ゾクチェン・マハームドラー(任運乗)の修行と思想
「ゾクチェン(マハーサンディ、大究竟)」は中央アジアで生まれ、チベットのニンマ派やボン教に伝えられている思想です。
チベット仏教では、ゾクチェンは仏教に属するものと考えられています。
また、インドで密教として生まれ、チベットのカーギュ派で顕教の止観法と統合された「マハームドラー(チャクチェン、大印契)」は、おそらくゾクチェンの「心の本性の部」に影響を受けたためか、似ている部分があります。
本ブログでは、両者を「任運乗」としてまとめています。
「倶生乗」、「自然成就乗」という表現でも良いかもしれません。
「禅宗」にも「任運乗」と呼べる教えがあると思います。
インドのヒンドゥー教では、ラマナ・マハリシの「サハジャ・サマディ」やニサルガダッタ・マハラジの「ニサルガ・ヨガ」が近い思想だと思います。
「任運乗」という言葉はほとんど使われていませんが、「あるがまま」を肯定する思想という意味です。
といっても煩悩の心(固定的で限定的で不自由な心)を肯定するのではありません。
マハームドラーは煩悩のない清浄な心(創造的で自由な心)が自然に現れるようにします。
ゾクチェンでは、煩悩のある不浄な心が現れても、即座に、自然に、解き放たれるようにします。
つまり、無意識的・習慣的な活動に、意識的な気づきを持ち込み、それを意識的にコントロールせずに、自然に創造的に解放されるようにします。
両思想は、密教のように心を意識的にコントロールして清浄な現れに変容させることを目指ざさず、修行においても意識的にコントロールしない「観」的瞑想を重視します。
この点で、密教とは異なる仏教思想であり、密教を超える奥義として捉えられています。
だた、どちらも密教的な行法も利用しないわけではありません。
特にゾクチェンはハタ・ヨガのように、様々な体位法、呼吸法、気の操作などを駆使します。
ゾクチェンは、如来蔵思想の影響を強く受けた思想です。
すべての存在の土台に、「初めから清らか」な、無始の、「自性清浄心」があると考え、これを「原初の境地」と呼びます。
またこれを「心の本性」と呼び、日常的な2元論的な意識の「心」と区別します。
ゾクチェンは、これが自覚的な気づきを持っていることを重視して、「明知(リクパ)」とも呼びます。
この気づきは、土台である意識そのものと現れの空、その創造性、現れのあるなしの一体性、自然に表れるものの完全性に対する気づきです。
心に想念が現れても、気づきの中で、それを制限せずに自由に解放すれば、「あるがままで完璧」であると考えます
ですから、ゾクチェンはその気づきを常に維持することで、煩悩や業をなくさずとも、それが結果として現れないようにできると主張します。
そのため、インド思想の基本である「因果」を超えた革命的な思想と考えられています。
「心の本性」は、汚れていたり、可能性にとどまっているのではなく、常に存在していますが、我々はそれに気づいていないだけであると考えます。
例えば、雑念と雑念の隙間には常に心の本性が覗いています。
もし、それに気づくことで、それに気づいた状態を維持できるのであれば、一切、修行は不要です。
北宋禅以来の禅の「頓悟」の考え方に近いと言えます。
ですから、ゾクチェンの修行は、本質的には、従来の仏教のように、段階を追う形で体系化されていません。
つまり、いきなり、「心の本性」の気づきを持った「三昧」を持続し、深める瞑想を行います。
もし、うまく「三昧」に入れないなら、「三昧」に入る瞑想をします。
もし、うまく…できないなら、という具合に、階梯を順に進むのではなく、目標から逆に戻って修行をします。
また、心を意識的にコントロールしないとか、日常でそれを維持することは、「修行」と表現するのは適当ではなくなります。
ただ、それだと説明しにくいので、本ブログでは、便宜上、階梯があるように表現し、「修行」という言葉も使います。
また、現実的には、修行が必要となります。
しかし、理念的、本来的にはないと考えるのです。
ゾクチェンの修行法の意味を理解するには、ニンマ派の各宗派、各経典の分類・評価法を理解すると分かりやすくなります。
仏教は大きく3段階に分類されます。
「放棄の道」である顕教、「変容の道」である密教、「自己解脱の道」であるゾクチェンです。
