上座部とミックスメソッド:主体の問題 | 仏教の瞑想法と修行体系

上座部とミックスメソッド:主体の問題

当ブログでは、様々な宗派、流派の瞑想法を自由に勉強し、選択して実践できる状況に寄与することを目指しています。

上座部受容の貧しさと、知識の欠如」という以前の投稿で、日本では、上座部のヴィパッサナー瞑想が受け入れられ始めているが、欧米のように、流派を越えた交流が行われていない、と書きました。

しかし、山下良道師のように、上座部の瞑想法と他の瞑想法などを組み合わせて、独自のシステム、メソッドを構築している、興味深い人もいます。
複数のシステムやメソッドを選択して学ぶこと、あるいは、構築することについての“参考”とするために、山下師のシステム、メソッドを取り上げて、考察してみます。
そして、メソッドをミックスして実修するに当たっての、“問題点”を浮かび上がらせたいと思っています。

ただし、私は彼の個人的な指導を受けていませんし、彼のメソッドに沿った実践をしているとも言えないので、あくまでも、外からの考察になります。
それに、彼はシステム、メソッドを構築中であって、変化し続けていますので、正確ではない点も多々あるかもしれません。

この考察は、あくまでも、上に書いたように、上座部系と大乗系のミックス・メソッドの問題点を浮かび上がらせるためのものであって、山下師のシステム、メソッドを解説したり、推奨したり、批判したりすることを目的とはしていません。

長い考察になりますので、2回に分けます。
今回は、「主体」の問題に関する上座部と大乗の教説の違いと、それがメソッドに与える影響について取り上げます。
とても難解な教義上の話になります。
そして、次回は、具体的なメソッドのミックスについて取り上げます。


その前に、各派の方法を自由に選択するには、いくつか形が考えられますので、確認しておきましょう。

1)複数のシステムを順に学び、自分のあったシステムを見つける
2)複数のシステムを平行して学び、自分にあったシステムを見つける
3)複数のシステムを学び、そのメソッド(システムの構成単位としての瞑想法)を組み合わせて、自分にあった道を歩む
4)一つの瞑想法の中でテクニック(メソッドの構成単位としての技法)を組み合わせて、自分にあったメソッドを見つける

下に行くほど、難易度が増しますので、簡単には、勧められません。
指導者はたいてい、否定します。
いずれの方法を行うにしても、各システムやメソッドの意味をしっかり理解することが重要だと思います。

ちなみに、山下師は、自身の修業としては1)に近く、指導者としては4)を行いながら独自のシステムを作っているではないでしょうか。


どの派でも、まず、教義を学んでそれを信じるのが前提で、それを修行で実証すべきとします。
信じることをせずに、修行を進めることはできないだろうと。

しかし、ここにはトリックがあります。
最初から実証すべきものが決まっているのなら、ゴールまで行った人は、その物語から出れなかった人ではないのか、という疑問が残ります。
少なくともお釈迦様はそんな風に修行していません。

ミックス・メソッドを探求し、各派の併修などを行う場合は、教義を信じきることができません。
留保付きで信じながら実証していくしかないでしょう。
現代においては、避けることのできない立場だと思います。



<バックボーン>

山下良道師は、曹洞宗の僧侶として、安泰寺(沢木興道、内山興正の両禅師がいたことで有名)で修行をしました。

その後、禅と上座部の両方を知るベトナム禅宗のティクナット・ハン師の影響を受けて、上座部のサティやヴィパッサナーの瞑想に導かれていきます。
そして、上座部の中でも、「清浄道論」に沿った伝統的で厳格なシステムで知られるミャンマーのパオ森林僧院で出家し(比丘名スダンマチャーラ)、パオ・セヤドー(ウ・アーチンナ)の指導の元、日本人として初めて、その過程を最後まで終了した人物です。
昔なら、只管打座に手ごたえを感じられなかった人は臨済宗へ行ったのですが、彼は、上座部へという道を切り開きました。

その後、ネパールでチベット仏教の修業を前行の段階まで行い(ですから、チベット大乗の正行も、密教も、ゾクチェンも修行していないと思います)、また、来日したゾンサル・ケンツェ・リンポチェに教説上の相談・確認を行いました。

