都市の形成 後藤新平の時代の京都
さて、この頃の京都のまちについてもお話を進めましょう。 東京への遷都以降低迷をしていた京都は、いかに没落を防ぐのかが喫緊の課題となっていました。 遷都によって没落してしまた事例は・・・例えば当時の奈良の二の舞にならないようにするために、苦慮をしていたのです。 今も奈良は京都と比べて華やかさはありません。手前にある、学園前などの高級住宅街とは違い、「中途半端」感を私は感じます。奈良には個人的にはあまり魅力を感じませんが、それでも毎年二回は大神大社や山辺の道の散策をすると、「歴史のある場所」のよさを感じます。 当時の京都は今とはことなり、北九州よりも工業力は上の工業都市、軍事都市でした。例えば、後にも出てくる京都の日本海側、舞鶴東港は元々、漁港として栄えていましたが、1889年の帝国会議で軍港に指定されると大規模な開発が進められました。(後に発生した、日露戦争での舞鶴港の果たした役割を考えると、対露、対大陸対策にいかにこの地域と港の役割を重要視していたのかわかっていただけると思います。) 京都の産業復興と水運や水道の確保を計るべく、当時の京都府知事、北垣国道は工部大学校(現在の東京大学の工学)を卒業した若い技術者と1885年に琵琶湖からの取水計画を推進し、日本で初めての竪坑を用いたトンネル開削などの難工事を経て1890年琵琶湖疎水を完成させました。こうして。日本初の水力発電所である蹴上発電所の運用を開始しました。 一方、当時、近代化を目指す日本では国を挙げてのイベントがありました。1873年(明治6年)ウィーン万博に明治政府は日本政府として初めて公式参加、日本館を建設しました。明治期の国際博覧会では日本の展示品が好評をもって迎えられ、日本ブーム(ジャポニズム)を広めました。(この時代の万博にはエスキモーの方々を展示品と同じような扱いで見せ物にするなど、今となると人権問題にかかる点がおおきに指摘されています。が、今回はさら~と。日本のお話だけです。) 万博への参加を機に、近代日本では新しい文明の成果や他国の文化を人々に伝える啓蒙的な役割を果たすことになりました。 東京では1877年に上野公園で、第一回内国勧業博覧会(明治政府主催)、開催されました。この内国勧業博覧会は以後、1881年に上野、1890年に上野、第4回目の1895年に京都、1903年に大阪で開催されました。 この京都での第4回内国勧業博覧会が京都の大きな転機となります。 それまでの博覧会開催が利益をうむことが全国的にも周知されたため、一層熱心な誘致活動が行われるようになりました。 明治政府は第4回の開催地は、東京遷都以降の低迷を活性化したい京都に決めました。 当初、第4回内国勧業博覧会は1894年に開催される予定でしたが(京都への遷都、つまり平安京への遷都は794年です。)京都市民は京都の建都1100年の記念事業として、1895年に開催することを強く望みました。一方、1894年には日清戦争が勃発したが、政府は殖産興業政策は戦時中であっても重要であると考え、予定通りの開催を決めました。 会場は平安神宮の南に当たり、会場面積は17万8,000平方メートル、建物敷地総数は4万7,000平方メートル、会場の正面には大理石製の噴水が建ち、その左右両側に売店が並びました。 建物は、美術館、工業館、農林館、機械館、水産館、動物館の6館が主要なものであり、機械館の動力源はそれまでの石炭から電力に変わった。 水産館の前には水産室、今日でいう水族館があり、鰻や鯉、鮒などを見せた。ここでは魚を上から見るというそれまでの方法とは異なり、側面から見ることができるということで珍しがられた。 ただし海水魚はここでは見られず、兵庫県の和田岬(現在の神戸市兵庫区和田崎町)にある遊園地和楽園内に設けた生け簀で見ることができました。(現在、和楽園はありません。写真が残っていて、国立国会図書館の画像で確認できます。) また、美術館ではフランスから帰った黒田清輝が出品した『朝妝』と題した裸体画(のちに焼失)が、風俗擾乱の大騒動を起こしました。結局、絵の一部を布で覆って陳列続行に落ち着いたが、ビゴーの風刺漫画にもこの事件が登場していますよ。 そして、日本中に大きな話題として提供したのが、会場の外に正式な交通機関として日本ではじめて市街電車が登場したことです。運行は、京都七条(今の国立美術館、京都女子大学方面)から会場の平安神宮付近と琵琶湖疏水のほとりまで、南の伏見方面にも走り、電力は疎水の水力発電でまかなったのです。(これが先ほどの琵琶湖疎水の蹴上げ発電所の電力です。) 日本における電力時代の幕開けを象徴するものといっても過言ではなかったのです。このように、話題の多い博覧会は入場者数も113万6,695人に達し、大変な賑わいの中で終了。この博覧会を景気にまた、道路・旅宿の整備が進み、現在の京都の観光都市としての基礎が作られたのでした。そしてそれは、昭和における日本を代表する大きな企業の誕生の布石にもなったのです。清水焼の伝統は、セラミックの会社(京セラ)の誕生の原石となり、着倒れの伝統は下着メーカー(ワコール)の誕生の原石となったのではないでしょうか。ところで、舞鶴は肉じゃがの発祥地とされているのはご存知ですか? 1901年に軍事的要地として東舞鶴に舞鶴鎮守府が設置され、初代長官にはあの東郷平八郎が就任しました。その東郷が生み出したと言われています。1870年から数年間イギリスのポーツマスに留学をしていた東郷が留学先で食べたビーフシチューが気に入り、日本へ帰国後、艦上食として作らせようとしましたが、ワインやデミグラソースもなく、また料理長はビーフシチューなど知らず、東郷の話のイメージから醤油と砂糖で作ったのが始まりとされています。日本陸軍にも軍隊調理法という料理レシピの中に、この「肉じゃが」があったそうなので、日本軍の中で爆発的に広まっていたと思われます。「おふくろの味」は「軍」の味だったんですね。 さて、次回は後藤新平が活躍した頃の大阪の街について。 後藤新平が関東大震災後、モデル街とした今の御堂筋を中心にお話を進めたいと思います。 また、おつきあいくださいね。