 旅行き衣ひづちなむかし  13-3315

 

  山城に出掛けるのに、人の夫が馬で行くのに、私の夫は歩いて行くので、見るたびに泣けてくる。

それを思うと心が痛い。私が母の形見として持っている、澄んだ鏡にトンボの羽のような軽いスカーフを売って、馬を買って下さいよ。あなた。

  泉川(木津川)の渡し場の瀬が深いので、あの方の旅の衣が濡れてしまうだろうか。

 

  夫を思う人妻の女心が沁みて来る歌である。こんな妻を持てば、夫も嬉しいだろうな。