性別と性的指向の癒着 | Moratoriumer´

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今日も波に揺られて海を漂う。

今日は水曜日。

ジェンダー論の話。

内容はというと

「ジェンダー」と「セクシュアリティ」という言葉について。

この二つの外来語は

「性」の意味を分析する道具として重要です。

今回は一つの限定された定義として

ジェンダーは性別そのものとそれに連なる性自認・性差・性役割

セクシュアリティは性欲のような感覚的なもの

としていましたが

うちの印象としては

ジェンダーは社会的(もしくは集団的)なもの

セクシュアリティは心理的(もしくは個人的)なもの

といった感じですね。

そして今回

声を大にして伝えたいぐらい大事なことがあって

それが

「性別と性的指向は独立している」ってこと。

だから

性別が女

性的指向が女

そこをくっつけて考える必要はないんです。

性別+性的指向→性自認

というようにして考える必要はないんです。

特にうちは

半年くらい前までそれに気づくことはなかったので

そりゃもう色んな糊でくっつけようとしたわけですが

やはりそれは大変なことで

独立したものとするほうが

驚くほど楽になります。

もし性別と性的指向が同じ性であることで

考え込んでいる人がいるなら

もしかしたらひそかに

その人の中で異性愛主義が呼吸をしているのかもしれない。

「女は男を好きになるものだ」という前提はなくて

今のうちにとっては

女である自分が女を好きになることは

あまりに自然なことです。

そしてもうそこから性自認を導こうとは思いません。

一応自分なりの性も見つけたしね。

「あるものとして」いく方が本当に楽です。

もし「ない」というのなら

「ないというものがあるとして」でもうちはいいと思います。

性自認も

自分というものを考えることになるので

答えはでてきません。

何かを答えとすることはできると思いますが。

だからいくら穴を掘っても

どんどん深く暗くなって

孤独になっていくだけで

そこから抜け出せなくなることもあるから

注意が必要です。

それがどれほど危険かは

うちは全く実感がなかったけど

教授が

「よく無事でしたね。本当に。無事で良かったです。」

と言いながら

笑顔の中に時折見せるどこか悲しげな表情を見て

うちは心から思いました。

あー

生きてて良かった。