山下師は、「パオ・メソッド」をシステムとして評価していますが、日本ではそのままの形で指導せず、「ワンダルマ・メソッド」と称して、独自のシステムを構築中です。
彼のシステムや思想は、大乗仏教、禅やチベット仏教、ヨガ、気功、心理療法などをミックスしたものとなっています。

彼の興味は、現代の日本の多くの一般人が実践して効果のあるメソッドの構築のようです。
それは、パオ・メソッドのような伝統に忠実な敷居の高い方法でもなく、「只管打座」のようなノーメソッドなものでもなく、釈迦のような個々人に合った方法を説く「対機説法」の姿勢とも異なります。



<仏教のアップデート>

山下師は、現在の日本の仏教の現状を出発点とし、日本仏教を想定して「仏教1.0」、上座部を想定して「仏教2.0」、新しく作り上げようとしている仏教を「仏教3.0」と表現しています。

「仏教1.0」は、心を見ようとせず、その問題を解決できず、悟りに至るシステムを持たない仏教です。
「仏教2.0」は、心を見て、その問題を解決でき、悟りに至るシステムを持った仏教です。

しかし、歴史的には、上座部が「第一話」であり、大乗仏教が「第二話」であると言います。
そして、大乗が生まれたことには必然性があって、それは、上座部は「本当の主体」に関する教説が不十分だったからだと。
大乗仏教は、如来蔵派の「仏性」に関する教説で、これを解決したということでしょう。

「仏教3.0」は、両者を止揚して、本当の主体の教説と、悟りに至るシステムを持つ仏教です。
彼は、ティク・ナット・ハン師のシステムや思想も、「仏教3.0」であると考えています。
「ワンダルマ・メソッド」は最先端のものだと言うので、「第三話」と言いたいのかもしれません。

しかし、客観的に見れば、インド、チベットの大乗仏教(波羅蜜乗)、後期密教(金剛乗)、ゾクチェン(任運乗)は、如来蔵の教説と、ヴィパッシュヤナー(サンスクリット語です)などの悟りに至るシステムを共に持っているので、すでに「仏教3.0」です。

また、大乗から見た仏教史では、上座部が「初転法輪(第一話)」、空性を説く中観派・般若系経典が「第二転法輪(第二話)」、肯定表現で説く唯識派・唯識系経典・如来蔵系経典が「第三転法輪(第三話)」とされてきました。
その延長上で考えれば、金剛乗や任運乗が「第四話」であり、諸派の交流と現世肯定を特徴とする欧米新仏教(当サイトも一応、この困難な立場です)が「第五話」だと言えます。

ですが、日本に実践の伝統がないものは無視するということであれば、とりあえず、山下師の整理は分かりやすいものです。



<上座部の「涅槃」と山下師の「青空」>

山下師は、「パオ・メソッド」を修して、次のような疑問を持ったと言います。

上座部ではヴィパッサナーは対象を認識するものとされ、「本当の主体」は誰かという説明がされないので、主客が分離して、偽の主体、思考が残りがちである、と。

もちろん、上座部の教説は「無我」が前提で、ヴィパッサナーは、対象そのものに集中することで、「私」という観念を持ない状態で行い、対象が無常、苦、無我であるいという認識を得るものです。

しかし、上座部では、「心」、「智慧」は対象を認識するものなので、ヴィパッサナーでも対象があって、必然的に「主体」もあることになります。
上座部のアビダンマでは、この「主体」は、無常なる「心」です。

そして、最終的に「心」を止滅させて、主体も客体(対象)もない状態の「涅槃」に至ります。
しかし、アビダンマでは、「涅槃」を「本当の主体(私)」とは表現しません。


山下師は、主客のない状態の「本当の主体」を「青空」、主客のある「主体」や「心」を「雲」とか「シンキングマインド」と表現します。
あるいは、「リリーフ・ピッチャー」と「先発ピッチャー」と表現します。
瞑想修行の一定の段階で、主客のある「先発ピッチャー」から、主客のない「リリーフ・ピッチャー」に切り替わるという意味です。

