改めて振り返ってみたこと | Moratoriumer´

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今日も波に揺られて海を漂う。

現在に生きながら

未来を感じ

未来を描きながら

現在を生きる。

そんな日々。

しかしながら

大事なのは現在や未来ばかりでなく

過去もまた同じように

うちにとって大事な時であったのだと思う。

深められるほどの思考もなく

考えを巡らせるほどの知識も経験もない一方で

規則や常識という表面的なものが周囲に溢れていた

中学高校時代。

改めて当時のうちを振り返ってみる。

中学入学時

スカートがはきたくなくて泣いていた

・・・なんてことがあったことはすっかり忘れていた。

「郷に入っては郷に従え」のごとく

その学校の規則に従うのが無難であり

制服という決められたものに

我を通すのは無理だと判断したのだろう。

始めははきなれないスカートに

あの無防備で邪魔なスカートに違和感があったものの

いつしかセーラー服を違和感なく着こなすようになった。

みな同じ制服。

みな同じ鞄。

みな同じ諸々。

それでもうちが廊下を歩いていれば

声を掛けてくれる人がいて

運動をしていれば

知らない人でも目を止めてくれた。

“ボーイッシュ”であることは

うちにとってラッキーだった。

女性であり

ボーイッシュである自分に感謝した。

「男だったら良かったのに」

と幾人もの友達から言われたが

これでもし男性だったら

何も目立ちはしないだろうと

うちはうちではないだろうと

そう思っていた。

だから

こんな外見をしているからよく聞かれるんだけども

男になりたいと思ったことはうちはない。

高校入学。

制服がセーラー服からブレザーに変わった。

ワイシャツとネクタイが

セーラー服よりも心地良かった。

でも一番ベストなのは

体操服に着替える途中に出来上がる

ハーパンにワイシャツという組み合わせだった。

学校でも家でも

無駄にその格好でいた気がする。

腕まくりをするとなお良し(笑)

ちなみに余談だが

ネクタイを結ぶスキルはこのとき身に付けた(笑)

そして

髪型をただのショートからアシメへとイメチェン。

いわゆる高校でびゅー。

「みな同じ」

に対してどこで差別化をはかるか

何の注意も受けず規則に反せずして

いかに差別化をはかるか

そこで注目したのが髪型だった。

女子は髪が短い分には注意はされない。

何かと校則が厳しい高校だったので

身だしなみ点検とかいうのがあった。

整列して一人ずつチェック。

髪型に関しては

うちの番がきても一瞬で終わった。

どんなに左右非対称にしても完全にスルー。

いやむしろもうちょっと見てよ・・・

ってくらいの流され具合だった(笑)

いやむしろ

注意されるどころか

先生でさえも似合っていると認めてくれた。

「自分に似合っているか」

ということが大切なのだと

大切にしていくべきなのだと

このときなんとなく悟った。

のちに意識するようになる

「自分らしさ」あるいは「個性」というものの

基盤になるような出来事だったように思う。

中高において

「かわいい」と言われることはほぼなく

「かっこいい」と言われることのが多く

また一際喜びを感じていたのもその言葉だった。

突然ですが結論。

中学高校時代

うちは性に関して悩み苦しんだわけではないのだよ

母さん。

むしろ

縛られながらものびのびと

規則の中の死角を見つけてはそれを自分のものにして

うちはそれなりにうちらしく学校生活を過ごしていたのだよ。

もしうちを見ていて

「女性」ということに対して

違和感や不快感があったように見えたなら

そういうんじゃないんだよ。

「女の子」とか「男まさり」だとか

そういった色眼鏡によって見られるのが嫌だった。

うち自身そういったものに色眼鏡を感じてしまうのも嫌だった。

本来のうちの姿を

ただ見て欲しかった。

だから初対面で会話もせず「かわいい」と言われたときには

まるできぐるみのうちを見られているようで

スカートをはけば「女の子」のきぐるみを着るようで

わかりやすく「女」でくくられてまとめられて

「えま」が後回しにされるのが嫌だったんだ。

“ボーイッシュ”というのは

そんな色眼鏡から抜け出す唯一の光で

簡単に既存のイメージから外れ

新たな目で見てもらえる魔法みたいなものなのかもしれない。

要するにうちの場合

「性自認(自分の性が何であるか)」と

「性指向(恋愛対象がどんな性に向くか)」とが

実は独立して考えられるように

「性」と「ボーイッシュ」であることは

実は同じ線上にあるわけではなく

思ったよりもっと深く

もっと別のところで

意味を成しているものなんだと思う。

あくまで

当時のうちはそこまでは考えていなかったし

性というものを考え始めた3年前から

今の今に至るまでそうは思っていなかったし

改めて振り返ってみたらそういう考えに至ったという

一時的な考えだとは思うから

これが全てだと思うとどこかにまた矛盾が生じ

混乱してしまうだろうから

さらっと流してくれればいいんだけど。

こってりだけど後味はさっぱり

的な感じで味わってくれたらいいからね(笑)

こうやって書いていると

過去形と現在形のあまりのごちゃまぜ具合と

判断しかねてよくわかんないままの文体に

自分自身驚いているんだけど

つまり一連の文脈の中で伝えたかったのは

母さんは何も間違ってなかったよ。

女らしさや男らしさを子どもに押しつけなかったことや

「ボーイッシュ」を「個性」としてとらえたことや

カミングアウトした直後

「えまはえまだよ」と言ってくれたこと。

だからさ

負い目を感じる必要なんてないんよ。

母さんがもしうちを自慢の娘だと思ってくれてるなら

今一度うちという鏡を通して自分自身を見て欲しい。

子は親の鏡。

ふー・・・

いっぱい頭を使ったので

使わせてしまったと思うので

最後はおまけ写真。

これぞ“ベスト”カップル。

$Moratoriumer´-ベストカップル


性別はよく服に例えられる。
着ていて心地良い服と、違和感のある服があるように、と。↓

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