まず、小乗仏教と大乗顕教は「放棄の道」と捉えられます。
心身の止滅を修行内容とし、目的とするということです。
密教は「変容の道」と捉えられます。
心身の現れを曼荼羅の清浄な現れに変容させることで、業をなくそうとするからです。
密教の中でも、曼荼羅を順を追って詳細に観想する方法(マハー・ヨガ)よりも、一挙に、細部にこだわらずに、本質を重視して観想する方法(アヌ・ヨガ)を上位に置きます。
なぜなら、心は初めから清浄なので、作為的に観想せずとも、自然に清浄な曼荼羅が現れるはずだからです。
ゾクチェンは「自己解脱の道」と捉え、「アティ・ヨガ」とも呼びます。
観想を行わず、心の現れを意識的にコントロールせず、業が原因で現れたものも、自然に清浄なものに変容するようにするからです。
これは、象徴的な原型としての種子・諸尊の形象を必要としない道、境地です。
これを「自然成就」とも表現します。
心の本来の「あるがままで完璧」な性質を現すわけです。
以上、ニンマ派がゾクチェンに基づいて考える仏教諸派・諸経典の評価は、「はじめから清らか」な心を、肯定する度合いによっていると言えるでしょう。
==
初期のゾクチェン(セムデ)とマハームドラーの本行部分の修業は、とても似ています。
止観的な瞑想法が基本で、どちらも4つの段階で構成されます。
しかし、その思想、方法は上座部や大乗とは異なります。
第1段階は、想念の現れのない「空」の状態での「止」です。
第2段階では、意識的なコントロールなしの状態で、「空」からの想念の現れを観察し、それに実体がないことを認識します。
第3段階では、「空」と現れの一体性を認識します。
第4段階では、意識的なコントロールなしに清浄な現れが現れる、もしくは不浄な現れが現れてもそれを解放することを、日常の中でも持続させます。
ゾクチェンの場合には、どの段階でも自覚的な気づきを重視します。
第4段階の日常での修行は、ゾクチェンの出家主義を否定する思想を表現していると思います。
ゾクチェンはその後、密教の影響を受けてか、よりレベルの高い修行法が生まれました。
ゾクチェンでは「明知」の自覚を保った状態を「三昧」と呼びます。
ゾクチェンの修行は、次の4つの段階で構成されます。
1 「三昧に入る」
2 「三昧に対して疑いをなくす」
3 「三昧を持続する(テクチュー)」
4 「三昧を深める(トゥゲル)」
先の説明した止観行は、3の段階までです。
ここまででも「ゾクチェンの境地」だと言えます。
しかし、4段階目の「トゥゲル(超越)」は、業を完全になくす別の次元の修行になります。
敢えて「五道」に当てはめれば、「修道」なのかもしれませんが、この当てはめには無理があるかもしれません。
ゾクチェンでは「心の本性」を3つの次元で考えます。
1 現れのない母体としての「本体(空)」
2 現れを生む能力である「自性(光明)」
3 無限に生まれ続ける現れである「慈悲(エネルギー)」
です。
これらは、「鏡」、「鏡の反射力」、「鏡に映る映像」に比喩されます。
現れの「エネルギー」は3つのあり方で現れます。
1 無形な、音、光、光線としての現れである「ダン」
2 内的なイメージとしての現れである「ロルパ」
3 外的、主客2元的、煩悩性の現れである「ツァル」
です。
これらは「法身」、「報身」、「変化身」に対応します。
「トゥゲル」の修業は、多分、鏡の次元、「ダン」の状態のエネルギーに、意識と身体を解消していく瞑想です。
これは、業のない、根源的な、元素のエレメントである光の次元です。
以上のように、ゾクチェンの「空」の見解は、鏡のような「心の本性」が、業がなくても、縁によって、現れを現し続ける、というものであり、中観派からマハームドラーに至る「空」の見解をは異なります。
従って、最終的に得られる身体も、仏の三身に加えて「虹の身体」がプラスされます。
「虹の身体」は「報身」よりも活動的で、他者と直接的に接触して救済することができる存在だそうです。
*ゾクチェンの瞑想を行っている団体には、下記などがあります。
・ゾクチェン・コミュニティ・ジャパン「ムンセルリン」:ニンマ派のナムカイ・ノルブ・リンポチェの組織
・東京ゾクチェンセンター:ニンマ派のパトゥル・リンポチェの弟子のグループ