山下師の著作を読んだり、法話を聞いていると、「青空」の意味は、単に「概念的な思考がない」状態を指しているように思えることが多々あります。
しかし、あくまでも「主客一体」の状態を意味しています。
上座部の言葉で表現すれば「涅槃」であって、単に、概念的思考のない正しいヴィパッサナーの主体ではありません。


上座部のアビダンマでは、「涅槃」は、生きている人間にとっては、聖者の段階に到達すれば、瞑想で一時的に体験される意識状態です。
すべての「心」が停止し、対象を持たず、内外の諸行を意識できない状態です。

しかし、ヴィパッサナーの最終段階では、「心」が「涅槃」を対象とするとされます。

その「涅槃」を対象とする心路(心のプロセス)は、「随順智」→「種姓智」→「道心(道智)」→「果心(果智)」と進みます。
このプロセスは、連続的な7刹那の瞬時で終わります。

その後、この時の体験を振り返って、「道心」、「果心」、「涅槃」、「止滅した煩悩」、「残っている煩悩」を対象にして観察を行い、「観察智」を得ます。

「清浄道論」は、「種姓智」、「道心」、「観察智」が、「涅槃」を対象とする「心」だとします。
スマナサーラ長老は、「清浄道論」と違って、「果心」が「涅槃」を対象とする言います。


では、「涅槃」は定義上は「常住」とされるとしても、体験としてはいつ存在するのでしょうか?
私は、このことについて書かれたものを読んだことがありません。

もし、「涅槃」が「涅槃」を対象とする「心」と共存できるのなら、「種姓智」~「果心」の時にこれらの「心」と同時に存在しているのでしょう。

しかし、「心」が停止した状態である「涅槃」と、「心」が共存するというのは、教説上の矛盾です。
上座部のアビダンマでは、因果を超えた無為法である「涅槃」と、因果の中にある有為法の「心」には、断絶があるはずです。

ちなみに、聖者になった後では、「果定」に自由に入れますが、これも「涅槃」を対象にする「心」なので、この時も「涅槃」と「心」が共存できるのでしょうか。
また、「滅尽定」は、「心」が存在せず対象も取らないので、その意味では「涅槃」と同じ状態です。(*1)


そうではなく、もし、「涅槃」の体験が「心」と共存できないのなら、「涅槃」はこの心路が始まる直前、もしくは、「道心」と「果心」の間の一瞬に体験するのでしょうか?

その場合は、「心」は、直後(もしくは直前)に「涅槃」を対象とするということになります。
それなら、対象は「涅槃」そのものではなく、直後なら「記憶」、直前なら「諸行の生滅の止滅」というべきものでしょう。

この「涅槃」の体験の時には、「心」が停止しているので、「心」が対象とする内外の感覚などは意識できないはずです。


山下師は、パオ・セヤドー師から、「涅槃」の時に、「涅槃」を対象とする「心」を見たかどうかを何度も問われ、これに納得できなかったと言っています。
山下師と魚川祐司氏の対話を参照。)

パオ・セヤドー師は、「涅槃」を対象とする「心」が、「涅槃」と同時に存在すると考えていたのでしょう。

しかし、この点は、上座部の指導者によっても見解の相異があり、「涅槃」は後からしか対象にできないと考える師もいます。
スマナサーラ長老は、「涅槃」については語りえないので、語るな、と言って、この矛盾を回避しようとします。


山下師は、ヴィパッサナーなどの瞑想を行う時、「青空」を主体として行うべきだと言います。
つまり、対象を取らない「涅槃」の状態で行え、と言ってるのです。

彼は、ティク・ナット・ハン師が言う、「ブッダに呼吸してもらい、ブッダに歩いてもらう」という言葉も、「青空」が主体となってヴィパッサナーをしているのだと言います。
(参照:雑誌「サンガジャパン」のVol.19「ティク・ナット・ハンとマインドフルネス」特集号)

しかし、上座部のアビダンマからすると、これはありえないことです。
ヴィパッサナーは対象を取る瞑想ですが、「涅槃」は対象を取らず、内外・心身の諸行を意識できないからです。
できるできない以前に、「涅槃」に到達するのは、あくまでもヴィパッサナーをやり切った聖者であって、凡夫には無理だからです。

