密教(金剛乗)の修行と思想
大乗顕教(菩薩乗)の菩薩は、人を救済することを優先するため、自分が解脱してしまわないように、あえて煩悩を残して転生を繰り返すことを目指す場合もありました。
そうでない場合でも、成仏するまでにかかる時間は、「三阿僧祇劫」とか「歴劫修行」と言って、限りないほどの転生が必要とされ、事実上、成仏を不可能なほど困難なものと考えるようになりました。
これは、大乗仏教は精密な止観の修行体系を持っていたはずなのに、解脱のための瞑想修行が後退してしまったからだ、と言っても間違いではないでしょう。
それに対して、密教では、煩悩をなくして仏になっても、自在に転生したり化身して他人を救うことができるようになることを目指します。
利他の心があるならば、なるだけ早く悟るべきであって、そのための方法が密教だと考えました。
密教では、顕教の止観とは異なる瞑想法を行います。
密教の瞑想法は、インドで後期密教の時代に2つの系統で発達し、それがインドの各派、そしてチベットで「二次第」として段階的に体系化されました。
まず、観想法を利用した「生起次第」を修めて、次に、気をコントロールを利用した「究竟次第」を修めます。
これらの瞑想法は、「止」「観」を同時に、従来の止観行よりも短い期間で成就し、解脱できる方法であると言います。
部派仏教や顕教では、概念やイメージをなくした状態で、無常なる現実を認識(観)することで智恵を得ます。
そして、概念やイメージの対象が実在すると考える無明と、それらに対する執着を捨てます。
密教では「生起次第」で、概念やイメージを生滅させる(観想)ことを通して、現実が無常であることを認識して空の智恵を得ます。
しかし、概念やイメージを捨てさるのではなくて、それらを固定したものから、自然に変化する解放されたものに変容させます。
「究竟次第」では、気のコントロールを利用して、概念やイメージのない意識状態になり、その状態を利用して空の智恵を得ます。
そして、心身を浄化・活性化して、実際に成仏(三身の獲得を)します。
ちなみに、インドでもチベットでも、通常の大乗の修行をある程度修めてから密教の修行に入る場合と、最初から密教の修行を行う場合があります。
<種子的な思想>
部派仏教は、実在を原子論的、要素主義的に考えます。
言葉の対象は、架空の「かたまり」なので、実在ではなく、言葉を使う思考は無明だとします。
ですから、言葉をなくしてゼロにする「引き算」的な発想を持っています。
大乗仏教は、ここに、人を救うための言葉の智恵を「足し算」として加えます。
部派仏教や大乗仏教では、実在や言葉について、「有る無し」で、二元的に、デジタルで考えます。
これに対して密教は、実在や言葉を、「生成」的に、連続的、「微分」的に、アナログで考えます。
つまり、植物が成長するのように、心身が、微細なエネルギーの次元で、種のような存在から生まれて、成長するプロセスを考えます。
そして、イメージや気をコントロールすることによって、この生成のプロセスを、遡ったり、再創造します。
それを通して、そのエネルギーを理解することで、自由に開放します。
部派仏教や大乗仏教では、概念やイメージは特定の本質(形)を持った存在であり、それを止滅させることを目指します。
これに対して、密教は、概念やイメージ、欲望を、特定の本質(形)を持った固定した存在から、特定の本質(形)を持たない動的な存在へと解きほぐし、活性化させます。
つまり、言葉を「有る無し」ではなくて、「硬軟」で、つまり、固定され制限されてているのか、自由で活性化されているのかを問題にします。
そのため、密教における「空」の認識は、顕教とは異なり、微細な次元でのより高い認識だとされます。
単なる分別の有無としての「空」ではなく、その生成プロセスを通して、解放させる「空」の認識だからです。
上座部では心の母体を「有分心」と呼ばれる無意識的な心と考えます。
これは、単に生きているだけの心、熟睡状態と同じ心です。
しかし、密教にとっての心の母体である「空」は、「法身」、「自性清浄心」と呼ばれ、すべての創造の母体です。
ただし、これは実体ではなく、意識においては、外的な「縁」にしたがって心を現わす、縁起する空なる存在です。
密教では、心身を「大地」に育まれた「種」から成長するように「生成」的に捉えます。
つまり、すべての存在は、母体である「空」から、無漏の(清浄な)原型である「種子(ヴィージャ)」を元に創造されます。