・小さな瞑想教室:ボン教ゾクチェンの一般向け瞑想教室
チベット仏教では、ゾクチェンは仏教に属するものと考えられています。
また、インドで密教として生まれ、チベットのカーギュ派で顕教の止観法と統合された「マハームドラー(チャクチェン、大印契)」は、おそらくゾクチェンの「心の本性の部」に影響を受けたためか、似ている部分があります。
本ブログでは、両者を「任運乗」としてまとめています。
「倶生乗」、「自然成就乗」という表現でも良いかもしれません。
「禅宗」にも「任運乗」と呼べる教えがあると思います。
インドのヒンドゥー教では、ラマナ・マハリシの「サハジャ・サマディ」やニサルガダッタ・マハラジの「ニサルガ・ヨガ」が近い思想だと思います。
「任運乗」という言葉はほとんど使われていませんが、「あるがまま」を肯定する思想という意味です。
といっても煩悩の心(固定的で限定的で不自由な心)を肯定するのではありません。
マハームドラーは煩悩のない清浄な心(創造的で自由な心)が自然に現れるようにします。
ゾクチェンでは、煩悩のある不浄な心が現れても、即座に、自然に、解き放たれるようにします。
つまり、無意識的・習慣的な活動に、意識的な気づきを持ち込み、それを意識的にコントロールせずに、自然に創造的に解放されるようにします。
両思想は、密教のように心を意識的にコントロールして清浄な現れに変容させることを目指ざさず、修行においても意識的にコントロールしない「観」的瞑想を重視します。
この点で、密教とは異なる仏教思想であり、密教を超える奥義として捉えられています。
だた、どちらも密教的な行法も利用しないわけではありません。
特にゾクチェンはハタ・ヨガのように、様々な体位法、呼吸法、気の操作などを駆使します。
ゾクチェンは、如来蔵思想の影響を強く受けた思想です。
すべての存在の土台に、「初めから清らか」な、無始の、「自性清浄心」があると考え、これを「原初の境地」と呼びます。
またこれを「心の本性」と呼び、日常的な2元論的な意識の「心」と区別します。
ゾクチェンは、これが自覚的な気づきを持っていることを重視して、「明知(リクパ)」とも呼びます。
この気づきは、土台である意識そのものと現れの空、その創造性、現れのあるなしの一体性、自然に表れるものの完全性に対する気づきです。
心に想念が現れても、気づきの中で、それを制限せずに自由に解放すれば、「あるがままで完璧」であると考えます
ですから、ゾクチェンはその気づきを常に維持することで、煩悩や業をなくさずとも、それが結果として現れないようにできると主張します。
そのため、インド思想の基本である「因果」を超えた革命的な思想と考えられています。
「心の本性」は、汚れていたり、可能性にとどまっているのではなく、常に存在していますが、我々はそれに気づいていないだけであると考えます。
例えば、雑念と雑念の隙間には常に心の本性が覗いています。
もし、それに気づくことで、それに気づいた状態を維持できるのであれば、一切、修行は不要です。
北宋禅以来の禅の「頓悟」の考え方に近いと言えます。
ですから、ゾクチェンの修行は、本質的には、従来の仏教のように、段階を追う形で体系化されていません。
つまり、いきなり、「心の本性」の気づきを持った「三昧」を持続し、深める瞑想を行います。
もし、うまく「三昧」に入れないなら、「三昧」に入る瞑想をします。
もし、うまく…できないなら、という具合に、階梯を順に進むのではなく、目標から逆に戻って修行をします。
また、心を意識的にコントロールしないとか、日常でそれを維持することは、「修行」と表現するのは適当ではなくなります。
ただ、それだと説明しにくいので、本ブログでは、便宜上、階梯があるように表現し、「修行」という言葉も使います。
また、現実的には、修行が必要となります。
しかし、理念的、本来的にはないと考えるのです。
ゾクチェンの修行法の意味を理解するには、ニンマ派の各宗派、各経典の分類・評価法を理解すると分かりやすくなります。
仏教は大きく3段階に分類されます。
「放棄の道」である顕教、「変容の道」である密教、「自己解脱の道」であるゾクチェンです。
まず、小乗仏教と大乗顕教は「放棄の道」と捉えられます。