先の魚川氏をはじめ、上座部の教説になじんだ多くの人が、山下師の考えを理解できないのはこの点でしょう。



<大乗の「仏性」とゾクチェンの「青空」>

大乗仏教には「仏性」という概念があって、「涅槃」と似ていますが、大乗の世界観を反映した独特の概念です。
山下師の言う「青空」は、この「仏性」を比喩的に表現したものでしょう。

禅では、道元禅師もそうですが、「鏡」と「像」、あるいは、「水面」と「月影」という比喩を良く使います。
ティクナット・ハン師は「水」と「波」です。
山下師が使う「青空」と「雲」の比喩は、ゾクチェンで良く使われるので、ゾクチェンから来ているのではないでしょうか。

山下師は、「ゾンサール・リンポチェが来日した際に、話をして、頭の整理がついた」、「チベット仏教はピッチャーが二人いることをはっきり説いています」と書いています。
山下師はゾクチェンの修業をしていないと思いますが、ゾンサル・リンポチェはサキャ派ですが超宗派に学んだ師です。
また、山下師が推しているヨンゲイ・ミンゲール・リンポチェはカギュ派ですが、ゾクチェンを学んだ師です。


上座部では、ヴィパッサナーの対象(業処)は、「名」、「色」、「涅槃」です。
ところが、大乗唯識派(説一切有部内の学派だった)は、これら3つがすべて「識」であると言います。
そして、「涅槃」は「識の本性」であり、それを「真如」とも表現します。

ですから無為法の「涅槃」と有為法としての「識」は、区別はされますが、上座部のように断絶したものとは考えません。

さらに進んで、大乗の如来蔵派では、「仏(涅槃)」が凡夫の中に最初から可能性として存在すると考え、それを「仏性」、「如来蔵」と表現します。
とは言っても、それはあくまで可能性であって、聖者に到達しなければ体験できないので、上座部と大きな違いはないと思います。

ただ、「仏性」の性質を、「我波羅蜜」、つまり、「本当の我」であると表現しました。
あくまでも、「無我」を前提とした、あえての表現です。

また、「仏性」においては、認識の客体である無為法の「真如」と、主体である有為法の「智」の一体性が強調されます。
「仏身」論で言えば、客体である無為法の「理法身(自性法身)」と、主体である有為法の「智法身」が一体です。
「真如」と一体化した「智」は、対象を外部に取るのではなく、あえて言えば、自分自身を対象とするのです。

このように、大乗顕教(波羅蜜乗)では、内外・心身を意識できない、心身の止滅としての純粋な「涅槃」には価値を置きません。
大乗で重要なのは「仏性」であり、内外・心身のあるがまま(真如)であり、それに一体化した主客なしの認識としての無分別智(等引智、如実智)です。


さらに、金剛乗(密教)、任運乗(ゾクチェン、禅)では、「仏性」の本質は、自分自身と異なるものではない「心」を生み出すものと考えるようになります。

そして、任運乗では、「仏性」は、凡夫の中に顕在的に存在するものとなります。
雲の合間に青空が顔を出しているように、思考と思考の合間に仏性が顕在化していると言います。
凡夫は、それを意識できないだけなのです。
だから、ゾクチェンや禅の師は、それが顔を覗かせた瞬間を狙って、「直指」で伝えようとします。

任運乗では、意識を多層的に考え、「仏性」は煩悩を持った「心」とも共存し、行為の中にも現れると考えます。
ゾクチェンが、「青空」と「雲」という比喩を使うのは、人の意識が多層的で、「雲」があっても、常に透明で境界のない「青空」が存在しているということを、うまく表現しているからでしょう。

ですから、上座部の「涅槃」や、山下師の「青空」と違って、任運乗の「仏性」は、主客一体のままに、対象を取る「心」とも共存できるので、ヴィパッシュヤナーを行う時に本当の主体として存在しうるのです。

大乗仏教の五道の修行体系においては、主客一体の「空性」の智恵の修習は、加行道の段階から行いますが、その認識に至るのは見道の段階であり、菩薩の初地=聖者になる段階です。

しかし、任運乗では、五道の体系を採用しません。
だから、山下師が言うように、初歩の修行者が「青空」を見い出すことは、否定はされません。
とても、とても、困難ではありますが。


このように、上座部と大乗以降の仏教をミックスする場合には、この主体の教説上の違いが、根本的な問題として発生します。



<瞑想メソッドの違い>

上座部と大乗の教説上の違いは、具体的な瞑想法の違いとしては、どのように現れるのでしょうか?