上座部は心が一刹那で「生滅」すると考えますが、密教はそこに創造(成長)の諸段階を見ます。
ですから、部派仏教とは違って、密教では、言葉や身体は、実在から生まれるもので、実在と相反するものではありません。
そのため、修行においても、煩悩を止滅させず、心身が生滅する微細な次元に働きかけることで、それを煩悩のない動的なものへと、自由にします。
人間にとって、肉体レベルの「種子」は、受精卵です。
精子と卵子が合わさって生まれ、これが肉体として成長します。
後期密教では、この他に、2つの種類の「種子」があると考えます。
・意味の種 =種子(ヴィージャ) :様々な概念やイメージに成長する
・気の種 =心滴(ビンドゥ、ティクレ):気(プラーナ)と魂の身体に成長する
普通の人の場合、この2つの種子は、煩悩によって縛られていて、限定した成長しかしないのです、それを浄化して自由にする必要があります。
「意味の種」を扱う修行法が「生起次第」、「気の種」を扱う修行法が「究竟次第」です。
*中期密教では、行法が「身口意(身語心)」の「三密加持」、つまり、手印を結ぶ、マントラ念誦、本尊観想の3種として体系化されましたが、これは「意味の種」の3側面と考えることができます。後期密教では「手印」はほとんど重視されなくなり、「印」は性ヨガの対象を意味するようになります。
<仏の三身の獲得>
後期密教の修行法は、輪廻のプロセス(死→中有→(受胎)→生)を浄化して、その意識の状態を智に変えることで、「仏の三身(四身)」を獲得することを目指します。
これを「三身修道」と呼ぶこともあります。
直観的な「空」の智恵そのものである「法身」と、利他に必要な清浄な心の体で、仏の姿をした「報身(受用身)」、清浄な肉体である「変化身(応身)」が「仏の三身」です。
これに加えて、最初から存在する真理そのものの体である「倶生身(清浄身)」を加えて「仏の四身」とします。
「死(死の瞬間)」の浄化は「法身」、「中有(死後の魂の体)」の浄化は「報身」、「生(肉体)」の浄化は「変化身」、「受胎」の浄化は「倶生身」の獲得となります。
「生起次第」では、自分自身を仏として観想し、輪廻のプロセスの浄化を辿ります。
これは、「究竟次第」の準備であり、仏の三身の獲得を先取り的に疑似体験するものです。
「生起次第」は、結果としての仏の姿、あり方を、修行として利用するもので、常時に仏として行動、利他を行うことは、功徳を多く、スピーディーに積むことにもなります。
「究竟次第」では、実際に気をコントロールすることによって、輪廻の各状態をシミュレートして、それを浄化し、「仏の三身(四身)」を獲得します。
「究竟次第」には、主に3の方法があります。
一つは、中有につながる死をシミュレートする方法、もう一つは、受胎につながる性行為をシミュレートする方法、最後は、両方を使う方法です。
前者は「父タントラ」が重視し、修行階梯の最後に置きます。
次は「母タントラ」が重視し、修行階梯の最後に置きます。
最後は、「不二タントラ」つまり、「カーラチャクラ・タントラ」の方法です。
死のシミュレートに際しては、主観的には「光明」を体験し、無分別な状態になるので、この「光明」の体験を、「空」の認識と結びつけます。
性行為のシミュレートに際しては、主観的には「大楽(歓喜)」を体験し、無分別な状態になるので、この体験を「空」の認識と結びつけます。
「生起次第」で観想している姿と、「究竟次第」で行う修行と、結果として得られる姿が一致しているのが、「三身修道」の特徴です。
「究竟次第」で、気をコントロールする瞑想は、「止」の瞑想であると言えます。
「空=光明」ないしは「空=大楽」の認識を得るのは「観」の瞑想です。
この時点で「聖者」となり、「見道」の達成の段階となります。
父タントラの修行階梯に即して書けば、その後、「空」の意識を保ちながら、報身を獲得するのが「修道」(有学双運)の段階です。
報身を恒常的に維持できると、「無学道」(無学双運)となります。
*具体的な修行法の概要は「後期密教の修行階梯(概論)」をお読みください。
*父タントラ系の秘密集会聖者流の2次第の場合の階梯。「定寂三次第」以降が「究竟次第」になる。
*チベット仏教の瞑想やセミナーを行ったり、案内している団体には、下記などがあります。
・チベット仏教普及会:ゲルグ派のダライ・ラマの組織
・チベット仏教ゲルグ派 宗学研究所
