お待たせしました、
佐藤愛子さんのインタヴュー「後編」です。
今回は、わたしは佐藤さんにちらりと辛口のことを述べていますが、まずは、下のインタヴュー(の後半部分)、お読みください。
どのように死ぬか?100歳の直木賞作家、佐藤愛子の意外な答え 特別インタビュー【後編】
◆ 損得に一喜一憂するのは下衆な人間 ◆
――佐藤さんはお金には……。
まったく執着しません。約束の講演料がいただけなくても、「ああ仕方がないな」とすぐに諦めてしまいます。
――それはちゃんと相手に言って請求したほうがいいのでは(笑)。
損したとか得したとか、そういうことにもまったく興味がないのです。もう幼いころからですね。家に遊びにきた友だちが、私の部屋にあるものを気に入って「これいいね、ほしいな」と言うと、すぐに「いいよ、あげるよ」というような子どもでした。
――それは性格ですか。
性格なのかもしれませんが、それよりもやはり父の影響が強いのだと思います。
父は訪ねてきた人が帰ると、「あれはダメな野郎だ、儲けることばかり考えている」というようなことをよく言っていました。損得に一喜一憂するのは下衆な人間だと軽蔑していたのです。
だから、家で私が「損しちゃった、得しちゃった」などと口にすると、そんなこと言うものじゃないとものすごく叱られました。
佐藤家だけではなく、学校でも先生が欲張りはよくないと教えていましたから、そういう時代だったのでしょう。
――現代人は損得を気にしすぎですか。
そう思います。生きていれば損をするのは当たり前のこと。それなのに損をしないようにとがんばれば、生きにくくなるだけです。
――あまり損得に無頓着だと簡単に騙されそうですが。
騙されたっていいじゃないですか。人生なんてそんなに大したものじゃないでしょ。
――でも、騙されれば後悔したり、騙した相手を恨みたくなったり、心中穏やかではいられませんよね。
私は別れた夫がつくった借金の返済のために、かなりの時間と労力を費やしましたけど、後悔なんてしていないし、相手のこともいっさい恨んでいません。間の抜けたことをしたなとは思いますけど、その程度です。
人を信じてお金を貸したら、そりゃ返ってこないこともありますよ。そういうときはそういうものだと思って、忘れてしまえばいいのです。
◆ 目に見えないものが見えなくなった現代人 ◆
――なかなかそういう心境にはなれそうもありませんが。
だって、貸したらそのお金はもう自分の手を離れたのだから、執着してもしょうがないじゃありませんか。
もっとも私だって、お金を貸してくださいとやってきた人に、誰でも貸すわけではありません。貸すか貸さないかを決めるのは自分の哲学です。哲学は大事ですよ。哲学があれば貸すか貸さないか悩まなくてすむし、返ってこなくてもああそうかという気持ちでいられますからね。
――逆に損得で動く人のことはどう思いますか。
好きじゃないですね。小金を持った人が亡くなったとき、残された人たちが取り分をめぐって争うような話を耳にすると、実に不愉快です。自分で苦労して稼いだお金でもないのに、それこそ下衆な所業だと思いますよ。
明治のころは、お金に執着するのは卑しいことだという考え方を、多くの日本人がしていましたが、いまは逆に、お金を儲けて何が悪いって開き直っているでしょ。それがいけないとはいいませんが、自分はそうはなりたくないですね。自分の孫にもさすがに損する生き方を薦めはしませんが、儲かっても損をしても笑っていられるような、損得に振り回されず恬淡としている人間になってほしいとは思います。
――日本人はいつから損得に一喜一憂するようになったと思いますか。
やっぱり(太平洋)戦争に負けてからじゃないですか、自分の欲を前面に出してはばからなくなったのは。
戦前の日本ではどこの家庭にも神棚や仏壇がありました。私の家でも、父が毎朝神棚の前で手を合わせ、母が毎月一日と一五日に木の枝をお供えしていたのを覚えています。私は別に拝めともいわれなかったし、それにどういう意味があるのかもわかりませんでしたが、目に見えない存在に見守られているという意識はありました。そういうものをないがしろにしないのが、品格のある暮らしだったのです。
いまはないでしょ、神棚も仏壇も。そうすると目に見えるお金がいちばん大事になるのでしょうね。
◆どのように死にたいか? 100歳、直木賞作家の死生観◆
――佐藤さんは、人の魂は死後も残ると思いますか。
さあ、どうでしょう。霊能者の人たちはいろいろなことを言いますけど、死んだ後のことは私にはわかりません。死んだらそれで終わりでいいんじゃないですか。
――では、こんな死に方をしたいという希望はありますか。
死に方を自分で選ぼうなんていうのは贅沢ですよ。戦争で散った若い人たちのことを思うと、自分がこんな死に方をしたいと考えることすら申し訳ない気がします。
もともとお金やモノには執着がないので、そっちは問題ありません。ただ、生きている間に喜怒哀楽の感情は整理しておきたいと思っています。悲しかったりつらかったりするのは嫌ですから。それにはもう少し修業が必要かもしれませんけどね。
――死ぬのは怖くはないですか。
怖いものですか。死ぬってこの世からいなくなることでしょ。すっきりして気持ちいいじゃない。
(以上、インタヴューここまで)
※出典は…コチラ。
あっ、あと…何回か出てきた「下衆」という言葉、読めましたか?
これは「げす」ですよね…。【例】「下衆の勘ぐり」
今回、佐藤愛子さんのインタヴュー後半を読んで、…ワタシ的には…ものすごく違和感を持ったところがあります。
それは、インタヴュアーに「佐藤さんはお金には…(執着しないタイプなのですか)」、「講演料がもらえない時には、きちんと請求したほうがいいのでは?」というようなことを聞かれたときの、佐藤さんの答えです。
「まったく執着しません。約束の講演料がいただけなくても、『ああ仕方がないな』とすぐに諦めてしまいます」
「損したとか得したとか、そういうことにもまったく興味がないのです」
こういうことを佐藤さんは答えていますが、100歳にもなって、こんな答えしか出来ないのか…と、わたしは(実を言うと、すこし)落胆したのです。
わたしなら、どう答えるか――。
「まったく執着しません。約束の講演料がいただけなくても、『ああ仕方がないな』とすぐに諦めてしまいますが、しかし、わたしが何も言わないでいることで、同じような被害者が増えていくと困りますから、その講演主催者宅にドスを持って殴り込みに行き、払われるべき講演料の10倍のお金をその場でふんだくって、そのあとそのお金は社会福祉施設などに寄付します」
「損したとか得したとか、そういうことにもまったく興味がないのです。けれども、わたしが『いいの、いいの』と金銭の支払いに無頓着だと、それに味をしめた誰かのために、第2第3の被害者が出ても困りますから、お金はきっちり相手から取りますよ。だって、講演でも何でも、それは支払われるべき対価ですからね。ただ、その支払いを受けた後に、そのお金を見てニヤニヤするのが卑しいのであって、支払ってもらったら、それはどこかに寄付すればいいんです。わたしは、いま、こうしてお金に不自由せずに暮らせるようになりましたが、それは『運』もあるのです。だから、たまたま『運』が悪くて、生活などに困っている人や団体に、そういうお金は寄付すればいいと思うのです。No Nukes!No War!」
これぐらいのことを言えたら、佐藤愛子さんもとってもステキだったのですが、今回の「後編」は、う~ん…、ちょっとわたし的には、やや失望の多い内容でした。
( お し ま い )
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