上座部は、認識の「客体」として、諸行の「個相(個々のダルマ)」を識別した後、「共相(無常・苦・無我)」を対象としてヴィパッサナーを行います。
概念を伴う場合と、伴わない場合があります。

聖者の段階では「涅槃」も対象となりますが、それは悟ったことを理解するためのものです。


これに対して、大乗の中観派・唯識派は、「客体」だけではなく、認識の「主体」の「無我(空性)」も対象にして、概念的な考察を伴うヴィパッシュヤナー(正理知)を行います。
そして、それを通して主客が存在しない状態に入ります。

このように、「主体」をテーマとして取り上げる点は、メソッドとしての特徴です。


密教の場合は、「空性(虚空)」から自分自身を「仏」のイメージとして立ち上げ(我生起・本尊ヨガ)て、「空性」を修習します。
また、自分が「仏」であると信解しながらヴィパッシュヤナーを行い、それを通して主客が存在しない「空性」の状態に入っていきます。

これらは、密教独特の、「主体」を「仏」とするメソッドです。
しかし、これは、「仏性」がもともと存在することの反映としてではなく、目標を先取り的に修行の道とする、という考え方です。


対象を持たない「本当の主体」を見出すという立場からすれば、そもそもヴィパッサナーは対象を取る瞑想法なので、否定すべきメソッドであると批判する人もいます。

例えば、山下師と同じく安泰寺で修行した曹洞宗の藤田一照師やネルケ無方師は、道元禅師に倣って、「只管打座」の立場から、ヴィパッサナーやマインドフルネスが、主客が分離し、対象を取る、作為性を持った瞑想であるという点で、批判しています。
曹洞宗の「只管打座」は、最初から主客一体で座る瞑想法ですから。

しかし、山下師のヴィパッサナーは、「対象化」をしないという点では「只管打座」と共通していても、呼吸などに「フォーカス」するという点では異なります。

もっと言えば、「本当の主体」を見い出すメソッドということでは、「私は誰か?」で有名なラマナ・マハリシが、古典ヨガジュニャーナ・ヨガの瞑想メソッドを批判しているのこととも似ています。
ラマナ・マハリシやニサルガダッタ・マハラジは、対象を取る瞑想を否定し、本当の主体へと意識を向けるように説きます。


このように、上座部と大乗の間の、主体に関する教説の違いは、瞑想メソッドの違いにつながります。

山下師が「青空」を見い出すために行っている独自のメソッドについては、次回に取り上げます。



<手放しと浄化>

山下師は、「青空」の立場から、感情や思考などの「雲」を見ると、それが瞬時に「浄化」され、「創造的なエネルギー」になる、と言います。
いや、「青空」の立場から見ると、「浄化されたもの」として見えて、汚れようがないと。

これは、「心の本性(リクパ)」を維持することで、現われた心を「自己解脱」させるという、ゾクチェンの見解にそっくりです。
上座部や大乗、禅で似た表現を聞いたことがありません。

山下師は、ゾクチェンに関しては、ごくわずかしか語りません。
実際、ゾクチェンのメソッドで修行を行っていないのでしょうが、オウム事件のこともありますし、チベット仏教に対する偏見に配慮しているのかもしれません。


実は、上座部と大乗以降の仏教との間には、「主体」の問題ではなく、「客体」の問題、つまり、身心や社会の価値(現世肯定的価値観)をどこまで認めるかという問題があります。
これは、目的の違いであって、こちらの問題の方がより本質的です。

この違いは、「客体」を比喩で表現する仕方にも現れます。
例えば、ゾクチェンの場合、「青空」に対する「雲」という否定的な表現だけではなく、「空を飾る虹」、「空を自由に飛ぶ鳥」といった肯定な表現もします。