そうでない場合でも、成仏するまでにかかる時間は、「三阿僧祇劫」とか「歴劫修行」と言って、限りないほどの転生が必要とされ、事実上、成仏を不可能なほど困難なものと考えるようになりました。
これは、大乗仏教は精密な止観の修行体系を持っていたはずなのに、解脱のための瞑想修行が後退してしまったからだ、と言っても間違いではないでしょう。
それに対して、密教では、煩悩をなくして仏になっても、自在に転生したり化身して他人を救うことができるようになることを目指します。
利他の心があるならば、なるだけ早く悟るべきであって、そのための方法が密教だと考えました。
密教では、顕教の止観とは異なる瞑想法を行います。
密教の瞑想法は、インドで後期密教の時代に2つの系統で発達し、それがインドの各派、そしてチベットで「二次第」として段階的に体系化されました。
まず、観想法を利用した「生起次第」を修めて、次に、気をコントロールを利用した「究竟次第」を修めます。
これらの瞑想法は、「止」「観」を同時に、従来の止観行よりも短い期間で成就し、解脱できる方法であると言います。
部派仏教や顕教では、概念やイメージをなくした状態で、無常なる現実を認識(観)することで智恵を得ます。
そして、概念やイメージの対象が実在すると考える無明と、それらに対する執着を捨てます。
密教では「生起次第」で、概念やイメージを生滅させる(観想)ことを通して、現実が無常であることを認識して空の智恵を得ます。
しかし、概念やイメージを捨てさるのではなくて、それらを固定したものから、自然に変化する解放されたものに変容させます。
「究竟次第」では、気のコントロールを利用して、概念やイメージのない意識状態になり、その状態を利用して空の智恵を得ます。
そして、心身を浄化・活性化して、実際に成仏(三身の獲得を)します。
ちなみに、インドでもチベットでも、通常の大乗の修行をある程度修めてから密教の修行に入る場合と、最初から密教の修行を行う場合があります。
<種子的な思想>
部派仏教は、実在を原子論的、要素主義的に考えます。
言葉の対象は、架空の「かたまり」なので、実在ではなく、言葉を使う思考は無明だとします。
ですから、言葉をなくしてゼロにする「引き算」的な発想を持っています。
大乗仏教は、ここに、人を救うための言葉の智恵を「足し算」として加えます。
部派仏教や大乗仏教では、実在や言葉について、「有る無し」で、二元的に、デジタルで考えます。
これに対して密教は、実在や言葉を、「生成」的に、連続的、「微分」的に、アナログで考えます。
つまり、植物が成長するのように、心身が、微細なエネルギーの次元で、種のような存在から生まれて、成長するプロセスを考えます。
そして、イメージや気をコントロールすることによって、この生成のプロセスを、遡ったり、再創造します。
それを通して、そのエネルギーを理解することで、自由に開放します。
部派仏教や大乗仏教では、概念やイメージは特定の本質(形)を持った存在であり、それを止滅させることを目指します。
これに対して、密教は、概念やイメージ、欲望を、特定の本質(形)を持った固定した存在から、特定の本質(形)を持たない動的な存在へと解きほぐし、活性化させます。
つまり、言葉を「有る無し」ではなくて、「硬軟」で、つまり、固定され制限されてているのか、自由で活性化されているのかを問題にします。
そのため、密教における「空」の認識は、顕教とは異なり、微細な次元でのより高い認識だとされます。
単なる分別の有無としての「空」ではなく、その生成プロセスを通して、解放させる「空」の認識だからです。
上座部では心の母体を「有分心」と呼ばれる無意識的な心と考えます。
これは、単に生きているだけの心、熟睡状態と同じ心です。
しかし、密教にとっての心の母体である「空」は、「法身」、「自性清浄心」と呼ばれ、すべての創造の母体です。
ただし、これは実体ではなく、意識においては、外的な「縁」にしたがって心を現わす、縁起する空なる存在です。
密教では、心身を「大地」に育まれた「種」から成長するように「生成」的に捉えます。
つまり、すべての存在は、母体である「空」から、無漏の(清浄な)原型である「種子(ヴィージャ)」を元に創造されます。
上座部は心が一刹那で「生滅」すると考えますが、密教はそこに創造(成長)の諸段階を見ます。
ですから、部派仏教とは違って、密教では、言葉や身体は、実在から生まれるもので、実在と相反するものではありません。