心身の止滅を修行内容とし、目的とするということです。
密教は「変容の道」と捉えられます。
心身の現れを曼荼羅の清浄な現れに変容させることで、業をなくそうとするからです。
密教の中でも、曼荼羅を順を追って詳細に観想する方法(マハー・ヨガ)よりも、一挙に、細部にこだわらずに、本質を重視して観想する方法(アヌ・ヨガ)を上位に置きます。
なぜなら、心は初めから清浄なので、作為的に観想せずとも、自然に清浄な曼荼羅が現れるはずだからです。
ゾクチェンは「自己解脱の道」と捉え、「アティ・ヨガ」とも呼びます。
観想を行わず、心の現れを意識的にコントロールせず、業が原因で現れたものも、自然に清浄なものに変容するようにするからです。
これは、象徴的な原型としての種子・諸尊の形象を必要としない道、境地です。
これを「自然成就」とも表現します。
心の本来の「あるがままで完璧」な性質を現すわけです。
以上、ニンマ派がゾクチェンに基づいて考える仏教諸派・諸経典の評価は、「はじめから清らか」な心を、肯定する度合いによっていると言えるでしょう。
==
初期のゾクチェン(セムデ)とマハームドラーの本行部分の修業は、とても似ています。
止観的な瞑想法が基本で、どちらも4つの段階で構成されます。
しかし、その思想、方法は上座部や大乗とは異なります。
第1段階は、想念の現れのない「空」の状態での「止」です。
第2段階では、意識的なコントロールなしの状態で、「空」からの想念の現れを観察し、それに実体がないことを認識します。
第3段階では、「空」と現れの一体性を認識します。
第4段階では、意識的なコントロールなしに清浄な現れが現れる、もしくは不浄な現れが現れてもそれを解放することを、日常の中でも持続させます。
ゾクチェンの場合には、どの段階でも自覚的な気づきを重視します。
第4段階の日常での修行は、ゾクチェンの出家主義を否定する思想を表現していると思います。
ゾクチェンはその後、密教の影響を受けてか、よりレベルの高い修行法が生まれました。
ゾクチェンでは「明知」の自覚を保った状態を「三昧」と呼びます。
ゾクチェンの修行は、次の4つの段階で構成されます。
1 「三昧に入る」
2 「三昧に対して疑いをなくす」
3 「三昧を持続する(テクチュー)」
4 「三昧を深める(トゥゲル)」
先の説明した止観行は、3の段階までです。
ここまででも「ゾクチェンの境地」だと言えます。
しかし、4段階目の「トゥゲル(超越)」は、業を完全になくす別の次元の修行になります。
敢えて「五道」に当てはめれば、「修道」なのかもしれませんが、この当てはめには無理があるかもしれません。
ゾクチェンでは「心の本性」を3つの次元で考えます。
1 現れのない母体としての「本体(空)」
2 現れを生む能力である「自性(光明)」
3 無限に生まれ続ける現れである「慈悲(エネルギー)」
です。
これらは、「鏡」、「鏡の反射力」、「鏡に映る映像」に比喩されます。
現れの「エネルギー」は3つのあり方で現れます。
1 無形な、音、光、光線としての現れである「ダン」
2 内的なイメージとしての現れである「ロルパ」
3 外的、主客2元的、煩悩性の現れである「ツァル」
です。
これらは「法身」、「報身」、「変化身」に対応します。
「トゥゲル」の修業は、多分、鏡の次元、「ダン」の状態のエネルギーに、意識と身体を解消していく瞑想です。
これは、業のない、根源的な、元素のエレメントである光の次元です。
以上のように、ゾクチェンの「空」の見解は、鏡のような「心の本性」が、業がなくても、縁によって、現れを現し続ける、というものであり、中観派からマハームドラーに至る「空」の見解をは異なります。
従って、最終的に得られる身体も、仏の三身に加えて「虹の身体」がプラスされます。
「虹の身体」は「報身」よりも活動的で、他者と直接的に接触して救済することができる存在だそうです。
*ゾクチェンの瞑想を行っている団体には、下記などがあります。
・ゾクチェン・コミュニティ・ジャパン「ムンセルリン」:ニンマ派のナムカイ・ノルブ・リンポチェの組織
・東京ゾクチェンセンター:ニンマ派のパトゥル・リンポチェの弟子のグループ
・小さな瞑想教室:ボン教ゾクチェンの一般向け瞑想教室