もちろん、「浄化」に関する考え方や、瞑想メソッドの違いにも現れます。

ミックス・メソッドを追及する場合は、特定の教義を完全に信じずに修行を行うので、この目標や価値観の選択を、体験の中で探っていくことになるでしょう。


まず、教義的な部分について少し、書いてみましょう。

上座部のアビダンマでは、三毒(怒り、貪り、無知)の有無によって、心を「善心/不善心」、心の働きを「浄心所/不善心所」に分けて、後者をなくして、前者を選択するようにします。
それを通して、すべての心身を止滅させた「涅槃」に至ることを目的とします。
ですから、身心にはほとんど価値を置かないわけです。

しかし、大乗(波羅蜜乗)では、菩薩が目指すのは「自未得度先度他」、「無住処涅槃」です。
つまり、煩悩を断じ切って輪廻から「解脱」することなく、輪廻を繰り返して他者を救うことです。
そして、菩薩の初地(預流)で「涅槃(空性)」の認識・体験に至っても、「心身」を止滅させることよりも、積極的に「心身」の世界に戻ることを重要します。

また、「涅槃」を「真如(あるがまま)」と表現しますが、「真如」は心身の止滅した領域だけではなく、心身の領域をも含む表現です。

大乗、金剛乗、任運乗では、概念的な分別や作為性がない心を、善悪を越えた「清浄」なものと考えることが多いようです。
各宗派によって、少しずつ見解が異なりますが。

つまり、部派仏教に比べて、大乗以降の仏教は、時代を経るごとに、現世肯定的な解釈の仏教になってきました。
現代の欧米新仏教も、現世肯定的な価値観を持っています。

ただ、大変、複雑な問題ですので、今回は、深く追及しません。


客体に関する思想の違いは、瞑想中、瞑想後に現れた「心」などに対する対処法の違いに現れます。
上座部も含め多くの派では「否定的に手放し」ますが、金剛乗なら「エネルギーに変える」こともありますし、任運乗なら「自然に変化するに任せる」ようにします。

上座部のヴィパッサナーでは、識別した諸行の対象を「苦」であると認識して、それが恐ろしい、無価値である、厭う、捨て去ろう、と進みます。
しかし、大乗~任運乗では、対象に対する執着をなくしつつも、それを必ずしも否定して捨て去らずに、変えていきます。


上座部でも、タイのスカトー寺で修行をしたプラユキ・ナラテボー師は、対象に対して否定的になりすぎないように、と指導します。
雑念に対しても、「妄想」と否定的なラベリングをせず、「ありがとう」と言ってそこから学ぶように、と言います。

大乗の中観・唯識派の場合は、空性の体験の後に、概念を現わした時に、その無自性性を理解した上で概念的認識(後得智)を得ることに取り組みます。

金剛乗の場合は、空性の体験の後に、無自性性を理解した上での仏のイメージ(如幻の仏身)を得ることに取り組みます。
これを「深明不二」と言います。
あるいは、怒りを感じたら、それを手放さず、忿怒尊の本質である、対象のないエネルギーに変えて、煩悩を破壊します。

ゾクチェンの場合は、いきなり無概念な状態に入る瞑想を行いますが、概念や心が現れれても、その対象のない「心の本性(青空)」の自覚を保ちつつ、現れたものを「青空」に溶け込ませます。
つまり、有相な存在が生まれて対象化した瞬間に、その有相なものを残しながら、「無相」、「無対象」の状態に入り、有相なものが無自性なものとして自然に変化するようにするのでしょう。
これは、意識の多層性を反映したメソッドです。



今回は以上ですが、次回は、山下師の「ワンダルマメソッド」における、具体的なメソッドのミックスについて取り上げます。



(*1)
ちなみに、「滅尽定」に関して、説一切有部では、上座部同様に「心」が停止すると考えますが、「心不相応」という、上座部にはない有為法のカテゴリに属するとします。経量部系では、「細心」が残り、「心」は停止しないと考えます。唯識派でも「アーラヤ識」が残り、心が停止することはありません。
また、上座部は、「心」は同時に一つしか存在しない「二心不倶起」説ですが、経量部系や唯識派は「二心倶起」説であって、例えば、アーラヤ識は常に存在するので、他の「識(心)」とも共存します。