そのため、修行においても、煩悩を止滅させず、心身が生滅する微細な次元に働きかけることで、それを煩悩のない動的なものへと、自由にします。
人間にとって、肉体レベルの「種子」は、受精卵です。
精子と卵子が合わさって生まれ、これが肉体として成長します。
後期密教では、この他に、2つの種類の「種子」があると考えます。
・意味の種 =種子(ヴィージャ) :様々な概念やイメージに成長する
・気の種 =心滴(ビンドゥ、ティクレ):気(プラーナ)と魂の身体に成長する
普通の人の場合、この2つの種子は、煩悩によって縛られていて、限定した成長しかしないのです、それを浄化して自由にする必要があります。
「意味の種」を扱う修行法が「生起次第」、「気の種」を扱う修行法が「究竟次第」です。
*中期密教では、行法が「身口意(身語心)」の「三密加持」、つまり、手印を結ぶ、マントラ念誦、本尊観想の3種として体系化されましたが、これは「意味の種」の3側面と考えることができます。後期密教では「手印」はほとんど重視されなくなり、「印」は性ヨガの対象を意味するようになります。
<仏の三身の獲得>
後期密教の修行法は、輪廻のプロセス(死→中有→(受胎)→生)を浄化して、その意識の状態を智に変えることで、「仏の三身(四身)」を獲得することを目指します。
これを「三身修道」と呼ぶこともあります。
直観的な「空」の智恵そのものである「法身」と、利他に必要な清浄な心の体で、仏の姿をした「報身(受用身)」、清浄な肉体である「変化身(応身)」が「仏の三身」です。
これに加えて、最初から存在する真理そのものの体である「倶生身(清浄身)」を加えて「仏の四身」とします。
「死(死の瞬間)」の浄化は「法身」、「中有(死後の魂の体)」の浄化は「報身」、「生(肉体)」の浄化は「変化身」、「受胎」の浄化は「倶生身」の獲得となります。
「生起次第」では、自分自身を仏として観想し、輪廻のプロセスの浄化を辿ります。
これは、「究竟次第」の準備であり、仏の三身の獲得を先取り的に疑似体験するものです。
「生起次第」は、結果としての仏の姿、あり方を、修行として利用するもので、常時に仏として行動、利他を行うことは、功徳を多く、スピーディーに積むことにもなります。
「究竟次第」では、実際に気をコントロールすることによって、輪廻の各状態をシミュレートして、それを浄化し、「仏の三身(四身)」を獲得します。
「究竟次第」には、主に3の方法があります。
一つは、中有につながる死をシミュレートする方法、もう一つは、受胎につながる性行為をシミュレートする方法、最後は、両方を使う方法です。
前者は「父タントラ」が重視し、修行階梯の最後に置きます。
次は「母タントラ」が重視し、修行階梯の最後に置きます。
最後は、「不二タントラ」つまり、「カーラチャクラ・タントラ」の方法です。
死のシミュレートに際しては、主観的には「光明」を体験し、無分別な状態になるので、この「光明」の体験を、「空」の認識と結びつけます。
性行為のシミュレートに際しては、主観的には「大楽(歓喜)」を体験し、無分別な状態になるので、この体験を「空」の認識と結びつけます。
「生起次第」で観想している姿と、「究竟次第」で行う修行と、結果として得られる姿が一致しているのが、「三身修道」の特徴です。
「究竟次第」で、気をコントロールする瞑想は、「止」の瞑想であると言えます。
「空=光明」ないしは「空=大楽」の認識を得るのは「観」の瞑想です。
この時点で「聖者」となり、「見道」の達成の段階となります。
父タントラの修行階梯に即して書けば、その後、「空」の意識を保ちながら、報身を獲得するのが「修道」(有学双運)の段階です。
報身を恒常的に維持できると、「無学道」(無学双運)となります。
*具体的な修行法の概要は「後期密教の修行階梯(概論)」をお読みください。
五道 | 灌頂 | 次第 |
資糧道 | - | 生起次第 |
加行道 | 瓶 | 定寂三次第 |
秘密 | 幻身 | |
見道 | 般若 | 光明 |
修道 | 第四 | 有学双運 |
無学道 | - | 無学双運 |
*父タントラ系の秘密集会聖者流の2次第の場合の階梯。「定寂三次第」以降が「究竟次第」になる。
*チベット仏教の瞑想やセミナーを行ったり、案内している団体には、下記などがあります。
・チベット仏教普及会:ゲルグ派のダライ・ラマの組織
・チベット仏教ゲルグ派 宗学研究所